秘密
夕暮れ時、マグノリオ団の天幕は観客を口いっぱいに含んでいた。普段よりもわずかに値下げした入場券は昼までに完売していた。公演は、双子の分の空きがあるのにもかかわらず上手くいった。ベッファが器用に茶番を引き延ばしたので、わざわざ曲芸師の不足を訝る者もいなかったようである。まるで値下げした意味がなかった。
観客の中には件のポメルドット卿の姿があり、すでに彼の人相や交友関係を調べ始めていたキャットとハーレイは、彼が客席の後ろのほうで愛人の娼婦と並んで座っていることにしっかりと目をつけていた。
「他人のふりなんかしちゃって、意味あるのかな」
馬鹿馬鹿しくも素知らぬ顔をしているその男を眺め、幕の裏に入ったハーレイはぼやいた。
「自分じゃ匂いってわからないじゃない」
そう言って、キャットはハーレイと交代して舞台に躍り出た。
しばらくの後、歓声と証明を存分に浴びながらアストリッドが目ざとく確かめたのは、もちろんヒューゴの姿であった。彼が公演に夢中になっている様子であるのは嬉しかったが、キャットたちから話を聞いた今では、卿の噂というのがあの愛人に纏わる話ではないことを祈らずにはいられなかった。
すっかり身体に馴染んだ技を披露しながら、アストリッドはいつものように客席の端から端までを眺め回した。右手の奥にポメルドット卿、正面の中央に陣取るヒューゴ、そして左手の修道院から来たらしい一団には――
「……グウェンドリン!?」
見間違えるはずがないあの漆黒の髪と、乾いた血のように赤黒い唇。その唇が絵に描いたように対照的な曲線を浮かび上がらせ、アストリッドは相手がこちらの当惑に気付いたことを察した。時が止まったかのように感じられたその一瞬、彼女は曲芸のことなど完全に忘れ去り、そしてそのせいで、危うく綱から落下しそうになった。
観客のどよめきではっとした彼女は、まるで演技のうちであったかのように振舞ってその場を誤魔化した。怯えたような顔をしていた観客たちはたちまち愉快そうな笑顔を浮かべた。改めて客席を眺めると、グウェンドリンはまっすぐに彼女を、いや、彼女の目を見上げ、からかうように笑っていた。
アストリッドは天幕が観客を吐き出しきるのを今か今かと待っていた。普段であれば、去り行く人々に笑顔を張り付けて手を振り続けるこの時間をかなり楽しむのであるが、今日ばかりはそうもいかなかった。彼女は必死に目を光らせたが、その人波の中にグウェンドリンの姿を見つけることはできなかった。
早いところ宿敵の出現についてキャットやハーレイと話し合いたかったが、彼女にはまだヒューゴと落ち合うという約束があった。彼は最後尾で天幕から出ようとしていたが、アストリッドの姿を見止め、困ったように左右に目を走らせた。人々の足音は遠ざかっていくばかりだったが、傍にキャットとハーレイが立っていたからである。
「アスト、これが例の?」
ぐずぐずしている彼を怪訝そうに見つめ、キャットが尋ねた。
「そう。ヒューゴだよ。ヒューゴ、こっちがキャットで、そっちがハーレイ。あと飼い猫のマヨ」
ヒューゴは胡散臭いものを見るように紹介された面々を眺め、マヨに目を止めた。
「……虎じゃねえか」
「ネコ科なんだよ。知らない?」
ハーレイは悪気なく言った。アストリッドは薄い笑いを浮かべた。
「どっちだって良いけど。ヒューゴ、この二人は大丈夫だから、例のことについて教えて」
「ああ……」
ヒューゴは鈍い返事をし、躊躇うように頬を掻いた。キャットが腕を組み、鋭い目線を向ける。
「公演を見たかっただけじゃないでしょうね」
「ねえ、マヨ、今夜はご馳走にできそうだよ」
と、ハーレイがふと独り言ち、マヨの首の辺りを撫でた。慌てた様子でヒューゴが後退る。
「わー!待て待て!言う、言うよ!その虎だか猫だかの餌にするのだけはやめてくれ!」
「今日は満席だったから、ちょっと贅沢しても良いかなって思っただけなんだけどな」
こういった類のことをハーレイが本気で言っているのかどうかは、誰にも判断がつかないことである。
「俺が話したってことは、誰にも言わないでくれるよな?」
ヒューゴはきまり悪そうに身を縮めながら言った。アストリッドは笑いそうになったのを一歩手前で堪えた。
「誰もただの飲んだくれのことなんか付け狙わないと思うけど。まあ、言わないよ」
「頼むぜ……どうも、ポメルドット卿ってのは、妙な悪党どもとつるんでるみてえでよ」
周囲に他の人がいないのは明らかであるのにもかかわらず、ヒューゴはさらに身をすくめ、ぼそぼそと言った。その言葉は、昨晩酒場で聞いた”聖人”という評価にはまったく合致しないものであった。アストリッドは窺うように眉を動かした。
