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物語tips:財団の外交部
企業連合や連邦の国々と交渉する部門、または財団の都市周辺の警備任務もこなしている。"どぎつい"交渉を行うことも多いので、実質は財団の特殊部隊である。
財団の科学技術は連合や連邦に比べ非常に進んでいる。特に完全義体の技術は群を抜いている。ただし性能を優先するあまりデザインセンスは皆無で、戦闘用義体は蜘蛛のような複眼が頭に付いている。
ニシが弾薬庫と呼んだそれぞれの小部屋は、朽ちた金属製のドアが垂れ下がり、中は空っぽだった。それが何十、何百と上へ下へ続いている。小さい怪物の巣穴としては、ちょうどいい空間だった。
「な、これ全部見て回るのか。」
「そうだな。じゃ、二手に別れようか。パルにもbluetoothみたいな短距離通信が……」
「えっ」
「なんだ、怖いのか」
「ちげーよ。ニシがひとりで怖がって膝が震えるのが、心配なだけだよ」
勢い余って言い散らかしたが、ニシは口角を上げて微笑むだけだった。ムカつくヤロウだぜ。
突然ニシが片手の拳を上げてハンドサイン=「止まれ」そして「警戒しろ」というトーキョー式の合図だった。
通路の奥で、何かが動いている。暗視装置越しに明るい点が4つ、揺れながらこちらに走ってくる。ニシはライフルの安全装置に指をかけて待機したが、次第に暗闇の影がヒトの形に結実した。
「んだよ、財団の兵士かよ。驚かせやがって」
レイナは呑気だったが、
「お前ら、そこをどけ、邪魔だ!」そして擬似感覚通信を忘れ、「隊長、進路確保!」
兵士らしい、やたら大きい声で叫んでいた。
「おいおい、なにビビってんだ──」
しかし財団の兵士はレイナたちを意に介すことなく走っていってしまった。
「レイナ、何か様子がおかしい。警戒するんだ」
続いて、複数の光点が暗闇から現れた。さっきのは尖兵らしくこちらが本隊のようだった。先頭の2人がライフルを構え、最後尾の1人が後頭部の人工眼球を光らせ、後ろを向きながら器用に走っている。列の中ほどには右腕と脇腹が食いちぎられ機械の体内が見えている兵士が1人、それを支えるのが1人、そして見覚えのある不遜な態度の兵士が1人──
「あ、てめー、たしかオットーだな。グーンの部下の」
「銀髪の、ここでおしゃべりしている暇はない。死にたくなきゃ走れ」
どういうことだよ。ニシも見当がつかず肩をすくめた。
轟音──崩壊音。
通路の奥でもうもうと砂煙が巻き上がり、のそりと巨体が起き上がった。
「くそ、またデカいのが」ニシがすぐにライフルを構える。
「あはっ、あれがきっと都市生物だ!」レイナは場違いに喜んだ。
暗視装置は自動で赤外線の閾値を変え、巨体の動くさまをはっきりと捉えることができた。直径がピックアップトラックほどもある節足動物が鎌首を上げ、はっきりと餌を見ている。口吻には2対の鉤爪のような牙が生え、その中央は漏斗状に口が蠢いていた。
「どーすんだ、ニシ。あれ殺せるのか」
2人でそろって銃口を向けていたが、怪物がのそりと餌のほうへ動き出すと、すぐニシはライフルをおろした。
「逃げよう」
こんな負け犬みたいな逃げ方は恥ずかしいったらない。全力で走っても思う通り体が動かない。酸欠のせいで頭がチカチカする。今まで無いぐらいに息が上がるし足ももつれて転けそうになった。
他の通路はすべて防御壁が降りていた。財団の兵士たちは壁のそばの配線と自身のパルを繋いで操作しているがまだ開かないらしい。
「14‐27だ。シス、早く開けてくれ!」
ニシはライフルを構えて、怪物に狙いを定める。銃口が揺れてまだ標的を迷っている。最初の3発は、腹下あたりに命中したがどす黒い体液がわずかに滴っただけで意味がない。口の中にも3発撃ったが、さして変化が無かった。
「お前らが生身だから、怪物も勢いを増した」
オットーの減らず口/レイナは殴りかかる寸前だった。
やっと防護壁がするすると登っていった。先導の兵士がくぐり、負傷した兵士が続く。全員が扉を越えたところで、
「シス、次は閉めるんだ! 早く」
『もう、開けるか閉めるかどっちかにしてくれない?』
キャラクター化したシスが、パルの画面の上で寝そべっている/あとで一発殴ってやる。
怪物の節のひとつひとつまでがはっきり見える/同時に防護壁が真下に落下した。ちょうど巨大な口吻が挟まれ、バタバタともがいている。ぞっとしない光景をしばらく見せられたが、怪物は先端を引き抜いて、そして防護壁が床に降りた。
「はは、アハハハハ。ニシ見たか今の。都市生物だ、マジでいたぜ。写真撮ってればロゼに見せられたのによ」
「レイナ、深呼吸。あと水を飲んで落ち着け。アドレナリンの過剰分泌だ」
そんなこと知るかってんだ。
「で、オットー警備主任。さっきのはいったい、何だ」
「俺達を疑っているのか? あれは財団の仕業じゃない。少なくとも、俺達は聞かされていない」
するとレイナが間に入って、
