影に生きる
私はシーラ。
二十年前、私はある地方の貧民街に生まれた。
母は娼婦だった。
違う父親を持つ四人きょうだいで、寒さと飢えに耐えながら生きていた。
母親は、子どもに興味も愛情も持たない女だった。
けれど、その分──私たちきょうだいの絆は、誰よりも強かった。
私は一番年上だったから、自然とみんなのお世話係だった。
それは大変なことも多かったけれど、
弟妹たちは、心から愛おしい存在だった。
ある年の冬、異常な寒波が貧民街を襲った。
壁とも呼べない薄い板切れと、吹き込む隙間風に耐えながら、
私たちはお互いの体温だけを頼りに、必死に身を寄せ合った。
どんなに冷たい夜も、どんなに腹が減っても、
弟妹たちと一緒なら乗り越えられる──そう信じていた。
だが、現実は甘くなかった。
朝、末っ子の弟が気づいた。
母親が、ベッドの上で二度と起き上がらないことに。
稼ぎ手を失った私たちは、一気に奈落に突き落とされた。
手当たり次第に物乞いをした。
けれど、ここは貧民街だ。
施しを与える余裕のある人間なんて、誰一人いなかった。
お腹が空いたと泣き叫んでいた弟妹たちも、
やがて力尽きたように声を失った。
ただ、じっと丸まって震えていた。
冷たい石畳の上、私は途方に暮れていた。
そのときだった。
がらんとした通路の向かい側。
ひとりの男が、別の物乞いの子どもたちに話しかけているのが見えた。
「お前たち、助けてやろうか?」
力なく手を伸ばす子どもたち。
男は冷たく告げた。
「これからの人生、俺の命令に従うと約束するなら助けてやる。どうだ?」
子どもたちは、よくわからないまま「お金を、お金を」と縋った。
男は「もうだめか」と呟き、背を向けた。
私は、気づいたら叫んでいた。
「お願いします! 私で良ければ、何でも言うことを聞きます!
この子たちは……この子たちだけは、助けてください!!」
声が震えていた。
震えていたのは寒さのせいだけじゃない。
必死だった。
怖かった。
男は振り返り、じっと私を値踏みするように見た。
母親は娼婦だった。
何を求められているのか、子どもながらに理解していた。
でも、この小さな弟妹たちだけは──絶対に、守りたかった。
「お前は、これからの人生、俺に従うと約束できるか?」
「……この子たちを、助けてくれますか?」
「……はは、用心深いな。ああ、助けてやろう。不自由のない環境を用意してやる。」
私は迷わず答えた。
「約束します。あなたに従うと。」
男が手を伸ばす。
私は震える手でそれを掴んだ。
弟妹たちは、ろくに歩けないほど衰弱していた。
男たちは、そっと彼らを抱き上げた。
――でも。
一番小さな弟だけは、動かなかった。
呼びかけても、揺すっても、もう返事はなかった。
体は、もう冷たく硬くなっていた。
弟が宝物にしていたきれいな色の石が近くに転がっていた。
泣きながら、私は彼を置いていった。
あの子が大事にしていた石だけを持って。
涙で何も見えなかった。
あの日、私たちは三人になった。
***
そして、私の人生は変わった。
訓練の日々が始まった。
休む暇も、立ち止まる余裕もない毎日。
肉体を追い込み、知識を詰め込み、嘘をつく術を叩き込まれた。
寮のような場所で共同生活をし、広い中庭で訓練することはあっても、塀の外に出ることは許されなかった。
それでも、手紙だけは許された。
孤児院に預けられた弟妹たちに、私は何度も何度も手紙を書いた。
「元気にしてる?」「風邪をひかないようにね」「今度こそ、きっと会える」――そんな言葉を何度も。
会える保証なんてなかった。それでも、私は書き続けた。
弟妹たちは、孤児院で読み書きや簡単な計算を教わっているらしい。
最低限ではあるけれど、ちゃんと食べて、布団のあるベッドで眠れている。
私は、返事が本当にあの子たちからのものかどうかを慎重に確認した。
彼らしか知らない思い出を織り交ぜて、返信に不自然な点がないかを毎回確かめた。
だって、信じ切れなかったのだ。
本当はとっくに死んでいて、私を働かせるために嘘の手紙を送っているだけなのではないかと。
でも、違った。
返ってくる手紙には、あの子たちにしか書けないことが綴られていた。
弟が宝物のように大事にしていた、あのきれいな石。
皆でカビの生えたパンを分け合った日々。
寒さに震えながら、くっついて眠ったあの夜。
ちゃんと、あの子たちは生きている。
そして、あの人は――最初に現れたあの男は、約束を守ってくれている。
だから、私も。
あの日交わした、あの約束を守らなければならない。
***
ここがどういう場所なのか、まだよく分からなかった。
でも、私たちには「ボス」と呼ばれる存在がいた。
月に一度ほど現れては、幹部や番人を理不尽に殴りつけるようなひどい男だった。
……それにしては、幹部や番人はずいぶんまともだった。
私たち子どもに理不尽な暴力を振るうことはなく、ボスが不在のときは、むしろ平和ですらあった。
でも、私たちが怠けたり反抗すると、次にボスが来たとき、その担当の番人が酷い目に遭った。
時には血が流れた。
ルールを破った子は反省室に連れていかれ、二度と戻ってこないこともあった。
「逆らえば消される」――そんな噂は、すぐに常識になった。
ただ、命令を守り、黙って訓練をこなす限りは、安全だった。
私たちのあいだで小さなもめごとは絶えなかったが、
