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寡黙の外連に魅せられて  作者: 小娘
幕間の戯れ
36/41

愚鈍

 さて、井戸を背に歩き出したは良いものの、やはり景色は一向に変わらず、ただ疲れが募るばかりであった。先ほどはぽんと井戸が目の前に現れたわけだが、今回はなかなかレオの元に戻れない。アストリッドは無心で歩き続けたが、うんざりして足を止めた回数は数え切れないほどだった。


考えるべきことと言えば、あの井戸の男の言っていたこと――ここから抜け出す方法があるということ、それだけだった。何故レオはそのことについて触れなかったのだろう?そもそも、あれは本当にアストリッドの知るレオなのか?姿かたちは同じ。話し方も、表情も、性格も。


だが、実際のところ、レオとその双子の弟アーウィンの不在は長かった。しかも、その間に起きたことは、それ以前よりもずっと濃く不可解だったのだ。何か忘れていることがあってもおかしくはない。そもそも、これは現実じゃないのかもしれない。


「全部夢だったらな……」


アストリッドは独り言ち、それからぶつぶつと、この無限に続く空間に文句を漏らし続けた。腹が減るわけでも喉が渇くわけでもないが、身体よりも頭に来るものがある。せめて、地平の彼方にでもあの泉が見えてくれれば良いものを、風景は頑固にも一枚絵なのだ。


「何っなのここ……いいから泉に帰してよ!」


やけくそになって彼女が叫んだとき、仰せのままにと言わんばかりに、彼女は泉の前に放り出された。……まあ、望みを叶えてくれるなら、それで良いか。レオは水辺のすれすれのところで寝そべっていた。


「落っこちて溺れ死ぬよ」


アストリッドが声をかけると、レオはのそのそと起き上がった。


「もう死んでる。それより、お前何か怒鳴らなかったか?」


「ちょっと腹立って。こんなに何もないくせに、行って帰ってくるのに半日はかかるの、おかしくない?」


「まず、ここに日夜の概念はない。次に、お前が帰ってくるまで何秒も経ってないぜ」


レオは生真面目に言った。そうそう、この男はこういう奴だった。真剣に話しているのかと思えば、まったくの冗談だった、なんてことがちょくちょく起こるような。アストリッドはそんな茶番に付き合う気分じゃなかった。


「冗談やめてよ。言っとくけど、今、超機嫌悪いからね」


「良いか、お前の歩き方は根本的に間違ってる。ここじゃ、行先に導いてくれるのは足じゃなく頭だ」


まだやるか!アストリッドは辟易して彼を睨んだ。


「何?じゃあ、井戸に行きたいと思えば、井戸に着くわけ――」


そう言い終えるよりも早く、彼女の身体は井戸の前にあった。なるほど。彼女は泉に戻ろうと考えてみた。すると元通り、彼女はレオと向き合っていた。ほらな、と言いたげに彼は肩をすくめた。


「変なの」


「まったくだ。ところで、何か発見はあったか?」


「井戸で変な人と話したよ」


「ああ、あいつか。妙な奴だっただろ?」


「うん。何かに閉じ込められたってね。何かって何って感じだけど。あと、あんたのことも言ってたよ」


そう言っておきながら、アストリッドは何となく思案した。元の世界に戻る方法があるかもしれないということについて、レオは触れなかった。本来なら、いの一番に共有すべきことだというのに。その沈黙に無神経に触れて良いものだろうか?


「そうか。そう何度も話したわけじゃないんだが。奴は何て?」


「ああ……その、不愛想だって。あんたの名前も知らなかったみたいだよ」


咄嗟に嘘をつき、アストリッドはさっと目を逸らした。そのときが来れば、レオはちゃんと話してくれるだろう。


「まあ、名乗ってないからな」


彼は肩をすくめた。二人はしばし黙り込み、どちらからということもなくその場に腰を下ろした。泉は何も映していない。これも、望んだものを見せてくれるのだろうか?そんなことを考えていると、水面が揺らぎ始めた。やっぱり。アストリッドはマギーのことを頭に浮かべた。すぐに、目の前にはいつもの天幕が映し出された。


キャットとハーレイ、フェリクスがまた向かい合って話していた。彼らの足元ではマヨが呑気に眠っている。やはり、クララの姿はない。


「――もう十分待ったもん」


ハーレイが言っているところだった。キャットが長すぎるため息をつく。


「それで?戻ってこなかったから解散?とんでもない天才ね、ハーレイ」


「じゃあ、キャットはどうするつもりなの?」


少々むっとしてハーレイが尋ねた。キャットはくたびれたように伸びをした。


「待つわよ。待ってるんだから」


「どっちを?団長?それとも、アスター?」


フェリクスが口を挟んだのを、キャットが鋭く睨みつける。


「どっちでも良いじゃないの」


「良くないよ。だって、待ってないほうが先に帰ってきた場合、待ち続けるべきかどうかわかんなくなるじゃないか」


「俺、もう良い気がしてるよ。俺たちの役目、終わったんじゃないかなあ」


ハーレイは敵意がないことを表そうとしてか、いつも以上に穏やかな物言いをした。彼とて、キャットと喧嘩したいわけではないのだ。キャットもそれはわかっていたし、気持ちは同じだった。彼女はふと遠くを眺めた。


