再起
起きろ。耳馴染みのある声がした。だがそれははるか遠くで木霊し、彼女が捉える前に消えてしまった。
起きろ。今度はもっと近くで音が響いた。しんとした気配が舞い降り、今傍らで息を詰めて彼女を見下ろしている。それでは足りなかった、彼女がぴたりと閉ざされた瞼のこじ開け方を思い出すには……
「アストリッド!」
今度は足りた。その一喝と共に、彼は彼女の頬を思いきりつねってやった。思いがけない衝撃に、アストリッドは飛び起きた。同時に、身勝手な勢いで入り込んできた空気に身体が驚き、彼女は咳き込んだ。
「何だよ……大丈夫か?」
彼が言った。アストリッドは片手を上げながらしきりに頷いたが、彼というもう一つの驚きにどう対処したものか、寝起きなりに頭を悩ませた。いや、ひょっとすると、勘違いかもしれないではないか?そんな閃きに、彼女は迷いを捨てて顔を上げた。が、それはやはり彼だった。
「レオ……?」
グウェンドリンに殺された仲間のうちの一人。その死に際の様子がふと脳裏に浮かび、アストリッドはぞっとして目を逸らした。
「ああ。久しぶりだな」
この状況がおかしいということは彼も承知しているらしい。レオはため息をつきながら首の後ろを掻いた。彼は生きていたときと同じだった。アストリッドは自身の心臓の辺りに手を置いた。アイニックによって撃ち抜かれたはずの場所には、何の痕跡もない。
「あのさ、私って……」
「……死んだ。だから俺と顔を合わせてるんだろ」
「いや、わかってる。そうだよね」
アストリッドは俯いた。アイニックがこちらに武器を向けた瞬間のあの情景が立ち返った。レオが隣に腰を下ろす。
「カッパーの野郎、やってくれたよな」
アストリッドの心を読んだかのように彼は言った。
「じゃあ、あんた見てたの?」
「まあな。あの後、俺がここに来てから起きた大体のこと……レカンキチの政変も、あの妙な秘湯とやらも見てた。俺がいなくても上手くやってくれてて安心したよ。姫様のお守もな」
レカンキチ王女にして、今はキテスの騎士王の妃となったティーナのことか。レオが死ぬ前は、あの王族の娘の世話役はアストリッドでなく彼のものだった。アストリッドが死んだことは、ティーナの耳に入るだろうか?彼女は悲しむだろうか?キャットやハーレイに上手く相手ができるだろうか?たった一人の友人に関することだけでも、溢れんばかりに死の弊害が浮かび上がってくる。マギーのことを考え始めたらきりがないだろう。アストリッドは込み上げてくる悲しみを振り払って笑った。
「ティーナの相手が一番の重労働だったかもね」
「あれで笑った顔が綺麗じゃなきゃ、とてもじゃないが割に合わないよな」
そう語るレオは、自身が死んだことに何の疑問も抱いていないように見えた。それはただ、死人のように見えないせいかもしれないが。
「私、どうすれば良いんだろう」
「……さあな。少し歩くか?」
答えを聞く前にレオは立ち上がり、先に歩き出した。アストリッドは言われるがまま、その後に続いた。彼女が周囲に目を走らせたのは、ここに来てようやくだった。そこは森のようだった。だが、現実味がない。緑は深すぎるし、陽光がすべてをぼかしているかのように思われた。そして何より、音がほとんどない。生き物の声も風もないのだ。ただ二人が大地を踏みしめる音だけが聞こえることに、アストリッドは不気味さを覚えた。
「ここ、何なの?」
「わからない。死後の世界にしちゃ、人がいないしな」
「アーウィンはいないわけ?」
「……まあな」
二人はしばらく黙って歩いた。景色はずっと変わらないように思われたが、やがて、彼女が気付くよりも早く、泉が目の前に現れた。レオが足を止めた。馬鹿らしい質問を重ねるべきかとアストリッドが思案していると、彼は口を開いた。
「俺はここからお前らのことを見てた」
「ここって……」
彼女がそれ以上言うのを遮るように、水面が大きく揺らぎ始めた。魅惑されたように眺めていると、水は徐々にある情景を映し出していった。それは焼け焦げた町だった。豊かな水が尽きてしまったかのような、乾いた光景――それはアストリッドが最後にいた、タスパ王国のノチロンペの町だった。憲兵らしき数人の人影に交ざり、見るからに高貴な身なりをした女が立っていた。見覚えはない。
