瞞着
建国祭前日――
マギーは依然として”ネコ”の正体を掴むことができないでいた。おまけにこの数日間、目標ことポメルドット卿はまったく変わった動きを見せなかった。
ともあれ、アストリッドはティーナとの約束通り、再び城に赴いていた。祝祭の前日だからか、城内は前回来たときよりも雑然とした雰囲気を醸し出している。そこでは一層、アストリッドの存在は搔き消えてしまう。慣れればどうということもないが。ティーナはやはり私室で彼女を待ち受けていた。
「お兄様を見ていないかしら?」
唯一の友人の姿を目にすると、ティーナは挨拶もそこそこにそう言った。またか。そう思ったのを顔には出さず、アストリッドは首を振った。
「今日は出かけるって言ってたけど」
「ええ……ごめんなさい。私もそう聞いたのだけれど、念のため確かめておきたくて」
ティーナははにかんで目を逸らし、初めて会った日と同じように鏡の前に座った。鏡越しに目が合う。微笑する間際に王女の瞳に宿った不安の色を、アストリッドは見逃さなかった。
「何慌ててるのさ?」
「えっ?いえ、何でもないわ」
「ふーん?」
目を丸くしたティーナはアストリッドのからかうような視線を避け、やや雑な仕草で傍に置いてあった櫛を取った。彼女は髪を梳くことはせずにそれを弄び、ちらとアストリッドの顔色を窺った。変わらず、すべて見透かしているかのような笑顔を返す。ティーナは深々とため息をついた。
「……そうよ、本当はあなたに話したいことがあるわ。―あのね、アストリッド。知っての通り、私にはお友達と呼べる人がほとんどいないの」
「そうらしいね」
「けれど、あの夜、あなたはわざわざ危険を冒して会いに来てくれたでしょう?私はそれがすごく嬉しかったの……」
なるほど、話が見えない。アストリッドは困惑を前面に押し出してゆっくりと頷いた。
「……それで?」
「その、ね?馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょうけれど、私はあなたのことを一番のお友達だと思っているのよ。とにかく、私、あなたになら打ち明けても良いんじゃないかって……少し、困ったことがあるの」
ティーナは早口に捲し立てると、きゅっと口元を引き結んで鏡に映るアストリッドの顔を見つめた。
「まあ、ティーナの心配事を解消するのも私の任務のうちだよ、多分」
「ええ、そうでしょう?」
ほんの一瞬、険しくなった王女の顔が鏡に映った。振り返った彼女の目つきはぼんやりとしていた。
「実は、お兄様のことなのよ。何だか、様子がおかしいの。私が何を言っても上の空で……返答はしてくださるけれど、まるで別のことを考えていたのだとわかってしまうような」
「恋でもしてるとか?」
アストリッドは茶化して答えた。ティーナは目を白黒させて立ち上がると、落ち着きもなく部屋を歩き回り始める。
「いえ、違うわ。……その、違うと思うの。だって、香水の香りが……つまり、女の人のではなくて、ポメルドット卿がいつもつけていらっしゃる香水の香りがしたのよ、お兄様から」
まるでその仕草が論を整然とさせるとでも言うかのように、彼女は手を小さくきびきびと動かしていた。アストリッドは茶会で会ったポメルドット卿のことを考え、そのユリの花を煮出したかのような独特な残り香を思い出した。
「ああ、あのしばらく残りそうな匂い?あの人とどっかで会ったんじゃない?」
「私もそう思うの。けれどね、お兄様はあの方に長らくお会いしていなかったと……覚えている、お茶会の日のことを?あれの前日の夜に気付いたの。だからてっきり、私はお兄様が前もってポメルドット卿に会いに行ったものだと思ったのに」
「匂いがしたのは間違いないの?」
「ええ、あの方もご自身で無二の香水だとおっしゃっていたもの。あの香りがするとしたら、どこかあの方のお屋敷ででもお会いしていないとおかしいでしょう?」
ティーナは神経質に手の甲を掻いた。アストリッドの視線に気付くと、彼女はすぐ手を下ろしたが、その白い甲にはほんのりと赤い爪痕が解れた糸のように残っていた。アストリッドは何となくその手を両手で包みたい衝動に駆られたが、そうはせずに目を上げた。
「かもね。でも、アルヴァは会ってないって言い張ったってわけか」
「そうなの。あの方にお会いしたことを隠す理由があるとは思えなくて……私、何だかすごく嫌な予感がしたのよ」
王女は鏡の前の椅子にすとんと腰掛け、衣服の腿の辺りを優しく撫でた。彼女は黙りこくり、時計の針が時を刻む音が三度響き渡った。アストリッドが考えていたのは、あの飄々とした王子が、愛する妹を騙すのにどれだけ平然としていられるのか、ということだった。そもそも、嘘の上手い人間がただ血の繋がっているだけの他者を愛せるものなのだろうか?
