奇譚
二人は井戸の前に移動し、その傍らに並んで腰を下ろした。声をかけると、井戸の男は相変わらずしわがれた声を上げた。
「ああ、お二人ともお揃いで。彼女は見つかりましたか?」
その問いにレオは眉をひそめた。男の探し人のことなど、話半分で聞いていたに違いない。代わりにアストリッドが答える。
「この辺りには、あんたと私たち以外誰もいないよ」
「”何か”はいますけどね」
「おい、その”何か”について、知ってることはないのか?」
レオが割り込むように尋ねると、男はわざとかと思うほど長く大きい欠伸を井戸から響かせた。
「さあ……俺はここの支配者か何かだと思ってます」
この男がどう思っているか知ったところで、利点はない。アストリッドはしばし考えた。この困った非常識人とまともに会話するなら、こちらが寄り添わなくては。
「それと話したの?」
「そうですね。捕まったときに声を聞いたのが最初で、あとは何度か向こうから話しかけてきましたよ。余程暇だったんでしょうね、あれも」
この男は、ハーレイなんかと相性が良いのではなかろうか?レオが苛立ってきているのは、顔を見ないでもわかった。だが、話を聞きに行こうと言ったのは彼だっけ。
「何を話した?何か重要なことは言ってなかったか?」
「覚えてるわけないでしょう?まあ、俺があなたの失敗のことを聞いたのは、その”何か”からですけど。そんなことを聞いてどうするつもりです?」
「私、早いところ元の世界に戻らなきゃいけないんだよ。試練だか何だか知らないけど、今すぐに受けたいの」
「受けたら良いじゃないですか。隣の彼はもう駄目でしょうけど。俺も断られたんです。どうも、身体があると都合が悪いそうで」
どうしてこの男はこうも脱線が好きなのか。しかも話をろくろく聞いていないときている。一人で長い時間を過ごすことの持つ毒素と言ったら!アストリッドも段々と耐えがたさを覚えてきた。
「だから、”何か”に会いたいんだってば」
「そう言われても。気まぐれなんですよ、あれは」
そう言うと、男は身体をもぞもぞと動かしたようで、その衣擦れの音が上まで聞こえてきた。その音に紛れて、ああ、とため息のように呟く声も。
「そうだ。試練を受けた場所に行ってみたらどうです?あなた、場所くらい覚えてるでしょう?」
「あ、それ良いかも。やってみようよ」
アストリッドは期待のまなざしを相棒に向けたが、レオのほうはあまりぴんと来なかったようだった。
「……だが、あれはどこでもなかった。わかりやすい祭壇やら何やらがあるわけじゃない」
「なら、そのどこでもない場所を目指せば良いでしょ。他に手がかりないんだから、やってみるっきゃないって。――ありがと、名無しの井戸男さん!」
「お安い御用です。あの人を探す約束、忘れないでくださいね」
二人は井戸を離れた。それらしい情報を得られたことに満悦しているアストリッドに対して、レオの歩みは遅かった。
「何だよ、あの人って?」
「探してる人がいるんだって。そんなことより、早く連れていってよ」
「簡単に言うけどな……どこでもない場所なんざ、すぐに行けて堪るか」
その主張ももっともだ。アストリッドは足を止め、口をへの字に曲げた。
「じゃあ、試練のときはどうやって行ったのさ?」
「さあな。導かれたのか……いや、何となく、行くべき場所がわかっていたような……」
「だけど、そこはどこかわからない、何でもない場所、か……」
アストリッドは何というわけもなく呟いた。レオがそれを小声で復唱し、それからはっとしてアストリッドのほうを見た。
「待て……待てよ。それだ、アストリッド」
「え、何?どれ?」
「正確な位置もわからず、特徴を挙げることもできない場所……つまり、俺たちは考えもつかない場所に行きたいってことだ。かつ、足じゃなく、頭で歩くなら、俺たちはその場所に行けるはずだ。そうだろ?」
足ではなく頭が行き先に導いてくれる。それがこの空間における常識であり、一番でなくても初めのうちに、レオが教えてくれたことだ。歩くという動作は実質的に何にも至らない。思考した先が、彼らの目的地になるのだ。