集団いじめや執拗な嫌がらせは、なぜかすぐに収束した。
加害者が、ある日を境に忽然と姿を消すのだ。
それが何度も続くうちに、誰もいじめをしなくなった。
監視カメラが至るところにあり、死角はなかった。
息苦しさを感じたが、それも次第に日常になっていった。
武器の扱い、素手での戦闘、潜伏技術、暗号の読み書き、連絡の方法――
そして、自害の方法まで。
魔道具の扱い方や、簡易的な魔法装置の操作法も教えられた。
魔力を持たない私たちでも扱えるものが多く、隠密の任務では不可欠だと叩き込まれた。
毎日が訓練だった。
やっぱりここは、とんでもない裏組織だと、誰もが思っていた。
でも、手紙だけは、変わらず自由に出せた。
それが、私の唯一の救いだった。
弟妹たちの手紙には、バザーの話や、描いた絵のこと、
他愛もない日常が綴られていた。
もちろん、手紙は検閲されていたはずだ。
でも、それでも良かった。
私がここで頑張っている限り、あの子たちは穏やかな生活を送れる。
それだけで、十分だった。
――そして、それは突然訪れた。
ある日、仲間の一人が何気ない口調で言った。
「ああ、そういえば、前に話してた紫の髪のターゲット、死んだらしいぞ」
それは、かつて任務で接触した相手のことだった。
死んだ――。
その言葉は衝撃的だった。
この組織で働いていても、はっきりと「死」を耳にすることはほとんどない。
いつも曖昧にされてきた現実が、唐突に突きつけられた気がした。
でも、私は顔色一つ変えなかった。
雑談にしては、話題が踏み込みすぎている――不自然だった。
私は思った。こいつ、どこかのスパイかもしれない。
あるいは、私の反応を見て、情報を引き出そうとしているのかもしれない。
どちらにせよ、応じるわけにはいかなかった。
「誰それ。興味ない」
そう返し、私はすぐに幹部のもとへ向かった。
もし、あの話に乗っていたら。
少しでも話題を広げていたら――その瞬間に私は、組織を追われていた。
幹部は手を組み、静かに微笑んだ。
「……おめでとう。最終試験、合格だ」
冷や汗が背中に伝った。
けれど、私は黙って頭を下げた。
そのあと、私は二つの道を提示された。
一つは足を洗う道。
今すぐ辞めてもいい。ただし、この組織について一切口外しないという誓約が必要だった。
それさえ守れば、追われることもない。
弟妹たちは成人するまで孤児院で保護されるし、迎えに行くのも自由だという。
働き口を選ばなければ、生活には困らないだろう、と。
もう一つは、正式に組織に所属する道。
その場合、弟妹たちには正式な戸籍が与えられ、
レグナス王国でも屈指の豊かさを誇るウィンターガルド領で暮らすことが許される。
戸籍がなければ働くこともできないこの地で、
堂々と生きていけるよう、住居や仕事まで整えてもらえるという。
結婚も自由。生活に困ることはない。
けれど――代償は大きい。
私は、結婚を許されない。
任務の内容も、さらに過酷で危険なものになる。
それでも、もし私に何かあっても、弟妹たちは守られる。
彼らの人生の後ろ盾として、組織が動いてくれるという。
つまり――弟妹の幸せと引き換えに、私の一生を差し出せということだ。
……私は、選んだ。
***
潮風が吹く中、私はウィンターガルド領の地を踏みしめていた。
数年ぶりに会った弟妹たちは、思っていた以上に元気だった。
とても背が伸びていて、顔つきも大人びていて、それでも笑顔は昔のままだった。
私が働く「商会」の伝手で引っ越せたと信じているらしい。
彼らは、これでようやく一緒に暮らせると無邪気に喜んでいた。
「お姉ちゃんが疲れたら、今度は私たちが支える番だよ」
妹がそう言って、シチューをよそってくれた。
涙がこぼれた。
あたたかいスープが、心に沁みた。
それは、今まで口にしたどんなごちそうよりも美味しかった。
驚いたことがある。
信じられないことに、私が所属していたのは、思っていたような裏組織ではなかった。
それどころか、れっきとした軍の一部だったのだ。
あの訓練所は、ウィンターガルド公爵家が極秘に運営する軍の施設だった。
拾われた孤児の中から、責任感のある者を選び、訓練を施して隠密要員として育てている――それが、真実だった。
孤児たちには、生きる場所を。
公爵領には、揺るがぬ忠誠を。
公には語られない、福祉と軍事の両立。
真に忠実な兵を育てるための、静かな土壌。
途中で適性を失った者には、記憶の改変魔法が施される。
組織の存在は、曖昧な“夢”のような記憶の断片としてしか残らない。
誰にも語られることのない過去となり、そうして、誰にも知られぬ影が育っていく。
今の私は、その一員だ。
ウィンターガルドの影に生きる者として。
私はそっと、ポケットの中の小さな石に触れた。
あの日、冷たくなった弟の隣に落ちていた、あの綺麗な色の石。
あんな思いは、二度と繰り返さない。
もう、誰も、死なせない。
あのとき、私は手を伸ばした。
あのとき、私は誓った。
――これが、私の選んだ生き方だ。
弟妹たちを守るために。
私の、たった一つの願いのために。
今日も、手紙を綴る。
いつかまた、笑って会える日を信じて。
***
私の今の名前は――。
ウィンターガルド領の隠密隊の一員として、生きている。
ステラリウム王立学園の敷地のどこかで、今日も私は、息を潜めて――。