第14話 風の声が届くなら
“黒樫の森”へと踏み込んだアオイたちは、
そこで“記憶”そのものが漂う異様な空間と対峙することになります。
祠に残された忘れられた断片。
過去と想いの残響。
そして、誰かが守り抜いた小さな記憶の花。
──これは、ただの冒険ではなく、
彼ら自身の心と向き合う“旅”の始まり。
黒樫の森は、静かすぎた。
歩を進めるたびに、枝がかすかに揺れ、苔むした大地が足音を吸い込む。
けれど、それだけだった。
鳥の声も、風の音も──何も、ない。
「……変だな。さっきまで、ここまでじゃなかった気がする」
レオンが足を止めて、周囲を見渡す。
「空気の流れが……ない。止まってる?」
ミレイが手を伸ばし、そっと木の幹に触れる。
葉はわずかに揺れているのに、風はどこにも感じられなかった。
「まるで、ここだけ“時間”が閉じてるみたい」
アオイの声は、どこか遠くで響いているように聞こえた。
ふいに、ユナが足元を見つめる。
「地面……冷たくなってる」
「気のせいじゃねぇな」
レオンが低く呟いた。
「これまで通ってきた森と……“層”が違う。ここから先は、別物だ」
空気が、じわじわと肌に張り付くような感覚。
それは“霧”というには重すぎて、“気配”というには漠然としすぎていた。
「なあ、森の“外”が……わからなくなってきてないか?」
ガルドの言葉に、皆がふと後ろを振り返る。
たしかに、歩いてきたはずの道が──見えない。
まるで、霧が後ろから飲み込んでいったかのように、足跡ごと、世界が消えていた。
「……閉じ込められた?」
ミレイの声に、誰も答えられなかった。
風が吹かない森。
光の差し込まない木々。
“抜け道のない沈黙”が、静かに彼らの周囲を満たしていた。
「ここが、“黒樫の森”の核心部ってことか」
アオイは前を向いたまま、小さく呟く。
「だったら……きっと、まだ何かが“待ってる”」
誰ともなく、仲間たちは頷いた。
逃げ道はない。
だが、それでも──進むしかなかった。
森の奥へ進むたびに、周囲の様子がさらに異様さを増していった。
木々はねじれ、枝はまるで腕のように絡み合っている。
地面には古びた石碑のようなものが点在し、誰かの手によるものとは思えないほど、風化していた。
「……道、合ってるのかな」
ミレイが呟く。
地図も方角も、もはや意味をなさないこの森で、方向感覚だけが頼りだった。
「合ってるかどうかより、“導かれてる”感じがする」
アオイの言葉に、ユナがゆっくりと頷いた。
「うん。たぶん……この先に、“鍵”がある」
ふいに、彼女が立ち止まる。
「……あれ、見て」
霧の奥に、ぽつりと佇む“建物”があった。
「……あれは?」
「古い祠……かな?」
小さな祠──だが、扉は開き、内部にはぼんやりと光が灯っている。
誰かが最近、触れた形跡すらあった。
「行ってみよう」
レオンが先に立ち、祠の中を覗き込む。
「……これは」
彼の声が低くなる。
中には、“記憶の断片”が並べられていた。
ぼろぼろの手紙、子どもの靴、焦げた布切れ。
それらはきちんと並べられており、“忘れられた誰か”がそこに確かにいた証のように、静かに置かれていた。
「……祀られてる?」
ガルドが言う。
「忘れられた記憶たち。きっと……誰かが、ここで“弔って”いたんだ」
ユナが、奥にあった小さな紙片を拾い上げる。
「……これは」
その紙には、かすれた筆跡でこう記されていた。
――“この森に留まるならば、想いを捨てよ。
さもなくば、己が記憶に喰われる。”
「……試練だな」
アオイが呟く。
「記憶を抱いたまま進めば、取り込まれる。だから、ここに置いていけ……ってことか」
ミレイが苦笑する。
「自分の記憶を、祠に置いていけって? 冗談じゃないわ」
レオンも、静かに首を振った。
「冗談で済む話じゃねぇ。“置いていった者”の末路が、これなんだ」
祠の中にある“遺品”たち。