「……ティーナ、ネコって名前に心当たりはない?」
「ネコ?動物のことではないわよね。何かの呼び名ということ?」
話題が変わったことにどこか安堵して、ティーナはまだあどけなさの感じられる顔を上げた。
「そうなんだと思う。私もよくわかんないけど、店か、団体か……何でも良いんだ。ひょっとしたら、そのことに関係あるかもしれなくてさ。知らない?」
「どうかしら……」
同じ質問を、彼女の兄は真面目に考えもしなかった。そのことに気付いてアストリッドは気を悪くしたが、今更考えても仕方のないことである。
「そういえば、お兄様とラウルが”ネコ”がどうという話をしていたのを聞いたわ。後でそのことを尋ねたら、お父様への嫌がらせに城に猫を放そうかと考えていた、と。お父様は猫がいると寒気がするとおっしゃるから。そのときはいつもの冗談だと思って聞き流したけれど」
ティーナは真剣な面持ちで言った。国王と猫の因縁などはどうでも良いが、とにかく大の男が二人で話し合う内容ではないだろう。つまりは、当たりだ。アストリッドはゆっくりと頷いた。
「なるほどね」
「それって何かいけないことなの?」
ティーナは慌てて尋ねる。わかりきった、すでに自己の内で判定が終了しているであろうことをわざわざ口にするのは、ただその心配をなかったことにしてくれるよう相手に期待しているからである。ちょうど、汚れを見たら拭ってしまう、それに似た心理を利用したいまでのことだ。アストリッドは努めて軽い調子を貫いた。
「どうかな。ポメルドット卿が悪だくみしてるって言ったらどう?」
「それが事実なら、すぐにでも止めてくださらないと困るわ。けれど、ねえ、お兄様は関与していないかもしれないでしょう?本当にただネコの話をしていたのかもしれないわ」
「私はアルヴァが関係してるかどうかなんて知らないよ。考えもしなかった」
もちろん嘘である。が、彼女はティーナを指さして、兄に疑いを持っているのだということを自覚させようとしたのだった。案の定、王女は自身の抱く不愉快な疑念に顔を引きつらせた。
「意地悪ね、あなたって!」
大袈裟な調子でそう言われ、アストリッドは肩をすくめる他なかった。ティーナは不機嫌に口を噤み、そしてすぐ、名案を思い付いたとでも言うかのように顔を輝かせた。明暗の激しい女性である。
「ねえ、お兄様に、企みが私たちの知るところになったと言ってしまってはどうかしら?何をする気かはわからないけれど、それで考え直してくださるかもしれないわ」
「絶対駄目!」
というのは、ネコがグウェンドリンに繋がる手がかりである可能性を捨てるわけにはいかなかったためである。王家の問題など二の次だ。……と思っていることをティーナに悟られては堪らないので、怪訝そうな顔をする彼女に向けた言い訳を、アストリッドは大急ぎで考え出さなければならなかった。
「だから、その、そんなことしたら、アルヴァが何しでかすかわかんないじゃん。悪だくみをする人って、総じて冷酷な性格をしてるんだから」
おっと、それはティーナには逆効果である。彼女はきっとして言う。
「お兄様が私を傷つけることなんてないわ」
「そうだよね。わかってる。ただ、何が起きるかわかんないってだけだって……私たちに任せてくれたら、万事上手くいくから。とりあえず、ティーナには様子を見ていてほしいかなー、なんて」
アストリッドは馬を相手にしているかのように若干後退り、愛想笑いで王女を宥めた。ティーナは少し機嫌を損ね―彼女は完全に不機嫌になるやり方など知らない―、アストリッドに背を向けた。鏡にその憂いを帯びた横顔が映っている。