「……あなたは帰る場所があって良いわね、ハーレイ」


投影はそこで終わった。前回からかなりの日数が経っているのは明らかだ。アストリッドは不安を覚えた。本当に戻れるとして、それは現実におけるいつなのだろう?瞬きをするだけで、いくつもの日々が飛んでいくように思われた。こうして、レオに必要かもわからない気を遣って、無駄な時間を過ごしていて良いものだろうか?そう彼女が考え始めたとき、レオが口を切った。


「なあ、キャットの奴の癖、知ってるか?」


「爪を噛む奴でしょ?」


「ああ、心配事があるときはそうだ。けど、嘘をつくときは、決まって左足を細かく揺すってる。気付いてたか?」


はて。アストリッドはキャットの言動を思い返してみたが、心当たりはあまりなかった。そもそも、嘘をつかれた記憶がない。


「えー、そうかな……あ、でも、ハーレイはわかりやすいよね。こう、身を縮めてにやにや笑ってさ」


「そうだったな。あそこまで嘘が下手な奴もそういない。……だがな、アスト。お前も大概だぜ」


「え、私?」


「ああ。お前、一瞬目を逸らすだろ?」


自身の癖など気にしたことがなかったが、言われてみれば、先ほどは思わず目を逸らしてしまった。いつもそうしていたということか。かつ、それにレオは目ざとく気付いていたと。これは一本取られた。アストリッドははにかんだ。


「あー……やっぱ、あんたは騙せないね」


「そうでもない。今のは嘘だ。鎌をかけただけだぜ」


と、レオは呆れたように首を振った。


「はっ?」


「何となく態度が気になったからな。お前なら、適当なことを言えばあっさり白状すると思ったよ」


本当に一本取られた!面映ゆさまであるほどの驚きに、アストリッドは開いた口が塞がらなかった。


「えー……何、それ……」


「お前、俺には嘘つかなかっただろ?だから、癖なんざ知らない。さて、本当のことを教えてもらおうか?」


「別に、大したことじゃないよ」


「だったら隠すこともないと思うが」


確かに。アストリッドは降参の証に両手を上げた。


「……あの井戸男が言うには、元の世界に戻る方法があるって。だけど、あんたはそれに失敗したらしい、みたいな?」


軽い調子で言ってみたものの、アストリッドはやはり後ろめたさを覚えた。レオが感情を押し殺すように眉間に皺を寄せたからだ。天才気質で失敗に縁のない彼には、人より思うところがあるのかもしれない。


「ごめん……なんか、触れないほうが良かった?」


「いや……いや、違う。もっと早くお前に教えてやるべきだったのは、わかってたんだが……ただ、あれはそう思い出したくなる類の記憶じゃなくてな」


そう言って、レオはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。井戸の男が言っていたのは事実だったのか!アストリッドは身を乗り出した。


「じゃあ、あんたが戻ってきてたかもしれないってこと?」


「そう、だな。奴の話を聞く限りじゃそうだ」


「あの井戸男?」


「そうじゃない。俺も奴が何なのか……多分、井戸の野郎が言ってる”何か”と同じなんだと思うが」


誰かではない”何か”――井戸の男をあの場所に閉じ込めたもの。そして、元の世界に戻る方法を知っているもの。前者としてはどうでも良いが、後者としてはこの上なく重要だ。しかし、同時に空気のように不確かで曖昧な存在でもある。探さなければならないのは、この”何か”についての手がかりだ。


「それを見つけないと……」


「ああ。だが、その前に、言っておかなきゃならないことがある。アストリッド、この試練には相応の覚悟が必要だ。俺たちの武器は身体能力だが、それは今回ばかりはまったく当てにならない。マギーが軽んじてきた精神力のほうが、よっぽど肝心だ」


アストリッドは黙って続きを待った。レオは少々顔をしかめ、考えをまとめるように地面の一点を見つめていた。やがて彼は深々と息を吸い、気怠げに顔を上げた。


「良いか。お前がこれから直面することになるのは、お前に関する真実だ」


「真実……」


アストリッドはレオの言っていたことを思い出した。人間はすべての真実を許容できない。あのとき、彼は試練の話をしていたに違いなかった。


「俺の見立てじゃ、お前は記憶をなくす前の出来事の真相を知ることになる。団長がお前を救った日……それ以前の記憶がないんだったよな」


レオの指摘通り、アストリッドには幼少期の記憶がない。何かが起き、マンフレッドに救われたということしか知らないのだ。彼に弟子入りすることになったきっかけ、そこに何かしらの真実が潜んでいる。


