第11話 東の道標
霧の谷を越えたアオイたちは、新たな依頼を受けるため街へ戻る。
だが、記憶の異常はすでに複数地点に広がっており、“紅の騎士団”の影も見え隠れしていた。
導かれるように向かう先は、誰も戻らなかった未踏の森――“黒樫の森”。
その深く静かな森には、誰かの“想い”が今も残り、漂っている。
──空気が、澄んでいた。
朝焼けが街を淡く染める頃、アオイはひとり宿の屋上に立っていた。昨夜はあまり眠れなかった。身体の疲労は深くても、心の奥が妙に騒がしくて、まぶたを閉じるたびに“あの光”や“あの背中”が思い浮かんだ。
(……俺、変わりたいんだ)
あの時、自分でそう口にした。
願いのような、呪いのようなその言葉が、今も胸の奥に残っていた。
「……ふぅ」
静かに息を吐くと、わずかに白い吐息がこぼれた。夏の始まりにしては冷たい朝だ。遠くの空には淡い雲が漂い、低く流れてゆく。
アオイは手すりに肘をつき、ぼんやりと東の空を眺めた。
街はまだ眠っている。遠くでパンを焼く匂いがわずかに風に乗ってきた。
──足音がした。
かすかな靴音。振り向くと、そこにユナが立っていた。
「……おはよう」
「ユナちゃん……おはよう」
朝の空気と同じくらい柔らかい声だった。金髪が朝日に透けて、どこか幻想的に見える。
「起きてたんだ」
「うん。あんまり、眠れなくて」
ユナはアオイの隣に立ち、手すりにそっと指先を添えた。
「……私も」
その言葉に、少し驚いてアオイは彼女を見た。
「昨日のこと、考えてたの?」
「うん。光のことも、あの背中のことも……。なんかね、夢を見てた気がする」
「夢?」
「ううん、違うかな。でも……昔のこと、少しだけ思い出したの」
そう言って、ユナは目を伏せた。
アオイは何も言えず、ただ彼女の横顔を見つめた。
「アオイくん」
「うん?」
「……変わりたいって、思ったことある?」
心を覗かれるような質問だった。
アオイは一瞬戸惑い、でも正直にうなずいた。
「あるよ。……というか、昨日、思ったばかりだよ」
「そう」
ユナは微笑んだ。どこか寂しげで、でも温かい笑顔だった。
「私もね、そう思ったの。……もっと、強くなりたいって。誰かを守れるくらいに」
「……もう、守ってくれてるよ」
思わず口にしてから、アオイは少し照れた。けれどユナは、そっと目を細めただけだった。
風が吹いた。
朝の光が、ふたりの影を地面に落とす。やさしい沈黙が流れた。
「ねえ、少し……歩かない?」
ユナがそう言って、アオイは「うん」とうなずいた。
──ふたりの、静かな朝が始まった。
朝の街は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
石畳の道にはまだ人の姿はまばらで、露店の準備を始めたばかりの商人たちがパンを焼いたり、果物を並べたりしていた。湯気の立つスープの匂いが、鼻をくすぐる。
アオイとユナは並んで歩いていた。
「……静かだね」
「うん。夜明け前の街って、好き」
ユナの言葉に、アオイもなんとなくうなずいた。
──不思議だった。
こんなふうに、ただ並んで歩いているだけなのに、心が少し軽くなっていく。
(昨日まで、あんなに重たい空気の中にいたのに)
朝の光とユナの隣にいる安心感が、知らず知らずのうちにアオイの胸をほどいていく。
「昔ね」
不意に、ユナが口を開いた。
「私、こうして誰かと歩くの、夢だったの」
「夢?」
「うん。ギルドに入る前は、ひとりで旅してたから……誰かと並んで歩いて、くだらない話をするだけでもいいなって、そう思ってた」
アオイは驚いたように彼女を見た。
「ユナちゃんが、ひとりで旅を?」
「……言ってなかったっけ」
「ううん。でも、なんか意外だった。てっきり、最初から〈暁星の灯〉にいたのかと」
ユナは、少しだけ笑った。
「入ったのは最近なんだ。レオンたちが、声をかけてくれて」
「そっか……それまで、ずっと……?」
「……うん。あんまり、いい旅じゃなかったよ」
その言葉には、どこか影があった。
アオイは無理に聞き返さなかった。けれど、ユナの口から語られる“断片”に、自然と耳を傾けていた。
「昔いた村では、ちょっと浮いてたから」
「……」
「人間とエルフの、あいだに生まれたってだけで、けっこう目立っちゃうからね。耳も、髪の色も。最初は気にしなかったけど、だんだん、分かってくる」