「黙っていれば良いのでしょう。あなたたちが解決してくださるなら、私が余計なことをして台無しにしてはいけないわね」
そう投げやりに言われた瞬間、アストリッドが思い至ったのは、唯一信頼している存在を否定されたティーナの孤独であった。アストリッドはその孤独を知っている気がした。彼女は王女に歩み寄り、顔を覗き込むようにして跪いた。
「なあに、アストリッド?」
ティーナはもう微笑んでいた。アストリッドは瞠目し、胸を締め付けられる思いで彼女を見た。
「ねえ、ティーナの大切なものは、ちゃんと守るって約束するよ。だから、私のことを……私のことも、信じて。友達でしょ、私たち?」
「……ええ、そうね。あなたのことも、お兄様のことも、どちらも信じるわ。いざというとき、自分でしっかりと決断できるように」
ティーナは毅然として頷いた。レカンキチが隠す、聡き大輪の花である。
夜、あるかもわからぬ決戦に備え、マギーは作戦会議を行っていた。マンフレッドが甲高く地面に杖を打ちつけた。
「目標の様子はどうだ?」
「動きなし。当たりじゃなかったのかなあ」
そう言って座り込もうとしたハーレイは、マンフレッドの視線に気付いて曲げていた腰を戻した。キャットがぐっと腕を伸ばしながら口を開く
「そんなことありえないわよ。ほら、火のない所に煙は立たぬって言うじゃない」
「誰かが他所から煙を送ってたのかもよ」
と、アストリッドは横から言った。キャットは下唇を軽く噛んで数秒考える。
「だとしても、先に扇を使ったのは目標のほうなんじゃないかしらね」
くだらないと思ったのか、はたまた同意を示そうとしたのか、マンフレッドはキャットの言葉を短く鼻で笑った。
「間違いないだろう。明日は、とにかく目標の動きを警戒しろ。……まったく、目標の尻尾を掴むことができんとは、口惜しいな」
またも、昔懐かしと引きずって物を言っている。それがほとんど嫌味のような調子であることに、彼は気付いていないだろう。そんな風に言われたところで、王家への臣従という意識がほとんど皆無であり、曲芸と戦いの腕ばかりが磨き上がった現在のマギーにはどうしようもない。
「目標が何か仕掛けてるにしても、もうとっくに準備が終わってたんだろうね」
アストリッドがそう当たり障りのないことを言ったのは、誰の機嫌も損ねたくなかったからである。結局、板挟みになるのは彼女なのだ。気ままさという点では誰にも比肩せず、理解者ではなくとも最も彼女の味方に近いハーレイが言う。
「いっそのこと、お祭りの間に監禁でもしたら?」
「それじゃ、解放してからが面倒だわ。どうせやるなら、値が付くほうが良いんじゃないかしら」
「ふむ!何はともあれ、我々は悪しき企みの阻止さえすれば良い。怪しい者の捕縛ないしは暗殺を徹底し、人前には姿を晒すな。王家の影だということを忘れないように」
マンフレッドは苛立っているかのように小刻みに杖を鳴らしながら引き上げた。いつものように彼が小屋の扉を閉める音がするのを待ち、アストリッドは二人にくたびれた視線を送った。
「さて……王子までが一枚噛んでるわけだけど」
ティーナから聞いた話はすでに共有してあったが、先ほどはろくに話す間もなくマンフレッドが姿を現してしまったのである。ハーレイがやれやれと地べたに腰を下ろす。
「本当に嫌がらせに猫を放すだけだったらどうする?」
「どちらにせよそうじゃない。目標の話と合わせて考えれば、ネコってどこかのごろつきのことよ?」
