フェアかどうか
事件や何らかのトラブルでの被害者側が叩かれてしまうとか、逆にアンチが増えてしまうこともあるようです。
それは被害者側のアンフェアな部分に敏感に察知して反応しているからという見方もできるように思います。
自分側の責任もあるのにとか、本当は知っていた、気づいていた、わかっていたのに知らないふりをするとか、回避できたのにしなかったなどの、そこを無視して自分は100%被害者という立場を取っているところに違和感や不信感をどうしても抱く人は多いと思います。
それで被害者ではあるけれど叩かれてしまうのだと、個人的には捉えています。
また、この人はもしかしたらナルシストなのかもという面がメディアを通してドバドバ出過ぎてしまっているからもあるのかなと。
ナルシストは被害者アピールがしつこいので、それで叩かれてしまうのではないかと。
ナルシストだから叩かれていいと言うわけでは全くないのですが、ナルシストはフェアじゃないことも多いのですよね。
自分の不都合は無視して、「私は被害者」に振り切ってしまうことが多いからです。
それはアンフェアだと思います。
アンフェアな部分があると、いくら被害者ではあっても同情や共感、支持できなくなってしまうのですよね。
アンフェアな部分を無視して、こんな被害に遭ったのに健気に頑張る自分を必要以上に誇示、自分を美化、評価を求める傾向があるから、叩かれなくても、ドン引きされてしまうわけです。
被害に遭ったのは事実でしょうから、気の毒ではありますが、人によっては本当にPTSDなのかと言われてしまうのもナルシストな人に多いかもしれません。
ナルシストはすぐにでも自分ヘの同情、評価、反応を欲する面が強すぎて、表に出て来て発信せずにいられない、我慢できない性なんですよね。
これはナルシストの性癖みたいなものです。
だから、悲しみや苦しみ、心の傷が癒えてなくてもバンバン表に出てきてしまう、早くみんなから評価や反応をもらわなきゃという衝動を抑えられない、そのような強迫観念に突き動かされてしまうのかも。
何でこんな時にまで·······というようなブログやインスタなどもすぐにアップしてしまう(自撮りも多い)傾向がありますよね。
(知人にもそのような人がいて、とても接し辛く、反応し辛いです······)
もしかしたら本人は物凄い葛藤のせめぎあいで、苦しみもがいているのに、それでも出てきて注目してもらえて反応をもらえることに快感を得ているかもしれません。
反感を買うリスクや苦痛を押してでも、その先にもたらされる快感を求めてしまうのがナルシストのような気がします。
その快感こそがナルシストにとってのマストなエネルギーチャージの(癒されたと感じる)手段だからなのでは?
状況や心が落ち着くまで出て来なくてもいいのに、その前から表に出て来るのはそういうことですね。
そこが常人には理解できないので、奇異に見えてしまい、その行動を見ている人達に要らぬストレス(一種の恐怖?)を与えてしまっているのですよね。
アンフェアだと、相手や周囲から共感や支持が得られずに、距離を置かれてしまうことがあると思います。
アンフェアは不誠実な在り方ですから。
他者からの本物の共感や支持を得たいのであれば、可能な限り誠実な表現、できるだけフェアであることが望ましいのではないかなと私は思います。
被害者を責めるつもりは毛頭ありませんが、自分の被害を訴える時に、どう表現するのか
フェアかアンフェアかでは、その後の反応や評価に違いが出ると思います。
アンチを減らしたいなら、可能ならばフェアであることに越したことはないのではないでしょうか。
それから、ナルシストは復讐心が半端ないので、すぐにでも仕返しや当てつけをしないと気が済まないタチですから、まだPTSD中だろうと構わずに復讐心に突き動かされて、一般人はそこまではやらないようなこともやってしまうのではないでしょうか。
ナルシストほど、自分の苦痛や苦悩ヘの対処よりも、他者から得られる評価や反応と復讐行為の成功を最優先してしまうのではという気がします。
なので、もしかしたら真に自分を癒すことが難しい人、他者からの評価や反応でしか自分を癒せない人(癒しの代償行為)なのかもしれませんね。
(芸能界隈の人はそのような人がより多いのかもしれませんが)
離婚問題や恋愛などの何らかのトラブルの相談などでも、その人が100%被害者ということは無いのに、自分は100%被害者をアピールする人は信用されにくいですよね。
信用できないと、相手や周囲は味方になれないのですよね。
他者と信頼関係が結べないのは、ナルシスト過ぎるからということもあると思います。
ナルシストは、そのような点で損だと思います。
自分の味方を失いやすいのもナルシストなのでは?
アンフェアな在り方をなるべく止めて、ナルシスト度が減った方が、きっともっと受け入れられ、真に共感され、愛されるのではないのでしょうか。
(了)




