第12話 君のいた森にて
静かに朝が明ける街で、アオイたちは次なる旅路への準備を始める。
記憶異常はすでに広がりつつあり、“紅の騎士団”の影もまた各地に現れ始めていた。
目指すのは、誰も戻らなかったという未踏の地――“黒樫の森”。
そこには、強く深い“記憶の残響”が眠っていた。
黒樫の森を進むにつれて、空の色も、風の匂いも、どこか現実から乖離していくのが分かった。まるで、時間の流れすらもねじれているかのように、陽の傾きと体感のずれが生まれていく。
「……これ、やばくないか?」
先頭を歩いていたレオンが立ち止まり、後ろを振り返る。
「どこを歩いてるのか、さっぱり分からなくなってきた」
後に続くアオイたちも、無言で周囲を見渡す。確かに、ついさっき通ったはずの倒木も、印をつけた樹も、すべてが違って見えた。まるで、森そのものが“形”を変えているかのように。
「“空間”が歪んでるわ。魔力の偏り……いや、記憶の層が入り込んでるのかも」
ミレイが手をかざし、微弱な魔力の流れを感じ取る。彼女の眉間にしわが寄る。
「不安定すぎる……このままじゃ、誰かが飲まれる」
「飲まれる……?」
アオイが思わず問い返すと、ミレイは一瞬言葉を止めてから、淡々と続けた。
「“森にとって必要な存在”だと判断されたら、記憶の残響に組み込まれるかもしれないってこと」
「そんなのって……」
誰かが呟こうとした、その時だった。
「……あれ? ユナがいない」
ガルドの低く静かな声に、場の空気が一変した。
「え……?」
一斉に周囲を見渡す。確かに、数歩前まではユナもすぐ隣にいた。だが、いま彼女の姿はどこにもない。
「ユナちゃん!? ……ユナ!」
アオイが声を張り上げる。しかし、返ってくるのは静寂だけだった。木々のざわめきも、鳥のさえずりもない。あるのは、押し寄せるような静けさと、森の“重み”だけ。
「……どうして」
アオイは拳を握り締めた。
(見失った……。いや、違う。この森が“引き裂いた”んだ)
彼女がどこかに“導かれてしまった”と、直感的に理解していた。
「とにかく探そう。手分けはしない、全員で進もう」
レオンが判断を下す。
「森に裂かれたなら、なおさら“声”を繋ぎ続けなきゃならない。孤立させたら、ユナが戻れなくなる」
「……わかった」
アオイがうなずいた。その目には、決意の光が宿っていた。
「ユナちゃんを、絶対に見つけ出す」
彼は心の中で、彼女の言葉を繰り返していた。
──「あなたが誰かを想う気持ちは、本物だから」
あの言葉が、胸の奥に残っていた。だからこそ、彼は信じていた。
(きっと、まだ“届く”)
たとえ記憶に引き込まれても、彼女は“想い”の糸を手放したりしないと──。
アオイは歩き出した。森の深層へ、仲間とともに。
まだ、彼女のぬくもりが、そこにある気がして。
──暗い。
いや、正確には“光が届かない”。
目を開けているはずなのに、何も見えない。時間の感覚も、体の重みすらも、どこか曖昧だった。
(……ここは、どこ?)
ユナは一歩踏み出そうとした。
すると、足元に水が波打った。冷たい感触。湿った空気が肌にまとわりつく。
周囲を見回しても、視界は灰色の霧に包まれている。
「……アオイくん? みんな……?」
声は響かず、霧に飲まれて消えていく。
“これは夢じゃない”
ユナはすぐに理解した。これは、ただの幻ではない──“記憶の層”の中に、彼女自身が引き込まれているのだ。
(誰かの……記憶? それとも、私の……?)
