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物語tips:萬像
神が与えた力の総称。
神話の時代には、ブレーメンに神の祝福として萬像が与えられた。そしてネネやニケの目の前に姿を表し、それぞれが望む力を与えた。ネネは敵を滅ぼす力、ニケは2度の蘇生、そしてニシもトーキョーで「望む力すべて」の萬像を与えてもらったらしい。
しかし萬像には代償も必要で、神は一種の不死性を要求した。ネネは不老、ニケは現世に魂が囚われ続ける。そしてニシは完全な不老不死が与えられたらしい。ニシはそれを「呪い」と呼んでいる。
「あっ、いけね。忘れてた」
レイナは前駆二輪を停め、ぽっと思い出したように言った。キーをポーチにしまいながら、
「そういや、昨日、フリオに会ったんだ。覚えてるか、拳骨野郎」
「ひどいあだ名だ。電柱野郎がいいとこだろ。レイナ、もう少し言葉遣いを丁寧にしたらどうだ。それがプロってものだ」
ニシはレイナを冷静に諌めた。ニシは新品のヘルメットを脱ぐとレイナのバイクの背もたれにひっかけた/速度違反と同じく連邦領域ではノーヘルも法律違反だ。
バイクを停めたのは2桁区下層の立体駐車場の1階部分だった。隅の方にバイク用のスペースが確保されてある。ここから件の殺人現場まで歩いて数分の距離だった。
「で、フリオが何だって? レイナ、また喧嘩したのか」
「してねーよ。ったくヒトを獣みたいに扱いやがって」レイナがニシの肩を殴ってから「電柱野郎、義体の修理が終わってヒトっぽくなってたぜ。今は金持ちの用心棒だと。で、野郎が言うには、ここのところ金持ち連中が殺人事件にピリピリしてるんだと」
「ふうん、サイバーネットのニュースを見る感じでは、そこまで重大な案件と思わなかったんだが。気合を入れてきて正解だった」
ニシは背中でライフルをオープンキャリーで背負っている。ジャケットの下には予備の弾倉もあるし拳銃も見える位置に提げている。ライフルの方は、どうやらトーキョーの流儀らしくオレンジ色のキャップがはめてある=装填していないという意味らしい。
レイナもショットガンとマチェーテを持ってきたが、左腰のホルスターの重みがあってこそ、しっくり来るものがあった。
「やっぱよ、チャカぶら下げてこそだよな」
「俺は別にそこまでは思わないけど」
「まっすぐ歩きやすい」
レイナは意気揚々と、階層都市の天井の人工灯の作る深い影の中を歩いていた。その後ろをニシが続いた。
「おいこら、ニシ。あたしのケツばっか見てんじゃねーよ。ロリコンなのにケツにも興味があるんだな、ニシ」
「いや、レイナ。歩き方。かかとを引きずらないほうがいい。そう思って」
「くらだらね。そのうち飯の食い方にもちゃちゃ入れられそうでこえーわ」
「物を噛むときは、口を閉じる。この際だからはっきり言っておくが、音を立てて噛むと音が不快だ」
そんな細かいこと、言うのはテメーだけだっての。
同時にレイナのパルに連絡が入っていた。電子メールが届くとブルブル震える。歩きながら電子スクリーンを展開すると、アーヤたちは警察署に着いたらしい。シスの電算処理能力を使って防犯カメラやサイバーネット上の動画を精査する予定だった。
「トーキョーってのはこまけーことにもルールがあるんだな。まるで財団の街だぜ。そのぶんだと、歩きながらパルを見てるだけで警察にしょっぴかれるんだろうな」
「ああ、そうだ。よくわかったな。ほら、前見て歩かないと柱にぶつかるぞ」
くそったれが。
事件現場は、自動車の入れない歩行者用の歩道だった。周りは味っ気のない似たような、無産階級の労働者向け団地だった。1階部分は大きなショウウィンドウがあって、散髪屋や酒屋、電気修理屋のテナントが1つの建物につき1つ、入っている。警察の規制線が張られているのは薬局の隣の路地で、客が寄ってこないので店主が困って腕組みしていた。