それは、記憶を手放した者たちの残骸。
そして、戻ってくることなく消えていった“誰か”の痕跡。
「ユナちゃんは、どう思う?」
アオイがそっと尋ねた。
ユナは少しだけ迷った後、静かに答えた。
「私は、記憶を……“抱いたまま”、進みたい。どんなに重くても、きっとそれが私を守ってくれるから」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
彼らは、記憶を置かずに進むことを選んだ。
どんな苦しみが待っていようとも──それは、自分たちの“想い”なのだから。
彼らは再び歩き出す。
霧の奥へ、祠を背にして。
その背中に、誰かの“祈り”のような気配がそっと揺れていた。
霧が深くなった。
木々のざわめきがやみ、風の音すら聞こえなくなる。
一行は慎重に足を進めながら、黒樫の森のさらに奥へと踏み込んでいく。
「……空間が、歪んでる」
ミレイが眉をひそめた。
「距離感もおかしい。さっきと同じ場所を、ぐるぐる回ってる気がするわ」
「こっちの木……前に見たのと同じだ」
レオンが樹皮を確かめるように叩く。
アオイも視線を巡らせるが、どこもかしこも似た景色ばかりだった。
「……迷わせようとしてるんだな」
ガルドの声が低く響く。
「この森は、“記憶”を餌にして、進む者を惑わせる。見覚えがあるようで、どこにも繋がってない」
ユナが、そっと足を止めた。
「ねえ、あれ……」
彼女の指さす先に、ぽつんと“祠”のようなものが建っていた。
木々の中に隠れるようにして立つ、小さな石造りの建物。
扉は朽ち、蔦が絡まり、今にも崩れそうだが──
それでも、どこか“神聖”な空気を纏っていた。
「こんな場所に……?」
ミレイが近づきながら呟く。
「でも、なにか……違和感がある。空気の“重さ”が……」
アオイが、一歩踏み出そうとしたその時。
──ふっ、と風が吹いた。
一瞬、時間が止まったかのように感じた。
そして次の瞬間、彼らの足元に“幻影”が広がった。
子どもたちの笑い声。
木陰に腰掛け、誰かが子守唄を歌う声。
焚き火の煙、夜の冷たさ、誰かの小さな手──
「これは……」
目の前に現れたのは、“かつてこの森にいた人々”の記憶。
だがそれは、あまりに淡く、儚く、すぐに霧に溶けていく。
「……残響、ね」
ユナが静かに言った。
「祠が、記憶をとどめてるの。……でも、それ以上に、“誰か”が、ここに立ってた」
アオイが、足元の草むらに手を伸ばす。
そこには、小さな白い花が咲いていた。
踏まれもせず、汚れもせず、まるで“誰かがずっと守っていた”ように。
「……記憶って、不思議だな」
アオイがぽつりとこぼす。
「なくしたはずなのに、こうして残ることがある。……誰かの想いが、ちゃんとここに生きてる」
ユナは、そっと祠に手を合わせた。
「ありがとう。あなたの想い、ちゃんと……受け取ったよ」
“風”がまた吹いた。
今度は、優しい風だった。
幻影は完全に消えたが、その余韻は、胸の中に残っていた。
「……どうやら、この森は“ただの危険地帯”じゃなさそうだな」
レオンが肩をすくめる。
「こっからが本番だ」
「ここまで来たら、やるしかないだろ」
アオイが笑って、先を見た。
──黒樫の森の、さらに奥へ。
次の“記憶”が、彼らを待っている。
影は動かない。
まるで、ただ“そこにいること”が役割かのように。
アオイが一歩、踏み出す。
「……誰だ?」
返事はなかった。
ただ、風もないのにフードがわずかに揺れ、ゆっくりと“扉の向こう”を指し示す。
「……通れってことか?」
レオンが剣に手をかけたが、ユナがその前に立った。
「待って……怖がってる」
「え?」
「この影……私たちを脅してるんじゃない。“ここから先に行ってほしくない”って、そう感じるの」
ユナの声は震えていた。
けれど、明らかに“つながって”いた。
(これも……“誰かの記憶”?)
