第1話 村に咲いた花の名は
はじめまして。
この物語は、ひとりの青年と、ひとりの少女が、“誓い”を胸に旅をする物語です。
魔法も剣もありますが、主軸は「修行」と「成長」、そして「優しさと強さの両立」。
ゆっくりと始まります。
けれど、少しずつ“本当の戦い”に向かって、歩いていきます。
派手さはありませんが、読後に何かが残るような、そんなお話を目指しています。
よければ、気ままに読み進めていただけたら幸いです。
その日、空が少しだけおかしかったことに、誰も気づいていなかった。
ほんのわずかに──風の向きが、違った。
朝露の匂いに、微かに混じっていた“何か”。
(……いつもと、違う)
アオイは、言葉にならない違和感を喉の奥に押し込んだまま、いつも通りの朝を迎えていた。
──静かな、どこにでもある村で。
けれど、この日から、彼の世界は静かに、確実に揺らぎ始めていた。
そしてその揺らぎは、“記憶”という名の深くて暗い谷へ、彼を導いていくことになる。
まだ、誰も知らないまま──
空気が澄んでいた。
村の朝はいつも静かで、どこか懐かしい匂いがする。
アオイは井戸のそばに腰を下ろして、小さな花に視線を落とした。
名も知らないその青い花は、まだ朝露を纏っていて、朝の光を跳ね返すように輝いていた。
「……きれいだな」
ぽつりと漏らした声は、誰に届くでもなく風に流れる。
手を伸ばして触れることはしなかった。触れたら、壊れてしまいそうで。
少しだけ、胸が痛くなった。
いつからだろう。
目を覚ましたときにはもう、この村にいて。
名前だけは覚えていたけれど、それ以外は何もなかった。
「アオイ」
誰かがそう呼んでくれたから、自分はそうなのだと信じている。
でも、本当にそれが自分の名前なのかも、正直よくわからない。
「……ま、いっか。今さら悩んでも仕方ないし」
軽く笑って、立ち上がる。
そうやって毎日を過ごしてきた。変わらない風景。変わらない日々。
でもその日は、少しだけ違っていた。
遠くから、見慣れない旗が揺れているのが見えた。
村の入り口。誰かが来たのだ。
しかも一人ではない。何人かの影が、ゆっくりとこちらへ向かっていた。
「旅人……? いや、あれは――」
アオイは思わず目を細める。
村人たちも気づいたらしく、ちらほらと家の中から顔を出し始めていた。
「ギルドだよ!」
子どもが叫ぶ声が響いた。
それと同時に、旗に描かれた紋章が風にあおられて翻った。
金色の星と、薄明かりの灯火。
〈暁星の灯〉。
冒険者のギルドのひとつ。その名は、村の者たちにも知られていた。
アオイはしばらくその光景を見つめたあと、花の前にしゃがみこんで、そっと一言だけ呟いた。
「なんか……風が変わったな」
村の広場には、もう人が集まり始めていた。
普段は静かなこの場所も、今日は妙にざわついている。
アオイは、少し離れた場所からその様子を見つめていた。
中央に立つ旅装束の人物たちは、やはり噂に聞くギルド〈暁星の灯〉の面々だった。
ひときわ目を引いたのは、その中の少女だった。
金色の髪が朝日に照らされて、まるで風に舞う陽光のように揺れている。
「あれが……」
アオイの口から言葉が零れたが、その先は出てこなかった。
何かを思い出しそうで、でも思い出せなくて。
それでもなぜか、あの少女だけが強く目に焼きついて離れなかった。