「……要は、何も考えないってこと?」
「そういうことだ」
レオは自身の閃きに満足したように笑った。支配者になるということは、あらゆる思考者になるということだ。己で考えを巡らせることができるものだけが、得るべきものを得られる。それがここでは逆だったわけだ。二人は沈黙し、考えることを放棄した。
何も考えないというのは案外難しいものだ。しかし、彼らに関して言えば、その脳裏は誰かを殺めるときの心情に等しかった。冷えた、無機質な人形となる彼らは、歩くのと同じように目標を仕留めることができた。普段どれだけ華々しい舞台に立っていようと、マギーの本質とはつまり殺し屋なのだ。初めて人は刺殺したときのことを、アストリッドはよく覚えて――おっと。これでは何も考えていないことにならない。気を取り直し、彼女は心を無にした。
ふと目を閉じ、再び開いたとき、周囲の様子は一変していた。他の場所と同じようで、違う。特徴がないことこそが特徴。そんな場所だった。
「……ここなの?」
「ああ。間違いないぜ」
唸るようにレオが答えたとき、背後にある気配が舞い降りた。
「よくこの場所がわかったなあ!オイラ、感心しちゃったよ!」
アストリッドは驚きのあまり獣のように振り返り、そして拍子抜けした。そこにいたのはマヨだった。いや、虎の区別などつかないのだが、何となく見慣れている感じがした、という意味で。
「え……マヨ……?」
「この顔はそう、だな……」
レオがぎょっとしながら答えた。ハーレイの次によくマヨを愛でていた彼が言うのなら、間違いないだろう。まさか、この虎も死んだのか?いや、その前に何故言葉を?
「そうだけど、そうじゃないんだな、これが!オイラはオマエの慣れ親しんだ姿になってみただけさ!前は顔も出さずに悪かったな!」
マヨはアストリッドとレオを順に見つめながら言った。何とも奇怪な。
「ってことは、あんたが”何か”なの?」
「オマエたちが呼ぶところのな!名前を教えてやりたいところだけど、生憎、そっちの言葉に当たる音がないんだ!堪忍な!」
と、ひょいひょい頭を上下する。奇怪な!
「何者なんだ?」
「すべての世界を見守る者!オマエたちとは違う次元に住む者だ!」
「何言ってんの?すべての世界って?」
「ここも世界、オマエたちが住んでいるところも世界、オマエたちが知らないところも世界!オイラはその全部を知ってる、それだけさ!」
マヨ改め”何か”氏は誇らしげに胸を張ったが、アストリッドとレオには何一つとして合点のいくところがなかった。
「よくわかんないんだけど」
「オイラは説明したぞ!」
「お前は好き勝手喋っただけだぜ」
レオが若干軽蔑的に言い放つと、”何か”は座り直して牙を剥いた。それらしい挙動もできるではないか。
「やい、わからない奴だな!井戸の奴はオマエたちとは違う場所から来たんだい!これで少なくとも三つの世界がある!そうだろ?」
とにかくそういうことらしいが、何であれこれ以上の問答は無意味だろう。アストリッドは出てくるため息を止めようとは思わなかった。
「……まあ、そういうことにしておいてあげるけど。そんなことより、私、試練を受けたいんだよね。元の世界に戻りたいの。あんたがその方法を知ってるって聞いたけど」
「おう、知ってるぞ!」
「じゃあ、頼むよ」
「いーや!オイラ、そんな気分じゃない!」
虎はふいとそっぽを向いた。レオは呆れたように空を仰ぎ見た。
「おいおい、何だと?こっちは急いでるんだがな」
「どれだけ急いだところで、浮世には追いつけないさ!それに、オマエは失敗したから関係ないぞ!」
そう言って、”何か”はレオの顔を鋭く見つめた。レオは諦めて両手を上げ、アストリッドに対応を丸投げした。こちらに背を向けてしまった彼を横目に、アストリッドは虎の前に屈んだ。
「どうしたら始めてくれるわけ?」
「そうだなあ……オイラ、本当にそんな気分じゃないんだな!」