「餌にされてんじゃねーの? あたしだって財団に騙されて機械生物の餌にされかかったからよ」
「レイナ!」ニシがきつくたしなめて、「そっちは人数が1人減ってるみたいだが」
「ああ、ひとりやられた。だが弔いは任務の後だ」
「ニムシペをまだ見つけられていない?」
「任務についての質問は答えられない」
「じゃあ、さっきの都市生物は」
「知らない。さっきもそう言ったはずだ」
「翠緑種については?」
しかしオットーはとうとう言葉を返すことなく仲間を連れて暗い通路の奥へ消えた。
「ちっ、礼の1つぐらい言ってもいいだろーが。で、これからどーする? あいつらについて行ってみようか?」
「どうだろうな。追い返されるか撃たれるか。あの足取りだと一旦地上に戻る気もする。劣勢ならあえて戦わず体勢と整える、それが兵士というものだ」
「じゃ、あたしらも一旦戻ろうか? さっきのアレ、どう考えても戦えねーって。爆弾持ってこようぜ」
「俺達は兵士じゃなくて傭兵だろ、レイナ。オットーたちに抜け駆けできるチャンスだ」
そーいうのは嫌いじゃない。とはいえ八方塞がりだ。暗い巨大な地下空間で、ニムシペを追いかける手立てはない。
「シス、まだ繋がっているか」
ニシはパルに向かって話してる。
『現在、プロキシ良好。プロセッサ温度72℃、体温39℃。これは自動メッセージにつき応答できません』
シスのやたら落ち着いた声が聞こえる。キャラクター化したシスは正座して動かない。
「つまり?」
「負荷がかかりすぎていて、少し休んでいるみたいだ。俺達も少し休んで頭を冷やそう。ほら、レイナ、携帯食料」
「こんな汚ねーところで食えるわけねーだろ」
嗅覚は麻痺してしまって何も感じないというのに、ニシは平然とチューブからゼリー状の栄養食品を吸って食べている。
「で、ニシ、何か手がかりがあるのか」
「翠緑種」
「ん、ああ、さっきも言ってたな。なんだそれ?」
「ニケの爺さんから教えてもらった。1000年前、とある研究グループが作っていた身体強化薬その原料だ。いわくヒトの体を強く作り変えるそうだ」
「んな都合のいい話」
「ああ、失敗したそうだ。で、その後続く第2、3、4次テウヘル戦役の原因にもなった。ネネからそのあたりは教えてもらった。翠緑種の研究が実を結び、翠緑種と融合し巨大なテウヘルに変身できる、そんな人類が誕生したんだそうだ──」
突拍子もない話だが、ニシの顔をみるにマジ話のようだった。
「そしてその翠緑種とはそもそも、オーランド地下で採取された、生物の枠にはまらない特殊な生き物だったんだそうだ。それは移民船にいた害虫と惑星の在来種の間の子とも……」
ニシがちらりと顔を上げた。この目配せの意味は、何だ? “移民船”だとか“惑星”だとか聞き慣れない言葉だが、とりあえず今はニシの言葉を待とう。
「ところで、レイナ。よく聞く話だとは思わないか。翠緑種。ヒトを強化する薬」
「んや、全然。そんなもんあったらさぞ高値で売れるだろうよ」
「翠緑、とは緑色の意味だ。身に覚えがあるだろう。緑で、体が強くなる──」
「テウヘルの心臓!」
「そ。俺も科学者じゃないから理屈はわからないが、レイナのその銀髪の変異ももとを辿れば、この地下の翠緑種が大元だ。そしてニムシペもそう。手当たり次第に心臓を食べていたのは、たぶん、渇望だと思う。ただ、一般人の血肉に翠緑種なんて入っていない。この地下なら、多少は翠緑種の近縁種がいてもおかしくないが、そう多くはないはず」
「じゃあ、何か、あたしがまた餌ってことか。いやまて、あのガキ、ニシをみて『美味そう』と言ってた」
「どうだろうか。萬像には翠緑種に似た匂いがあるのかも。グーンの研究所に現れたのも、俺の匂いを追ってだろう」
はー、やっと辻褄が合った。
「じゃあよ、ニシを縛って置いておけば、ガキも匂いに吸い寄せられて……」
「そう言うと思ったよ。その前にモンゴリアン・デスワームに俺が食われる」
「んー、どのみち死なないんだろ?」
「死なないが、デスワームのクソにまみれて不死鳥のごとく復活するんだぞ。嫌だろ」
はは、おもしろい。ここに来て初めて笑ってしまった。やっぱりニシは良いやつだ。
『わたし復活! レイナ、何笑ってんの?』
正座しっぱなしのキャラクター化したシスがやっと起き上がった。
「そっちは調子、いいのかよ」
『うん。さっきシンタロー君が水冷式銅製ヒートシンクベッドを届けてくれて、今は快調』
「今そこに、近衛兵団とか司書の職員は?」
ニシが訊いた。
『んーいない。ここサーバールームだし。シス1人。アーヤもお昼を食べに行ったよ』
「なら試しに調べてほしい。王宮の、ネネが管理しているサーバーで、翠緑種の分布データがあるかどうか」
『おっ、アブナイ仕事だね。足跡残さずいってきまーす』
するとキャラクター化したシスは小走りのアニメーションが繰り返し表示されるだけになった。
「というと?」
「ネネは、こういった技術について関心がある口ぶりだった。司書さえ手出しできない彼女の領域なら、手がかりがあると思って」
