端緒
マギーは黙って帰路を進み、もちろん幾通りもある迂回路を通ることは忘れず、団の天幕に辿り着いた。三人はさらにそこを通り抜けて小屋に飛び込み、ようやく息をついた。アストリッドは仮面を剥ぎ取って座り込み、頭を抱えた。何か言おうと顔を上げ、すぐにやめて舌打ちをする。
「俺たち……」
ハーレイが呟いた。特に言うこともないのに語り出すのも、馬鹿らしい話である。キャットは不満げな顔をして枕を叩いて潰し、二人に背を向けて寝そべった。
「やっぱり、刺し違えてでも殺すべきだったんじゃないかしらね」
「こっちが死んだら元も子もないじゃん」
アストリッドはふてくされたように言い返した。敗北感がひしひしと彼女に覆い被さりつつあった。キャットは仰向けになって天井をぼんやりと眺めた。
「わかってるわよ。……どうするの、これから?」
語気を緩めたのは、三人のうちの誰かが悪いわけではないと頭ではわかっていたからだ。アストリッドもまた、心の静けさを取り戻しながら答える。
「任務に集中しよう。今はまだあいつと決着つけられないんだと思う」
「直感?」
と、ハーレイが控えめに尋ねた。彼は二人が今にも喧嘩を始めるのではないかと内心怯えていたのである。彼を安心させようと、アストリッドは口の端を一瞬ぐいと持ち上げた。
「うん。あいつは私たちの知らないことを絶対知ってる。それを知らない限り、あいつが上であり続けることに変わりはないと思う」
マギーを占めていたのは、まるで内蔵の色をぴたりと言い当てられたかのような、漠とした不気味さと不快感であった。確認することもできないのに、それが正しいと考えずにはいられないような。彼らはしばし黙りこくった。アストリッドは今にも身震いしそうに腕を擦った。ハーレイが両足を投げ出して座り込み、独り言のように呟く。
「……ネコって何のことだと思う?」
「え?」
「言ってたでしょ、グウェンドリンが。まさかネコには負けないでしょって」
彼はやたらと真剣に言った。アストリッドは鼻を鳴らした。
「あいつの言うことなんか、いちいち気にしなくて良いと思うけど」
「どうかしら。わざわざあんなことを言った理由があるはずじゃない?」
キャットが伸びをしながら口を挟んだ。そのとき、無遠慮に扉が開いて、アイニックが顔を覗かせた。
「誰か、手を貸して―何だね、出かけていたのか?」
と、三人の恰好を見て言う。キャットはほとんど彼を見上げる努力もせずに諾った。
「見ての通りよ」
「そうか。仕方あるまい……」
あまり疎ましく思われるのも嬉しいことではないので、こういうとき彼は大人しく引き下がるのである。グウェンドリンとの会話を反芻していたアストリッドは、ふと思い立って顔を上げた。
「待った、アイニック」
「カッパー博士だ。何だね?」
「完全に私たちの上に立ってると思ってる敵がいて、そいつがわざわざ忠告みたいなことを言ってきたんだ。何でだと思う?」
博士はわざわざ小屋の中に戻ってきて扉を閉めた。
「それは謎々かね?それとも、我輩に真っ当な意見を求めているのかね?」
「何が違うのよ」
アイニックは呆れたようにキャットを一瞥し、思考を巡らせ始めた。
「……我輩はその敵とやらが何者か知らないが、その者が君たちの上に立っていると考えているのが確かならば、単に君たちを泳がせて面白がっているだけかもしれないな」
「じゃあ、あいつは適当なことを言ってただけってこと?」
ハーレイはアイニックの前に伸ばしていた足を引っ込めながら尋ねた。アイニックは顎に手をやって考える。
「相手は君たちがその忠告に従わざるを得ないと知っているのではないか?」
「多分ね」
「ならば、それが真実であろうとなかろうと、向こうの愉悦を生み出すことには変わりないであろう。しかし、真実である可能性は十分に考えられる。理解し難いことだが、敵が正解へと近づくことに快楽を見出す輩もいるからな。……いや、あるいは」
彼はふと顔を上げ、わずかな興奮を滲ませて目を見開いた。たとえどんなに簡単な数式であろうと、答えを見出す瞬間は、いつでも彼にとって喜ばしいことなのである。
「君たちの行動が相手の有利に働くのかもしれんな」
「つまり?」
アストリッドは愚鈍な眼差しを投げながら続きを促した。
「その者が愉悦と見せかけて巧妙にその意図を隠しながら、自身の目的を達成するために君たちに手を下させようとしている。そうは考えられないかね?」