アオイの胸に、またざらついた気配が走る。
目の前の影は、怒っても、威嚇してもいない。ただそこに立ち、扉の前で“震えて”いた。
(何かがある。あの奥に──強く、強く、縛られたものが)
「……俺が、行く」
アオイが前に出る。
ユナが、不安そうにその背中を見つめた。
「大丈夫」
アオイは、振り返って小さく笑った。
「俺は、ちゃんと“今”にいるから」
ユナの目が揺れた。でも、すぐに──
「……うん」
と、短く答えた。
影は、ゆっくりと一歩下がり、道をあけた。
そして、アオイが扉に手をかける。
その瞬間、背後の森がざわめいた。
風のない空間に、ざわり、ざわりと木々が揺れ、低い唸りが響く。
“扉の向こう”で何かが──確かに“待っている”。
「いくぞ──!」
アオイが扉を開いた。
軋むような音と共に、重たい空気が漏れ出す。
そして、仲間たちはその奥へと、一歩、また一歩、足を踏み入れた。
“過去”と“想い”が交差する場所へ。
扉の向こうは、まるで“沈んだ記憶”の底だった。
地面はなかった。足元には光のない“水”のようなものが広がり、そこに立つ感覚すら曖昧だった。けれど、アオイたちは沈まず、ただ“漂っていた”。
「……ここは……」
レオンが口を開くも、声は水の膜に吸い込まれるように、遠くへと消えていく。
「音が、届かない……?」
ミレイが耳をふさいでも、効果はなかった。
音だけじゃない。色、感覚、匂い──すべてが“間引かれて”いく。
まるで、“この空間自体”が存在を拒んでいるかのように。
(ここが……黒樫の森の“中心”?)
アオイの意識が、かすかにゆらいだ。
そのとき──
──ああ、いやだ。いやだ。
声が、響いた。
まるで、頭の奥に直接流れ込んでくるような、幼い少女の悲鳴。
──もう、やめてよ……誰か、助けて。
次いで、別の声。男の怒鳴り声。女のすすり泣き。誰かが名を叫ぶ声。
「……全部、“記憶”だ」
ユナが顔をしかめながら、かすかに震える声で言った。
「この場所、たくさんの記憶が……“封じられてる”。その叫びが、外に漏れないようにしてるんだ」
「つまり、ここが……“源”ってことか」
ガルドが、無言でうなずいた。
彼はずっと、空間の中央に浮かぶ“なにか”を見つめていた。
それは──
光でも闇でもない、“ひとつの影”。
人の形をしているようで、そうではない。
それは、言葉にならないほどの“感情”の塊だった。
怒り。悲しみ。恐怖。寂しさ。恨み。
あらゆる感情が絡まり合い、“かたち”になった存在。
「……これは、“生きてる”」
アオイが呟いた。
「記憶の集合体。森に取り残され、誰にも届かず、誰にも見つけられず……だから、“ここ”で声をあげ続けてる」
ユナが一歩、前に出る。
「苦しかったよね。……ずっと、誰かを待ってたんだよね」
影は揺れる。波のように、ゆっくりと。
そして、ついに──
「来ないでッ!!」
叫びと共に、空間そのものが弾けた。
黒い奔流がアオイたちに襲いかかる。
「構えろ!」
レオンの号令で、全員が動いた。
でも、それは“攻撃”というより、“拒絶”だった。
誰にも触れてほしくない。
思い出してほしくない。
忘れられたままでいたい。
そんな、“拒絶”の想い。
「違う、違うんだ……!」
ユナが必死に叫ぶ。
「君は、きっとずっと、誰かに気づいてほしかったはずだよ……!」
影の中に、また“少女の顔”が見えた。
涙を流し、唇を震わせ、助けを求める──その顔。
