修繕
戦の予兆が漂う中を国から国へ移動するのは容易ではなかったが、数日後、アストリッドはようやくレカンキチの国境を跨いだ。自覚はなくとも、三年ぶりの故郷である。ターバの町に辿り着いたとき、一番に目に飛び込んでくるあの天幕は、何故か少し古びて見えた。
アストリッドはいよいよ駆け出し、中に飛び込んだ。が、そこには誰もいなかった。いや、きっと奥の小屋にいるのだ。そちらを目指す前に、彼女は天幕の中をぐるりと眺め回した。当然だが、しばらく使われた形跡はなかった。どこか生気を奪われたかのような印象に、アストリッドは思わず身震いした。
気を取り直して小屋があるはずのほうに出たとき、彼女は驚愕した。そこにあったのは、見慣れたぼろぼろの掘っ立て小屋ではなく、家として十分立派な風格の建物だったからだ。
「何……これ」
つい独り言ちながら、アストリッドは吸い寄せられるように玄関に近づき、叩き金を打ち鳴らした。しばらく待ったが、応答はなかった。窓を見てみると、灯りのついている部屋がある。中には誰かいるはずだ。そこで、アストリッドはもっとやかましく扉を叩いてみた。すると、ようやく中でごそごそと音がした。それから、自棄になったような勢いで扉が開いた。
「今は留守の気分なのよ。他を当たったほうが――」
戸口に出てきた友人は訪問客を二度見したし、逆もまた然りであった。
「キャット……?」
「アストじゃない!びっくりね。だけど、正直、来るなら先に教えておいてほしかったわ。買い物を頼みたかったのに」
その言い草はキャットそのものだったが、見た目のほうは以前と少し変わっていた。髪は顎の辺りで短く切られていたし、化粧はずっと薄づきだった。落ち着きが加わった感がある。要は、確かに三年の月日が経っているということだ。アストリッドは再会の興奮に胸が高鳴るのを感じた。
「買い物なら後で行ってあげるから、とりあえず入れてよ。話したいことと聞きたいことがあるの」
「それは奇遇ね。五分の一くらいはあなたの家だから、入るのも出るのも好きにして。だけど、驚くのはやめてちょうだい」
「無理だね。いつの間にマギーも文明人になったわけ?」
と、改めて家を眺める。キャットは肩をすくめた。
「文明人が好きそうなことを始めたんだもの。血も水に溶ければ水になるわ」
アストリッドはキャットについて中に入った。のっぺりとした一階建てだが、地下室があるようだ。しかし、ここにいるのは、いたとしてもキャットとフェリクスぐらいである。ハーレイは森に帰ったのだし。二人暮らしにしては、部屋が多いような。そう思ったとき、近くの扉が開き、中から子どもが飛び出してきた。衝撃が走った。まさか――いや、その子どもはどう見ても、八つをゆうに超えている。三年間に生まれたわけがなかった。
「あ、キャット!その人、お客さん?」
子どもが近づいてきながら尋ねた。何故この距離を走るのか。
「客だともてなさなきゃいけないじゃない。家の主よ、主」
「へえ。じゃあ、お邪魔してまーす」
子どもはキャットの物言いなど慣れっこで、素直にアストリッドに会釈をした。アストリッドはぎこちなく手を振り返した。
「あ、うん……何、どこの子?」
「ターバのどこかよ。曲芸をやらないからって、天幕で勝手に遊び始めたのが多くて。絞る金も持ってないし、商売あがったりよ」
「でも、いつも入れてくれるでしょ?」
「入れたらそのうち帰るじゃない。入れた者勝ちに決まってるわ。そろそろ帰る頃合いでしょうし」
「じゃあ、皆連れて帰るよ。またね、キャット。家主さんも」
子どもは一度部屋に戻っていった。ばたばたと慌ただしい音が聞こえてくる。アストリッドは笑みを堪えようとは思わなかった。
「らしくないことしてるんだね」
「らしいことをできなくなったら、そうなるでしょ。で、今までどこにいたのよ?」
「噴水の底」
「よく息が持ったわね」
「色々あって。ちゃんと話すけど、フェリクスは?」
「下よ。博士が帰ってきたら閉じ込めてやろうと思って作ったのに、勝手に寝起きしてるのよね」