「もし無かったら?」
「ニムシペが穴蔵から出てくるのを待つ。もぐらたたきゲームみたいに」
なんだそりゃ。
巨大デスワームの気配が壁越しにあったので通路を奥へなるべく細い道を選んで進んだ。弾薬庫の近くとあって、トロッコの線路が床に伸びている。上りの線路ではなく下へ続く線路を選んだ。事前にもらった地図の通り、下の階層へ続くはしごがあった。
『みーっけ!』
突然シスの甲高い声が響くと、心臓に悪い。
『いまそっちに分布図を送るね。翠緑種について詳しい生体情報もあったんだけど、うっかりセキュリティ踏んじゃって。だからあとで問い詰められたら、ニシ、言い訳よろしくネ』
パルの地図データを更新した。ネネから盗んだ地下空間の地図には、近年建てられた構造は載っていない。むしろ1000年前の地下空間が地表付近にあった。地下の坑道は、オーランドの外縁部から中心へと向かっている。
「な、この立坑、最初の図面に載ってなかったぜ。しかも翠緑種の『採取場所』だってよ」
「ここから2つ階層が下になる」ニシは、自分のパルに新しい地図を、レイナのパルに古い地図を表示させ、ふたつを並べた。「もっと昔に作られた坑道だ」
しかしニシはそれ以上は言わず、真下へはしごを降りた。明かりひとつもない地下空間で、風化した壁や床は天然の洞窟を思わせた。
トンネルは水平方向へ進み、そして行き止まりにはちょうどヒト1人がくぐり抜けられるハッチが開いていた。周りは溶けたコンクリート壁なのに、そこだけはぬるっとした金属製で、表面は少しも錆びていない。配管というより、生き物の血管のように緩やかに、溶接跡さえ見えず続いていた。
「うえ、なんだこれ。金属か? うえ、何かが這った跡がある。しかもこれ下向き。足すべらせたらヤバそうだぜ。なニシ」
しかしニシはぼんやりと金属製の配管を撫でていた=「テリチウム合金」/ほぼ聞こえない声で呟いている?
「おいニシ、聞いてんのか」
「ん、ああ」
「“ああ”じゃねーって。滑った先にナンチャラデスワームの口があったらどうすんだって話をな──」
背後で小さく何かが動いた。ニムシペじゃない。もっと小さかった。コンクリート片が落ちて、それと一緒に親指サイズの節足動物が蠢いている。
「──んだよ驚かせやがって。ナンチャラワームのちびっこいのじゃねーか。こんなの踏み潰してやる」
ボトッ──1匹が2匹に増えた。瞬きする内に2匹が4匹に増える。
「レイナ、上だ!」
つられて見上げた先──ぼろぼろに崩れたコンクリートの天井から無数のデスワームの幼体がなだれ落ちてきた。
「ああちくしょう」
レイナはショットガンを抜き、ワームの群れに2発打ち込んだ。しかし散弾が大きすぎるせいで1/10程度しか仕留めきれない。
「じゃ、レイナ、お先に」
ニシはそう言って、ハッチを開けると滑らかなパイプに飛び込んだ。
「ああ、クソクソクソっ」
レイナも足を下に配管へ飛び込む。最初こそ傾斜が緩やかだったが、次第に角度を増し、尻に感じる摩擦も増えていった。ブーツの底で減速しようにも水で濡れているせいで思うようにいかない。
もはや自由落下する体を止める手段はなく、頭の中では流し台の配管のことばかりが頭に浮かんだ。なぜ配管は上へ下へ曲がっているのか──。
落下した体は急に上向きに飛び、重力加速度で首が痛い。ほんの少し空を飛んだかと思ったら、次の瞬間にはすべての音が消えた=水の中に飛び込んだと後から気づいた。
くそ、どっちが上だ。息ができない。苦しくなってつい水ごと吸い込んでしまってさらに気が遠くなる。バックパックの留め具を外すと沈まなくなったが、どれだけ水を蹴っても体が浮かばない。
痛いぐらいに腕を引っ張られる感覚=ずんと体が重く、跳ねた前髪から水が滴っている。激しく咳き込んで薄い酸素の空気を肺いっぱいに吸い込む。まだ焦点が合わないが、すぐ目の前でニシが心配そうに覗き込んでいる。
「ああ、クソ」
立ち上がろうとしたが腕に力が入らない。遅れてやってくる刺されたような激痛。
「レイナ、まっすぐ、俺を見ろ」
「痛ぇ、なにが、何がどうなって……」
ニシがレイナを抱えあげて膝の上に乗せた。
「レイナ、初体験はどんなプレイだった?」
「はっ、は? 今そんな話をおああああああああああああああああああ、痛っ!」
レイナは両眼を開いたままのたうち回った。息があがって心臓が信じられないぐらい速く打っていた。気が遠くなりそうな激痛も、次第に和らいでいって、今自分が額を床に着けながらぎゅっとうずくまっているのに気がついた。
「くそくそ、何が」
「肩の関節が外れていた。しかも両方。パイプから落ちる瞬間に引っかかったか着水のとき無理に動いたんだろう。落下するときは胸の前で腕を交差させながら鼻をつまむのが鉄則だ。勉強になったな」
くそが。絶対感謝しないからな。しかも、なんだよあの質問。初体験はどんなプレイだった? ふざけるな。