「へえ、聖人様が?」
「ああ、だから俺の勘違いかもしれねえんだが」
その矛盾を指摘されたことで、ヒューゴの肩身はますます狭くなったようであった。マヨを撫でていたハーレイが顔を上げる。
「その悪党どもって、何て奴らなの?」
「ただの飲んだくれが、んなこと知ってて堪るかよ。だが、スージーの話じゃ、最近この辺りを縄張りにしようとしてる奴らがいるらしいぜ。俺はそれがポメルドット卿と良からぬことを企んでる奴らだと思っててだな……」
突然興が乗って流暢に話し出したヒューゴを、キャットは手で制止した。
「待ってちょうだい。それ、彼が本当に悪だくみをしてるってことかしら?それとも、あなたの憶測なの?」
「半々ぐらいだが……」
痛いところを衝かれ、彼はぎくりと目を泳がせる。キャットから目を逸らした先でハーレイが彼を見上げており、マヨまでが彼を睨んでいるかのようであった。アストリッドは前に進み出て、威圧するように首を傾げた。
「どういう意味?そもそも、何であんたはポメルドット卿が悪党と接触してるって知ってるの?」
「いやな、俺も確証があるわけじゃ……ああ、もう、わかったよ!」
ヒューゴはついに降参し、やや勿体ぶった調子で語り出した。
いわく、空が白み始める頃合いに酒場の裏口から帰途に就いた彼は、路地裏から唐突に出てきた男と衝突しそうになった。その男は帽子を目深に被り、外套に顎を埋めるようにしていたが、彼がつけていた銀の腕輪は、間違いなくポメルドット卿が肌身離さずつけているものであった。何をしていたのだろうかと、通りがかりに路地裏に目をやると、そこにはいかにも悪党といった出で立ちの男が二人、袋から出した金貨を検めていた……ということらしい。
三人は沈黙して考えた。すぐ傍で牛が草を食んでいる音だけがしていた。ヒューゴは気まずそうにあちこちに視線を動かしている。
「でも、どうせそのとき酔っぱらってたんでしょ?」
と、アストリッドは疑るように顔を上げた。ヒューゴはどぎまぎしたように彼女の顔を見た。
「いや、けどよ、その時間には酔いも醒めてきてたし……」
彼が言い切るよりも早く、キャットが口を挟む。
「朝が近かったとはいえ、その路地裏って結構暗かったはずよね?」
「まあ、物がはっきり見えるってほどじゃ……」
今度は彼の言葉の余韻が消えるのを十分に待ってから、ハーレイが開口した。
「そもそも、腕輪なんていくらでも似たものがあるもんね」
「な、何だよ!信じられねえってんなら良いやい!」
自棄になってヒューゴが言うと、三人は視線を交えてお互いの意見を探った。それらは一致していた……これは使える情報だ、と。
「まあ、別に信じるんだけど。ありがとう、ヒューゴ。良い手札ができたよ」
アストリッドは感謝を示そうと、できるだけ愛想良く微笑んだ。ヒューゴはかえって合点のいかない様子で曖昧に頷いた。三人は不親切なやり方で彼を帰らせると、改めて目を見合わせた。
「方針は決まったかしらね」
キャットが口を切った。そのまま話を終わらせることができたらどんなに良かったか。しかし、アストリッドは公演中の出来事を忘れるわけにはいかなかった。
「そうなんだけど、それよりも大事なことがあるんだよね」
「夕食、食べ損ねたの?」
と、ハーレイが真面目腐った顔をして尋ねる。アストリッドは呆れて首を振った。
「何でそうなるのさ?……グウェンドリンがいたの、客席に」
「はあ?冴えないわね、アスト」
キャットが冷やかすように言ったのは、それが真実だと信じたくなかったために相違ない。
「冗談じゃないってば。上から見たらすぐわかったよ。修道女の恰好でさ」
アストリッドが真剣に切り返すと、二人はようやく事態を認めて渋々と頷いた。屈んでいたハーレイが立ち上がる。
「人殺しって修道院にいられるのかな?」
「確かに不殺生には努めてないでしょうけど。この辺りの修道院かしら?」
「多分ね。一団がまとまって来てたから」
アストリッドが答えると、キャットは唇を軽く噛んで考えた。
「そう……まあ、調べておくわ」
「助かるよ」
「ありがとう、キャット」
どさくさに紛れて面倒事を押しやろうとするハーレイに、キャットは窘めるような視線を投げる。
「手伝ってくれるなんて優しいわね、ハーレイ」
彼は唇を尖らせて肩をすくめた。牛が大きな音を立てて鼻を鳴らした。その音でアストリッドは顔を上げ、まるでそのとき初めて気が付いたかのように、すっかり辺りを闇に染めた夜に目を凝らした。そして、ティーナが今夜は窓を開けておくと言っていたことを思い出す。彼女は本当にそうしているだろうか?
