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七海霞に嫌われている

 好きな子に嫌われている。これはよく考えれば不思議なことだ。好きな子には好かれるように振る舞うはずなのに、嫌われていくなんておかしい。好かれないことはあっても、嫌われることなんてそうそうないはずなんだ。


 ――でも、俺はそうなってしまった。


 嫌われたくなかったのに、つい悪態をついてしまった。

 気を引きたくて、軽口を叩いて、からかって。それが彼女にとって迷惑だなんて、当時の俺には想像すらできなかった。

 優しいから笑ってくれる。でもその笑顔は、優しさでできた壁だったんだ。俺はそれに気づかず、勝手に踏み込んで、勝手に近づいた気になっていた。


◇◇◇


 こうして朝の教室で自分の席に座っていても、声をかけてくる人はいなかった。

 いつも誰かに話しかけに行っていたのを思い出す。そうしなければ孤立してしまうことを知っていたから。

 でも、今度はそうしない。

 静かに席に座ったまま、誰にも話しかけず、ただ時間が過ぎるのを待った。

 周囲の笑い声や挨拶が遠くに感じる。まるで自分だけが、ここにいないかのようだった。


「ねぇ今日、私と日直でしょ?」


 唐突な呼びかけに顔を上げると、七海霞がこちらを見ていた。

 長い黒髪が、光を受けてさらっと揺れる。肌は透けるように白くて、表情はどこか淡々としていた。

 それでも、不思議と目を引く。言葉にしづらいけど、やっぱり綺麗だな、と思ってしまった。

 挿絵(By みてみん)

 けど、昨日とは打って変わって、不機嫌そうな表情を浮かべている。


「え? あ、ああ」


 思わず間の抜けた返事をしてしまうと、七海霞は小さくため息をついた。


「黒板書くか、日誌書くか、どっちやる?」


 淡々と、でも明らかに少しイラついた口調だった。

 彼女の声は特別強いわけでも、怒鳴っているわけでもないのに、不思議と胸の奥に刺さる。


「ええっと……そうだな……日誌書くよ」

「そ」


 そういうと七海は黒板へ向かって歩き出した。

 チョークを取り出す七海の背中を見ながら、俺は静かに席に着いて日直日誌を開いた。

 昨日のページをめくると、整った文字で短くまとめられた連絡事項が並んでいる。自分もこうやって書けばいいだけだ。簡単なはずなのに、手が止まる。

 黒板の方から、カツカツとチョークが走る音が聞こえてくる。


 ――ああ、そうだったな。昔の記憶が蘇る。


 七海霞は俺を嫌っていた。

 彼女は、俺と同じ中学からの内部進学組だった。この高校は中高一貫校だが、高校から入学してくる受験組が全体の四分の三を占める。内部進学組は四分の一にすぎず、クラスメートの中で中学時代の顔見知りは限られていた。

 七海霞はその一人だ。今のクラスで、中学三年間ずっと俺と同じクラスだった唯一の存在でもある。

 つまり、現状でいえば一番俺のことをよく知っている人物だと言えよう。


「知っているが故に嫌われているってことか……」


 彼女とは対照的に、俺は七海が好きだった。

 初めて同じクラスになった中一の頃から、ずっと。いわゆる――初恋ってやつだ。

 けれど、どう接すればいいのかまるでわからなかった。

 初めて芽生えた感情に、ただ戸惑うばかりだった。

 それでも気を引きたくて、俺は悪目立ちするようなことばかりしていた。

 馬鹿にしてみたり、からかってみたり、くだらない下ネタで笑わせようとしたり……。

 ……思い出すだけで自分に嫌気がさす。

 

◇◇◇


 帰宅して制服を脱ぎ、ベッドに寝転がった。

 天井をぼんやり見ながら、朝の七海とのやり取りを思い返す。今日一日は、彼女のことで頭がいっぱいだった。

 やっぱり、嫌われてるよな。

 まあ、そうだよな。昔あんなことをしておいて、今さら普通に話しかけられるわけがない。

 でも、アリシアがいるときは、七海は普通に俺に話しかけてくる。からかったり、軽口を叩いたり。まるで俺に嫌悪感なんてないかのように。

 ふと視線を机の上に向けると、ペン立てに無造作に差してある一本のピンク色のボールペンが目に入った。


──あれ?


 軽く手に取る。細くて、女性が使いそうなペンギンの絵が描かれた可愛らしいペンだ。俺がこんなペンを使うはずがない……誰のだ?

 どこかで見た気がして、胸の奥がざわついた。


「ああっ!」


 瞬時に記憶が蘇った。これは中学の頃、七海から借りたペンだった。

 俺はそれをなくしてしまい、「返して」って言われたのに、「借りてないし」なんてふざけた口調でごまかしてしまったあのことをはっきりと思い出した。

 あの時の七海の表情が浮かぶ。驚いたような、少し傷ついたような、でももう何も言わないと決めたような――そんな顔だった。


「……忘れていた」


 しばらくして借りたペンを自室で見つけたけれど、返すタイミングがなくて、そのまま置きっぱなしにしていた。

 ……なんで今まで、ずっと目を背けていたんだろう。

 手の中のペンを見つめながら、胸の奥にずっと刺さっていた棘が、少しだけ疼いた。


◇◇◇


 苦いことを思い出してしまったからか、昨日の夜はよく眠れなかった。目覚めた時間も早く、特にすることも無かったので、朝一番に登校した。……いや、違う。朝一番に来たのは目的があってのことだった。