「よ、とうしてくんな。助っ人登場」
レイナは軽々しく、規制線の外に立つ巡査に話しかけていた。事件とあって巡査は拳銃を提げていた。
「何だ君は! ここは立入禁止だ。それ以上近づいたら公務執行妨害で逮捕する」
「は? いやおめー何も知らないのかよ。あたしらは──」
すかさずニシが間に入った。
「こんにちは。俺達は近衛兵団に所属している、ニシと呼んでくれ。こっちの美人でじゃじゃ馬なのがレイナ。こちらで事件を担当しているヲウボ警部と会う約束をしている。約束の時間まで……あと5分」
ニシは近衛兵団の身分証を見せ、穏やかな口調ですらすらと挨拶をしてみせた。巡査ははっとした表情で敬礼すると、中に通してくれた。
「すみません、気づかなくて」
「いやいいんだ。こっちもまだ階級さえもらっていない協力者、ぐらいなものだから」
巡査は規制線を貼り直すと再び無愛想に、路地を塞いだ。
「なんか、慣れてるなニシ。あと相変わらず一言余計だ」
「ああ、治安当局、警視庁や他の国の捜査機関とも協力していたからな。流儀ってのがある。組織と組織の付き合い方」
「へぇ」
「とはいえ、ん、連邦の警察ってこうもあっさりしているものなのか。普通、事件の所轄やら捜査権というのは他の組織にそう簡単に渡すわけがない。とくに上位組織ならなおさら、だ」
「あ、あたしわかったぜ」暇なときパルで見たドラマでこういうのがあった「今回の犯人の容疑者は警察の組織の内部にいるんだ。だから外部の組織かつプロの仕事人のあたしたちに依頼があったんだぜ。どうだニシ? あたしの勘は」
「んー、そう単純ならいいんだけど」
ニシはまだ眉間にシワを寄せたままだった。
路地はちょうど袋小路になっていてその突き当りに警察のテントがあった。テントの下では捜査官たちが高そうな機材をいじくっている。その中でひときわ貫禄のある中年オヤジがニケたちに気づいて立ち上がった。老けているががっしりとした体格は、さすが現場の警察官というふうだった。
「あなたがヲウボ警部ですね。はじめまして、近衛兵団から来ました、ニシです。こっちの美人で……」
「それ以上皮肉は言わせないぜ。あたしはレイナ。プロの仕事人だ」
レイナはニケに先んじで中年オヤジと握手した。
「これはこれは、礼儀正しくどうも。俺はヲウボ。ほんとは鴎伯だが、まあどっちでも構わん」
ヲウボ警部は2人と握手した。
「さ、早速現場を見てもらおうか。こっちも捜査が行き詰まっている。率直な感想を聞きたい。上からはなかなかのやり手だと聞いている」
ヲウボ警部が先を歩くと捜査官が道を開けてくれた。そして袋小路の突き当りは高い団地の壁で鉄格子の無い窓が高い位置にあった。その壁一面に赤紫色のシミができていた。
「またこりゃ、派手に」
ちょうどヒト1人の血ぜんぶをぶちまけたらこのぐらい派手な惨状になるかなぁ。ここにいた死体はいい死に日和だったんだろうか。
レイナは上を見上げるばかりだがニシは真正面を見ていた。
「出血から鈍器というわけでもない。しかし銃弾の跡が見えないということは、凶器は刃物。血痕の飛び散り方を調べればもっと分かるかもしれないが、刃渡りは20cm……じゃなくて、レイナ、これぐらいの長さは?」
「あ? 5間だろ」
答え合わせをするように、ヲウボ警部をみたがしたり顔で頷くばかりだった。
「さすが。判断が早い」
「警部、監視カメラの映像は? 薬局の角にありましたね」
ニシが訊いた/レイナはそんなことに気づかずきょとん。
「角度が悪くて、あまり映っていないが、まあ見てくれ。というのもこれが君らを呼んだ一番の原因だ」
理由じゃなく原因/嫌な予感=傭兵の直感。
ヲウボ警部の指示で捜査官が携帯ディスプレイを開いた。押収した監視カメラのデータ端末やらと配線で繋がっていた。