キャットは地下への階段を指さした。いかにもアイニックがのそのそ降りていきそうな雰囲気である。アストリッドは妄想の中で彼の背中を見て、それから最後に彼に会ったときのことを思い出した。必死の形相で哀願と共に彼女を殺した博士の姿を。
「……アイニックから連絡は?」
「ないわ。死んでるかもね」
しれっと言いながら、キャットは地下に下りていった。かなり小ぶりの扉がある。閉じ込めるにはぴったりだ。中は見るまでもなく狭そうだったので、アストリッドは階段で止まった。キャットは扉を押し開け、中に躊躇いなく入っていった。
「ちょっと、フェリ――何してるのよ?さっさとしまって出てきなさい。あなたって本当に呆れた人ね」
そう言い捨てて部屋から出てくると、キャットは目で上に戻ろうと促してきた。アストリッドはそれに従った。
「フェリクス、何してたわけ?」
「文明人がすることよ。アスト、お茶なんか欲しがらないわよね?」
そう言いつつ、キャットは居間へとアストリッドを連れていった。予想外に小綺麗にしている。二人が長椅子に腰掛けたところで、軽やかに扉が開いた。アストリッドはまたも仰天した。そこにいたのは確かにフェリクスなのだが、かつてより段違いに背が伸びていた。顔つきはいくらか大人びたものの、いたずらっぽい微笑は相変わらずそこにあった。
「やあ、アスターだったのか!帰ってくると思ってたよ」
「ああ、フェリクス……なんか、背伸びたね」
呆気に取られながら、アストリッドは近づいてきたフェリクスを見上げた。あんなに小柄だったのに!フェリクスも思うところはあるらしい。
「残念だよね。変わらないでいることほど価値のあることなんてないのに。その点、君は良い」
「そうね。何にも変わってないわ。石にでもされてたの?鏡を持ち歩かなきゃ駄目よ」
キャットが真顔で言った。変わっていない原因には間違いのない心当たりがある。問題は、それを信じてもらえるかどうかだ。
「それが何て言うか……簡単に言うと、私、ちょっと死んでたんだよね」
「もっと手厚く出迎えたほうが良いかもしれないよ、キティ」
「ふざけてるわけじゃないからね」
「良かったわ。冗談にしてはつまらないと思ったの。早く話して。私たちだって驚かないから」
キャットは欠伸をしながら言った。アストリッドが話し出そうとすると、フェリクスは指を鳴らしてそれを止めた。
「待ってよ。話すなら、いっぺんにやったほうが良いじゃない?」
「何の話よ?」
「ハルだよ。迎えに行こう、今から」
「お断りよ。ハーレイが正しいんだもの、放っておきましょうよ」
もちろん嫌味である。アストリッドは苦笑しつつ、穏やかに口を挟んだ。
「キャット、私が一番にやろうと思ってたのは、ハーレイを迎えに行くことなんだけど」
その言葉に、キャットは不機嫌に顔をしかめた。とはいえ――これはアストリッドだからわかることだが――、キャットも本気でハーレイと縁を切ろうと思っているわけではないのだ。マギーは意地っ張りの集まりなのである。結局、粘るまでもなく彼女は出かけることに同意した。目指すは、いざ、ハーレイの根城だ。
マギーはハーレイがいるはずの森に足を踏み入れた。場所は知っていたものの、訪れるのは初めてだった。ハーレイが生まれたわけではないにせよ、育ったのはこの森だった。偶然――あるいは必然――ここにやってきたマンフレッドが、一人でいるハーレイを見つけ、連れて帰ってきたのだ。
マグノリオ団に入ってきたのは、フェリクスを除けばハーレイが一番最後だった。その育ちは例によって他の団員たちとはまったく違っていたが、彼らはすぐに打ち解けたものだ。
などということはさておき、アストリッドは彼がいるのはここだろうと確信していた。彼にとって、森がすべて同じということはない。一番落ち着くのは故郷の森なのだと、仲間は耳に胼胝ができるほど聞いていた。それに、ここはレカンキチからさほど遠くない。家出のために長い旅路を歩くようでは、ハーレイとは呼べないのだ。