「だったら、私は……」
ユナは、また前に出る。
そして、小さく手を伸ばし──
「私は、君の声を聞くよ。忘れない。たとえ世界が、どんなに過去を捨てようとしても──私は、ちゃんと君を見てる」
その瞬間。
“影”の中に、微かに光が灯った。
微かな光が、闇の中に揺れていた。
それは、炎ではなかった。希望とも違った。
ただ──温度もなく、色すら定まらない、名前のない“想い”だった。
けれど、確かにそこに在った。
ユナの言葉に応えるように、影の奥で、その光は少しずつ、輪郭を持ちはじめていた。
「……聞こえる?」
ユナが、そっと問いかける。
「君の声。君の、泣き声。……わたしには、ちゃんと届いてるよ」
影の揺れが止まる。
そして──
「……たすけて」
か細く、震える声が空間に広がった。
その声は、“忘れられた存在”の最後の願い。
誰かに思い出してほしかった、ただ、それだけの祈り。
ユナは胸元のペンダントを握りしめ、静かに目を閉じた。
そして、心からの想いを、言葉に込める。
「あなたの名前を、私は知らない。けど──その声を、ちゃんと覚えてるよ」
その瞬間、ペンダントが大きく光を放ち、空間に満ちていた闇が、ひとつ、ふたつとほどけていく。
影の中から、幼い少女の姿が浮かび上がった。
髪は乱れ、目は涙で濡れていた。
けれど、その表情には、微かに“安堵”があった。
「ありがとう……」
その声と共に、少女の姿は光に包まれて溶けていく。
まるで、ようやく“眠り”につけたかのように。
静けさが戻る。
だが、それは重苦しい沈黙ではなかった。
痛みも、悲しみも、すべてを内包した、穏やかな“鎮魂”だった。
アオイが、そっとユナの肩に手を置く。
「ユナちゃん……ありがとう」
ユナは、目元をぬぐい、少し笑った。
「わたしの方こそ、ありがとう。……みんながいたから、ここまで来られた」
ミレイが少し照れくさそうに髪をかきあげながら言った。
「まったく、涙腺がもたないのよね。こういうの……ずるいわよ、ほんと」
「……“想い”に、名前なんか必要ない」
ガルドが、ぽつりと呟く。
「でも、誰かが覚えてくれるなら、それだけで……生きていける」
レオンが頷く。
「名も知らぬ誰かの声が、誰かを救った。そういう旅も……悪くない」
アオイたちは、森の奥を見つめる。
霧は晴れ、光が差し込んできた。
黒樫の森は、まだすべてを語ってはいない。
だが──彼らはひとつの“声”を見届けた。
それは、名前を持たない“想い”。
でも、それを“知る”ことで、確かに世界は少しだけ変わった。
ユナがそっと呟いた。
「また……きっと、誰かが呼んでる。まだ、声がある」
アオイはうなずく。
「じゃあ、探しに行こう。“忘れられた声”を、もう一度、光の中に」
そして、彼らは歩き出す。
静かに、でも、力強く。
誰かが待っている、その場所へ。
読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回の話は、物語全体の中でも静かで深い“呼吸”のような一話でした。
“記憶”とは何か。忘れることと、抱き続けることの意味。
そして、ユナという存在の中に眠る“やさしさ”と“強さ”。
祠に手を合わせるユナの姿に、僕自身も何かを救われたような気がしています。
次回、黒樫の森の核心へ──。
さらに深まる“記憶”と“誓い”の物語を、どうか見守っていてください。