「レイナ、無理に立たなくていい。しばらくは安静にしないと」
「安静? ばかいってんじゃねー。あたしは今日なにもいいとこ見せれてないんだ。だから──」
あ、いや、ばかだあたし。何 言ってんだ。クソみたいに肩がうずいて痛いし地下の汚い水を飲んでしまって、息をするたびに喉が焼けるみたいに痛い。それにバックパックと暗視装置もまとめて水の底に落としてしまった。情けなくて涙が出てきそうだった。
「レイナはよく頑張っている。だから、すこし休んでいいんだ」
大きな腕が体を包んでくれた。ちくしょう。暗くて顔は見られないから、余計に涙が溢れてしまう。ちくしょう、今、頭、撫でんな。
「俺の暗視装置も水に濡れてだめだ。パルは、さすが軍事規格だな。圏外だが壊れていない。とはいえこういうときのための萬像だ。クソ神に頼りたくないっていうのに」
ニシの瞳が黄色に輝いていた。
「ニシ、お前」
「夜目は効く。よく見える。大丈夫さ。敵はいない。ニムシペもモンゴリアンデスワームも。だからしばらくじっとしているんだ」
くそ、てめーなんて大嫌いだ。
レイナは次第にもぞもぞと動き出し、肩や足の状態を確かめた。そして立てると確信が持てたので、むりやりニシの腕をこじ開けて外へ出た。そしてショットガンをホルスターから抜いて、空薬莢を捨て、浸水を落とすと新しい弾を差し込んだ。
「もういいのか」
「ああ、問題ない」しかしなんとなくニシが自慢げな表情だったので付け足した「ありがと」
「レイナがすっかりいい子になって、俺も嬉しいよ」
くそ、黙ってればいい男なんだが。
レイナの目にも暗闇に包まれた構造が見えてきた。だいぶ地下深い遺構のはずだったが、この空間は天井が夜空のように暗く、奥行きもかなりあった。天井までの中ほどに落ちてきたパイプが管楽器みたいに並んでいる。
足元は波打ち際のように浅い水たまりだったが、四角い足場の周囲は深い水をたたえていた。水が波打つ音が反響して洞窟を思わせた。
すっと息を吸うと、頭が冴えた。少しは新しい空気も混じっている。
「おいクソ犬頭、出てこい! 正々堂々勝負しようじゃねーの」レイナはありったけの声を張り上げた「女と女の真剣勝負だ。てめぇがオンナかどうか分かんねーけどよ、タマぁついてないのはわかってる」
はーすっきりした。ここまでいいとこなしな分、うっぷんをあの化け物にぶつけてやる。
しかし後ろではニシが頭を抱え、
「さっきの『いい子』は前言撤回。もう少しお行儀よくしたらどうだ」
「るっせー。これがあたしのやり方なんだ」
「ニムシペは出てこなかったな」
くそぅ、犬畜生ってのは挑発したら出てくるもんじゃないのか。少なくともあたしだったら、あんなふうにおちょくるやつがいたら、正々堂々、ぶちのめす。
きらりとニシの黄色い瞳が輝く。そしてナイフを取り出すと、ためらうことなく自分の掌を切った。
「おいおい、何してんだ。気でも狂ったか」
「萬像は何でもできる。傷もすぐ治るし、わかっていたら痛覚も一時的に遮断できる」
意味がわからない。
ぎゅっと握った手のひらで、ニシの赤い血が次第ににじみ出てそれが水面に落ちた。赤い水滴が少しだけとどまったと思ったら、次の瞬間には水の中に霧散して消えてしまった。
ニシはずっと表情が消えていたが、レイナの視線に気づくとぱっと笑って、血の滲んだ手のひらを見せてくれた。切り裂いたはずの皮膚は元通りくっついていた。
「銀髪もたいがい傷の治りは速いけどよ、それ見せられると萬像って、いやはや神様ってすげーんだな」
「すげー。たしかにすごい。なんでもできるが、肝心なところで何もできない。死んだ命を蘇らせられないし、未来を予知したところでなんの役にも立たない。そのくせ代償は不死だ。永遠に。レイナはそんな力、ほしいか?」
「あ、ああ。んー便利そうだな。死なないってところが」
ニシははにかんで、
「次神に会ったら頼んどくよ」
ブレーメンの神話に出てくる神、そう願ったところで会えるタマなのか。そう思うと自分の見ている世界が急に薄っぺらく感じてしまう。
突然、頭上から水が降ってきた。レイナは元をたどると真上の天井にもパイプの出口があった=あそこから落ちなくてよかった。
束のような水の中で、ドサッと重そうな音で黒いずぶ濡れの毛玉が着地した。
「みーつけた。美味しそうなお兄ちゃん」
犬面が甲高い少女の声で喋っている=きしょくわるい。一歩ずつ近づいてくる。ぴちゃ、ぴちゃと犬のような細い足先が水を蹴り上げる。
レイナは反射的にショットガンを向けたが、途端に犬は少女の姿に戻った。額にはバーコードの入れ墨/そして無邪気に微笑む=撃ちにくいったらない。一糸まとわぬ姿だったが、時おり古いビデオカセットのように体が揺れて部分的に黒い体毛のテウヘルに反転しかけている。
ニシも同じようにライフルを構えたが、
「グーンはどこだ」
んなこと聞いてもやっこさんが素直に言うわけないだろうが。
「グーン? ああ、アレね。ここにいるよ。ふふふ。似合う?」