「まずはこれ、被害者の発見された時の写真。で、これから死体が映るが」
ヲウボ警部はレイナの方をみたが、
「死体なんざゴマンと見てきた。いいから見せてみなって」
スイッチ/オン=パルの立体撮影で取られた高精度な画像がいきなり出た。死体は壁に寄りかかるようにして倒れている。その内臓すべてが引きずり出されている。腹の中に収まっていたとは思えないぐらい内臓が散らかってた。
レイナは察っせられない程度にお腹を抑えていた=あのとき自分の腸があふれ出た熱い感覚が蘇って気分が悪くなる/脂汗が抑えられない。
ニシはレイナの視線を遮るように頭を近づけると、
「唯一大陸のヒトの解剖図は覚えたが……ん、心臓が欠けている」
「ほう、よく気づいたな」
ヲウボ警部がうなる。
「死因は、まあいわずもがなだが、死ぬ前にショックで気を失っているだろう。10件の連続殺人と聞いたが、他の現場でも心臓がなくなっている?」
「正解。だが、正確には19件だ」
「19? サイバーネットの記事じゃ」
「1桁区と2桁区の富裕層が被害者が10名。だが下層部の労働者階級が死体が見つかっているだけで9名。4桁区や5桁区まで範囲を広げれば、さて何人が殺されているのやら」
「俺にはずいぶん悠長に聞こえるが」
「オーランドにどれだけのヒトが住んでいると思ってる。毎年毎年、砂漠化のせいでどんどん難民が押し寄せてくる。犯罪もマフィアももちろん。と、話を戻すと、そういう普通の犯罪なら警察だけでも対処できる。が、今回ばかりはねぇ」
携帯ディスプレイの映像が、写真から監視カメラの記録に変わった。何の変哲もない、夜道がずっと映っている。ヲウボ警部がハンドサインで映像を早送りして、
「ここだ。角度が悪くて一瞬しか映っていない。よく見ておけ」
レイナはニシと一緒に顔を寄せてディスプレイを食い入るように見る。深夜、1人が画面奥から歩いてくる。そしてちょうど路地に差し掛かったところで強引に引きずり込まれるようにして消えた。
「ヒトの力じゃない。犯人は全身義体?」
あるいはあたしみたいな銀髪か。
「で、うちの優秀なテッキーが映像を精査した」
今度はスロー映像に変わり、画面の彩度と明度が見やすくなった。画面の端の端に映っていたのは──
「テウヘル?」
特徴的なとんがった耳、4本指の手、細いが強靭な四肢、そして黒く短い体毛に覆われている。
「砂漠に出没する腐獣というよりは、歴史の教科書で習う獣人だ。で、プロの仕事人ちゃんは、そこんところ勉強したのか?」
ヲウボ警部が茶化す。
「ああ、本で読んだことがある」ニシが代わって答えた。「1000年前の、第1次テウヘル戦役のころ、唯一大陸の東側を占拠していた獣人だ。だが戦争と“屠殺”と、侵食弾頭で絶滅したはずだ」
「そして話は終わりじゃない」
ヲウボ警部がさらに映像を再生する。被害者が襲われて数分と経たないうちに警ら中の警察官が現場に現れていた。異変に気づき銃を構えるが、容疑者/テウヘルが飛び出してくる。映像の中の哀れな警察官はテウヘルを追って行ってしまった。
「これは」
レイナもニシも、ヲウボ警部を見た。
「実のところ足取りは掴めている。この先の地下道だ。オーランドの再開発で使われなくなった地下鉄やら暗渠やら、そういうのが入り組んでいる。表層部分はインフラの共同管が走っているが、深部はろくな地図さえない。だから──」
「だから俺達に、テウヘルが待ち構えている地下道を探索してこい、という」
ヲウボ警部がうなずく/やっぱ好きになれないな、この中年オヤジ。
「あーあ、結局穴蔵かよ。あたしらの仕事って」
レイナは築数百年と思しき廃墟ビルの横の地下道を、入口から懐中電灯で照らしてみた。入口付近は落書きやらホームレスの残滓があるが、その奥は真っ暗闇だった。