 HRまで後一時間もある。しばらく、ノートや教科書を見返したり、時間割を把握したり、高校生活に順応できるように努めた。

 それから10分も経たずに、静かな教室に、カツン、と軽い足音が響く。

 顔を上げると、教室の入り口に七海霞が立っていた。制服の襟元を軽く整えながら、いつものように落ち着いた足取りでこちらに近づいてくる。まあ、彼女の席は俺の斜め後ろなのだから、こちらに向かってくるのは当然か。

 

「……」

「……」


 アリシアがいない時に、七海が俺に話しかけてくることはない。それはもう、決まりごとのようなものだった。

 彼女は今日も朝一番に教室へ来た。中学の頃からずっと変わらない習慣だ。理由は知らない。

 七海は長い髪を揺らしながら、迷いのない足取りで自分の席へと向かってくる。

 一瞬だけ、目が合った。

 けれど、それきり彼女は視線を逸らし、何事もなかったかのように通り過ぎていく。

 そのすれ違いざまの横顔を、俺はただ見つめていた。

 七海が席に座ったのを後で確認した俺は覚悟を決めて、椅子から立ち上がる。

 手でポケットを探る。そして、ボールペンを取り出す。手に取ると、やっぱりどこか違和感があった。自分には似合わない。ピンク色の軸、ペンギンのキャラクター。細くて可愛らしいそのペンは、どう見ても俺の持ち物じゃない。

 七海霞のものだ。中学の、あの時のままだ。

 俺は彼女の方を向く。


「……七海」


 名前を呼ぶと、彼女はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと顔を上げるその仕草に、胸がぎゅっと締めつけられる。


「なに?」


 声音は変わらない。でも、目が少しだけ警戒しているように見えた。俺は言葉を探しながら、そっと手の中のペンを差し出した。


「これ……借りっぱなしだった」


 七海の視線が、俺の差し出した手元に向かう。ピンク色のペンを見た瞬間、その目がほんのわずか見開かれた。

 表情はすぐに戻ったけれど、俺にはわかった。彼女が一瞬、記憶の中に戻ったことを。


「……まだ持ってたんだ」

「うん……ずっと、返せなかった。なくしてたと思ってたけど、昨日、部屋で見つけた。いや……」


 俺は首を振った。


「もっと前に見つけていた」

「……そう」


 嘘も言い訳もしたくは無かった。俺はできるだけ丁寧に、誤魔化さずに言葉を続けた。


「……あの時、ごめん。借りてないなんて言って。あれ、嘘だった」


 七海は何も言わなかった。黙ったまま、俺の手からペンを受け取る。その指が俺の指先に少しだけ触れた。冷たいけれど、細くて綺麗な指だった。


「覚えてたよ。ずっと……」


 ぽつりと、七海が言った。


「そ、そうか……」

「これ、すごく大切なモノだったからね」


 ぽつりと、七海が言った。


「借りたの、2年の春だったよね。理科のノートをまとめるとき」

「……うん」


「あのとき、ずっと探してたんだよ。これ、一番大切な親友に貰ったモノだったから、どうしても諦められなくて。でも、返ってこなかったから――」


 そこで言葉が途切れた。口を結ぶ七海は、もう怒っているわけではなかった。ただ、どこか距離を測るような、そんな目をしていた。


「それでも、謝られなかったから……ああ、そういう人なんだって軽蔑してた。違うか、今も昔も軽蔑してる。実際、雪代のこと悪くいう女子多いしね」


 そういう人。――胸に刺さる言葉だった。反論の余地なんてなかった。俺は実際、そういう人だった。

 自分の非を認めず、ごまかして、冗談みたいに笑って逃げて。

 そのせいで、色んな人の信頼をなくしてしまった。


「……そうだろうな」

「自覚あったんだね……」


 少し呆れるように七海は笑った。


「……最近知った。他にも、すまなかった」


 小さく頭を下げた。返事はなかったけれど、ふと視線を上げると、七海は静かにペンを見つめていた。まるで思い出の中にいるかのように。


「捨てられたかと思ってたけど、ちゃんと持ってたんだね」

「ああ、いつか返そうと思ってたんだけど……」


 返す勇気が無かった。そう言おうとしたけれど、言葉が出なかった。

 七海は何も言わず、手の中のペンを回すように見つめていた。そして、ふっと小さく笑った。


「……雪代、最近なんか変だね」


 それだけ言うと、七海はペンケースの中にそのペンをしまった。


「そうかな?」

「人から借りたものを返すなんて、絶対変だよ」

「借りたものを返すのは当たり前だろ?」

「雪代に言われても……」


 そのときだった。軽快な足音が廊下に響き、教室の入り口にアリシアが姿を見せた。


「あれ? 霞に……雪代くん? 珍しいね、こんな朝早く来るなんて!」


 アリシアはこちらに近づいてきて、いつも通りの笑顔で、ぱっと俺たちの顔を見比べた。


「何話してたの?」

「ん? これ返してもらったの」


 そう言って、七海は筆箱からペンを取り出した。ピンク色のペンギンが描かれているペンだった。それを見て、アリシアの顔に驚きと喜びの表情が同時に浮かんだような見えた。


「あ! 小学生のとき私が霞の誕生日にあげたペン!」

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