ニムシペが無邪気にくるりと一回転=その背中に張り付いてるのはヒトの皮膚だった。ニムシペの後頭部には、まるでフードをかぶるように見覚えのある顔があった。皮だけになってもあのギョロ目に胡散臭い雰囲気は消えていない。
「クソが、キチガイ雌犬」
レイナは苦々しく言い放つ。
「うふふ。ここに来るまでに死んじゃって。でもこうして貼り付けておくと暖かいんだぁ。ほら、地下ってさ結構冷えるの」
ニムシペは下手な社交ダンスを踊ってみせた。2人が背中合わせでステップを踏んでいるような地獄絵図だった。
「ニシ、あれ、あたし覚えてるぜ。グーンが言ってた。翠緑種に侵されると精神が凶暴化するって」
「違う」しかし反応したのはニムシペの方だった「これはわたし。わたし自身。ずっ変わらない。変な科学者がわたしの体をいじくり回して。気がついてたらこうなってた。銀髪の、あんたならわかるんじゃない? 昨日までとは違う新しいわたし。全能感。綴りは書けるかしら。わたしは人類の誰よりも強くなったの。わかるかしら? 兵士もテウヘルも雑魚。強いわたしは虚無の災害にだって打ち勝って、ひとり生き残るの。永遠にね。すばらしいでしょ」
「大人しく俺達と一緒に地上に戻れば、痛い目にはあわないぞ」
ニシは冷静に告げたが、
「嫌よ。科学者のやることは知ってる。体を切り刻むの。わたしより前に処置を受けた子だってバラバラにされたの。わかるもん、ニオイで。あの子のニオイが培養液の中の心臓から、したもん」
とたんにニムシペは突っ伏した。吐くかと思ったが、深淵のように暗い水を牛のように飲み込んでいる。
「──お腹すいた。赤い血と心臓を食べても足りない。ここの翠緑種も弱すぎる。でもいい匂いのお兄ちゃん、あなたは美味しそう。ね、味見させてちょうだい。指一本でいいからさ」
ニムシペの吐息が熱くなる。オーガズムを迎えたかのように紅潮し体をよじらせ、眼中にはニシしかなかった。
「クソが、ぶち転がしてやる」
レイナが一歩前へ出た。ショットガンと、その照準の向こうには華奢な少女がいる。絶対に外さない距離だった。
引き金に指をかける。わずかな冷たい感覚がニシの言葉を思い出させた=危険な実験体だから殺してしまうのか。シスと同じだ。不運にも財団のクソ科学者に拾われた、その結果がこれだ。
逡巡と殺意=ほぼ勘ともいえるそれで、レイナは引き金を絞った。銃声と懐かしい硝煙/しかしすでに標的は銃口の先にはいない。
腹の底から冷える=すぐ顔の横にニムシペがいた。
「ちょっといい匂いのお姉ちゃん、遅すぎ」
衝撃。
硬い床が見えたと思ったら衝撃で背骨がきしんだ。意識が遠のき、顔のそばを浅い水が流れている。
「ああ、くそぅ痛ぇ。くそ、また肩が」
脳が揺れたせいで視界の焦点が定まらない。激痛のお陰で意識が保てた。足場の端まで蹴飛ばされ、すぐ横には深淵の深さの真っ暗な水があった。
肩が痛いせいで腕も上がらない。今度こそちぎれたかと思った。呼吸のたびに刺すような痛みもある=初めての痛みに体のどこが壊れたか検討もつかない。
浅い水面から顔を上げると、グーンの生皮とニムシペの小さい尻があった。そしてニシがライフルで相対する=クソ、あたしがここにいたらニシが撃てない。
「いい匂いのお兄ちゃん、どーしたの? 怖い顔をして」
「レイナを傷つけるな」
「あっはは、可笑しい。この銀髪がそんなに大事なんだ」
「君はただ不運なだけだった。だから殺さなくていいよう、そしてどこか遠いところで静かに暮らすべきだ。そう皇やネネに頼むことだって考えた。だが君は笑いながらヒトを傷つけるなら──」
「傷つけるなら、何、わたしを殺すの? ははは。可笑しい。ヒトは弱い。それで、わたしは強い。だったら、うーん。潰してもいいじゃない。どうせ弱っちいヒトなんて虚無の災害が来たら、うーん、何だっけ。コレがよく言ってた──」
ニムシペは親指で背中に張り付いているグーンを指さした。
「──用紙捕魚。えへへ、弱いやつはみんな死んじゃうんだよ」
強烈な圧迫感で息ができない。
ニムシペはせせら笑いながらレイナの背中を踏みつけていた。途端に銃声が1発とどろき、ニムシペの顔の右側が大きくえぐられた。首は銃弾の衝撃に耐えていた。
「痛いなあぁ。たぶん。お腹がすきすぎて、痛いって忘れっちゃった。ね、いい匂いのお兄ちゃん。心臓を食べさせてよ。そうしたらきっとわたし、元気になれるから」
ニムシペ地面を蹴って走る/そのせいでレイナは水の中へ突き落とされてしまった。ニシの瞳が黄色に輝く=萬像の発揮/右へ左へニムシペは翻弄するがその全てに、移動先の近未来を予測して弾倉すべての弾丸を撃ち込んだ。
水の中でレイナはとっさに息を止めていたが長くは持たない。泳ごうにも肩の関節がズレているせいで不様にもがいて余計に暗い水底へ引きずられてしまう。刺すような痛みで正気が保てたが、次第に苦しくなる息に、もはや生死すら考えられれなくなってしまった。
ニシ、早く来て。
助けて。
助けて。
助けて。
──助けてほしいの?