「この中で探すの?」
先頭で森に入ったフェリクスは振り返りながら尋ねた。アストリッドは首を振った。
「探さないよ」
「私たちは、ね」
キャットが同調した。二人は並んで地面に腰を下ろした。フェリクスが眉をひそめる。
「僕は?」
「座ったら良いんじゃないかしら」
「わからないことは聞かないほうが良い、か」
彼は木登りを始めた。
「ところで、アスト。あなた、死後の世界にでも行ってたってこと?」
退屈しのぎにキャットはそう切り出した。
「まあ、そういうことだね」
「大勢が生き生きしてたんでしょうね」
「そうでもないかな。ねえ、でも、信じないかもしれないけど」
アストリッドはキャットの耳に顔を寄せた。
「レオに会ったよ」
そう言うと、キャットは目を見開き、嘘かどうか見極めるようにアストリッドの顔を眺めた。本当らしいとわかると、彼女は改めて驚愕の声を上げた。
「何と言うか……すごいわね。じゃ、あなた本当に死んでたの?」
「そこから?いや、しょうがないか……それで、なんか、レオも戻ってこようとしてたんだって」
「彼にできなくてあなたにできるなんてね。他意はないわよ。わかるでしょ?」
キャットは急いで付け加えた。レオの評価は仲間内で並外れて高かった。それはマンフレッドの認めるところでもあり、実は我らが団長が一番可愛がっていたのは彼ではないかと、アストリッドは密かに思ったものだった。
「わかるよ。レオは完璧、でしょ?でも、だからこそ、ひび割れたときの損傷が大きいんだと思う」
「あなたもひび割れたみたいな言い方ね」
「信じてたものが真実じゃないとわかったら、あんただってそうなると思うよ。私、自分がどこの誰なのかわかんなくなっちゃった」
アストリッドは自身の膝を抱え、その上に顎を乗せた。長らく忘れていた感情が舞い戻った瞬間の衝撃を再構築しては味わう。それを一体何度繰り返したことか?キャットは友人の顔を横目で盗み見、ため息をつきつつ口を開いた。
「あなたはマグノリオ団のアストリッドよ。それは私が保証できるわ。そもそもね、過去に何が起きようが、これまで何を信じていようが、人はそう簡単に変わらないの。良くも悪くもよ。だから、あなたはあなた」
「……今日はいやに親切だね」
アストリッドは思わずぎょっとしながら顔を上げた。キャットは不満げに鼻に皺を寄せた。
「何よ。私が意地悪かったことなんてある?」
「ないって言ったほうが良い?」
「まったく。あなたが泣き出しそうな顔してるからじゃないの」
と、彼女はつんと顔を背けた。アストリッドは声を立てずに笑い、友人の肩を軽く叩いた。それから、森の奥に目を凝らした。そろそろ、彼が見つけてくれる頃合いだろうか。
その頃、ハーレイは頑丈な木の枝の上に寝そべっていた。長い髪を幕のように垂らし、そこから水滴が落ちている。彼は森に誰かがやってきたことに気付いていたし、それが仲間たちだということもわかっていた。だが、動く気にはなれなかった。今は髪を乾かす時間だ。しかも、マギーはもう彼の中で終わりを迎えている。つまり、関係ない……はず。いや、迎えに行くのが面倒なだけかもしれない。ぼんやりしていると、下から愛猫のマヨが咎めるような鳴き声を上げた。
「もうちょっとだけ……」
彼が答えると、虎は長く尾を引く鳴き方をした。ハーレイは指先一つ動かさなかった。
「マヨが行ってきてよ。俺はここにいるから」
彼が言っても、マヨはしばらくそこにじっと座っていた。が、こういうときの我慢比べでは、ハーレイはマヨに負けたことがなかった。しばらくして、虎はいかにも重そうに腰を上げた。
「……あら、あれ、マヨじゃない?」
最初に虎の姿を見止めたのはキャットだった。団員たちがあれをマヨだと見抜くことができるのは、いささか奇妙なところだが。マヨはのろのろとこちらに歩いてくると、数歩手前で座った。アストリッドはそれに近づいていき、その頭を撫でた。
「あんたにはしばらく会ってない気がしないよ」
「やあ、猫ちゃん。ハルもいるんだろうね?」
