非常識に生きるならば
世の中には常識の通じない人、非常識の塊のような人もいたりする。
普通がまったくわからない、そういう人もいる。
何らかのトラブルになる時は、常識的ではない人が大抵絡んでいる。
非常識なのが、相手なのか、自分なのか、それともお互いに非常識なのか色々なパターンがあるとは思うけれど、常識とか普通がわからない人には話が通じないことも多い。
普通がわからない、非常識なことばかりする
そのような人は、人よりもトラブルや人からの批判や非難、反発も多いだろうね。
自分が非常識だと叩かれたり、その分、アンチも多くなるものだ。
非常識に生きる、自分の非常識を押し通して生きたいならば、それは覚悟しないとならない。
それが嫌ならば、常識を覚えるとか、常識を受け入れることを少しずつでもやるしかない。
その覚悟もなく、受け入れることを拒否や拒絶ばかりしていると、孤立を招くだけだ。
常識的に生きようが、非常識に生きようが
自分の責任は取らないとならないのは同じだ。
普通がわからないから、非常識だから責任を取らなくていいなんてことはまったくない。
非常識だと軋轢が多いから、独立独歩でいないと嫌がられてしまう。
非常識なのに依存的、非常識なのに無責任だと、社会的に迷惑な人にしかならない。
非常識にも二つあって、迷惑にならない非常識と、迷惑になる非常識がある。
迷惑な非常識ほど叩かれるものだ。
常識を超えていくならば、迷惑をかけずにやるしかない。
迷惑しかかけないのにドヤる
無責任なのにドヤる
それだと人から嫌がられるだけだ。
非常識でも、迷惑にならないならば、人はそれほど文句は言わないものだ。
迷惑をかけまくるならば、否定や拒絶しかされないだろうね。
迷惑かけないで、自分の責任でやるならば
誰も咎めないものだ。
今日の非常識が明日の常識、未来の常識になることもある。
でもそれは、迷惑ではない非常識だと思うよ。
迷惑な非常識が、明日の常識や未来の常識になることはほぼ無い。
その違いがわからないならば、迷惑な非常識な人から自分が脱することはできないよね。
非常識に生きるならば、自分の非常識を通すならば、その覚悟と責任を引き受けないとならないよね。
(了)