助けて。
──どんな力?
誰だお前。その声は誰だ。あたしか? それにこの感覚。なんだったか。前にもどこかで。世界のすべてが遠く、水泡のように小さく遠くに自分だけを置き去りにしたときの、あれだ。
10年前、親父は腐獣どもになぶり殺された、あたしを守って。でもあたしも怪我をした。腹が裂けて腸がこぼれないように手で必死で抑えてた。だけど、そばに転がってた、まだ動いている腐獣の死体の心臓にかぶりついた。無我夢中で、他の死体の心臓にもかぶりついた。心臓がまだ動いていようがいまいが見境なしに。
そして聞かれた──助けてほしい? 自分の声で。
傷口がみるみる治るのを見ながら、あたしは願った。親父はあたしをいつまでも守ると言ったのに、死んでしまった。嘘をつかれた。こんな悲しい思いなんて二度とゴメンだ。だから、嘘を見抜く力がほしい。そう願った。
──どんな力?
またあたしの声が聞いてくる。以前は、理由もわからず“嘘を見抜く力”なんて言ったけど今は違う。願いは1つだけ。「死なない体、強い力、賢い頭、あと死んだ人間を蘇らせる力」
──あははは。要求しすぎ。昔話にもあるだろーが、神に願えるのはひとつだけ。んーでも、今回限りなら、いいか。
てめぇは何だ? 神か。
──ちがう。あたしは、お前。ニシの話、何も聞いていなかっんだな、バカかよ。翠緑種はゲートだ。外宇宙からマナを、無限のエネルギーを得る門。あたしは翠緑種で生まれたもうひとりのお前、もうひとつの自我、もうひとつの魂。
わけがわからない。
──わからなくて結構。偽魂はすぐ無くなるから。そして今回だけ、今この時だけ、お前の願いを叶えてやるよ。ちょっとしたサービスさ。
気づくと、真っ暗な天井を眺めていた。顔のすぐ近くに水面がある。耳が水に浸かっているせいで何も聞こえない。
真っ暗な舞台で、2人は踊っていた。ニシはナイフを片手に体術をくりだし、ニムシペは柔軟な体捌きで避け、そして強烈な一撃をニシに食らわせる。ナイフが届くと思った矢先、体だけ、腕だけがテウヘル化するせいで、黒い体毛に刃が防がれる。
レイナはゆっくりと自分の体を確かめていた。両手をぎゅっと握ると、マチェーテとショットガンのグリップがあった。手足も繋がっているし傷も治っている。
そしてそれ以上に、よく見えた。真っ暗なはずなのに、水の輝き、金属質のパイプの反射、ニムシペやニシの動きもくっきりと見えている。
なんだコレ、確信っていうのか。舞台の中ほどで戦っている二人が、すぐこっちに来る確信があった。根拠はないが、ほんのすぐ後に!
ニムシペが攻撃を繰り出した。手刀がニシの首筋を浅く刺し、赤い鮮血が散った。ニムシペはそのまま軽業でニシと距離を取ると、少女の体に戻って悠々と手についた血を舐めている。
「あっはー、いい匂いのお兄ちゃん、やっぱりおいしい。今までの雑魚のヒトたちとはぜんぜーん違う。ね、お兄ちゃんの心臓を食べたら、この空腹感、無くなるのかな」
確信/チャンス=ニムシペは水面で水死体のようにじっとしているレイナに気づいていない。
レイナがマチェーテを振り上げた。背後からニムシペの薄い太ももに刃を突き刺した。そのマチェーテを手がかりに、レイナは水面から飛び出した。
「えっ、何?」
「凌辱好きの雌犬にはこれで十分なんだよ!」
ショットガン=まだ1発が残っている。レイナはニムシペの背中に銃口をつけると上向きのまま引き金を絞った。銃声が暗く広い地下空間にいんいんと響く。細かな肉片は弧を描いて飛び、遠くの水面にもバシャバシャと落ちた。
レイナは水から這い出て起き上がり、ニムシペは崩れ落ちた。
「けっ、みたか。これが女の意地ってんだ」
足元ではニムシペの体がぶるぶると震えていた。死んだかどうか、まだわからない。空の薬莢を捨て、次の弾を装填しようとしたが、妙に腕が重かった。さっきまでは難なく振り回せたのに、しびれて動かない。そればかりか自分の体重さえ、はっきりと感じられず、倒れる体になすすべがなかった。
倒れながら思い出した。ちょっとしたサービス──傷が治り、暗闇でもよく敵が見え、そして敵がこう来てこうするという予感が一瞬だけ芽生えていた。
一瞬すぎるだろ、クソが。
「レイナ!」
床に衝突するすんでのところでニシが走り込んで、体を支えた。
「えへへ、そういやあたしが言ってた。今1回だけの力だって。ちくしょう、暗くて何も見えない」
「ああ、よかった、レイナ。無事だったんだな。遅れてしまってすまない。俺が付いている。脈は少し弱い。呼吸は、ゆっくり長く吸うんだ。息をしないと脳が死んでしまう」
「な、さっきみたいに言ってみろよ。初体験はどんなプレイだった? だろ。そんで肩、ひっつけてくれよ」