”何か”は猫らしい仕草で両手に顎を乗せて伏せった。しかし、はいそうですか、などというわけにもいかない。何日でも居座ってやるくらいの気持ちで、アストリッドはむっとしながら腕を組んで立った。レオが様子を窺うようにこちらを静かに振り返ったが、虎はじっと動かない。とうとうレオが痺れを切らした。
「おい、この野郎。いい加減にしろ。お前が駄々こねてる間に、俺たちの仲間に危険が迫ってるんだぜ」
「いーやーだ!そんなこと言うなら、あのときオマエが戻ってれば良かっただろ!そうすりゃ、ここにオマエたち二人が並んでることもなかったんだ!」
虎はすっかり丸まってしまった。レオは憎らしげに顔をしかめ、舌打ちした。
「お前に何がわかるってんだよ」
「けっ、うるさいやい!意気地なしめ!」
「あー、もう!そんなことで喧嘩しないでよ。何で私が仲裁しないといけないんだか。あんた、良いから機嫌直して、とっとと始めてよね」
アストリッドに睨まれてもなお、”何か”は小声でぶつぶつと不平を並べていたが、やがて何かしら閃いたようで、さっと身を起こした。
「じゃあ、こうしよう!オイラの話すことを聞いておくれ!それが済んだら、試練を始めてやるよ!」
先ほどまでの不機嫌はどこへやら。レオは呆気に取られながら尋ねる。
「何故聞かなきゃならないんだ?」
「話を聞いてなかったのか?オマエの仲間が試練を始めるためさ!」
「よし、聞き方を変えてやる。何故それを聞かせたい?」
すると、”何か”は質問には答えずに黙り込んだ。まっすぐに座り、頭をぴんと高く持ち上げる。
「……オマエたちに教えてやりたいのさ、世界は広いってな」
貫くようなまっすぐな眼差しに留められたように、アストリッドは数瞬、言葉を発することはおろか、瞬きすらできなかった。多分、レオも。黙り込む二人に、虎は首を傾げた。
「やい、聞くのか、聞かないのか?」
「……そりゃ、聞くけど」
アストリッドが答えると、”何か”は満足げな顔を―虎に表情があるとすれば、だが―して頷いた。
「良いね!そいじゃ、心して聞いておくれよ」
そう言うと、それは前足で自身の喉の辺りを掻きながら、小さく咳ばらいをした――。
今ではないあるとき、ここではないある場所には、光の一族と闇の一族が住んでいたんだと。彼らはそれぞれ光の珠と闇の珠を守るために生まれ、その使命を子孫に託し続けてきたのだ。珠の守護に並ぶもう一つの掟は、決して珠に触れてはならないというもの――それが持つ力は、一族の手に負えるものではなかったんだとな。両の一族は掟に従い続け、悠久の時の間、数多ある世界は均衡を保つことができていた。だが、変化は訪れた。
両の一族に、大いなる力を持つ子らが生まれたのだ。珠に触れることができるだけの力を持っていたその子らは、まもなく一族を率いる長となった。珠の秘めたる力を手にした長たちは、とある遊戯を始めた。彼らの見守っていた世界の一つに、光闇の変革をもたらしたのだ。長どもが期待した安寧は露ほど、予期せぬ混乱は大波。
やがて、時と共に、その変革はなるべくして鎮まり、次第に順応していった。しかし、波紋は広がっていた。次なる世界で、新たな変化が起こり始めたのだ。その波紋が次なる世界を破壊しうると気付いた長どもは、その世界に彼らの代理人を置き、帳尻を合わせた。それから、彼らは二度と珠に触れぬという誓いを互いに立てた。
数多ある世界は鎮まった。そのはずだった。
事を起こしたのは光の長。その者は珠の与えたもう力に耽溺していた。誓いを守ろうとする一方で、心は抗うことを忘れた。光の長は密かに珠に触れた。それが間違いだと気付く間もない、長は力に呑まれた。そして、光の一族も、闇の一族も、かの者が呑まれたことに気付かなかった。かつて彼らが変革をもたらした世界の行く末を見守っていたからだ。そして、ついに長の始めた侵攻を知ったときには、それを単なる乱心と見誤った。
やがて、取り返しのつかぬ段になって、闇の一族の若者が光の長を討った。そして、もう二度とその侵攻を打ち消すことができなくなった。光の珠は長と共に消え、その力だけが根強く残留したのだ。闇の珠に触れたとて、事態の悪化は免れぬ。闇の長はすべてを後に委ね、そして二度と姿を見せなくなってしまったそうな……