「俺も、ただの捜査で呼ばれるわけないとは思わなかったよ」
「ちくしょう、何笑ってんだよ。冗談じゃないって」
パルに着信=アーヤからで、絵文字付きだった/『大変! 連続殺人犯はテウヘル。シスちゃんが言うには、背格好はどれも同じだから1人かも。いや1匹かな……』
「どっちでもいいって」
さらに読み進めると、
『……シスちゃんの読みでは、監視カメラを避けて行動してる。2桁区が中心で地下を移動している。推察するに知性のあるテウヘルの可能性が高い。じゃ、がんばってね♥』
「レイナは、どう思う? 知性のあるテウヘル。どれも大昔の話だ。400年前の第4次テウヘル戦役のときの巨獣だってそもそもヒトが変身したんだし」
ニケもちょうど同じメッセージをパルで読んでいた。
「聞いたこと無い。オヤジもそんなこと言ってたかな──は? ヒトが変身した?」
「あー、知らなかった?」
「知らないつうかそんなアホみたな話、あるわけないだろうが」
第一どうやって体の面積? が増えるっていうんだよ。学はないがそれがありえないってことぐらい、わかる。道理だ。
「犯人を捕まえればわかる。さあ、先に進もう。レイナ、懐中電灯は消しておけ。こちらの位置がバレる。それに銀髪は夜目が効くんだろう?」
「んだよ、おっさんからせっかく借りてきたのに。夜目が効くってはっきり見えるわけじゃないんだからな」
レイナは口を尖らせながらも渋々、懐中電灯をしまうと代わりにマチェーテを握りしめた。ニケも、拳銃にサプレッサーをねじ込んでいる。
地下道は暗く、空気が淀んでいる上に湿気ていてかび臭かった。途中、道がふた手に分かれたところで薬莢が落ちていた。警官の持つ、大口径の拳銃弾のものだった。
「こっちに行ったみたいだな」
さらに地下に向かう階段とスロープが続いている。パルで方角を確かめると、2桁区の横方向へ向かっている。
「こう地下じゃさすがにパルの電波が届かないか」
ニケがぼやく。
「助けを呼べても来た頃にはあたしら食われてるじゃん。気にしなくったっていいって」
地下道をさらに潜る。ここまで来ると、ホームレスが残したゴミや不良少年の落書きも消え失せて、カビの生えたコンクリート壁と天井がずっと続いている。天井には灯りの配線が朽ちて蔓植物みたいに張り付いてる。
続いて地下道は3方向に別れた。
「本当にこっちで合ってるのか」
「どうしたレイナ? 怖くなったか?」
「ぜ、ぜーんぜん! ニシこそ怖くてチンコが縮んでんじゃねーの」
「あいにく、縮むのは寒いときだ」
ニシはレイナの軽口を適当にあしらった。そしてしゃがむと地面をパルの弱い灯りで横から照らした。何の変哲もない床を数分眺めて、
「足跡がかすかに残っている。1つは軽い、犬、みたいな肉球。もう一つは体重が重い。キロ、で言ってもわからんよな。ゴム底の運動靴。こっちの通路だ」
ニシが示したのは左の狭い通路だった。また下に行くコースだ。
「えっと、今のは?」
「追跡術。いや狩猟か。普段は使わないが、知識としてはあったんだ」
「へ、賢いじゃん」
「ブレーメンのような記憶力も萬像だよ。俺自身が賢いとは言えない」
よくわからないが、頼りになることはよくわかった。
またレイナが先頭で下る道のりだった。横の壁は樹脂製のパイプが同じく下に向かって走っている。やっと平坦な通路に出ると、わずかに右へカーブしながら奥へ続いている。
「ほら、壁のとこ、これ血の痕っしょ。血の着いた指で触ったみたいに。犯人は近いぜ。どうだニシ、あたしの観察眼は」
「さすが名うての傭兵」ニシはまともに取り合わず「この痕、指が5本だ。それも細い。テウヘルは4本指、だったな」
あっしまった。
「じゃあ、追ってた警官の?」
「どうだろう。怪我をしたのかも。まだわからない。が、敵が近い。警戒しよう」
