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物語tips:パル
連邦共通語の「個人用通信端末」の頭文字を取ってパルと呼ばれている。
都市サーバーとサイバーネットで繋がり、情報をやり取りできる機械。腕時計型が一般的だが、手帳型やノートブック型もまとめて"パル"である。基本的な機能だけであればそこまで高い機械ではない。
首都オーランドを始め連邦領域ではほぼ100%で普及している。連邦の電子通貨はすべてパルを介して取引される他、身分証の役割もある。
パル同士での短距離通信機能はあるものの、基本的には都市内で使うものであり、荒野で暮らしていたレイナは持っていない。
レイナは部屋の窓ガラスに額を当てて、ひんやりとした感覚を楽しんだ。眼下には上層都市の基礎部分が見え、たくさんの市民が空中回廊を歩き、無人電気軌道車が縦に横にと忙しそうに走っている。
回廊の隙間からは更に下層の都市群が見えた。人工の光でむしろ上層より明るい。この距離じゃヒトの姿は見えないがあそこでもあくせく蟻のように働いているんだろう。
上を見上げればこちらより背の高い建物が空を切り取っている。内陸の砂漠のフアラーンと違って、オーランドは風が海からジメッとした空気が雲を運んでくるせいで今日は一面の曇り空だった。
このマンションはロゼが用意してくれたものだ。最初の3日こそは高級ホテル暮らしだったが、すぐこのマンションに移った。サービスマンションというらしく週に1回 無料で掃除を頼める。基本的な家具や家電は揃っている。1人1部屋あり、リビングとキッチンもある。オーランドの家賃の相場は知らないが、安くないことはわかる。ロゼはすでに半年分の家賃を払い込んでくれた。
「包金内葉 従欲飲毒」
アーヤは壊れたテレビみたいにブレーメン学派のありがたーい言葉を繰り返し唱えながらダイニングの周りをぐるぐる歩いている。なまじ部屋が広い分 1周に50歩も必要だった。ダイニングの真ん中にはテーブルがあってダウンライトが真上からオレンジの光で照らしている。
「安易安報 高難高報」
アーヤは、馬鹿な老犬のようにぐるぐるのたうち回る。ダイニングテーブルの上には書類の束が4つあった。堅苦しい書式と文字の羅列で近衛兵団へ入隊に希望する書類だった。十数か所のサインをしなければならない。レイナはすでにサインを書き殴った。シスも丸っこい字でサインしたし、ニシも不思議な文字列でサインを終えた。読み方は“うぇすと”らしく、トーキョーで使っているコールサインだとか言っていた。
もうひとつ、アーヤの分の束は何度も契約規則を読み返しくしゃくしゃに曲がっているのにサインはまだだった。
「ったくうっせーぞ、アーヤ。さっさとサインしちまえ。ロゼとの約束の時間、もうすぐだろうが」
「だーっ! もう少し考えさせて」
「さっきからそればっかじゃんか。くだらねーこと考えてないで書けっての!」
「いやだ! ってちょ、ナニスルの」
レイナがペンを握り、アーヤのサインを偽造しよとする/アーヤも細い腕でレイナを羽交い締めにしようともがく。
がたがたとうるさいが、部屋には柔らかい匂いが漂ってきた。キッチンではシスが台に登ってフライパンを握り、こんがりと熱せられているパンケーキと対峙していた。となりではニシがにこにこ見守っている。
「えへへ、パンケーキできた!」
「よくやったね。えらいえらい」
けっ、ロリコン野郎が──こちとら優柔不断のドレッドヘアのあばずれと戦っているというのに。
レイナはうんざりして、ボールペンをアーヤに返した。
「私にはね、夢があったの!」
顔はともかくアーヤの声はきれいだしよく通った。
「金持ちになる、だろ。悪くないぜ、給料」
「そーじゃないの。給料がほしいんじゃないの!」
「金なんて一緒だろ。連邦じゃ電子通貨で紙幣で渡されないのが面白くない、というぐらいで」
「私はね、アングラの女王になりたかったの。フアラーンで底辺からてっぺんまでのし上がって、ソファで足を組んだままイケメンを顎で使う女王になりたいの! 役所の犬じゃないの!」
「んじゃ、報酬もらってさっさとフアラーンに帰れよ。ま、ジョーをぶち殺した後じゃだれも仕事なんてくれやしないだろうがな」
