やり直しの高校生活
――どうして、こうなってしまったのだろう。
どこで道を誤ったのか。思い返すたびに、後悔が次々と押し寄せてくる。
あのときか。それとも、別のときだったのか。
いや、もしかすると――初めから、全部間違っていたのかもしれない。
「もし、やり直せるのなら、今度はきっと……」
そこで俺の意識は途絶えた。
◇◇◇
中高生時代の俺を一言で表すなら、嫌われ者だった。
頭の良さや運動神経のよさを鼻にかけて、他人を見下し、馬鹿にしてきた。
だが、その能力に陰りが見えはじめ、気づけば周囲にどんどん追い抜かれていた。
取り残された俺に残ったのは、「性格の悪い嫌な奴」というレッテルだけだった。
――ああ、あいつ、みんなに嫌われてるよ。
その同級生の何気ない一言が、すべてを物語っていた。
◇◇◇
――乾いた擦過音が、遠くから染み込んでくる。
チョークが黒板をなぞる音だ。静けさの中に、不規則で細く、しかし確かに耳に届く。まるで眠りの膜を優しく引っかくように、意識の奥をそっと揺らす。
俺は目を閉じたまま、その音を聞いていた。とても心地よかった。
どうやら教室にいるらしい。木の机に肌が触れる感触、わずかに埃の匂い、そしてあの、懐かしい音――「学校」の気配が、五感の隙間からじわりと染みてくる。
目覚める直前の意識のふちを、チョークの音が何度もなぞってくる。ときおり、黒板の表面に引っかかるような感触が混ざり、教室の空気がゆっくりと現実味を帯びていく。
まぶたの裏に浮かぶのは、もう何年も前に終えたはずの高校の風景だった。
……いや、違う。あれから随分と時間が経ったはずだ。ああ、そうか。これは夢か……。中高時代の夢を見るのはもう何度目だろう。いつも意識の片隅には、学生時代の後悔がこびりついていた。
それが形を変え、何度も夢となって現れてくるのだろう。
――それにしても随分リアルな夢だな。
夢と過去の記憶は、同じものじゃない。どこかが違っていて、ほんの少しだけ歪んでいるものだ。けれど、今はその違いすら感じられない。
思考が霧の中に浮かぶ。記憶と現実の境目が曖昧なまま、俺はゆっくりと重たいまぶたを開いた。
視界に映ったのは白い天井。少し顔を傾ければ、斜め前の窓際の席に光が差し込み、木漏れ日が机の上で揺れていた。
その奥、黒板に向かって文字を書きつけている女教師の背中が見える。
そしてまた、あの音が耳を撫でる。静かで、確かな、現実の音。
「……え?」
静まり返った教室の中で、俺の声は場違いなほどはっきりと響き、まるで乾いた音が空気を裂いたかのようだった。
カリ……カリ……とノートを取る音が止む。数人の視線がこちらに向いた。
その気配が肌に突き刺さる。
俺は慌てて顔を伏せた。まるでなにか重大なルールを破ってしまったかのように、鼓動が急に速くなる。
視線のひとつが、鋭く胸を貫いた気がした。恐る恐る顔を上げると、前の席の男子がちらりとこちらを見ていた。無言のまま、まばたきもせずに。
「雪代君……どうかしたの?」
その小声は、冬の朝に差し込む光のように柔らかく、静まり返った教室の空気に、そっと波紋を広げた。
顔を上げると、隣の席からこちらを覗き込むようにして声をかけてきたのは、一人の少女だった。
光を吸い込んで淡く揺れる長い髪が、肩から背にかけてさらりと垂れている。絹糸のようなその髪は、陽の光を受けてやわらかく白く光り、ふと視線を奪われるほどだった。凛とした目元には知性が宿り、その奥には、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。
それでいて、微笑んだときの表情はまるで春の訪れのようにあたたかく、こちらの混乱さえ包み込んでくれるような優しさがあった。
「……あ、いや……なんでもない」
うまく言葉にできずに返すと、その少女――アリシア・アレクサンドウナ・鷹司は、軽く笑った。
「授業中に急に声を出したら駄目だよ。周りに迷惑になっちゃうから」
責めるような色は一切なかった。ただ、心配しているような、くすぐるような優しさを帯びた声だった。
「そ、そうだね。すまない」
「え!?」
そう言った後、教室がざわついたのが分かった。アリシアも目を見開いて驚いている。
「お、お前……謝るとかできるんだな」
クラスメートの誰かが言った。
「いつもだったらアリシアにうるさいとか言って、ちょっかいかけ出すのに」
アリシアさんの後ろに座る女子生徒、七海が大袈裟なリアクションを取った。
「ほら! 静かにしなさい」
若い女教師の声が教室に響いた。この教師の名前は何だったかな? 思い出せない。
「……あ、ははは」
動揺を隠すためか、変な笑い声がでた。
「雪代君、いくら優秀な内部進学生だからといって、油断しているとあっという間に授業についていけなくなりますよ。高校の英語は単語文法読解どれも中学の比ではありませんよ」
「……はい」
俺は素直に返事をすると、女教師は驚きの表情を浮かべる。
「……今日は妙に素直ですね。でも、寝ていたことを許すわけにはいきません」
「そ、そうですか」
女教師はそう言って、教卓をノックするように叩いた。
「この英文を和訳して下さい」
授業内容を全く把握していなかったが、板書されていた英文は高校一年生レベルだった。大学受験まで経験している俺に取っては当然楽勝だ。
「失敗を恐れない者こそが、最終的には本当の成功を手にする、です」
教室に静寂が落ちた。
女教師は少し目を見開いてから、口角をわずかに上げた。
「……まったく、その通りですね。完璧です。しかし、先ほども言いましたが、これからもっと難しくなります。授業はちゃんと受けるように。いいですね?」
過去の、前の時間軸の俺だったら、こう言っていただろう。
「こんな簡単な問題、わかんない奴なんているんですかぁ? 俺、一瞬で直訳できるし、構文の構造も見た瞬間にわかりますよ。え、まさかまだ関係代名詞でつまずいてる奴がこの高校にいるんですか? まあ、外部進学生はレベル低いですからね」
わざとらしい笑みを浮かべながら、周囲を見下していたに違いない。
――なんて嫌味な奴だろう。
だが、今の俺は違う。
混乱しながらも、これは過去に戻ったのだと受け入れ始めていた。
そして、あの高校生活で犯した過ちを、二度と繰り返さないために、俺は静かに心を決めた。そして、ゆっくりと息を吐いてから答える。
「おっしゃる通りですね。気をつけます。すいませんでした」
俺が言葉を発した後、教室中にざわめきが起こった。
「え、あいつ……謝った?」「あんな素直だったっけ?」
小声で交わされる言葉の端々に、驚きと戸惑いが混じっていた。
無理もない。
前の時間軸での俺は、謝るどころか誰かの指摘を真っ向から否定し、反論することで優位に立とうとするような人間だった。
素直に頭を下げるなんて、あいつは絶対にしなかった――クラスの誰もが、そう思っているはずだ。
女教師も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに表情を引き締め、頷いた。
「……いい心がけですね。では、授業に戻りましょう」
俺は頷きながら席に腰を下ろし、静かに視線をノートへ落とす。
――これでいい。
隣の席に座るアリシアから視線を感じる。でも、俺はそちらに視線を向けない。そう、俺は絶対にアリシア・アレクサンドラウナ・鷹司を見つめない。