「アオイ、いたのか」
声をかけてきたのは、村の鍛冶屋のアルドだった。
分厚い前掛けに煤のついた手、短く刈り上げた髪と無愛想な顔。
「お前もギルドの連中、見に来たのか?」
「うん……まあ、ちょっとだけ」
「へっ。なんでも、例のモンスターの件で来たらしいぞ」
「モンスター?」
アルドは少し声を潜めて言った。
「北の山の方で、最近変なのが出るって話があったろ? 行商人が襲われたってやつだ。ギルドに依頼が出てたんだとさ」
「それで……あの人たちが」
アオイは再び視線を向けた。
少女の隣には、大柄な戦士風の男。
その後ろに軽装の女性と、無口そうな盾持ちの男。
それぞれが違う空気を纏っていて、村の人間とはまるで別の世界にいるように感じた。
「……かっこいいな」
思わずそう漏らすと、アルドは鼻で笑った。
「お前も行けばいいんじゃねえの? ギルド入りたいんだろ」
「……入りたいなんて、一言も」
「思ってんだろ? いつも剣の練習してんの、知ってんぞ」
図星だった。
村外れの広場で、誰にも見られないように動きを繰り返していたのに。
「夢見るのは勝手だが、あの連中は本物だ。お前みたいな素人が近づいたら……」
そのときだった。
「あなた、アオイっていうの?」
金色の髪の少女が、こちらに歩いてきていた。
一瞬、空気が止まった気がした。
「えっ……?」
「あ、自己紹介が遅れたね。わたし、ユナ。よろしく」
笑った。
その笑顔に、なぜか胸の奥がざわめいた。
まるでずっと昔に、その声を聞いたことがあるような――
そんな気がして、アオイは言葉を失っていた。
「……あ、うん。アオイ、です」
ようやく返した声は、ひどく小さかった。
ユナと名乗った少女は、その反応を責めるでもなく、ただ穏やかに頷いた。
「そっか。じゃあ、やっぱりあの子が言ってた通りだ」
「……え?」
「ううん、なんでもないの」
ユナは少しだけはにかんだように笑い、くるりと振り返る。
その仕草が風とともに光をまとって見えた気がして、アオイは思わず目をそらした。
後ろにはギルドの他のメンバーが集まり始めていた。
大柄で堂々とした構えの男が、アオイたちの方に近づいてくる。
「ユナ、お前また勝手に声かけて……」
「大丈夫だよ、レオン。この子は大丈夫だから」
レオンと呼ばれた男は、胡散臭そうにアオイを見たあと、ユナの言葉にため息をついた。
「まったく、お前の“感”だけは当たるからな。今回は信じるとするか」
「でしょ?」
ユナが自信たっぷりに胸を張る。その様子を、後ろのメンバーが遠巻きに見ていた。
軽装の女性――ミレイと呼ばれる風魔法の使い手らしい――が面白そうに笑う。
「ふふっ。あなたがアオイ君? なんか、思ったより優しそう」
「おいミレイ、あんまり怖がらせるなよ」
盾を背負った寡黙な男――ガルドが、小さく声を漏らす。
仲間同士の気心が知れた空気感。それがどこか、心地よかった。
「……えっと、どうして僕に?」
アオイはようやく口を開いた。
心臓がばくばくしている。
ただ声をかけられただけだというのに、まるで心の奥を覗かれたような気がしていた。
「あなた、村で剣の練習をしてるって聞いたの。少しだけ、気になってね」
ユナの言葉は、まっすぐで、飾り気がなかった。
「たぶん――何かを探してる人の目だったから」
探してる?
自分が――?