アストリッドは警備の厳重な城に忍び込むことを想像し、胸が躍るのを感じた。窓が開いていなかったら、大人しく帰ってくれば良いだけのことだ。彼女は二人に出かける旨を告げ、飛ぶように城を目指した。
アストリッドは難なく城壁を登ると、雲が月を隠すうちに移動し、あっという間に目指す窓の傍までやってきた。城とはいえ、警備はアストリッドの目ではなかった。部屋の位置はしっかりと覚えていた。下で巡回の兵士が持つ角灯の光が揺れていたが、それが頭上の侵入者を照らす気配はなかった。
彼女は地面を見るしか能のない兵士に静かな冷笑を送ると、影が彼に見えないことを確認してから、王女の居室に繋がる露台に飛び移った。風に帳が揺れている。どうやら、ティーナは本当に窓を開けたままにしているらしい。突然中に入っては驚かせてしまうだろうかと思案したものの、他にやりようもないので、アストリッドは堂々と部屋に飛び込むことにした。
結果から言って、それは大きな間違いであった。その部屋の内装は今朝見たものとは明らかに違っていたし、そこで彼女を待ち受けていたのはティーナではなく、高貴な身なりをした若い男性であった。何をどう考えても、それは王子アルヴァであった。
彼は侵入者を二度見し、馬鹿馬鹿しいほどあんぐりと口を開けた。アストリッドは失敗を悟り、すぐさま逃げ出すべきだろうかと考えを巡らせた。が、実際にそうする気は不思議と起きなかった。二人はしばし黙って見つめ合い、やがてアルヴァが口を開いた。
「……約束があったかな?」
「王女様とね。ごめんなさい、部屋を間違えちゃって。見逃してくれません?」
アストリッドは自身の善良さを証明しようと、大人しく言った。アルヴァはどこか安堵したように微笑み、つい先ほどまで確かにあった緊張感をすっかり打ち消してしまった。
「何だ、ティーナの友人か……さては、例の護衛だね?そういうことなら、もちろん見逃してあげるけれど」
「友達っていうか、まあ……えっと、妹ってことは、やっぱりあなたが王子様?」
聞くまでもないことではあったが、場を持たせようとしてアストリッドは尋ねた。アルヴァはおどけて両手を広げ、部屋を見回した。
「そうだとも。こんな贅沢をしている給仕がいても困るじゃない」
「そりゃあね。まあ、それは良くって。どうも、お邪魔しましたっと……」
アストリッドはゆっくりと後退った。やはり、一悶着起きる前に逃げ出したほうが良い気がしてきたのだ。すると、王子は目を見開き、彼女の行く手を阻むように窓辺に近づいた。
「ああ、待って。俺がティーナをここに呼んできてあげるから」
アストリッドは素っ頓狂に彼の発言を聞き返した。彼は宥めすかすような顔つきで彼女を見つめた。
「俺は未知なるお客人とも、ティーナとも話したいからね。大丈夫、兵士を呼んできたりはしないよ」
引き留める間もなく、アルヴァは意気揚々と部屋を出て行ってしまった。兵士を呼ばない?どうだかね。しかし、アストリッドはその場に留まることを選んだ。やろうと思えば、追手を振り切って逃げることなど造作もない。
やがて戻ってきたアルヴァが連れていたのは、ありがたいことにティーナであった。彼女はアストリッドを見て花咲くように微笑んだ。
「本当にいらしたのね、アストリッド。嬉しいわ。あなたとは仲良くなれる気がするの」
アストリッドはこういうときにマンフレッドが何と言うか想像した。彼は得意のこなれた応酬については伝授してくれていなかった。
「それは、えっと……恐れ多いですけど」
「そう畏まらないで良いじゃないか。彼女は友人なんだろう、ティーナ?」
「ええ。アストリッドが私をそう呼んでくれるのなら」
ティーナは親愛を込めたような眼差しを送ってきた。アストリッドは唇を尖らせ、しばし考えた。マンフレッドにはあまり肩入れしないよう言われたが、その忠告は、こうして部屋に忍び込もうとした時点でとっくに無視をしていたものであった。彼女は肩をすくめた。