もっともぶち殺したのはあたしだが。
「だから悩んでるんじゃないの! 二律背反」
「初めて聞くありがーい言葉だぜ。綴りがわかんね」
「これはトーキョーのことわざ! そうじゃなくて! もう」
アーヤはまるでこの世の終わりみたな顔だったが、その対面では、シスが椅子にちょこんとすわって、ニシに合成はちみつをパンケーキにかけてもらっていた。そして笑顔でそれを頬張る。
「むむ、おひしひ」
そしてミルクを飲んでニシに口を拭いてもらう──いいご身分だな。歳がオバサンなだけあって人生の楽しみ方をよく知っている。
レイナがちょうど時計を見たと同時に玄関の呼び出しベルが鳴った。
「へぇ、時間通りね」
現代の最新式──というわけではないが、キッチンの横の小さなモニターで来訪者が確認できるのは面白かった。でかい乳が映っているかと思ったら、代わりに好青年がカメラに向かって会釈した。片手でアタッシュケースを持っている。
「あれ、てっきりロゼが来るかと」
「ロゼさんは近衛の副隊長だ。細かな仕事にわざわざ出向いたりしないだろう」ニシが説明してくれた「代わりの連絡員をよこすって話だった。レイナ、出てくれないか」
へいへい。てめーはチビの面倒でも見てろ。
ドアの向こうは、誰が立っているかわかっていた。レイナはドアチェーンと鍵を同時に開けて中に迎え入れた。
「いらっしゃい」
こんな言葉、生まれて初めて言ったかも。
「はじめまして。レイナさんですね。私、近衛と貴方がた砂漠のトカゲ団との連絡役を賜りました、カッシンタ・ローと申します。部隊では情報分析官を務めております」
スーツ姿の好青年は、レイナが片眉を上げているにも関わらず軍隊式のきっちりした敬礼をした。
「カツ・シンタロー?」
ニシが首を曲げた。
「なんだよその妙な発音は。カッシンタはともかく、ローは政府のスパイ連中が使う名前だ、って親父が言ってた。映画でもよくあるやつ」
「ふむ、CIAのほうから来たスミスさんとか、ジョン・ドゥみたいな感じだな」
ニシは変な納得の仕方だったが、敵対もせず簡単な自己紹介を終えた。
「てことは、シンタローはロゼの部下ってことよな」
レイナはなおもふてぶてしかった。
「はい、グネレスコ隊長は私の上司の上司であります」
そういやそんな名前だったか。グネレスコの名前も本名かどうか定かじゃないが。
カッシンタはテーブルの上に並べられた書類をひとまとめにした。そして、アーヤと横並びになって、サインが空白のシワが寄った書類を見た。
「悩んでおられるのですね」
にこり。カッシンタがはにかむ。アーヤはすぐ顔をそらしてしまった。
「いえ、その。私には夢があるというか」
「面白い。どんな夢か興味があります。ぜひお聞かせください」
カッシンタは椅子に座ると、まっすぐアーヤを見上げた。テーブルの上で両手を組んで、はにかみを絶やさない。
「それロゼさんに教わったのか?」ニシがテーブルの向かいから「彼女は指揮官と思ったが現場に教育に、手広くやってるんだな」
「はい、私も隊長のことは尊敬しております。ニシさんも、なかなかのやり手だと聞き及んでいます。戦闘から艦艇戦術、政治にいたるまで。国と国の交渉、はてトーキョー語ではなんでしたか」
「外交。こっちじゃ言語がひとつしかない上に国の概念が薄いからな。ロゼさんには経験と雑学を話しただけだ。と、俺のことはどうでもいい。あまりアーヤをそういう目でみないでやってほしい」
「あはは、ご心配なく。これは交渉術とかではなく私の真心ですよ。それに私の恋愛対象は男性ですので。それも強く賢い。ところでニシさんは──」
「──ストレートだ。あいにく」
今のは、仕事の話、でいいんだよな。隣ではアーヤが諦めたように、書類の束に順々にサインをしていた。
「さて、契約書はたしかに受け取りました」カッシンタは書類をケースにしまうと、代わりにパルを4つ、テーブルの上に置いた。腕に巻くタイプのパルだったが、街頭広告で見るモノより飾りっ気がなかった。
「あ、最新式の」
先に反応したのはアーヤだった。