アオイの頭の中が、静かにざわつき始める。
過去の記憶も、夢も、目標も持たず、ただ目の前の毎日をこなしていた自分。
それなのに。
「……そんな風に、見えたの?」
「うん。私も、昔そうだったから」
ほんの一瞬だけ、ユナの笑顔が陰った気がした。
アオイはその意味を尋ねられなかった。
「そろそろ行こうか、ユナ」
レオンが促すように声をかけた。
ユナは頷き、最後にもう一度だけアオイに向き直った。
「また会えるよ。きっと、近いうちに」
(……ユナちゃん、マジ天使……)
アオイは、自分でも驚くほど自然に、そう思っていた。
風が吹いた。
金色の髪が揺れて、朝の光にきらめいた。
アオイはただ、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。
――なぜだろう。
この村のどこかに、見知らぬ空の匂いが混じっていた。
「アオイ、行くのか!?」
誰かの声が背中に飛んできたが、彼の足は止まらなかった。
急ぎすぎて息が切れる。それでも、走る。
林の入り口を抜け、見慣れた獣道を踏みしめ、やがて土の匂いが濃くなる。
――バチッ。
目の前に黒煙が立ちこめた。
炎の焦げた臭い。
それに混じって、鉄と血のような金属臭。
「なんだ……これ……」
倒木。焼け焦げた枝。
地面に走る爪痕のような溝――。
その奥に、誰かがいた。
動かない影。だが、まだ動いている気配がある。
「ユナさん! レオンさん!!」
叫びながら駆け寄ったアオイの目に、ようやくそれが映る。
盾を構えて膝をつくガルド。
その背に倒れ込むようにして、ミレイがうずくまっていた。
「……アオ、イ……?」
かすれた声。
ユナだった。
彼女は倒れた木の根元に寄りかかって、肩で息をしていた。
その胸元には、傷がある。
けれど、まだ意識はある――アオイはそれを確認すると、すぐに近づいた。
「ごめん……僕……でも、何があったんだ!?」
「魔獣……おかしい……。突然、現れて……」
レオンが、血にまみれた額を押さえて立ち上がる。
「“あの程度”の依頼のはずだった。なのに……っ!」
怒りとも、悔しさともつかない声がこぼれた。
その瞬間、林の奥――黒い影が、ひとつ揺れた。
「っ、来るぞ!」
レオンの怒声が響く。
そして次の瞬間――
木々を薙ぎ倒しながら、漆黒の獣が現れた。
毛並みが逆立ち、目は血のように赤い。
常識的な生き物とは思えない異質さ。
アオイは言葉を失った。
「下がってろ、アオイ! これは俺たちの仕事だ!」
レオンが剣を構える。
けれどその足元はおぼつかない。
ユナはすでに魔法の構えを解いていた。
ミレイは動けない。
ガルドも盾で支えるのが精一杯。
つまり――
「……俺しかいない、のか?」
アオイは、震える手で足元の枝を拾った。
「違う……剣じゃ、ない。俺が、やってきたのは……!」
構える。
何百回も、ひとりで素振りを繰り返した。
何千回も、ただ夢中で木の棒を振り続けた。
あれは、何の意味もないことじゃなかった。
「うおおおおおっ!!」
叫んだ。
身体が、跳んだ。
枝が――風を裂いた。
振り抜かれた木の枝が、獣の前脚をかすめた。
刹那、黒い巨体が揺らいだ。
しかしアオイの身体は弾かれるように吹き飛び、地面を転がった。
「……っぐ……!」
肺が押しつぶされるような痛みに耐えながら、アオイは歯を食いしばった。
頭の中が霞む。視界が歪む。けれど、恐怖はなかった。
「立て、アオイ!」
レオンの怒鳴り声が飛ぶ。
それは罵倒ではなく、励ましだった。
「お前の中にある“何か”を信じろ……!」
その言葉が、なぜか心に刺さった。
――何か。
(俺の中に……何がある?)
ただの村の青年。
剣術の師匠もいない。ギルドにも属していない。
戦ったことなんて、ない。
でも――
「身体が、覚えてる……?」
枝を構えた瞬間。
腕の角度。足の運び。重心の位置。
それは、昨日までの自分にはなかった感覚だった。
(俺は……戦える……のか?)
獣が唸る。
目の前には仲間を守ろうと必死なガルド。
ユナはまだ起き上がれず、レオンも満身創痍。
アオイが動かなければ、誰かが死ぬ。
それだけは、嫌だった。
「うおおおおおおおおお!!」
声にならない声を上げながら、アオイはもう一度駆けた。
今度は冷静だった。
獣の足の動き。
突進のタイミング。
爪の振り下ろされる角度。
一瞬の隙を見極め、アオイは枝を振るった。
――ガンッ!