アイニックは教師か何かように一同の顔を見回した。キャットが起き上がり、髪を撫でつけながら言う。
「あの女ならやりかねないわね。それなら、言う通りにしてやる必要はないかしら?」
「必ずしもそうではない。もし君たちがその者に繋がる手がかりを探しているのなら、今回のことが良い糸口になる可能性はある」
博士はわざとらしく言葉を切った。彼の言わんとしていることを察し、アストリッドははっと顔を上げた。
「それって……弱点とか?」
アイニックは満足げに薄く笑みを浮かべて頷く。
「その通り。具体的に何を言われた?」
「まさかネコには負けないわよね、王家のワンちゃん……だったよね?」
アストリッドは確認を求めてキャットとハーレイにそれぞれ目をやった。二人が彼女に頷き返すと、アイニックは
「つまり、君たちの今度の依頼にそのネコとやらが関わっているということだな。そしてそのネコは、相手の不利益であるかもしれない。どうせ王家のことは守らねばならないのだろう?ついでだ、逆に辿ってみたまえ」
彼はおどけて二本指を足のように動かしながら言った。三人はその提案をよく吟味した。それはグウェンドリンへの対抗策として、かなり見込みのある考えであった。問題は……
「人手がないよ、俺たち」
ハーレイが言った。諾うようにキャットが片手を振る。アイニックはわずかに動揺し、扉に手をかけた。嫌な予感がしたのだろう。
「それは我輩の知ったことではない。ではな」
そう言って彼は即座に小屋を出て行こうとしたが、そんな誤魔化しも無駄なことであった。
「そうだ、アイニックが手伝ってくれたら良いんじゃん」
アストリッドが言うと、彼はいかにも嫌そうに振り返った。
「何故我輩が手伝わなければならんのだ」
「マギーのことを知ってるのは俺たち以外にカッパーさんだけだもん。カッパーさんにしか手伝えないよ」
ハーレイは人懐こい笑みを浮かべてアイニックを見上げた。アイニックは渋い顔をして首を振る。
「やりようならいくらでもあるだろう。探偵でも雇いたまえ!」
「薄情ね。まあ、隠密行動ができないって言うなら仕方ないけど」
キャットは挑戦的に博士を見た。彼は素早く顔を背け、ばつが悪そうに呟く。
「できないとは言っていないがな」
「じゃあ、やってよ」
アストリッドが言うと、アイニックは固く目を閉じた。
「断る」
彼は扉のほうを向き、いよいよ出て行こうとする素振りを見せた。その背中に、キャットが嘲るような笑い声を送る。
「やっぱりできないみたいね」
「待て……」
「あら、良いのよ、博士。できないことをやれって言うのも酷よね」
キャットは心底残念そうなふりをして肩をすくめた。アイニックが深々とため息をつく。
「君たちが何と言おうと、我輩はマギーに手を貸すつもりはない。お互いのためにならん」
彼はくすぐられた誇りを仕舞い込み、決然と小屋の外に踏み出した。アストリッドは慌てて立ち上がり、彼の腕を掴んだ。当惑して振り返った博士が見たのは、先ほどとは打って変わって真剣な面持ちをした彼女であった。
「……アイニック、敵はレオとアーウィンの仇なんだ。それでも駄目?」
彼の瞳がわずかに揺れた。彼はキャットとハーレイに目をやり、ふざけてばかりの彼らがその表情に悲しみを映しているのを発見した。アストリッドに視線を戻すと、彼女は苦し紛れに微笑んでいた。
「今回のことが終わったら、金輪際こんなこと頼まないって約束する。ね、頼むよ」
アイニックは黙りこくり、頭を掻いた。彼ががらくたに息吹を与えることにしか興味がない冷徹な研究者だと考えるのは、甚だ間違いである。彼は発明品の山の中に、人間らしく柔い心を隠し持っているのだ。彼は再びため息をついた。
「……良いかね、今回だけだぞ」
「うん。ありがとう。―何か手伝ってほしかったんだっけ?」
アストリッドが尋ねると、アイニックは早々に扉を閉めながら答える。
「今日は良い。早く寝なさい」
扉が閉じた。三人は安堵に目を見合わせ、各々眠りに就いた。
翌朝、アストリッドは城に赴いた。出かけていく彼女に、マンフレッドは声をかけた。
「油断しないようにすることだ。祝祭の準備で城が慌ただしい今、殿下を狙ってくる輩がいないとも限らん」
「はーい。フレッドは一緒に来ないの?」
「私は陛下に御呼出しを受けているからな」
マンフレッドは肩をすくめた。アストリッドがしっかりと任務をこなしてくるかどうか、彼が不安に思っているのは明らかだった。彼女はわざと気楽に手を振って出発した。彼の神経質なところは、唯一嫌いなところであった。