ニシはいったんライフルに持ち替えると弾丸を装填したうえで安全装置をかけた。
今度の通路は、ちょうどレイナの頭頂部が天井に当たるぐらいだった。ニシは腰をかがめて歩いている。横幅も、肩がちょうど当たらないくらい、ヒトとすれ違うのは無理だった。30分ほどで薄い灯りが見えてきた。
「はーやっと出口だぜ。これで──」
レイナはニシに腕を掴まれる=「あまり大きい声を出すな」
通路の出口は、錆びた鉄格子で2つある蝶番のうち1つが壊れていた。飛び出た空間は、左右にやたら広かった。中央に撤去されたレールの跡があることからして、古い地下鉄の線路だった。
「へー大昔からこんなのがね。なんでまた捨てちまうんだ。まだ使えるだろ」
しかしニシの視線の先で、線路内の天井をぶち抜いて巨大な柱の半円が見た。
「階層都市の基礎杭だ。あれを作るには、この地下鉄は浅すぎて邪魔だったんだろうな」
「つーことは、ここもホームレスの住処に……」
言いながら気づいたが、ホームレスの残したゴミさえなければ、ネズミやアブラムシさえ這っていない。フリオといっしょに見た地上の川と同じ、生き物の気配がない。
「レイナ、明かりを」
言われるまま、ニシの見ている先を照らした。
「なんだその、泥? の山は。そこの配管から流れてきたのか」
天井付近の太い配管を照らすと、途中で朽ちて穴が空いてしまっていた。
「グアノ塊」
「は?」
「うんこだよ。巨大なうんこの山」
「げ、げー。なんだそれ。そんな山みたいな量」
「小動物の骨、プラスチック容器も混じっているが、人骨も混じってるな」
「そ、それも、テウヘルが?」
「どうだろう。俺にもさっぱりわからない。グアノも下の層はかなり古い。が、知性のあるテウヘルがこうも糞を1箇所に貯めているとは思えない」
ニシがまた小気味よい冗談をかますと思ったが、懐中電灯で照らす横顔はかなり険しかった。ニシの返事が曖昧なのは、たぶん本当に知らないしわかっていない=すなわち自分の身の安全も保証できない。
今度はニシが先導をしてくれた。懐中電灯と拳銃をクロスして警戒しながら進む。古い地下鉄のトンネルはわずかに登ったり降りたりしながら続いていた。途中鉄格子のはまったメンテナンス通路を通り過ぎたが、どこも錆びた鉄格子が溶接してあった。
「見つけた」
ニシが唐突に告げる。懐中電灯に照らされたそれは、ヒトの腕だった。数日が経って色褪せてしまっている。
「げっ。パルが付いてる、てことは左腕」
「そうじゃなく、このパルは警察用のだ。たぶん俺達が追っている警官の腕だろう」
「肩の関節から切られて……いや、引きちぎられたみたいだ。これじゃ助からないだろうなあ」
ニケの返事はなかった。コンクリートの上には黒ずんだ血痕がこぼれるようにして続いている。血痕は地上へ向かうはしごまで続いていた。
「片腕だけで上がったのか」
「死に際のヒトは、案外 力が出るものだ」
はしごと周りの立坑は黒ずんだ血の跡がべっとりとついていた。先にニシが上り、ゆっくりと地上付近を観察している。その様子をレイナは見上げていた。
音。
とっさに振り返りながら、マチェーテを振りかぶる。左手はソードオフ・ショットガンのグリップにあてがう。
なんにもない。不気味で暗いトンネルがずっと左右に伸びているだけ/いや確かに聞こえた。淀んでいたはずの空気も、ほんの少しだけ揺らいでいる。耳を澄ませて闇の向こうを探ろうとするが、跳ね上がった自分の心拍数がうるさくて集中できない。
「何も、いない、よな」
理性では、わかっている。しかし本能は絶対に背を向けるなと告げている。これまでガンマンや機械の化け物と戦ってきた。しかし姿の見えない敵がこれほどまでに恐怖心を与えてくるとは思いもしなかった。
上がろう。さっさとニシに合流しよう。