「あれは荒療治だ。病院で治療を受けないと、本当に動けなくなってしまう」
「あたしをみくびんなよ。銀髪だぜ。この程度、なんともないって」
暗い闇の中でぼんやりとニシの顔が見える。馬鹿みたいに心配して、泣き出しそうな、そんな顔だった。笑えるぜ、この男もこんな顔するんだな。でもそのまま、もう少し抱いていてほしい。ここはひどく冷える。
鳴き声。
「ぐっ、ひどい、ひどいよ──」
泣いていたのは、ニムシペだった。胸は内側から弾け飛んでいるのに、頭は平然と喋っていた。
「──ひどいよ。わたしが何をしたっていうの? なんで、こんな。ヒトだって動物を食べるでしょ。わたしだって」
「ああ、その質問は経験がある」ニシがバリトンボイスで応えた「家畜だって屠殺寸前には暴れるんだ。最期の抵抗だ。なら餌がお前に抵抗を見せるのも、道理だ」
「うるさい。わけわかんないよ。わかんないわかんないって。あんたたちには、わたしの気持ちなんて絶対にわかんない──」
ニシはレイナを抱きかかえるとニムシペから距離を取った。
「──わたしは、ずっとゴミ溜めに住んでた。大人なんて誰も信用しない。借金のせいで売られて、あちこち引き回されて、気づいたら研究所の診察台で解剖されてた。何日も変な液体に浸かっていたし変な薬も飲まされた。でもね、わたしは、ふふふ、強くなったの──」
ニムシペが起き上がった。ぽっかりと空いた胸の中には、ヒトの臓器と呼べるものは無かった。ひき肉のような細かな肉塊が、それぞれが意思を持ったかのように動いて融合し元の身体へ戻ろうとしている。
「──だれもわたしに勝てない。ふふふ、いい気味だわ。ヒトはみんな死ぬ。わたしは生き残るの。永遠に」
まずいまずいまずい、ニムシペがもう回復した。クソ科学者どもの言っていた死なないというのはマジ話だったのか。
「ニシ、あたしはもう大丈夫だから、降ろせ」
「最初に狙われるのはレイナだぞ」
「なめんなよ、あたしは銀髪のレイナだぞ」
弾を装填しないと。これまで何百回とやってきたのに、今になって指先がまともに動かない、ちくしょう、これじゃお荷物じゃないか。
「あなたたちは、わたしのご飯。諦めて──!」
ニムシペが高らかに宣言した、それと同時に、背後で巨大な水柱が上がった。水中から巨大デスワームが姿を現し、鉤爪と牙がびっしり生えた口をニムシペに向けた。
「そんな、嫌、わたしは──」
ほんの僅かな、強烈な叫び声が響いた。デスワームはニムシペを瞬時に飲み込むとずりずりと這いずりながら次の獲物を探した。
「まて、レイナ。動くな。相手は地下生物だ。きっと音や動き、体温を感じ取るんだ。今は水に濡れて体温が下がっている。動かなかったらバレない」
くそ、信じていいのかよ。頭がぼんやりするせいで何も考えられない。
デスワームはぶるぶると唇を揺らし、頭の部分を左右に揺らしながら這いずっていた。レイナと、それを抱えているニシの存在に感づいているようだったがすぐ別の場所に首を振って、何もない空間に探りを入れている。
ブルン──デスワームの腹が揺れた。鎌首をもたげ、牙がわなわなと揺れている。腹のちょうど真ん中あたりで、内側から皮膚が裂けた。毛むくじゃらのテウヘルの腕が伸びる。
「この、わたしが、こんなので、死ぬなんて」
犬面が少女の声で喋っている。その体中にデスワームの幼体が食らいついている。そしてニムシペの回復速度を上回る食い意地でに肉を喰らい、ちぎる。目や口から幼体の群れがなだれ込み、体の中から皮膚を食い破って出てくる。
クソみたいな光景だ。敵とはいえ、あんな死に方は、あんまりだ。まっすぐ見てられないが、ニムシペの甲高い断末魔がいやでも耳に届く。耳をふさぎたいのに腕が動かないせいでその最後までを聞かされてしまった。
傷を負ったデスワームは、それでも食事に満足したようにのたうつと、水面に近い配管に体をねじ込んでどこかへ行ってしまった。
「いい死に日和だったのかな」
「同情か?」
「バカか、あたし殺されかけたんだぞ。でもよ、敵は敵でももっとマシな死に方はあってもいいよな」
しかし応えたのは別の声だった。
「いかにも、悪趣味よの」
聞き覚えのある、別の幼女ボイス。誰だっけかと、考えているとニシが叫んだ。
「ネネ? どうやってここへ。というかいつからそこに」
浅い水たまりの上にネネが立っていた。若草色の大きい瞳が輝く。黒のスーツは汚れ1つなく、のたうつデスワームを横目で見ながら、
「萬像、と言えば、わかりますわね」
「ニケの爺さんが言っていた。空間の転移?」
ぬるり、とネネが左手の黒革手袋を取った。青く輝く義手が見え、瞳が黄色に輝いた。
「して、ニシよ。まずは妾に言うことがあるのではないか」
「レイナが大怪我をしている。すぐここから──」