「ええ、外見はそうですね。ですが、軍用のモデルです。通常のパルのように、連絡を取ったりサイバーネットに接続することもできますが、10気圧防水、防塵、互いの位置情報の取得、短距離直接通信、ユニバーサルジャック、その他セキュリティなど」
レイナはパルを手にとった。そう大きくない。スクリーンを開くと視差を利用した立体映像が浮かび上がる。ボタン類は最小限で、すべてハンドサインで動いた。すでに個人情報も入力済みで、金銭の支払いに使う銀行アプリも入っている。
シスはさっそく、自分の頭とパルを有線接続して、通信番号を同期する。
「おお、サイバーネット。視える」
「シスさんは高度な義体化がお済みと聞きました。軍用のアプリケーションも追加しています。指揮官用の情報処理とデータリンク機能です。具体的に言えば、シスさんの補助脳が仲間のパルから情報を収集し、シスさんの目で視た敵の位置を味方に共有できます」
カッシンタは周りを見渡して、
「ご質問がなければこれで失礼します。事務手続きはこちらに任せてください。後日、正式な近衛兵団への入隊式があると思います。日時が決まり次第、パルにて連絡させていただきます」
カッシンタは格式張った言い回しと敬礼の後、マンションを後にした。シスはその間にパンケーキを1枚ペロリと食べてしまい、おかわりをニシに要求した。
「連邦の軍人って、どうしてあーも堅苦しいのばかりなんだろね」
レイナはどかりとソファに腰掛けた。
「いいよね、レイナは。お気軽ちんちんだから」
アーヤは腕を組んだままレイナの前に立った。
「んだとこら、喧嘩売ってんのか」
「いーい? 連邦のオーランド政府の仕事、って聞こえはいいけどカタギの仕事じゃないってわかってる? 仲良く兵隊さんして表彰されて年金暮らしとはいかないわけ、わかってる? 表立って軍警察が動かせない暗殺とか情報工作とか、そういう仕事を任されるのよ」
「だってよ、フアラーンで傭兵やっても、同じようなものだろ。犯罪か犯罪スレスレの仕事ばっかし。くそったれ。あたしは文句ない。顔役から仕事をもらうのも、近衛だかジジューチョーだかに仕事をもらうのも変わらねーって」
「むむむ、どうしてそう楽観的なのよ」
「アーヤはなにくだらねーことにこだわってんだよ」
「傭兵は自由な存在であるべきなの──」
なに夢みてんだこいつ。
「──自由で、強くなって、腕っぷし1つでアンダーグラウンドで生きていく」
「つっても、腕、細いじゃねーか。ちゃんと飯 喰ってんのか」
「誰にも縛られない自由が欲しいの。どんな仕事でも安請け合いするわけじゃない。『それは私の矜持じゃない。どんだけ金を積まれたって請けるわけにはいかねぇ』っていうふうに──」
ばかか。それが言いたいだけだろ。
「──私の夢だった。そうやってのし上がって、敵がたくさんいるけど味方もたくさんいる。そういう緊張感に浸りたかった。しみったれた人生よりも栄誉の死を遂げる人生、なのに、近衛兵団? なによあの徹底した機密保持規定。命令を受けて、どんな命令にも従って、命令に反する言動は一切許されない」
「考えすぎだって」
「そう契約書に書いてあるの! レイナこそ、ちゃんと読んだの?」
給料の桁数だけはちゃんと言える。
「文句があるなら、金もらってフアラーンだかに帰れよ。敵が多いって言うんなら南のソリドンブルグあたりにでも行けや。くだらねーこと言ってると放り出すからな」
レイナはすっとソファから立ち上がると玄関へ向かった。
「レイナ、どこ行くんだ?」
ニシが玄関まで追いかけてきた。
「ちょっと散歩だよ」
「1人じゃ心配だからついていこう」
「あたしはガキじゃねーんだ。イラネってそういうおせっかい」
「ああ、そう。じゃ、これは持っていくんだ」ニシは自分の拳銃を逆さにして差し出すと「銃の携行許可証は持っているよな? 丸腰じゃ何かあったときに」
「心配し過ぎだっての。それともなにか、大都市トーキョーじゃ丸腰で歩くなっていうありがたーい言葉でもあるのかよ」
「大都市オーランドを丸腰で歩くな、というのはニケの爺さんの教えだ」
誰だよ。
レイナは鼻で笑うとニシを無視して部屋を後にした。