レイナは手早く武器をしまうと、背中にまとわりつく恐怖心を押しのけながらはしごにステップをかけた。視界の外から足を絡め取られるのでは、という恐怖心で手のひらにじんわりと汗をかいて余計に滑る。
すでにトンネルははるか下のほう、真っ暗でもう見えない。何もいなかった/来なかった。じゃあさっきの感覚は。
立坑の外は明るかった。白い発光ダイオードの照明が等間隔に並んでいる。それでもニシはライフルを構えて警戒していてくれた。
「どうした、レイナ? 泣いてるのか。レイナを置いていったりするわけないだろう」
「うっせー」
1発だけ、レイナはニシの肩を殴った。
明るい地下通路は、地下の遺構に比べればまだ新しいかった。ときどき壁が途切れ、すぐ横を走るもっと巨大な円柱形のトンネルが見えた。生き物のように配管の束が通り、液体が高速で流れる音もゴウゴウと響いている。
血痕はまだ続いていた。しかし次第にその量は少なくなった。
「血が流れすぎたんだろう。たぶん、もう歩くのがやっとだったんだろう。それでもまだ逃げている」
生きている機械の音が次第に増えてきた。ポンプ、変圧器、そして扉の開閉音。通路はすぐ行き止まりになり、両開きの扉があった。たくさんの足跡で床が黒ずんでいる。
「ヒトの話し声? けっこう多いみたいだけど」
「匂いも、ヒトの生活の匂いだ」
扉を開けた先に広がっていたのは、地下の空間で違法に建て増しされたスラム街だった。都市構造体の柱が神殿のように等間隔で並び、天井の細いスリットからは階層都市の人工灯が漏れ出ている。
小屋と呼ぶべきか細い家々は、都市構造体に寄生するように建て増しされている。照明はそれだけでは足りないので都市の配電網から盗んだ電気で暖色の手作りの街灯が軒先を照らしている。
談笑していた住人たちも、銃を持ったよそ者✕2の登場に警戒の波が伝わる。母親たちは我が子を家に隠し、代わって屈強な男たちがぞろぞろと家から出てくる。
先に武器をしまったのはニシだった。
「すまない、脅かすつもりはなかった。俺達は警察じゃない、近衛兵団、軍のものだ。とある事件の被害者を追っている。片腕を失った警察官だ。誰か見なかったか」
しかしだれも返事はなかった。
「おい、ニシ、こいつら違法居住者じゃないのか? なんでそんな下手に出るんだよ。あたしら、警察の側だろ」
「レイナもずいぶんお行儀良くなったな」
「それが仕事だからだ。警察は好きじゃない」
「俺達の任務は、このテウヘル騒動の始末だ。この人たちは、たしかにここに住んでいるのは居住許可証のない域外市民だが、それは任務に含まれない、だから無視する。いやむしろ協力してもらう」
んだよそれ、あまっちょろい。それがトーキョーのやり方だってのかよ。
レイナもしぶしぶ、マチェーテを鞘に収めた。手がかりを探そうにも、この人混みで血痕は消えている。ニシもゴミだらけのスラム街で手がかりがないかゆっくり歩いている。
「だれか、見ていないか。一昨日の深夜のことだ」
人混みは、レイナとニシが一歩進むごとに後ずさる。常に一定の間隔を保ちながら全方位から眼光が光る。
スラム街は建物こそ廃材やら建材を持ち込んで立てられているが、そもそも地下なので屋根のない壁だけの家も点在している。食堂もあるし、理髪店もあった。商品は少ないが薬屋も営業している。
「おい、ニシ、あれみろ!」
スラム街/地下空間の壁際の窪地はゴミが集積して溜まっていた。異臭のするそのゴミ山の上に片腕のない死体が横たわっている。他の事件のように内臓は荒らされていないが、胸に穴が空いて心臓が抜き取られている。
「ああ、チクショウ。やっぱし死んでたか。ヲウボに連絡するか? ここならパルの電波も届くだろう?」
「ああ、連絡しておく。レイナは住人から聞き込みをしてくれ」
「あ、どうやってやるんだよ。おい!」