城に着くと、アストリッドは正式かつ非公式な入り口を通って内部に入った。影のように廊下を進んでいく。誰も彼女を気に留めない。マグノリオ団の外では、団員たちの存在は限りなく零に近いのである。目視はできても、彼らは目立たない。彼らが”そこにいること”を悟られる必要はなく、むしろ、彼らは”そこにいないこと”を強要され続けている。
ティーナは私室でアストリッドを待っていた。新たな友人の姿を目にし、王女は穏やかに微笑む。
「正面切ってのご登場ね。来なかったらどうしようかと思っていたのよ」
「来ないとフレッドに小言を言われるだけだからね。っと……御機嫌麗しゅうございます、王女殿下」
アストリッドは相手の身分を思い出し、恭しく頭を下げた。形式だけでも整えておけば十分だということは、これまでの活動によってはっきりしていた。ティーナはわずかな当惑を滲ませて首を傾げた。
「御機嫌よう、アストリッド。どうしたの、畏まって?」
「挨拶はしとかないと。茶会はまだなの?」
「もうじきよ。お兄様も、今日はいてくださるみたい」
「良かったじゃん」
「ええ。お兄様ったら―」
ティーナが言いかけたとき、扉を叩く音がした。彼女の従者が茶会の支度が整ったことを告げ、すぐに下がった。王女は続きを言うことを忘れ、ただ浮きうきと微笑んだ。
「行きましょうか、アストリッド?」
二人は連れ立って庭園に向かった。絵画のように寸分の狂いもなく美しいその庭園では、選り抜かれた茶器と、退屈を極めたアルヴァが待っていた。彼は二人の姿を目にすると、愉快そうに顔を輝かせた。
「やあ、来たね」
ティーナが近づいてくると、アルヴァは立ち上がって自ら彼女のために椅子を引いてやった。彼女は目を細めて微笑む。
「ありがとう、お兄様。お早いのね」
「俺は茶会が大好きだから、早く始まってくれないかと思って。―また会えたね、アストリッド」
そう言ってアルヴァが頷きかけてきたので、アストリッドは彼の妹にしたのと同様の辞儀をした。
「御機嫌麗しゅうございます、王子殿下。すっぽかさなかったんだね」
「ティーナが君を送り込んできたりしたら困るもの。とても逃げられそうにない」
ティーナは呆れたような目配せをアストリッドに送った。アストリッドがどうとでも取れる表情を作るばかりだったので、王女はふと顔を背けて茶器を見下ろした。
「ポメルドット卿はそろそろいらっしゃるかしら?」
「来なくたって俺は構わないけれどね。その分、アストリッドが彼の席に座れるじゃない?」
「私は絶対に座らないよ」
アストリッドはぎょっとして間髪入れずに口を挟んだ。アルヴァはそれを聞き、声を立てて笑った。ティーナがまたも呆れ―もちろん、確かな親愛も―を滲ませる。
「お兄様は本当に冗談がお好きね」
「そりゃあもう。まあ、ラウルを迎えに出したから、彼だって嫌でも来なきゃならないだろうさ」
ふと一同は口を閉ざし、風の音に耳を澄ませた。この庭園では、葉の一枚すら揺れるのを許されていないかのように思われた。数秒か数分の後、一人の従者が未だ若々しい紳士を伴ってやってきた。アルヴァの側近ラウルと、お待ちかね、ポメルドット卿である。彼は立ち上がろうとするティーナを穏やかに制し、二人の王族に慇懃に挨拶をした。
「御機嫌麗しゅうございます。まさか、お二人に遅ればせて参上することになるとは。とんだ失礼をいたしました」
「構わないさ。俺たちが張り切っていただけのことだよ」
アルヴァが言うと、ポメルドット卿はどこか顔を引きつらせて笑った。紳士はアストリッドには一瞥を与えたが、特別彼女を気に留める素振りは見せなかった。アストリッドは彼の特異な香水の香りに気付いた。それは強烈で、茶会の席には不向きであるように思われたが、ティーナを見るに、おそらくいつものことなのだろう。
「どうぞお座りになって、ポメルドット卿」
「ええ、恐れ入ります、王女殿下」
ポメルドット卿はどっしりと椅子に腰かけた。ラウルが紅茶を注いでいき、甘露蓋を外して去っていった。何気ない調子でアルヴァが口を開く。
「こうして顔を合わせるのは、随分久しいことじゃないか」
「おっしゃる通りでございますね、王子殿下」
二人の会話にティーナは数瞬眉をひそめたようだったが、彼らがまるきりおかしな態度を取っていなかったからか、口を挟むような真似はしなかった。ポメルドット卿は物音一つ立てずに茶器を手に取り、控えめに紅茶の香りを楽しんだ。