「そりゃ、私は構わないけどさ。後で反逆罪とか言わないでね」
「俺の妹を危険な目に遭わせない限りにおいて、君は安泰だよ」
アストリッドは苦笑し、改めて兄妹を眺めた。二人とも、墨を落としたような漆黒の瞳をしている。ちょうど、田舎であれば魔術師の末裔として恐れられたであろう瞳だが、それ以外の点では、彼らはあまり似ていなかった。
「あまり似ていないだろう?」
心を読んだかのように、アルヴァが言った。見透かされたことに若干の気恥ずかしさを覚えながら、アストリッドは頷いた。
「まあね。よく言われる?」
「大勢の目が暗にそう語っているよ。俺たちが腹違いの兄妹だから、仕方のないことだけれど」
しれっと秘密を暴露するアルヴァに、ティーナは何とも取り難い視線をちらと投げた。
「ええ……お父様はそのことをすっかり隠蔽なさってしまったの。だから、私のお母様のことを知っている人は、わざと反対に私とお兄様が似ているだなんて言い出すのよ。ポメルドット卿なんて、ほとんど口癖のようだわ」
「確かに、彼は顔を合わせる度そんなことを言うよ。他に話題がないのかと思うくらいね」
兄妹は慣れたやり方で視線を交わした。知った名前に食いつき、アストリッドはやや不自然に口を挟む。
「ねえ、二人はそのポメルドット卿って人のことよく知ってるの?」
「ええ。とても大らかな方よ。どうして?」
ティーナが意外そうに眉を動かしながら尋ねる。嘘をつく必要はないだろう。
「この前の祝宴に来なかったって聞いたから」
「ああ、父上か。体裁が気になるのかな。俺とはそこまで関わりのある人じゃないから、来なくたって良いと思うけれどね」
そう言って、アルヴァは卑屈にぴくりと口角を上げた。ティーナが同調を求めるようにアストリッドのほうを向いた。
「そんなことを言って、お兄様はあの方を避けているだけなのよ。彼がお茶にいらしてくださるときに限って用事をめざとく見つけるんだから」
「そんなことないさ」
「そう言うなら、今度はいらしてね。確か、明後日……あら?今日は何の曜だったかしら?」
「土の曜だよ」
と、アストリッドが即答できたのは、公演の日が土の曜と決まっていたからである。ティーナははにかんで首を傾げた。
「ありがとう、アストリッド。それなら、確かに明後日だわ。ねえ、きっとお城にいらして、お兄様」
「わかったよ。―さあ、今日はもう終いにしよう。俺はお前と部屋で話していたと知れただけでも大目玉を喰らうんだから」
アルヴァは冗談めかして言い、二人の目を順に見つめた。
「それくらいで済むのなら、私は気兼ねなくお兄様に会いに来ることができるわね」
ティーナは茶目っ気のある笑顔で兄に向かって言うと、アストリッドに近寄ってその手を取った。
「マンフレッドが、建国祭までの数日間、好きなときにあなたを傍につけて良いと言っていたわ。だから、お茶会のときにいらしてね。きっとあなたをポメルドット卿に紹介するわ」
それはどちらかというとまずい提案だった。目標と知り合うという点でも、この密会のことがマンフレッドの前で仄めかされうるていう点でも。アストリッドは何とか誤魔化そうと、わざと気楽な笑みを浮かべた。
「ティーナと仲良くしてるのが知れたら、私もフレッドに大目玉を喰らうんだけど」
「もしそんなことになったら、私がマンフレッドを叱ってあげるわ」
ティーナはどこか寂しそうに言うと、そそくさと部屋を後にした。扉が閉まると、アルヴァは振り返った。
「妹のことをくれぐれも頼んだよ」
彼はやけに真剣に言った。アストリッドは一瞬怪訝そうな顔をして、すぐにやめた。窓辺に寄り、帰路を確かめながら答える。
「まあ、それが任務だから。じゃあ、私もこれで」
「ああ。また茶会のときに。俺の気が変わらなければね」