と、木から飛び降りてきたフェリクスが言う。マヨは鼻を鳴らすと、また気怠げに腰を上げた。それなら、座らなければ良いのに。
「久しぶりだっていうのに、自分で迎えにこないなんてね」
キャットが悪態をついた。虎は同意するように短く鳴いた。迷いなく歩みを進めるマヨについて歩くうち、森はより深く、静かになっていった。蛇が茂みを揺らし、虫が羽で囁き合う音すら聞こえた。葉叢が陽光を遮り、暗くなった木々の間、そこに、長く細い影があるのに一行は気付いた。
思わず警戒したものの、彼らが影の正体を理解するまでに時間はかからなかった。やはりそれはハーレイの垂らしている髪の毛で、顔を上げれば、本人が上手く枝に乗っているのもわかるというもの。彼も一行が到着したことには気付いているはずだったが、彼は眠っているかのようにじっとしていた。
「こんにちは、ハーレイ!久しぶりよね。この森のどこかに愛想でも落としたの?」
キャットは彼に出ていかれたときの怒りを沸々と思い出したようで、つっけんどんに口を切った。するとどうだ、ハーレイまで意固地になるではないか?彼は彼で怒られる筋合いはないと感じていたのだし、団の解体をそれなりに――いや、この上なく悲しんでいたのだ。
「口喧嘩は家で、殴り合いは外でやるものだよ、ハル、キティ」
要するに、フェリクスは喧嘩ならよせと言っている。キャットとハーレイは無言の罵り合いを始めた。ここまでの規模の仲違いは、鮮やかにできるとはいえ、マギーには珍しいことである。見かねたアストリッドはわざとらしくため息をついて、間に割って入った。
「程々にしてよ、二人とも。やっと集まれるのが嬉しくないってんなら良いけど」
沈黙は闘争から膠着へと収束した。ハーレイは確かに三人分の気配に気付いていたが、そのうちの一人が失踪した友人だと考える決定打を欠いていたのだった。
「……本当にアスト?」
彼はやっと言った。
「信じられないなら、降りてきて、よーく見てみなよ」
アストリッドが言うと、ハーレイは初めて動きを見せた。彼が愚鈍ですらある遅さで身体を起こすと、その長い髪が舞台の帳のように引いた。彼は寝ぼけたような目でアストリッドを見下ろした。化粧をやめたハーレイはどこか凛々しく、以前は耽溺していた煌めきを取り払った分、陰気に見えた。彼は軽やかに着地すると、ふらりとアストリッドの前に立った。
「どう?疑う余地、ある?」
そう尋ねてみると、強張っていた彼の顔つきは一転し、緩い、親愛の染みた寂漠が瞳を支配した。彼はぎこちない動きで腕を伸ばし、アストリッドをそっと抱きしめた。
「……今まで、どこに行ってたの」
見た目よりも逞しいハーレイの抱擁は苦しいほどだった。息がつまるのが、涙のせいなのかどうかはさておいても。
「ごめんね、ハーレイ」
アストリッドが囁くと、また彼の力は強くなった。首に優しい熱さが伝うのを感じた。
「謝っても許さないよ」
そう答えてから、ハーレイは腕の力を緩めた。改めてお互いの顔を見合う。森に戻ったハーレイは粗野な部分が余計にぶり返したようで、彼が好んだ、垢抜けた麗人風の装いは見る影もなかった。腰まで伸びた髪は、野生で暮らしていた割に綺麗だった。
「変わってないね、アスト」
少々意外そうに彼は言った。ふてくされるのをやめたキャットが横にやってきて、小気味良い笑みを浮かべる。
「これからその驚きの理由を話してくれるんですって」
「やった。俺、面白い話って大好き」
「じゃあ、戻ってきてくれる、ハーレイ?」
アストリッドは安堵しながら尋ねた。ハーレイはどこかばつの悪そうな顔をした。
「うん。ああいう家出の仕方、俺も良くないとは思ってたよ。ごめん、キャット、フェリクス」
「構わないよ。ただ、部屋がないから君は庭暮らしだ」
……葬儀屋、ああ、葬儀屋よ。夜な夜な土を手で掻いて、汚れた爪を訝るは、闇夜の友人たるが故、枕を並べて眠るが最後、棺閉じるが世の幕引き。腐臭に酔え、腐臭に酔え、二度と起きずに済むように。




