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寡黙の外連に魅せられて  作者: 小娘
仮初の冠
5/29

因果

 その夜、アストリッドは町へと降りていった。彼女は公演がない日でもマグノリオ団の天幕に留まっていることが多かった。今日は、どうというわけもなく町に繰り出してみる気になったのである。


天幕があるのはレカンキチ王国が都ターバの町からはみ出したような場所だったが、そのターバこそは、アストリッドが生まれ、そして記憶ごとすべてを失った町だった。何が起きたのか、彼女は一つも知らない。知りたいとも思わないのは、単なる恐れからか、それとも生に対する情熱ごと奪い去られてしまったからか?


アストリッドは大通りを外れ、当てもなく町の深部へと足を進めた。そこに、酒場の看板があるのを見止める。『スーザンの酒場』。飾り気のない文字列に惹かれ、彼女はその店の扉を開けた。そこは外の閑散とした様子からは察しがつかないほど繁盛していた。横木に空いている席を見つけて腰掛けると、若い店主の女性―おそらくスーザン―が人好きのする笑みを浮かべて近づいてきた。


「いらっしゃい!何にする?」


「あー……お酒はわかんないんだ。おすすめは?」


アストリッドが尋ねると、スーザンは怪しく眉を上げた。


「あんた、ついてるわね。ちょうど今朝、良いのが入ったところなのよ」


彼女は取り出した酒瓶をアストリッドの前に押し出した。それは彼女の背後に掲げられた手書きの品書きの中で、一番高い値がつけられているものらしいが、アストリッドは特に気にせずに代金を支払った。ハーレイのように飼い猫がいるわけでも、キャットのように着飾る必要があるわけでもないのだ。出し渋る理由もない。


すると、隣に座っていた男が声を抑えて笑った。見ると、どうやら二人のやり取りを笑っていたようである。スーザンが彼を睨みつける。


「何さ、ヒューゴ?」


「いや、悪い……嬢ちゃんがあんまり素直に金を出すもんだからな。性質悪いぜ、スージー!」


彼は言葉の隙間という隙間に笑い声を挟みながら言った。


「あんたは余計なこと言わなくて良いんだよ」


悪びれもせずに言う女店主に好感を抱き、アストリッドはにやりと笑った。


「別に、挨拶代わりに払っただけだけどね」


それを聞いて、男は声高らかに笑った。


「そうかい!俺ぁ、ヒューゴってんだ。嬢ちゃんは?」


と、杯についた露で濡れた手をアストリッドに差し出す。彼女はその手を握り返した。それは冷たい露に負けじと熱を持っていた。


「アストリッド。曲芸師なんだ」


「ああ、わかった!さてはあんた、マグノリオ団の花形の娘でしょ?綱渡りが十八番だってね」


スーザンが身を乗り出して言った。ターバでマグノリオ団を知らない者はまずいないので、アストリッドのことが知られているとしても不思議ではない。アストリッドは肩をすくめた。


「まあね。見に来たこと、ある?」


「ターバに生まれりゃ、一度はな。まあ、嬢ちゃんがまだいなかった昔の話だけどよ。あの頃は、すげえ曲芸師がいてよお。な、スージー?」


と、もどかしそうに指先で台を叩きながら、ヒューゴはスーザンを見上げた。店主は記憶を辿ろうと目線を上に彷徨わせた。


「”空を渡る曲芸師”……だったっけね。名前は確か―」


「マンフレッド、でしょ?今の団長だよ」


アストリッドは少し得意になって言った。外から評判を受けることこそ、彼らがマグノリオ団として―マギーとしてではなく―世界とつながりを保つ唯一の方法だった。そうでなければ、彼らは報酬こそもらえど、感謝すらされない半透明な闇夜の隣人に過ぎないのだ。ヒューゴが喜ばしく両手を打ち鳴らした。


「そうだ、マンフレッド!初めて見たときは、本当に度肝を抜かれたもんだぜ!あの人、今もやってんのか?」


「やってないよ。腰に来るんだって」


曲芸をやらないのかと聞くと、マンフレッドは決まってそう答えるのだが、それが真っ赤な嘘なのは明らかだった。時折任務に参加するときに見せる動きは、彼がいまだに現役時代に勝るとも劣らない身体能力を持っていることを示すのである。


「そりゃ、惜しいねえ」


スーザンは呟くと、彼女を呼んだ客に大声で返事をして、そちらへ歩いて行ってしまった。会話が途切れた隙に、アストリッドは話題を変えようと指を鳴らした。


「あ、そうだ。ヒューゴ、治安判事のポメルドット卿のこと知ってる?」


「ああ、知ってるさ。この辺じゃ有名だぜ。何でだ?」


「ちょっとね。何で有名なの?何か変わった人とか?」


「まさか!あれは聖人だぜ。平民思いの貴族ってのじゃ、変わってるかもしれねえが」


ヒューゴはそう言って豪快に酒を呷った。


「聖人、ね……」


アストリッドは王家に高い忠誠心を持つという卿の話を思い出した。やはり、例のことは一時の気まぐれか何かだったのかもしれない。そう思ったとき、ヒューゴがふと考え込むような顔をして杯を置いた。


