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絵画の女

 僕の美術館には、動く絵画がある。『僕の』と言ったが、僕がアルバイトしている私設美術館の話だ。詳しくいうと、動くのは絵画の中の人物画で、背景や、その他のものは動かない。絵画は何十枚と置いてあるが、動くのは一枚だけ。若い女の絵だけだ。これは不思議だけれど、事実だ。


「あとは、小泉君、頼むよ」先輩がいう。

「はい」

 18時以降の時間は、担当は僕一人だけになる。財団が運営している私設の美術館なので事務から警備までなんでもやる。しかし、夜も朝も、客がいない間も警備をつける必要性が感じられない。

 入館料も二千円と高めだし、客もわりと入ってくるのだが、自分のアルバイト先ではあるが、お金の流れや運営体制にものすごく怪しさを感じる。

 

 今日はひどく寒かった。冷房を切っているのに冷風が何処からか吹き込んでくる。

「冷房が故障しているんだろう。設備業者に連絡してみてよ。高橋さんなら21時くらいまで電話にでてくれるから」

 先輩はそういい、帰り支度をした。

 故障にしては、ひどく寒い。もうすぐ八月、真夏日も多いというのに、冬みたいな温度だった。今にも凍りついてしまいそうだった。

「先輩、上着って、いまどこにも置いてないですか?ジャンパーとか……」

「いま時期はないよ。倉庫にあるかもしれないけど、きっと奥だし、探すのが面倒だよ。今日は我慢してよ」

「そうですかぁ」

 昆虫が侵入してくるので窓は開けられない。先輩はそそくさと帰ってしまった。これ程、寒かったのでは美術品が痛んでしまうのではないかと思ったが、それ程、貴重な品もないし、管理自体もかなりずさんなものであった。学芸員も一人定期的に来てもらってはいるが、彼も自分の職場があるので、あまりこの美術館には、時間や手間をかけられないようだった。


 明治初期に活躍した(といわれている)ドイツ人との日本人のハーフ画家の油絵。議会議員が趣味で描いた絵や、新興宗教の教祖が作った壺さえも置いてあった。先月には、地元の小学生が見つけた河童の骨と呼ばれている、胡散臭い物体も追加した。金とコネクション、話題性のためなら、なんでも置くのである。そのせいかどうかは定かではないが、僕が此処に勤める三年程前には、何者かに銃弾を二発打ち込まれたこともある。(先輩に聞いた話なので、信憑性は低い)その事件の数ヶ月前には、ある不動産会社の社長がゴルフでホールインワンした時の帽子を飾りたいという電話があったが、流石にそれは断ったという。なので、その銃弾は断った不動産会社の社長、あるいはその背後にいる組織の仕業だと先輩は推理したが、馬鹿げた話なので、すべては先輩の作り話かもしれない。



 冷気の流れを辿っていくと、冷気が放たれているのは、女の絵の部屋からであることがわかった。絵には赤い布が被せられていたが、布の端は冷凍庫に入れたみたいに白く強張っていた。

 僕は、思い切ってその布をはぎ取った。

 

 二十代前半くらいの、色白の女の絵が描かれている。

「ねぇ、小泉君。ここから出してくれない」

 絵は囁く。

 風が絵の中で吹き、女の髪や服が揺れる。草原や木々の葉も揺れている。青々しい匂いが漂ってきた。

「駄目だよ」

「どうしてよ」

「絵の中から人間を出していいなんて、就労規則に書かれていないよ」

「あら。出しては駄目とも書かれていないでしょう?」

 女は右手の掌で絵の表面を滑らせる。

「そうだけども」

「私、次に目覚めるのは、百年後なのよ」

「本当かい?」

「ええ。百年毎に目覚めているの。だから前回は、一九一二年だったわ」

「外へ出て、アイスクリームでも食べにいきたいわ」

「仕方ないなぁ」

 僕は渋々、女の手を取り、絵の中から引っ張り出してあげた。

「なんだか地球の大気は薄くなったかしら」

「薄くなってないよ、きっと」

 どうやら美術館の温度は元に戻ったようだった。女は千鳥足で、ふらつきながらも、目を輝かせ、辺りを眺めていた。

 外はもうすっかり暗くなっていた。敷地内の外灯が点滅する。女は僕に寄りかかり、腕を組んで歩かないといけない位、ふらふらしていた。衰弱しているというよりは、酒を飲んで酩酊している状態に近かった。女は、車道を走っている車を指さし、歓声を上げる。

「やめてくれよ。恥ずかしいよ」

「私、昔は恐竜に乗って移動していたのよ」

「嘘だよ。恐竜なんて六千五百万年前に絶滅しているよ」

「それが嘘よ。本当は、三百年くらい前までは普通に存在していたわ」


 彼女のアイスクリームを食べたいという要望通り、美味しいアイスクリームが食べられるカフェへと向かった。 

カフェに着くと、女は大喜びした。この店は、深夜まで営業している。レジにいくと、女はまた大喜びして、チョコレートパフェを注文した。女は時折、奇行というか、奇妙な発言を見知らぬ人にしていた。ウェイトレスには「あなた、来年の今日、死ぬわよ」と言ってみたり、隣のテーブルに座っている若いカップルには、「あなた達の子どもは銀行員になるわ」と言ったりして、僕は、その人達に弁解し、謝罪するのに必死だった。