「ほいほい、わかっておる。まったく、若者は礼儀というものがなっておらんな。妾のプライベートサーバに不正アクセスして妾の秘密のファイルを盗み見ておいて。もっともそのおかげで、そなたたちの居場所がわかったわけじゃがな」
ネネはてくてく歩いて、そしてニシの首に腕を巻きまとわりついた。そしてぐい、と顔を近づけた。
「しかしのぉ、ここへの転移と今ので力をずいぶん使い果たしてしもうたわ。わかっておるな、ニシ」
「な、まて何を──」
ニシの背中におぶさったまま──あたしは何を見せられているんだ──ニシの肩越しにネネの若草色の大きな瞳と目が合った。ネネはニシと濃厚な口づけをしながら、クソみたいに勝ち誇った笑みを浮かべている。
「──痛っ」
叫んだのはニシだった。すぐ離れたネネは満足そうに口を拭っている。口角には赤い鮮血がべっとり付いていた。
「そなたの萬像ではすぐ傷は癒えるのだろう」
「痛いものは痛い」
「ともあれ、嗚呼、若い男の、しかも神の視線を受けた寵児の血は、うまいのぉ。力がみなぎってくるわ。ほれ、ここから転送で助けてやるぞい。ただし、1回につき1人ずつじゃ、まずは──」
「──レイナだ。あたりまえだろ」
くそ、あたしの意見も聞かずに勝手に。
ニシがレイナを下ろし、ネネはレイナに背中から抱きつくように絡まった。
「よいか、少し、気分が悪くなるやもしれんが、吐くでないぞ」
「ちょ、何を」
息切れるせいで声が出ない。
不安をよそに、ネネは慣れたようにぎゅっとレイナを抱きしめた。瞳が黄色に輝き、左手の青い輝きはいっそう、光を増した。
世界が反転する感覚で、胃と目が裏返りそうになった。あのとき、公園で、親父が面白がって、あたしが乗っている回転遊具を止めなかったときと同じ。忘れていたのに、こんなことで親父の思い出が蘇るなんて。
世界が裏返り、暗い世界がパッと晴れた。まっ白なコンクリートの床を目の前に、レイナはげーげー吐いていた。出てくるものは、誤って飲み込んだ地下の汚水ばかりだった。気管が裏返りそうになるぐらい咳き込んで苦しいが、代わって肺いっぱいに新鮮な空気が流れ込むので咳が止められない。
「あっ、レイナちん! 無事だったんだね。うへ、でろでろ。何したらそんな汚れるの?」
絶妙な距離を保って、アーヤはうずくまっているレイナのそばでしゃがんだ。
「──ぶっころ」
「おーこわ。水、飲む?」
レイナはペタンと座り込むと、差し出された天然水入ペットボトルを少しずつ飲んだ。いつかフアラーンで飲んだ水の100倍もマシな味だった。
そういえば、とレイナは周りを見たが、明るさに目がなれないせいでまぶたを半分閉じている。
「ここは?」
「屋上。近衛兵団のオフィスが入ってるビルの」
ぼんやりした頭で転移だの転送だの聞かされたが、ああなるほど。別の場所にぶっ飛ぶことができるわけか。たまげたね、こりゃ。
「そういや、ロリババアは?」
「すごいんだよ!」アーヤとは話が噛み合わず、「転送で2人を連れ帰るって。シュパって消えて、そしたらシュパって、レイナちんと現れて。ネネ婆ちゃん、なんかすごい疲れてたけど今度はニシくんを迎えに行くんだって、シュバって消えて」
「楽しそうだな、アーヤ」
「うん」
シュバ、というアーヤの言い方を心底バカにしたが、しかしすぐ後でニシとネネが何も無い空間に突如現れ、
「シュバ」「ね、シュバでしょ」
ネネはニシの背中に掴まったまま、ぐったり潰れている。眠そうだが、どこか満足そうにニタニタしている。
「また、血、吸われたのか」
「ん、ああ」
ニシのやたら短い返事──あれは嘘だ。
「しっかし、どうしてどいつもこいつも、てめーの血肉を食いたがるんだ」
「言っただろう。すべて力の根源はマナだ。外宇宙のエネルギー。ニムシペや銀髪は翠緑種を、萬像やブレーメンはその魂から直接マナを取り入れている」
「いや、ぜんぜんわからん」
「そうだな。今日はとりあえず休もう。難しいことはゆっくり考えてゆっくり聞いてくれ。レイナ、今日はよく頑張ったな」
ニシはしっとりと濡れたレイナの銀髪を撫でた。
物語tips:ネネ
連邦のオーランド政府軍 近衛兵団の団長にして侍従長のブレーメン
見た目こそ10歳程度の子どもだが非常に高齢のブレーメン。1500年ほど前に瀕死の重傷を負い、そこを神に助けられた。萬像という、物体の破壊、浮遊、転送の術を使う。その代償として不死の体となってしまった。
神話の「ブレーメンの七戦士」の1人で、神話では末の娘、と呼ばれている。
旧人類の知識やブレーメンの歴史に興味を持ち個人的な研究をしている、畏怖と敬意を集める侍従長──であるが、ネネがショタコンロリババアというのは周知の事実であった。