ふと、足元の水面に、光が差し込んだ。
揺れる水の奥に、ひとつの“影”が映る。
──それは、小さな村の風景だった。
古びた木造の家並み。小さな畑。川沿いに咲く白い花。どこか懐かしくて、心がざわつく風景。
(知ってる……この場所)
そして──
「お母さん、どうして……どうして、私だけが……」
小さな少女の声が聞こえた。
ユナは、無意識にその声の方へと歩き出す。霧がわずかに晴れ、視界が開けた。
そこには、村の広場にうずくまる、小さな“自分”がいた。
(……これ、私……)
まだ幼い頃。村の子どもたちの中で、たった一人だけ、耳の形が違っていた。肌の色が淡く、瞳の色が浮いていた。
──ハーフだというだけで、排除された記憶。
「こっち来ないでよ、気持ち悪い!」
「やだ、また目が合った!」
「おまえのせいで、うちの畑が枯れたんだ!」
声。声。声。子どもたちだけじゃない。大人たちも、遠巻きにしながら、決して近寄ってこなかった。
そのとき、視界の中の少女──ユナの過去の姿が、ぽつりとつぶやいた。
「……どうして、生まれてきたのかな」
ユナの胸がきゅっと締めつけられる。
(やめて……そんなこと、言わないで)
足が止まった。声が届かない。目の前に自分がいるのに、どうしても手が伸ばせない。
(私は、今ここにいる。仲間がいて、アオイくんがいて……)
「“でも、消えてしまいたいって思ってたんでしょ”」
耳元で、誰かが囁いた。
思わず振り返る──そこには誰もいない。
けれど、声は確かに彼女の“奥”から聞こえた。
「心の奥にあるものほど、簡単には癒えない。君の“本音”は、いまでもそこにある」
「……違う」
ユナは震える声で否定した。
「私は……」
──そのとき、目の前の“過去の自分”が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、まっすぐにユナを見ていた。
「でも、君は進んだ。逃げずに、ここまで来た。だから……“今”のユナは、強い」
その声は、もう怯えていなかった。
“過去”と“今”が、静かに向き合った瞬間。
ユナは、そっと目を閉じる。
(ありがとう、私)
(もう、迷わない)
霧が、音もなく晴れていく。
足元の水も消え、空間の色が変わっていく。
どこかで、誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。
──アオイくん。
その声に、ユナは振り向いた。
ほんの少しだけ、笑みを浮かべながら。
「──ユナちゃんっ!」
誰かの声が耳に届いた瞬間、ユナは意識の深い底から浮かび上がった。
視界に光が差し込み、木漏れ日の揺れる森が戻ってくる。
「……あれ……私……」
「大丈夫か!?」
すぐ近くにいたアオイが、ユナの肩を支えていた。彼の瞳は本気で心配している色で満ちている。
「急に、立ち止まって……目を閉じたまま動かなくなって……」
「……ごめん、ちょっと……昔の記憶に触れてたみたい……」
ユナはかすかに微笑んだが、アオイはその笑みに、何かしらの“痛み”を感じ取っていた。
「でも、大丈夫。ちゃんと戻ってこれたよ。……ありがとう、アオイくん」
その言葉を聞いて、アオイはほっと息をついた。
「よかった……無理はしないで。何かあったら、すぐ言って」
「うん」
後ろで見守っていたレオンたちも、安心したように顔を緩める。
「……この森、マジでただの“魔物”とかじゃねぇな」
レオンが警戒を強めながら、剣を腰に戻した。
「“記憶”が干渉してくるってのは……やっぱり普通じゃない。気を抜けば、自分の“奥底”を引っ張り出される……そんな場所だ」
ミレイも頷いた。
「今は大丈夫でも、いつどんな形で“何か”が来るか分からない。私たち全員、気をつけた方がいい」
その言葉に、アオイたちは自然と背筋を伸ばした。
「……進もう。この森のどこかに、きっと答えがある」
ガルドが短く言った。
彼の瞳には、言葉以上の強い意志が宿っていた。
歩みを再開した一行は、森の中を慎重に進み始めた。
静寂。鳥の声も虫の音もない。風さえも止んだように感じられる空間。
──そのとき。
「……見て」
ユナが木の根元を指さした。
そこには、人の手によって積まれた“石”のようなものがあった。
「……記憶の……印?」
ミレイがつぶやく。
「いや、これは“墓標”だ」
レオンが膝をついて確認した。
石の表面には、かすかな彫り跡があった。
《ここに、名もなき者、眠る──風よ、どうか忘れないで》
「誰かが……この森で、命を落とした」
「それも、“静かに”……誰にも知られずに」
ユナがその前にひざまずき、そっと祈るように目を閉じた。
アオイたちも、それに倣って静かに頭を垂れる。
風が、わずかに吹いた。
森が、それに応えるように木々を揺らした。
──まるで、何かが目を覚ましたように。