平日の昼下がりということで、企業勤めのサラリーマンたちが歩道を行き来している。ぶつぶつと独り言を話していて不気味だったが、それがパルで誰かと電話していることに後から気づいた。歩道の隣には専用レーンが設けられ、配達員が電動カートで機械じみた正確さで行き来している。
ホテルの隣には、皆で食事のたびに訪れるチェーンのファストフード店がある。今日はさらに遠くへ行きたい。
「さて、路面電車の駅はっと」
トラムはどれも一方通行だった。通りの偶数番と奇数番でそれぞれ逆方向に走っている。5分ほど歩いたら停車駅が見つかり、すぐにトラムはやってきた。顎がしゃくれたみたいな妙な顔のデザインのトラムだった。
レイナは他の市民といっしょに列に並んでいたが、市民たちと同じようにパルを搭乗口の柱にかざしてみたが、ブザーが鳴るばかりでうまくいかない。
「あれ?」
「こう、指3本のハンドサインをして、パルの支払い機能をあらかじめ立ち上げておくんですよ」
やたら優しい男の介助/言われたとおりにやってみると無事、支払いができて乗車できた。
「どうもありがとな……って、おまえ。シンタロー!」
「カッシンタですよ。あはは、その呼び名、定着しちゃいましたか」
トラムの中は、2人ずつ向かい合わせのシートがあったがどこも満員で、レイナとカッシンタはつり革に腕を通して立ったままだった。
「なんで着いてきたんだよ」
「あのあと、レイナさんが1人で外出するのを見たので、心配でしたから」
「むっ」言い返したかったが、そのおかげでトラムに乗れたわけで「ありがとな。でもよ、礼は今回だけだからな」
「ええ、わかってます」
にこり──人畜無害な笑顔だった。
「ところでレイナさん、今日はどちらへ?」
「別に、どこだっていいだろ。ずっと部屋の中じゃ息が詰まるから」
「あー、アーヤさんと喧嘩したから頭を冷やしに」
「別に、そんなんじゃねーし」
「でもまあ、気にしなくても。ほら、よく言うでしょ。鴛鴦争愛って」
「くっだらね。あほかてめー」
つい大声を出してしまったせいで、車内にいた他の乗客にチラ見されてしまった。オーランドじゃ銀髪は嫌でも目立つ。
「ふふ、車内ではお静かに」
「その笑い方、ロゼそっくりだな。近衛ってのはみんなそんなふうに笑うのか」
「これは私本来の癖ですよ」
車窓から眺めていても、街並みは変わらない。何かのビルが直角的に生えていて、それが企業のオフィスかアパートか、兼ねている。ちょいと派手ならデパートだった。街なかの警官は拳銃を下げていない。ぼんやりと雑踏を眺めていたり、腰の曲がった老婆に手を貸してやったりしている。
「平和だな、どこもかも」
「そうですか。私からすればこれが日常、なのですが」
「そいやニシも同じこと言ってたか。フアラーンの街は異常だって。あたしから見たら、あれが普通だし、銃持ってないと不安でしょうがない」
レイナは左腰を、いつもソードオフ・ショットガンとマチェーテを下げるあたりをなでた。今日はホルスターごと部屋に置いてきてしまった。
「銃の携行許可証はあるでしょう? いいんですよ。ショットガンやマチェーテはさすがに困りますが、甲類個人防衛火器の拳銃なら隠匿所持も可能です」
「いや、拳銃って苦手で。それに、ほら、あたしの銀髪って目立つっしょ。だから、銃も持たないほうが、そのなんつーか」
「市民に警戒感を与えない、ですか。さすがレイナさん。もうすっかり近衛の一員ですね♪」
カッシンタはレイナの代わりに心情をつらつらと述べた。
「で、銀髪はどうなんだよ。やっぱよ、嫌、なんだろ」
「さあ、よくわかりません」カッシンタはレイナの銀髪の毛先を見て「髪が傷んでいますね。私がよく行く美容院をご紹介しますよ。高級トリートメントさえすれば、きっとつややかに。髪は生き物なんです」
「そーいうこうとを聞いてるんじゃなくて!」
そのとき、トラムは駅に停車して、乗客を吐き出した後、また大勢のスーツ姿を乗せた。そのせいで5駅ほど先へ行くまで会話が憚られた。
「銀髪について、よくわからない、知らないというのがオーランド市民の一般的な認識だと思いますよ」
トラムは3桁区の中をぐるぐると回っている。ちょうどオフィス街を過ぎたので乗客もまばらになり、レイナとカッシンタは並んで座った。
「どーゆー意味だよ」