キャットが気取って言うと、ハーレイは感心して頷き、何事かマヨに話しかけた。アストリッドはちらと二人の様子を窺った。
「本当にフレッドには言わなくて良いかな?」
「ネコの調査って、グウェンドリンとの繋がりを調べるためだったよね?団長に言っちゃったら意味ないよ。俺たちだけでやるって決めたでしょ」
と、珍しくまともにハーレイが意見を返してくる。すぐにアストリッドは尋ねなければ良かったと、数秒前の自分を恨んだ。当然、キャットの追撃がある。
「そうよ。ネコが団長と関わりがある可能性だって否定できないわ」
「わかってるよ。悪しき企みを阻止すれば、フレッドも文句ないはずだよね」
アストリッドは冗談だと言うように肩をすくめた。何か別の話題を出そうとして、協力を仰いだ博士のことを思い出す。この数日間、彼は特にマギーと関わっていなかった。
「そうだ、アイニックに話をしないと。明日がお祭りの日だって忘れてそう」
「本当に役に立つかなあ、カッパーさん」
颯爽と歩き出したアストリッドに続きながら、ハーレイはぼそっと呟いた。軽やかに小屋の扉を押し開け、三人は博士の前に並んだ。アイニックは厄介な商人にでも捕まったかのような顔をして振り返った。
「やあ、アイニック」
「カッパー博士だがな。揃いも揃って何の用かね?」
「任務は明日よ。準備、できてるのかしら?」
キャットは小屋の隅に積み上がった発明品の山をまじまじと眺めながら尋ねた。そのことかと言いたげに、アイニックは眉を動かした。
「やると言った以上、抜かりはない。……おお、そうだ!これを見たまえ!」
一転表情を輝かせ、アイニックは机の上に置いてあった発明品を三人に向かって掲げた。穴が数カ所開いた、ぶよぶよの皮のような物体である。アストリッドは若干の嫌悪をわざと顔に出した。
「……何、それ?」
「これを被るとだな、別人の顔を手に入れることができるのだよ!これがあれば、人通りの多い場所でも追手を心配せずに済むであろう?」
そう勢いづかれると、彼らも頷く他ない。
「追手って……見たことないわよ、私」
キャットが呆れて呟くように言った。アイニックは皮肉っぽく鼻を鳴らす。
「君らが気付いていないだけだ。大勢が出入りする曲芸団に身を置いたのは間違いだったと思うくらいには、危うい場面が多かったのだがな」
「それを被ったら、団長にも気付かれない?」
ハーレイは興味津々といった様子で、色々な角度からアイニックの新しい顔を眺め回した。自身の実験の成果に興味を持たれるのはいつでも嬉しいらしいが、博士はその喜びを努めて隠していると見える。
「直接話すことをしない限りは問題ないはずだが。何だね、彼には諸々のことを伏せているのか?」
「まあね。色々あってさ」
アストリッドは小首を傾げて言った。はぐらかされたのを追求するほど、アイニックも若くはない。
「それで、我輩は具体的に何をしたら良い?」
「別途指示するよ。私たちの目的は、ネコを捕まえて、グウェンドリンについて吐かせること。何が起きるかわかんないけど、まあ、皆で何とかしよう」
アストリッドは頼りなく笑った。
「おー」
のんびりとした調子で言いながら、ハーレイが拳を突き上げる。まったく、やる気があるのやらないのやら。一同が苦笑して見守っていると、彼は気を悪くしたように手を下ろし、もう一度同じ動作を繰り返した。
「おー!」
笑い出しながらアストリッドは拳を上げ、キャットも元気良くそれに倣った。最後には、三人の刺すような視線に負け、アイニックまでが小さく拳を持ち上げた。