「まあ、わからないけどな。とにかく、知って気持ちの良いことじゃないのは確かだ。試練にならないからな」


「……あんたは何を見たの?」


そう尋ねられると、レオはぴくりと片目を細めた。が、すぐに軽い調子で笑った。


「何だよ、アスト?死んだ男の秘密なんざ知りたいとは、良い趣味だな」


その言葉にアストリッドも笑い、素早く首を横に振った。しかし、彼女はレオの作り笑いに気付いていた。彼女とて、かつてはそれなりの時間を彼と過ごしてきたのである。本心を隠すのに笑顔が役に立つことをレオは熟知していたし、そのこともアストリッドにはわかっていた。彼女は彼の真実について追及するのはやめようと心に決めた。



 そんな会話を経て、アストリッドが幾度となく心の準備を整えたのにもかかわらず、試練のほうは―あるいは、”何か”のほうは―少しも姿を見せる気がないように思われた。時間の概念がない中で、それなりの時を過ごした気になった頃、アストリッドは何度かレオを急かしてみたが、もちろん、彼が詳しいことを知らないのがわかっていなかったわけではない。


泉を眺めて過ごす時間はひどく退屈で物悲しかった。マグノリオ団の天幕に、もうハーレイの姿はなかった。団は事実上崩壊したのだ。キャットとフェリクスにやることがないのは、会話を聞かずともわかった。


一方、ノチロンペの事後処理はあのアデリーンとかいう女の思ったようには進んでいないと見えた。それは当然のようでありながら、同時に奇妙な不整合を思わせた。団の様子と合わせて考えれば、それなりの時が過ぎているはずだからだ。しかし、彼女には、どうやら問題が尽きないらしかった。


「――父様、何もしないわけにはまいりません」


それはどこかの屋敷の中での会話だった。まあ、アデリーンの父親のものだろう。屋敷の主は静かに首を振って娘に答えた。


「ラカオが進軍を開始すれば、一番に狙われるのはこのタスパ……それも、我が領地であるのは明らかです」


「落ち着きなさい、我が娘よ。政変といえど、権力を握ったのはラヴェル教会。噂に聞く前世信仰を説く団体だ。武力による制圧を試みるとは限らん」


「いいえ、かの国はすでに軍隊の編成を開始しています。今に混乱が始まりますわ……」


前世信仰といえば、グウェンドリンが牛耳っているという教会だ。つまり、これはラカオというよりも、マギーの宿敵の行動だということになる。あの女はまだ攻撃の手を止めないつもりなのだ。しかも、アストリッドの手が届かない場所で。あるいは、マギーが対抗するつもりがなくなった後で。


「……早く、戻らないと」


「ああ。あいつが、もっと多くの犠牲を生む前に。……俺があのときに戻れてたらな」


レオは寝そべって目を閉じたままぼやいた。


「やめなよ。誰もあんたを責めたりしないから」


言いながら、アストリッドはレオの顔を見れなかった。レオが短く笑った。


「そりゃ、くたばった俺を罵倒できるのが一人しかいないのに、そいつがとんだお人よしときてりゃ、誰も俺を責めないだろうな」


「好きに言えば良いけど。……そうだ、責めないであげる代わりに、ちょっと付き合ってよ」


一つ思いつき、アストリッドはレオに向き直って言った。彼は目を開けようともせずに答える。


「ぜひ聞いてやらないとな」


「この辺り、散策しに行こうよ。何かできることがあるかも」


「あのな、アスト。俺がここに来てから散策をしてないとでも思ってるのか?」


レオはようやく目を開けて言った。アストリッドはわざと呆れたような風情を装って首を傾げた。


「全部見たって言える?まさか、地図でもあるわけ?」


そう言われると、レオは頭を抱えて起き上がった。


「ったく……わかった、付き合ってやる」


「そうこなくちゃね。さて、どこから始める、先輩?」


「お前な……まあ、とりあえず、井戸の野郎に話を聞きに行くのが良いんじゃないか?他に会話できる奴もいないことだしな」


確かに、情報を得るという観点では、会話できる相手がいることは望ましい。だが、アストリッドに言わせてみれば、例の男は”会話ができる相手”のうちには入っていなかった。何せ、彼は自分の名前すら知らないのだ!


「えー……でも、使い物にならないんじゃない?色々聞いたけど、何か知ってるとは思えなかったよ」


「ほう、そうか?お前、あいつから全部を聞き出した、なんて言うつもりじゃないよな。まさか、あいつの頭の中を解剖でもしたのか?」


これだから、レオという男は困る。アストリッドは両目をぐるりと回した。


「はいはい、わかりました。もう一回、話を聞きに行こう」

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