「おお、何と香り高い……この茶葉をいただいたことはなかったかと存じますが」
「ええ、さすがですわね。これはキテスから仕入れた茶葉ですわ。まさか、あの地にこんな素晴らしい茶葉があるとは思いもしませんでした」
「騎士の国ですからな、キテスは。貴人に取り入るための秘密の種をいくらでも隠し持っているのでしょう」
王族たちの顔を見れば、それが何かまずい発言だったことは疑う必要もなかったが、ポメルドット卿はそのことに気付いてすらいないようだった。彼は素早い手つきで菓子を取ると、満悦したような微笑みを浮かべてそれを口にした。その隙に兄妹が視線を交わす。それが一体どういう意味を持つのか、アストリッドが考える間もなく二人は目を逸らし、菓子を飲み込んだポメルドット卿が話し出すのを待ち構えた。
「いや、それにしても、お二人は本当によく似ていらっしゃいますね!」
ポメルドット卿が独特な香りを残して帰っていくと、アルヴァは王族らしからぬ姿勢で椅子にもたれた。
「一度やったら、当分は思い出して満足できる茶会だったよ」
「私は少しも足りないわ。しょっちゅうお会いしているのに」
と、ティーナはいじけたように髪を指先に巻き付けた。アルヴァが無造作に菓子をつかみ取りながら言う。
「他に友人を作ったらどうかな」
「お父様の気に入る方の中では、あの方が一番落ち着くの。私の神経が」
王女は毛先をいじるのをやめてつと立ち上がった。皿に取った菓子を差し出し、アルヴァはアストリッドに微笑みかけた。
「立派な紳士だっただろう、彼は?」
「そうだね。知り合うのもおこがましいよ」
アストリッドは菓子を放り込んだ口をもごもごさせながら答えた。ティーナがはっとして振り返る。
「いけない、紹介すると言っていたのに。……いえ、良いわね。あなたは私のお友達だもの」
彼女はどこか恍惚としてさえいるようだったが、その顔つきはすぐに明るさを葬り去った。幸福そうに見せることが癖になっている人間特有の切り替えである。
「お兄様、本当にあの方とは久しかったの?」
「ああ。俺が彼とどこで会うと言うのさ?」
アルヴァはのろのろと茶机の傍に戻りながら答えた。目を上げ、わかるだろうと言いたげに肩をすくめる。
「……そうだったわね」
ティーナはそっと呟いてはにかんだ。そこへ、きびきびとした動きでラウルが庭園に姿を見せた。
「ティーナ様、国王陛下がお呼びです」
彼は言い、根を生やしたようにその場に立ち尽くした。彼女を連れてくるよう仰せつかったということだろう。ティーナは辟易したような顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「わかったわ。―アストリッド、ゆっくりお話したかったのだけれど」
アストリッドは菓子をもう一つつまみたいのを堪えようとしていたが、その視線はまっすぐ茶机に向いていた。ちらと王女に目をやり、答える。
「呼んでくれたらまた来るよ」
「いえ、私……そうね、建国祭の前日に来てくださらない?その日なら私も時間があるわ」
「仰せのままに、王女殿下」
アストリッドはおどけて言った。
「ありがとう。御機嫌よう」
ティーナが頷いて去っていくと、アルヴァは飄然とアストリッドを顧みた。王子というよりは道化のような仕草で庭園の出口を示す。
「せっかくだから、見送るよ」
「いや、良いよ……あんた、王子様でしょうが」
「とはいえ、骨と血と肉でできているからね。行こうか?」
拒否権はないらしい。アストリッドはそこまで気にすることでもないと思い直し、彼に続いて城の中を進んでいった。専用の出入り口がある辺りで立ち止まる。人気はない。
「私、こっちから出るから。ここまでで良いよ、どうもありがとう」
「ああ。前日は俺は城にいないと思うから、次に会うのは建国祭の日になるだろうね。また会おう、アストリッド」
アストリッドは鈍く返事をして歩き出したが、ふと思いついて足を止めた。
「アルヴァ、ネコって知ってる?動物のほうじゃなくて、まあ何かよくわかんないんだけど、何かしらそういうの」
王子は考え込み、それからゆっくりと首を振った。
「……いや、知らないな。何故?」
「聞いてみただけ。じゃ、また」
アストリッドはさっさと城を後にした。彼らには悪いが、茶会はあまりにも退屈で、早いところ昼寝がしたかったのである。