アオイは、返す言葉を探した。
「それで……村を?」
「うん、出たの。というか、出される形だったかも」
そう言って、ユナは少し笑ったが、その笑顔はどこか遠かった。
「それでも、旅は嫌いじゃなかった。景色は綺麗だし、魔物にもだんだん慣れてきたし。……でも、やっぱり、どこか寂しかったな」
アオイは立ち止まった。
ユナも足を止めて、彼の顔を見る。
「ユナちゃん」
「ん?」
「俺……その話、聞けてよかった」
「……どうして?」
「なんか、そういうの、俺、知らなかったから。ただ一緒に旅してても、ちゃんと“ユナちゃん自身のこと”を見てなかった気がして」
それは、アオイの正直な気持ちだった。
“仲間”として。だけど、“仲間”である前に、“人”としてユナを知りたかった。
ユナは少し目を丸くして、それからゆっくりと笑った。
「ありがとう。……アオイくんって、変わってるね」
「えっ、そう?」
「ううん、いい意味で」
その笑顔は、今までより少しだけ素直で、少しだけ近く感じられた。
──カラン、と。
朝市の店先で、誰かがリンゴを落とした音がした。
小さな生活の音が街に広がっていく。陽が少しずつ高くなり、街はゆっくりと目を覚まし始めていた。
「そろそろ戻ろっか」
「うん、行こう」
ふたりはまた、並んで歩き出した。
だけど、もうさっきまでとは少し違う。
アオイの胸には、ユナの“歩いてきた道”が、そっと刻まれていた。
そしてそれは、きっと──
これから進む“東の道標”へと、つながっていく。
ギルドの建物に戻ったのは、朝の光がすっかり街に満ちた頃だった。
「おはよー、寝坊組!」
ミレイが先にロビーの長椅子に腰をかけ、ふたりを見つけて手を振った。
その隣には、ぼんやりと新聞を眺めているレオンと、相変わらず無口なガルドの姿もあった。
「おはよう。……もう来てたんだ」
「うん。昨日はぐっすり寝ちゃって、朝イチで来たら誰もいなくてさ。ふたり、どこ行ってたの?」
「散歩……かな」
アオイが少し照れたように答えると、ミレイがにやにやと笑った。
「ふーん? ふたりで?」
「な、なんでそんな言い方なんだよ!」
「いやいや、別に? 青春だねぇって思って」
「青春って……!」
アオイが言い返しかけたそのとき、カウンターの奥から落ち着いた声が響いた。
「……おいでか、朝から賑やかだな」
現れたのは、ギルドの支部長だった。
壮年の男は相変わらず背筋が伸びており、威圧感というより安心感を漂わせるような雰囲気をまとっていた。
「昨日は、本当にご苦労だったな」
そう言って、彼はアオイたちを応接室へと招いた。
静かな部屋で、支部長はテーブルの上に数枚の報告書を並べながら話し始める。
「……お前たちが持ち帰った“記憶の断片”、そして紅の騎士団の痕跡。ギルド本部でも、これはただ事ではないと見ている」
支部長の声には、はっきりとした緊張がにじんでいた。
「お前たちは知っての通り、紅の騎士団は王国の直属部隊。普通のギルドでは関わらない存在だ。だが、その彼らが“記憶の痕跡”を追って動いているとなると……それは、我々の任務とも重なりうる」
アオイたちは、真剣な表情で聞き入っていた。
それぞれが霧の谷で感じたこと、見たもの。そして、そこで芽生えた“問い”。
それが、確かに今この場へとつながっていた。
「……そこで、本部からひとつの提案がある」
支部長が新たな書類を差し出す。
「“東方”への派遣だ」
静まり返る空気の中、ユナが反応した。
「……東方?」
「ああ。王都から遠く離れた、武術と霊術の土地。“青の流派”が生まれたとされる場所だ」
“青”──その響きに、アオイの中で何かがかすかに反応した。
「そこに、数週間前から“強い記憶の波”が観測されている。……ただし、普通の者では近づけない。“力”と“気”の扱いに長けた者しか、その場所には入れない」
「つまり……試されるってことですか?」
ミレイの問いに、支部長はうなずいた。
「その通りだ。だからこそ、お前たちに頼みたい。霧の谷での経験を経た者にしか、あの地の真実には触れられないだろうからな」
しばらく、沈黙が落ちた。
だが、アオイの中にはもう迷いはなかった。
「──行きます」
静かに、けれど強い声でそう言った。
仲間たちも、無言でうなずいた。
支部長は満足そうに目を細める。