こういうときばかりは、ニシはずさんで困る。住人を見渡し、あの警戒した冷たい眼光の連中からどうやって話を聞けばいいんだよ。貧しいせいかパルさえ持っていない。パルがないなら電子化された連邦通貨の金を賄賂に渡せない。
「あー、だれか。怪しいやつを見なかったか? 一昨日の夜か、昨日の早朝。なぁ、おい聞けって! ヒト1人が死んでんだぞ! ずっと放置してたってのか」
レイナは群衆に負けじと怒鳴るが、ざわつく群衆の騒ぎですぐかき消される。
「なんでもいいって。物音とか、銃声とか、何か聞かなかったのか。なぁ!」
ムカつく。こちとら正義のため働いているんだ。何だあの冷たい目は。違法居住者のくせに冷笑してんじゃねーよ。くそ、こいつら全員まとめて縛り上げればその中に犯人だっているだろうに。
「ちょっとすみません」
背の低い老人がレイナに話しかけた。
「おっ、じいちゃん。なにか見たのか」
「いえいえ、そういうわけではありませんが。私は葬儀屋でして。今ならすぐ棺桶を用意できますよ。ボール紙製でしたら10万、木製でしたら50万から。加えて造花は1万から、生花なら5万から飾り付けを──」
「棺桶の営業してんじゃねー! こちとら事件の捜査なんだよ! 金の亡者め、シッシッ失せろ!」
レイナは怒鳴りつけたが、葬儀屋の老人は肩をすぼめてとぼとぼ群衆の中に消えた。
「レイナ、もう少し穏やかに」
「は? この状況で穏やかにって言えるテメーのほうがどうかしてんじゃねーのか」
「落ち着けって」
クソ冷静なニシを見ていても腹が立つ。
「死体がゴミ捨て場に置かれたまま、コイツらずっと無視してたんだぞ。信じられるか? ありえねーだろ」
「自分たちを生かすだけで必死の人たちだ。見ず知らずのヒトを弔う余裕なんて無いし、ましてや警察も呼べない。レイナ、君だってこの前までギリギリの生活をしてたじゃないか。フアラーンで道端に倒れているヒトに気づいたか?」
「ぐ、それは。それは今関係ないだろ」
「フアラーンの街頭じゃ、薬のオーバードース、強盗、射殺、自殺に見せかけた転落死体、転がっていただろ。レイナ、君なら彼らの気持ちがわかると思ったんだが。残念だよ」
くそが。正論ぶりやがって。くそ涙が溢れてくる。ニシもムカつくが自分のことのほうがくそムカつく。ニシに認められていると思ったのに。もっと別の言い方もあるだろうがよ。
レイナは群衆に背を向けて、服の袖で涙を拭った。ずるずると鼻水をすすりながら、上を向いて涙と鼻水を止めた。誰かにぐいぐいと袖を引かれたが無理やり振りほどいた。
「ねーねーお姉ちゃん」少女の声が聞こえた。「ねーってば聞こえないの?」
「うっせえな。見せもんじゃねぇ。あっち行け」
人混みの中から現れた少女はこじんまりとした身長で幼さも覚えたが顔立ちは幼女というよりも少女だった。瞳が大きくて可愛らしいが目の下に濃いくまが浮き出ている。
「お姉ちゃん、もしかして犯人を探してるの」
「ああそうだよ。だがな、茶化すようならガキでも容赦しねーからな」
「あははーおかしい。お姉ちゃんだってガキじゃん」
ムカつくスラムのガキだ。こういう手合は1発殴って歪んだ性格を正さなきゃならない。それが教育というものだ。
なかばブラフで拳を振り上げてみたが、少女はニコニコしたまま/額にバーコードの入れ墨があった=奴隷用の? いやどこかで見た覚えが
「ねーねーお姉ちゃんってあの男の人のカノジョなの? ねーねー教えて。だってあのお兄ちゃん、すごくおいしそうな匂いがするんだもん」
は、今なんて?
「レイナ、こら、子どもに暴力は──」
ニシが現れた。レイナがほんの少しの間ニシに気を取られたすきに薄幸そうな少女はスラムの群衆にまぎれて消えてしまった。
どっと押し寄せる恐怖心。まさかさっきの少女が/思い出される財団の研究所=玉なしのロンそしてシスの額にあったあのバーコードと同じ刻印だ。