「ああ、だが……」


「どうかした?」


アストリッドはあまり期待が前に出ないよう用心して、そっけなく尋ねた。ヒューゴは考えを打ち払おうとするかのように首を振る。


「いや、何でもねえ。むやみに噂を広めても悪いからな」


目標に悪く作用しうる話ということか。普段なら興味を持たないが、任務のことがある今は、そういった手掛かりを逃すわけにはいかなかった。アストリッドはヒューゴに顔を寄せた。


「……ねえ、明日の公演に招待してあげるって言ったら、その話詳しく教えてくれる?」


「随分太っ腹な申し出だな。裏じゃ情報屋として食ってるのか?」


「別に。ただ、知っておくと色々と使えるから。曲芸師も楽じゃないんだよ、わかるでしょ?」


わかるはずもない。しかし、人―特に男性―というのは、無理解や無知を悟られまいとするもので、ヒューゴも例外ではなかった。彼は、そりゃそうだ、としきりに頷いた。そしてそれ以上の誘導を必要とすることなく、招待を引き換えにして情報―と呼べるものであると良いが―の提供に同意した。


それでも彼は、誰が耳をそばだてているかわからないこの酒場で話すのは気が引けると言って聞かず、二人は公演の後に会う約束をした。そこまでの警戒が必要だということは、くだらない噂に留まらないということだろう。大当たりを予感して、アストリッドは内心にやりとした。



 翌日、アストリッドはマンフレッドに連れられ、王宮に足を踏み入れた。寄り道は許されず、いつも纏っている華やかな衣装は何の変哲もない地味なものに取って代わっていた。二人は兵士に続いて王女の居室に辿り着いた。兵士が軽やかに扉を叩く間、マンフレッドがそっと耳打ちをしてくる。


「極力、口を開かぬようにな」


理由を尋ねる間もなく、二人は部屋に通された。王女は鏡の前に座っていたが、眺めていたのは自分の姿ではなく、そこに映る窓の外の景色らしかった。兵士が敬礼をして部屋を出てからようやく、彼女は物憂げに訪問者を振り返った。


「御機嫌よう、マンフレッド。今年も来てくださったのね」


「御機嫌麗しゅうございます、王女殿下。あなた様の御傍にお仕えする栄誉を他の者に奪われやしないかと、肝を冷やしてばかりでございますよ。この度、私と共に任にあたることになりました、アストリッドをご紹介いたします。祝祭までの数日間は、彼女が御傍仕えをいたしますよ」


マンフレッドが目線を投げかけてきたので、アストリッドは知りうる限り最も上品に礼をした。


「アストリッドです。お目にかかれて光栄です、王女殿下」


「こちらこそ、お会いできて嬉しいわ。私はティーナ。どうぞ気を楽にして接してください」


ティーナはアストリッドをまっすぐに見つめ、小さく頷いて言った。マンフレッドが再び素早くこちらを見た。気を楽に接してはならない、ということだ。柔らかな笑みを浮かべる王女は美しかった。それは絹のような金色の髪のためでも、漆黒の瞳の上でつんと上がった長いまつ毛のためでもなく、彼女が醸し出す憂愁のためなのであろう。彼女の微笑は、そこはかとない物悲しさによってのみ彩られている。