「そろそろ戻らないかい。入り口の鍵をかけ忘れたかもしれない」

「いやよ。戻らないわ。あなただけ帰ってもいいのよ」

「そうはいかないよ」

「じゃ、映画を見に行きましょうよ」

「行かないよ。仕事がまだあるんだ」

「いいのよ。そんなこと」

「君を連れて戻らないと」

「いやな人ね」

 女は、頬付きをしながら天井を見上げ、二杯目のアイスティーのストローを回す。

「君は、現代のお金を持っていないだろう。お金がないと、どこへも遊びにいけないよ」

「なら、お金を置いていってよ」

「いまは二千円しかないよ。これでは、すぐなくなってしまうよ。君一人でホテルにも泊まれない。今日は一旦戻って、また明日、色々な場所へ行こう」

 女は渋々、承諾した。女は不機嫌そうに指の爪の状態を気にしている。


 店を出ると、肌寒く、空には黒雲が立ち込めていた。顔を上げると、小雨が疎らに頬に当たる。

「雨よ」

「雨だね」

「私、雨に塗れると溶けてしまうわ」

「本当に?」

「私を形成しているのは、絵の具ですもの」

「そんな。早く屋内に入らないと」

「もう遅いわ」

 女はそう言うと、瞼を閉じ、よろめきはじめた。大粒の雨が、女に当たる太度に、洋服や身体が剥がれ落ち、地面に落ちた。

 瞬く間に、女は消えて無くなったが、地面には大量のどろどろとした絵の具のようなものが残った。


 美術館に戻ると、温度は通常に戻っていた。僕は、なんだか不思議な気持ちになって、また女がいた絵を覗きにいくことにした。案外、また絵の中に戻っているかもしれない。

 しかし、絵を見ると、やはり女の姿はなかった。

「まいったなぁ」

 絵の中で、風が吹く。草が揺れ。鱗雲が流れる。耳の奥が、一瞬、静まりかえったような感覚がした。視界に映る、全ての現象の輪郭がぼやける。


「あれ」

 気がつくと、僕は絵の中にいた。

 窓のような所から、さっきまでいた美術館の部屋は見えるが、丈夫なガラスで覆われていてびくともしない。

 そうか。こういう掟みたいなものがあったんだな。


「絵の中から、絵の人物を出したものは、絵の人物として生きる」

そう女がどこかで囁いたような気がした。


 絵の外からは、見えなかったが、すぐ横には、公園のような広場があった。囲いはなく、中央に噴水。花壇。ベンチが幾つか同心円状に配置されていた。地面には、黄色の煉瓦が等間隔に敷き詰められている。よく見ると、ベンチに誰か腰掛けている。

「あれ、新入りかい」

 五十代くらいの灰色の作業服を着た男が僕に言った。

「ええ。そうです」

「座りなよ」男は、自分の横を軽く手で叩く。顔はこんがりと日焼けしている。僕は、軽く会釈してから男の横に座った。ベンチ上では、蟻が列を作り、木の隙間に流れ込む。

「此処は良いだろう。空気も綺麗だし。何より雨が降らない」

「あなたも外から?」

「まさか。僕は絵だよ。この絵を描いた画家が描くはずだった絵だ」

「描くはずだった絵………」

「そうだ。だから、実際には描かれていない」

「この世界は、何処まで続いているんですか?」

「さぁね。何事も境界線っていうのは難しいんだ。とても曖昧なんだよ」

「そうですか」

「画家は、とっく死んでしまったけど、想像力は生き続けている。想像力は、有機的に各要素間を結合し、体系を作り、生物のように新陳代謝を繰り返し成長する」

「新陳代謝ですか」

「そうとも」

 時間はゆっくりと流れる。風が吹き、蜜蜂がシロツメクサから、別のシロツメクサへ飛び移る。

「海岸に行ってみなさい」

「何かあるんですか」

「船が出るよ」

「何処へ着くんです?」

「絵のもっと深い階層までいく。ここは、第一階層だが、おそらく、五千階層くらいはあるんじゃないかな」

「そんなにですか」

「と言っても、後半は単なる反復として認識できないだろうけどね。同じ風景、同じ人物、同じ出来事の繰り返し」

「果てはどうなっているんです?」

「さぁね。わからない。しかし、作者の想像力、作者の亡霊達によって、いまもなおこの絵画世界は拡張されている」

「果てに作者が居るんですか」

「ああ。たとえ作者に出会えなくても、果てを探しに行くべきだよ。境界とは、君自身のことだ。境界の外へ行くためには、君の認知している世界の枠組みを変えなければならない。境界の内側からみる境界の外側は、外側ではなく、内側なんだ」

 男はそう言い、僕に急いで向かうように急かした。


 船着き場に着くと、そこにはもう大勢の人間がいた。皆、船に乗る準備をしていた。家族や、恋人と別れの挨拶をし、次々とスーツケースを引きずりながら、船へと入っていった。僕は、その人達に紛れ込み、荷物も持たずに乗船した。

中に入ると、不思議と先ほどまでの人間は何処へ消えたのか見あたらず、三人、四人、ロビーでコーヒーを飲んだり、新聞を広げたり、甲板で海を見ていたりした。船は静かに出航する。

 

 百年後は、どんな世界になっているのだろうか。

 この世界を探索して回っても、それほど時間はかからないだろう。他に、何かするべきことが見つけられたらいいけれど。

「まぁ、百年なんてあっという間かな」

 僕は、気楽にのんびりと待つことにした。


2012年

2025年 少しだけ修正

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