「……聞こえる?」
ユナが再び目を開け、耳を澄ました。
「……“呼んでる”。この先に……誰かがいる」
「記憶じゃない。“今”だ」
アオイも同じものを感じていた。
(これは、“現在の存在”の気配だ)
仲間たちは目を見交わす。
「行こう。気をつけて」
再び、森の奥へと歩を進める。
だが、その先には──“森そのもの”が意志を持っているかのような、異様な空間が待っていた。
霧が濃くなってきた。
空は見えず、木々の影はまるで生き物のように揺れている。
「……ここ、本当に昼間なのか?」
レオンのつぶやきに、誰も答えなかった。
森の中心へ近づくにつれ、“空間そのもの”が歪んでいく感覚があった。
「気配が……入り混じってる」
ミレイが魔力の流れを読み取りながら、声を低くする。
「複数の記憶……いや、“記憶と現実”が同時に存在してるみたいな……」
「ユナちゃん、だいじょうぶ……?」
アオイが隣の少女を気にかけると、ユナはそっと頷いた。
「平気。……でも、確かにこの奥に“誰か”がいる。……その人の想いが、ずっとここに留まってる」
「その“誰か”ってのは……」
「……わからない。でも──わたしの中の、古い感情が反応してるの」
ユナの瞳が、わずかに震える。
(まるで、自分の記憶の奥底が、森の記憶と“重なって”いくような感覚……)
──そのとき。
風が止まり、霧が裂けた。
現れたのは、ぽっかりと開いた“空間”だった。
木々が丸く避けるように広がり、中央には小さな泉があった。
そして──その傍らに、人影が立っていた。
「……誰?」
レオンが剣に手をかけた瞬間、ユナが前に出た。
「待って……」
影は、ゆっくりと振り向いた。
それは──ユナに似た姿をした少女だった。
髪の色も、輪郭も、どこか面影がある。
「……!」
ユナが目を見開いた。
「あなたは……」
少女は何も言わず、ただ微笑んだ。
だがその瞳は、悲しみに満ちていた。
──そして、静かに口を開いた。
「……ようやく、来てくれたのね」
声が、ユナの心を貫いた。
懐かしい。けれど、知らない。
「……あなたは、誰?」
ユナが問う。
少女は答えず、そっと手を差し出した。
次の瞬間──
ユナの周囲に、光が舞った。
アオイたちが駆け寄ろうとした瞬間、光の壁が彼女たちを遮った。
「ユナ!!」
「だめっ、入れない!」
「記憶の共鳴だ……!」
ミレイが叫ぶ。
ユナは、光の中に包まれながら、少女と向き合っていた。
少女が、ゆっくりと告げる。
「私の名前は……リィナ。
“あなたの母親の、妹”。
つまり……あなたの、“叔母”よ」
──衝撃が、ユナの意識を揺るがした。
「どうして……あなたが、こんなところに……?」
「私たちは、ずっとこの森で暮らしていたの。……“記憶を守る民”として。
でも、それはずっと昔に、終わってしまった。
この森が、“喰われた”から──誰かに、何かに……」
光がさらに強まり、ユナの記憶と、少女の記憶が重なっていく。
「……ユナ……」
アオイが必死に声をかけるが、ユナはもう、意識の内側で“何か”と向き合っていた。
──“リィナ”と名乗る少女の記憶が、ユナを過去へと導いていく。
──ユナの意識は、森の記憶に溶けていた。
気がつくと、彼女は“誰かの視点”で、森を見つめていた。
いや、違う。
(……これは、わたし?)
目の前には、霧の晴れた草原と、小さな村があった。
石造りの井戸、木造の小さな家々。鳥の鳴き声、風に揺れる草の音──
確かに、そこに“生活”があった。
「リィナ、お水、お願い!」
遠くから声が飛ぶ。
その声に応えるように、少女が小さく返事をする。
「はーい、すぐ行くよ!」
駆けていく少女の後ろ姿。
ユナは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(この場所、知ってる……)
──それは、彼女の血の中に流れていた“もうひとつの記憶”。
「この村は、かつて“記憶の守人”たちが暮らしていた。
過去を記録し、未来を見つめる、特別な役目を持った一族」
声が、意識の中に響く。
「私たちは、森と共にあり、森を守ってきた。
でも──あの日すべてが終わった。
“誰か”が、この森の記憶を壊しに来たの」
村に、異変が起きる。
空気が一変し、地面がうなり、森が“ざわめく”。
リィナは井戸の水を運ぶ手を止め、空を見上げた。
──漆黒の霧。空間が裂けるような魔力のうねり。
「逃げて!」
叫ぶ声。悲鳴。泣き声。
──そのすべてが、ユナの心に流れ込んできた。
「私の母は、あのとき、あなたのお母さんを連れて森の外へ逃がした。
私は、ここに残った。……この森に、記憶を残すために」
少女の声が、淡く響く。
「ユナ……あなたに会えて、よかった。
あなたが、もう一度ここに来てくれると、ずっと信じていた」
風が吹く。