「今回はレオではないのね」


代役が不満だという意味ではないことを示すため、ティーナは愛らしく首を傾げてアストリッドを見つめた。マンフレッドは杖を少し手前に引き、持ち手を握り直した。


「彼は……ふむ、実は我々の元を去りまして」


わざわざこの世を去ったと教える必要もない。王女は想定通りの意味に取り、軽い反応を示した。


「あら、それは残念ね。彼はいつも根気強く私の話を聞いてくださったのに……他意はないわ、マンフレッド」


「何も申し上げておりませんよ、王女殿下」


マンフレッドは朗らかに答え、足を踏みかえた。


「お兄様にはお会いになって?」


ティーナは幾分か慌てたように切り出した。まるで、二人が去ってしまうのを拒もうとするかのようだ。


「いいえ、殿下。アルヴァ殿下は公務でお忙しいかと」


「ええ……ええ、そうよね。私もこのところ、ほとんど顔を合わせていないもの」


彼女は馬鹿なことを尋ねたと思ったのか、しどろもどろになって目線を落とした。見かねたマンフレッドが珍しく気を利かせる。


「アルヴァ殿下といえば、祝宴はいかがでしたか?」


「素晴らしかったわ、安定していて。あなた方のこともご招待できたら良かったのだけれど」


「ありがたい御言葉ですが、我々の仕事には、楽しむという項目はございませんからなあ!」


わざとらしく抑揚をつけて言い、マンフレッドは声を立てて笑った。ティーナは目を細め、ささやかな不平を示した。


「あなたとは、いつまでも打ち付けたと感じることがないわ、マンフレッド」


「ええ、団員に鞭を打ち、稼ぎを溶かすのが私という人間でございますよ。さて、我々はこの辺りで失礼いたします。アストリッド?」


と、マンフレッドが颯爽と踵を返す。逆らう手などないので、アストリッドは大人しく王女に一礼した。


「また、王女殿下」


ティーナはため息と嘲笑を入り交ぜたように小さく息を吐き出した。


「お忙しいこと。最後に一つお聞かせくださらない、アストリッド?曲芸師としては何をしていらっしゃるの?」


背を向けかけていたアストリッドは、首だけを巡らせて振り返った。


「綱渡りです。窓の縁でも歩けますよ」


「素敵ね。今夜は窓を開けておこうかしら。御機嫌よう、お二人とも。護衛を引き受けてくださったこと、重ねて感謝いたしますわ」


ティーナは穏やかに微笑み、優雅に手を振った。手を振り返したいのを堪え、アストリッドはマンフレッドについて部屋を出て行った。


「フレッド、王女様と仲良くしたくない訳でもあるの?」


扉が閉まると、アストリッドは周りに人がいないのを確かめて尋ねた。マンフレッドは軽妙に肩をすくめた。


「私は殿下ではなく、陛下に雇われている身だからな」


「答えになってるとは思えないけど」


アストリッドが眉をひそめると、マンフレッドは元々低い声をさらに低くして静かに言う。


「真面目な話だが、彼女にあまり肩入れすべきではないぞ。我々と王家の長い付き合いに終止符が打たれかねん」


「そんなに横暴なの、王女様って?」


今度は彼が眉をひそめた。


「あの御姿を見てそう思うのか?……陛下だ、問題は」


マンフレッドはすれ違った顔なじみの兵士に眉を動かして挨拶すると、その兵士と十分に距離が離れるのを待ってから言った。アストリッドはちょうど視界に映った、玉座の間に続く扉を眺めた。


「ティーナを溺愛してるとか?」


「それで済めば良かったが」


マンフレッドは再び肩をすくめ、今やほとんど口元を動かさずに続けた。


「陛下とアルヴァ王子殿下の間には因縁があってな……」


警備の兵士が立っていたので、マンフレッドは何食わぬ顔をして黙り込んだ。彼の杖がせわしない音を立てている。二人は玄関の広間を抜けた。これ以上聞き耳を案じる必要もないだろう。


「因縁って?」


アストリッドがせっつくように聞くと、マンフレッドは深々とため息をついた。


「……アルヴァ殿下が幼少の頃から寵児だと言われてきたことは知っているだろう」


「随分前にキャットが言ってたかもね。あんまりこの国にぴったりな王家の人間が生まれたから、周りの人たちは一悶着起こさないわけにはいかないだろうって」


「諍いの根源はそこにあるのだ」


「まさか王様の嫉妬心だなんて言わないよね?」


アストリッドはふざけた調子で言った。が、横から乾いた笑い声が聞こえてこなかったので、彼女ははっと目を見開いてマンフレッドの横顔を見た。そこには、明らかな肯定を示す苦々しい表情が浮かんでいた。


「うっそでしょ……一国の王様が?」


彼女は何とか声を抑えて言った。マンフレッドはまっすぐに前を見据えたまま、わずかに首を振った。


「殿下の母御のこともあるがな。とにかく陛下は王子殿下を遠ざけ、王女殿下ばかりを御傍に置くようになられたのだ。今やその形式もすっかり歪み、アルヴァ殿下がどこで何をなさろうとお気に留めず、ひたすらティーナ殿下を厳重な檻の中に閉じ込めていらっしゃるというわけだ」


「じゃあ、私たちが王女だけの護衛を頼まれてるのも……?」


「そういうことだ」


マンフレッドはちらとアストリッドを見て言った。彼女はどう反応したものか決めかね、結局妙に感心したように頷くことしかできなかった。マンフレッドはわざとらしい空咳をした。


「この話は良い。それよりも、戻ったら今夜の公演の支度を―」



……レカンキチ王国。男子のみがその冠を戴くことを許される、頑強にして頑迷なる国家である。それが高貴なる父は、動かぬ人形の細き首に鎖をつけ、代わりに爪鋭き獅子を野に放った。

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