「良いも悪いもない、という意味ですよ。もちろん、知識として腐獣やら銀髪の超人やら、そういったことは知っています。が、日常では出くわしませんし、銀髪の超人が事件を起こした、なんてこともありません。銀髪の傭兵は企業連合の国の話です。ここオーランドでは警察が治安維持を担っています。傭兵の入り込む隙は──ないと言いたいのですが犯罪がないわけではありませんがね」
「だから、着いてきた?」
カッシンタは左胸の下辺りを押さえた──拳銃を持っている。
「ええ。もしものことがあったら。たとえばレイナさんが暴漢に襲われ、暴漢が骨の半数をへし折られたら、責任はグネレスコ隊長が負うはめになりますので」
あたしの心配は無しかよ。
「わーかったよ。オーランドの事情はよくわかった。次からあたしも拳銃を……」
「支給品があります」
「軍用のってニシが使ってるやつだろ? デカくて扱いにくいから、パス」
となりのカッシンタの手は細く長く、大きかった。爪の先が丁寧にケアしてあって、宝石みたいに輝いている。
「でしたら、そうですね。セレクトショップにでも行きましょうか。いいトリートメントがそろっています。せっかくの銀髪が傷んでしまってます」カッシンタはぐりぐりとレイナの髪をいじり、「肌はびっくりするほどキメが細かいですね。乳液は何を?」
「腐獣の心臓」
冗談めかして言ってみたが、カッシンタは驚いていた。こいつは男だがゲイなので髪をいじくり回されても嫌な気は起きない。むしろ美容についての探究心に余念がない。半年遅れの雑誌を読んでいたアーヤとは大違いだ。
「あーところでよ、シンタローは知ってるか? 腐獣について」
「それはレイナさんたちのほうがお詳しいでしょう。私は対腐獣戦闘は訓練だけで実戦はまだです」
「そりゃそうだけどよ。ここに来るまでにスコイコって街に寄ったんだ。あれ、何が起きたんだ? 街が廃墟で腐獣だらけで、軍が壁を作って街を囲ってるんだ」
「えーっとそうですね」
カッシンタは遠くを見て言葉を探している。
「別に、言いにくいならいいんだけどよ。トラムで話すことでもないだろうし」
「いえ、機密とかそういうのではないのです。でもここオーランドでは誰も話題にしませんので。ことの発端は100年ほど前になります。私も一般知識以上のことは知らないので。パルで調べてみてください。当時の新聞記事とかありますよ。機密指定解除された文書も。十数年前には公開されていたと思います」
しぶしぶ、パルを開いてみた。視差で立体映像が浮かび上がる。待ち受け画面にアドレス帳や銀行のアプリがある。その中からサイバーネットへの入口アプリを展開する。
「んで、どうすりゃいいんだ」
「文字列を入力すると、オーランドのサイバーネットから適切な情報を集めてくれます。ちょっとすみません。こんなふうに入力します。まず、ここからキーパッドを展開して──」
カッシンタがレイナに体を寄せる。レイナの視線の隣に顔を近づけてパルを操作した。立体視で浮かんで見える円環状のキーパッドに5本指をあてがい、それを回転させると母音と子音が選択できた。声調記号は自動で付いてくる。
レイナは、嗅いだこともない高そうな香水の匂いに気を取られ、すぐ呼吸を止めた。
「はい、できましたよ。サイバーネットから報告書と記事を検索できました。20年前の物ですけど。ざっと見た感じ、私が情報士官になってから知らされているものとおおよそ合致しています」
レイナは短くうなって、立体的に浮かび上がる記事を読んでみた。
「──東部諸州で報告されていた腐獣が、スコイコ市の地下から突如湧き出した……都市防衛隊が初動の封じ込めに当たり、犠牲者数は──いやこれは別にいいか。原因は── 腐獣の活動エネルギー源等はいまだ不明ながら、出没地域は第1次テウヘル戦役の古戦場だと推測される。1000年前、最後の獣人の攻勢のあったスコイコ市では数十万のテウヘルの死体が積み重なっていた」
「ま、そんなところです。わからないことは、私も知りません。原因不明の怪物テウヘル。でも心臓を接種すれば、稀に、超人的な力を手に入れられる。私は「銀髪」を蔑称では使いません。勇気の証です」
「銀髪は、超人つーか環境適応力が飛躍するとかなんとか。あれってホントなのか」