景色が溶け、記憶の中の村が、霧と共に消えていく。
「……ありがとう」
ユナがぽつりと呟く。
そして、目を開けた。
──そこは、黒樫の森の泉のほとり。
仲間たちが、自分を囲んでいた。
「ユナ……!」
「無事か……?」
心配そうな声に、ユナは小さく頷いた。
「……見たの。わたしの、ルーツを。
この森で、生まれた記憶を。
“なぜここに来なきゃいけなかったのか”、ようやく分かった」
アオイが、そっと肩に手を置く。
「じゃあ──ここに来た意味が、あったんだね」
「うん……でも、それだけじゃない」
ユナの瞳が、奥深くを見据える。
「この森には、まだ“何か”がいる。
私たちの記憶を、感情を……“喰らおう”としてる、何かが」
──そして、足元の大地が微かに震えた。
ゴォォ──……
地の底から響くような、低く、重い唸り声。
黒樫の森の空気が一変した。
ユナの言葉を裏付けるように、大地がかすかにうねり、足元の苔がざわめくように揺れる。
「……来る」
アオイが、咄嗟に前へ出た。仲間たちも、即座に陣形を整える。
霧の奥から、何かが“現れる”。
最初はただの影だった。
だが、霧を裂いて姿を見せたその存在は──
「……人、か?」
ミレイの声が震える。
現れたのは、かつてこの森で暮らしていたであろう、“人”の形をした何かだった。
だがその身体は黒く崩れ、輪郭が曖昧で、まるで“記憶そのもの”が形を保てずに蠢いているようだった。
「記憶の……残骸……?」
ユナが呟く。
その存在は、言葉も感情も持たず、ただ空虚にこちらを見つめていた。
だが──
次の瞬間、闇の中から“声”が響いた。
『――忘レルナ……我ラハ此処ニ……』
重なりあった無数の声。それは明らかに、“個”ではない。
「これは……“集合体”……?」
レオンが剣を構える。
「違う、“意思”を持ってる。こいつ……“記憶そのもの”を喰らって成った、何かだ」
ミレイが青ざめた顔で魔力を込める。
「まさか……“記憶喰らい”……!」
「“記憶喰らい”……?」
アオイが聞き返す。
「古い伝承に出てくる。
強い感情や記憶を取り込み、実体を得る“呪いの存在”……。
自我を失った記憶が、次々と溶け合ってできる……“忘れられた存在”」
『――我ヲ……忘レルナ……忘レルナ……』
存在は、もはや呻きとも祈りともつかぬ声でうわごとを繰り返している。
「……ユナ、下がって!」
アオイが叫ぶ。
次の瞬間、影がうねるようにこちらへ突進してきた。
「こいっ……!」
アオイの右手が赤く輝く。
──“赤の力”、右足に集中。踏み込み。
──右拳、集中強化。
「はああああっ!!」
打ち込まれた拳が、影の中心を穿つ。
だが──
ズブゥッ──
拳は確かに命中した。だが、感触がない。
「っ……!?」
影は煙のように揺れ、アオイの拳を呑み込んだかと思うと、瞬時に別の位置へと移動していた。
「こいつ……物理が効かない!?」
ミレイが即座に魔法陣を組む。
「風よ、祓え──《断風の陣》!」
放たれた風刃が影を裂く──
が、その裂け目から黒い霧があふれ、すぐに再生する。
「効いてはいる……けど、再生が速い……!」
「ユナ! “共鳴”できるか!?」
アオイの声に、ユナが深く頷いた。
「うん……私の記憶が、“あれ”に繋がってる! 今なら、触れられる!」
両手を胸元に重ね、ユナの全身が淡く輝き始める。
「“癒し”じゃなく、“共鳴”で対話する──!」
彼女の光が、霧の中に差し込んだ。
“記憶喰らい”の動きが止まる。
霧の中に、一瞬だけ“少女の姿”が浮かぶ。
「あなたは……“リィナ”……?」
ユナが問いかける。
──そして、“何か”が、わずかに頷いたように見えた。
そのとき、黒い霧がふわりと揺れ、形を保てずに崩れ始める。
『……わたし、は……』
声が、最後に少女のものへと変わって消えていく。
そして──
“記憶喰らい”は、音もなく霧の中へと溶け、消えていった。
沈黙。
ただ、残されたのは、一輪の白い花。
──ユナの足元に、それは咲いていた。
アオイが、そっとそれを見つめる。
「……ありがとう、ユナちゃん」
ユナは、微笑みながら小さく首を振った。
「きっと、ありがとうって言ってたのは、あの子の方……だよ」
影が去り、森の空気が静かに変わる。
風が、霧を払い始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この第11話後編では、アオイたちが新たな旅路に踏み出し、少しずつ“過去”に近づいていく様子を描いています。
黒樫の森に宿るのは、かつて誰かが残した強い想い。そして、ユナの胸にざわめく小さな記憶の欠片。
次回は、この森の奥で“記憶”と“想い”が交差する場面を描いていきます。
どうぞ、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。