とてつもない衝撃。
だが、確かに当たった。
獣がぐらりと体勢を崩す。
「いまだっ!」
レオンが吠えた。
剣が、閃光のように走る。
ガルドが全身を盾にして体当たりする。
そしてユナが、最後の力を振り絞って癒しの魔法を放った。
刹那、光が走った。
黒い獣は、吠えることなく崩れ落ちた。
しばらくの沈黙のあと、誰かが息を吐いた。
「……終わった、のか?」
誰の声かもわからないほど、空気は静まり返っていた。
アオイは、その場に膝をついた。
枝は途中で折れていた。
腕は震えていた。
でも、立っていた。
「やるじゃん……」
ミレイのかすれた声。
「……すごい、よ……」
ユナの優しい笑み。
アオイは、何も言えずに、ただ、照れくさそうに笑った。
陽が傾き、森の中に斜めの光が差し込んでいた。
戦いのあと、誰もが疲れ切っていたが、奇跡的に全員が命をつなぎとめていた。
アオイは倒れた獣の横に座り込んでいた。
背中の汗が冷えて、妙に体温を奪っていく。
それでも心は熱を持ち続けていた。
「……俺、本当に……戦ったのか」
枝を見た。
中ほどでぽっきりと折れたそれは、まるで儀式の終わりを告げる道具のように見えた。
あんなもので、あの魔獣に立ち向かった。
今なら、震えがくるほど無謀だったとわかる。
けれど、不思議と後悔はなかった。
「アオイ!」
振り返ると、ユナがゆっくりとこちらへ歩いてきていた。
身体を痛めているはずなのに、その足取りは確かなものだった。
「……無茶だったよ。でも、あなたが来てくれて、本当に助かった」
「そんな、大したことしてないよ。ただ……」
アオイは言葉を詰まらせた。
でも、それを遮るようにユナが続けた。
「“助けたい”って思ってくれた。その気持ちが、何よりの力だったんだと思うよ」
彼女の笑顔は、森の光よりもあたたかかった。
アオイはその場で小さくうなずいた。
その後、森の中で最低限の応急処置を行い、全員でゆっくりと村へ戻ることになった。
村に着く頃には、空は茜色に染まっていた。
ギルドの一団は村長に報告を済ませ、宿に向かう途中だった。
アオイはひとり、広場の井戸で顔を洗っていた。
ひんやりとした水が額を伝う。
「おーい、アオイ!」
レオンの声が響いた。
「今日は本当に助かった! 礼を言う!」
「いや……俺は、その……勝手に動いただけで……」
「だからいいんだよ」
レオンは笑った。
その後ろに、ミレイとガルド、そしてユナが並んでいた。
ユナが一歩前に出る。
「ねえ、アオイ。よかったら――私たちのパーティに、入らない?」
その言葉に、時間が止まったような感覚があった。
アオイは目を見開いた。
そして、心の奥で何かが確かに灯ったのを感じた。
「……俺で、いいのか?」
「うん。もう、私たちの“仲間”だよ」
その言葉が、胸に染み渡った。
こんなにも、誰かに必要とされることがあるなんて。
こんなにも、あたたかい場所があるなんて。
「……ありがとう。俺、頑張るよ」
アオイは小さく笑い、そう答えた。
夕焼けの空の下。
新しい旅のはじまりが、静かに幕を開けた。
……俺には魔法の才能なんてない。だからこそ、せめて身体くらいは鍛えておこうって、ずっと……」
小さく呟いたアオイの拳が、ほんの少しだけ、光を帯びた気がした。
お読みいただき、ありがとうございました。
まだ物語は、始まったばかりです。
この先、仲間たちとの出会い、苦悩、成長、そして“誓い”へと向かっていきます。
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