「さあ、生物学的な作用については。一応、私はただの兵士なので」
レイナは、パルの便利さはわかったが銀髪やらテウヘルについてはわからないままだった。
カッシンタが面白いところが近くにあります、というのでレイナも一緒にトラムの駅で降りた。そして今度は縦方向のトラムに乗り換え、3駅ほど下った。
「つきましたよ。旧居住塔です」
塔と言われたので空を見上げたが、階層都市のそこだけが楕円形に切り取られて空が見えるだけだった。カッシンタが指さしたのは、下の階層/地上部分だった。もともと巨大だった何かが倒壊した、その残骸だけが広がっている。まるでおとぎ話に出てくる巨大な龍のその骸骨だった。
旧居住塔の残骸がよく見えるカフェに入り、その端っこのテラス席を陣取った。ここだけは高層ビルが途切れているので空がきれいに見えた。どんよりした曇空はだいぶ青色を増している。
「ここ、昔の人が住んでいた、巨大な塔なんです」
カッシンタが飲み物を買ってきてくれた。柑橘系の果汁が絞ってあるソーダで甘さは控えめだった。
「で、なんでまた残骸だけ放置してるんだ?」
「旧居住塔はテリチウム合金という非常に硬い金属でできています。硬いだけでなく非常に重いのです。なのでオーランド3桁区の再開発計画でも重すぎて撤去できず放置されたままです。でもこの周辺は日光がよく当たるのでマンションとかすごく高いんですよ」
「へぇ」
「第4次テウヘル戦役の後なので、400年ぐらい前ですかね、旧居住塔が倒壊したのは。昔から塔のテリチウム合金を剥ぎ取って利用していたせいで、重さに耐えられず。かつてはここでブレーメンの戦士が皇を救うため戦ったそうです。ブレーメンの映画には無いのですが、私は隊長から聞きました。隊長は、侍従長から聞きました」
「侍従長って、あのネネ、だろ? やっぱりブレーメンなんだよな」
「ええ。しかも不老のブレーメン。もうかれこれ1500年も生きているんだとか」
予想以上に長生きで思わずソーダをむせてしまった。
「どういう理屈で」
「さあ、私も実はあまり会って話していないんですよね。でも噂では神の視線を受けて、とか。でもこれ、一応機密なのでココだけの話にしておいてくださいね」
砂漠で、巨大なテウヘルを弾け飛ばしたのも、たぶんネネだ。まるで神話に登場するブレーメンそのものだ。
「ブレーメンの七戦士のなかで神の視線を受けました。まだ幼いその少女ですが七戦士の中では最も強く、天より降り立つ業魔を、わずかその小さき指をぱちんと弾くだけで、たちどころに地平線まで血潮に満たされました──あたしでもその神話を知ってるが、神話に登場する少女ってネネのことか?」
「さあ、私は知る権利もないでしょう。ぜひレイナさんご自身で聞いてみてください。しかし好奇死猫というように、お気をつけて」
“不死の猫も好奇心が原因で死んだ”か。仰々しい注意の仕方だぜ。
旧居住塔の周囲は、地上も上層都市も公園が整備され、芝の緑色が鮮やかだった。このあたりの住人たちがぼんやりと日向ぼっこをしている。小さい子どもたちが遊び、杖をつく老人たちが時間を忘れて盤面を見ている。穏やかな日常がリピートされている。
「さて、そろそろ戻るか」
「でしたら、環状鉄道を使いましょう。3桁区と4桁区の壁の上を走っています。都市を半周するなら環状鉄道が早いです」
「あーその前に、シンタローのおすすめのセレクトショップ、だったか。そこに寄ってくれね? アーヤにさ、その、手ぶらじゃ謝りにくくて」
「あらーなるほど!」カッシンタが少女じみた奇声をあげて「それでしたら、日焼け止めクリームなんてどうでしょう。ビタミン配合、敏感肌の方にもちょうどいい、香りも20種類から選べますよ。適期購入なら5%オフ」
「どうも」
「ささ、お買い物、行きましょう♪」
カッシンタに腕を引かれつつ/変なやつだが悪いやつじゃなさそうだ。
物語tips:ブレーメン学派のありがたーい言葉
唯一大陸における一般教養のひとつ。
すでに絶滅してしまったブレーメンの生き方を学ぼうという、迷える現代人にとっての基本的な哲学である。ブレーメンの古語には文字がないため、発音を連邦共通語に当てている。そのため勉強していないとその意味は伝わらない。