「出発は明日朝。今夜は準備と休息に充ててくれ」
こうして、アオイたちの“東への旅”が始まる。
──静かな朝、動き出す歯車
翌朝。街にはまだ朝靄が残り、人々の動きもまばらだった。
ギルドのロビーには、アオイたちの姿があった。
「……おはようございます」
ユナが控えめに声をかけると、支部長の壮年の男は、すでに書類の束に目を通しながら頷いた。
「来たか。ちょうどお前たちに伝えたいことがあったところだ」
男は手元の紙束を整理すると、一枚の地図を広げた。
「昨夜の報告書と、お前たちが持ち帰った魔力の痕跡……これらを総合すると、“記憶異常”は局所的なものではなく、徐々に広がりを見せていると考えられる」
地図上にはいくつかの赤い印が付いていた。それは、ここ数か月で“異常報告”が上がった場所だった。
「そして問題は、この印のひとつに、“紅の騎士団”の影が確認されているという点だ」
アオイたちが思わず顔を見合わせる。
「廃教会の跡地だけじゃなかったのか……」
レオンの呟きに、支部長はうなずいた。
「やつらが何を探っているのかはまだ不明だ。ただ、すでに3か所で“記憶”に関わる痕跡が確認されており、すべての現場に“彼らの気配”がある」
ミレイが地図を覗き込みながら眉をひそめた。
「……これは偶然じゃない。明確な意図がある」
「うむ。だからこそ、次の任務だ」
支部長は、新たな地名を指差した。
「“黒樫の森”──王都南方の未踏地だ。ここでも魔力の揺らぎが観測されている。“霧の谷”や“廃教会”に似た反応だが、より深く、そして……より古い」
アオイの心がかすかに揺れた。
(また、“何か”がある……)
「任務は、現地の調査と、紅の騎士団の動向確認。必要と判断すれば、接触も辞さない」
支部長の視線が鋭くなる。
「だが、くれぐれも気をつけろ。あの連中は、ただの戦闘集団ではない。お前たちも、前回でそれを肌で感じたはずだ」
「……了解です」
ユナが一歩前に出て、真っすぐに答えた。その横で、アオイも黙って頷く。
「準備が整い次第、出発してくれ。旅は数日を要する。情報が錯綜している分、慎重にな」
支部長はそう言い残し、再び書類の山へと視線を戻した。
アオイたちは、静かにギルドのロビーを後にした。
「“黒樫の森”、か……」
レオンが呟く。
「聞いたことある。確か、数年前に“探索不能地域”に指定された森……」
ミレイの言葉に、ユナが口を閉ざす。
彼女の顔には、かすかな不安が浮かんでいた。
(何か、思い出した……?)
アオイはその表情を見逃さなかったが、今は何も聞かず、ただ横に並んで歩き出した。
やがて、朝日が昇り始める。
霧が晴れ、道が見える。
仲間たちは、次の戦いの地──“黒樫の森”へと、歩を進めようとしていた。
──“黒樫の森”への旅路
街を発って半日が過ぎ、アオイたちは緩やかな丘陵地帯を南へと進んでいた。
風は穏やかで、空は澄んでいたが、空気のどこかに、淡い緊張が漂っていた。
「……この道、前にも通ったことがある」
ふと呟いたのは、ガルドだった。
「……あの村に向かったときか?」
レオンが振り返ると、ガルドは短くうなずいた。
「……ああ。あの時も、どこかに何かが潜んでいる気配がしてた。だが、今回はもっと……“深い”」
それは、これまでに感じたことのない“重さ”だった。
「黒樫の森って、そんなに深いのか?」
アオイの問いに、ミレイが口を開く。
「地図上には載ってる。でも、内部の地形は不明。“霧の谷”と似た性質を持つって言われてるわ。記録上、最後に調査隊が入ったのは10年以上前──それ以来、誰も踏み込んでない」
「……なぜ?」
「全員、戻ってこなかった。魔物による襲撃……って報告されてるけど、詳細は伏せられてる。王都も積極的に調査しようとはしてないみたい」
アオイは眉をひそめた。
(それほどまでに、“危険”だと判断されたのか)
そんな場所へ、いま自分たちは向かっているのだ。
「でも、私……行かなきゃいけない気がする」
ユナがぽつりと呟くように言った。
アオイは思わず彼女の顔を見る。
「ユナちゃん……?」
「黒樫の森の名前を聞いたときから、胸の奥がざわついてるの。どうしてかは、まだ分からない。でも……“何か”がある。そんな気がするの」
その言葉には、確かな“感覚”が宿っていた。
誰にも説明できない、でも確かに“導かれている”ような気配。
「……だったら、行こう」
アオイはまっすぐに言った。
「答えがあるなら、確かめるしかない。俺たちは、もう“知らないふり”はできないから」
その言葉に、ユナが微かに笑った。
「うん、ありがとう」
「よっしゃ! じゃあ今回は、最初から気を引き締めていくぞ!」
レオンが無理やり明るく声を張った。
「任せたよ、リーダー」
ミレイがからかうように笑う。
「……まったく、騒がしい連中だ」
ガルドが肩をすくめる。
だが、その表情はどこか柔らかかった。
霧の谷での出来事が、確かに彼らの距離を縮めていた。
──仲間として。
そして、夕日が丘の端を染め始めた頃、黒樫の森の影が、遠くに見え始めていた。
深く、濃く、まるで世界から切り離された“闇”。
「……着いた、みたいだな」
レオンの声が、風に消えていく。
そこから先は、森がすべてを飲み込んでいた。
──森の入り口、“記憶”が揺らぐ場所
黒樫の森の入り口は、言葉にしがたい威圧感を放っていた。
木々は異常に高く、枝葉は昼間の光をも遮るほどに密集している。足元には苔が生え、森の奥からは風すら届かない。
その空間に、一歩足を踏み入れた瞬間。
「……空気が違う」
ユナが眉をひそめた。
確かに、温度も湿度も変わらないはずなのに、何かが体を押さえつけてくるような“重さ”がある。
「まるで、“見られてる”みたいだな」
レオンが周囲を見渡しながら言う。
アオイも後ろを振り返ったが、そこにはもう街道の風景はなかった。来たはずの道が、いつの間にか森の影に溶けていたのだ。
「……もう、戻れないってことか」
ガルドの低い声に、誰も言葉を返せなかった。
「魔力反応、微弱だけど、あちこちから感じる。しかも……“揺らいでる”」
ミレイが警戒しながら周囲を見渡す。
「揺らいでる?」
「記憶の“波長”と似てる。でも、安定してない。誰かの想いがまだ“迷ってる”みたいな感じ……」
アオイの胸に、不安が募っていく。
(ここは、“記憶”そのものが入り込んでくる場所なのか?)
そのとき。
──カサ……。
微かな音に、全員が振り向いた。
「……今、誰かいたよな?」
レオンが剣を抜いた。
「いたように“思った”。でも……」
ミレイが魔法陣を展開するが、検知反応は何もない。
ユナがそっと目を閉じる。
「記憶が……重なってる。いま、誰かの“想い”が、ここに流れ込んできてる」
言葉と同時に、アオイの視界がわずかに滲んだ。
そこに現れたのは──
淡い光をまとった、ひとりの“少女”の幻影。
森の中を、ひとりで歩いている。振り向くその横顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「……誰?」
思わず声が漏れる。
だがその少女は、こちらに気づくこともなく、ただ木々の奥へと消えていった。
「今の……」
「“記憶の残響”だ」
ユナが答えた。
「でも、あれは……かなり強い感情だった。まだ“この森に縛られている”ような……」
誰かがこの森で、強い想いを残した。
その記憶が、未だ解けることなく漂っている。
「アオイ」
ユナがふいに呼びかけた。
「もし、この森で……何かを“見た”としても、それに飲まれないで。あなたが誰かを想う気持ちは、本物だから」
不意を突かれる言葉に、アオイは息を呑んだ。
「……ユナちゃん」
彼女は静かに笑った。
「私は、あなたの“今”を信じてる。過去に流されない、ちゃんと前を向く力があるって」
アオイは、ゆっくりと頷いた。
仲間たちは再び足を進める。
それぞれが、過去に何かを残してきた者たち。
だが、今を生きて、歩く者たち。
森の奥に、またひとつ、風のような気配が通り過ぎた。
それは、誰かの“想い”が形を持ち始めた予兆だった。
それは、彼らの過去と未来が交差する、新たな章の幕開けだった。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は新章の幕開けとなる回でした。
物語は再び動き出し、アオイたちは“黒樫の森”という記憶の揺らぐ場所へ踏み込んでいきます。
ユナや仲間たちの変化にも、少しずつ注目していただけたら嬉しいです。
次回は、森の深部での出来事と、そこで出会う“記憶”の正体が鍵になります。
また読みにきていただけたら、嬉しいです!