「――どうなさいますか、アデリーン様?」
どこから聞こえてきているのかはわからないが、憲兵の一人が言った。アデリーンと呼ばれた女は首を振った。
「酷い有様ね……ひとまず、生存者が取り残されていないか確認して。それから、目撃者に聞き込みをお願い」
彼女は悲しげに町を見渡しつつも、周りの人間を元気づけようとするかのような心許ない微笑を浮かべていた。彼女が心を痛めているのは、声色だけでもわかった。
「レオ、これ、今起きてることなの?」
こちらの声が聞こえるはずはないとわかっていながら、アストリッドは声を潜めて尋ねた。
「そうだと思うが」
レオは無表情だった。マグノリオ団の団員としての彼を、いつか誰かが”繰り人形”と呼んだことがあった。笑わない。間違えない。客を見ない。心がないみたいに。生きていないみたいに。それが真実ではないと考えた夜のことを、アストリッドは思い出した。一番仲間思いなのは、彼だったから。
「……皆はどうしてるかな」
「あいつらは無事だぜ。カッパーの奴にやられたのはお前だけだ。良いんだか悪いんだか……」
レオはため息交じりに言った。アストリッドは思わずきっとして彼を見た。
「皆が無事で悪いなんてことある?」
「言ってみただけさ。俺は、あの居候が私欲のために人を殺すような奴だとは思わないね。……おい、見ろよ。俺たちの天幕だ」
誤魔化されたような気がしながらも水面を見てみると、それは確かにレカンキチにある団の天幕を映していた。そこはどこかがらんとして見えた。キャットとハーレイ、フェリクスがいるが、クララの姿はない。まさか、あの後逃げ損なったのだろうか?三人は深刻な顔で話し合っていた。珍しいことだ。
「――待ってみても良いじゃない。損はないわよ」
と、キャット。フェリクスが剽軽に肩をすくめた。
「時間以外はね」
「何とかなるよ。とりあえず、俺、寝たいんだけど」
ハーレイは早くも団員の掘っ立て小屋のあるほうへと向かっている。そちらに愛猫のマヨが待っているのが見えた。キャットは鼻を鳴らした。
「お好きなだけどうぞ。私は葬儀屋に行ってくるわ」
「もう手配するの?僕も行こうかな」
「違うわよ。ベッファが団長の行方を知ってるかもしれないでしょ。あと、絶対についてこないで」
そこで音は次第に遠のき、投影も終わった。アストリッドは安堵に幾分かの呆れを混ぜて息を吐いた。
「とりあえず、元気そうかな」
「気まますぎるところが心配だけどな」
「ね。でも、フレッドがどうとかって……いないのかな?まさかと思うけど――」
グウェンドリンに?いやいや。アストリッドが自ら否定する前に、レオが遮った。
「いや、団長に限ってそれはない。ちょっとやそっとじゃ、死にたくても死ねない御仁だ」
「そうだよね」
ありえないことを心配しても仕方がない。アストリッドは己を笑ってやることにした。投影が終わったことで、辺りには静寂が戻ってきていた。元々静かな場所が好きだったアストリッドだが、ここのことは好きになれそうになかった。虫の声一つ聞こえないとは!そのうち気が狂いそうな気がした。本当にずっとここにいなくてはならないのだろうか?
「ねえ、レオ。あんた、ずっとこうして泉を見て過ごしてきたの?」
「ずっとじゃない」
「ふーん、そう?死ぬってなんか退屈じゃない?」
アストリッドは軽い気持ちで尋ねたが、レオの顔つきにはさっと影が差した。
「かもな。だが、ずっとましだ」
「ましって、何より?」
レオはすぐには答えなかった。アストリッドは彼から目を逸らせなかった。その透けるような顔が、今にもひび割れて、粉々に崩れ落ちるのではないかと、そんなことを考えながら。その視線に気付き、レオはからかうような目で微笑んだ。
「……生きるより。真実に向き合いながら生きるより、ずっとましだ」
「真実って……」
「人間って奴は、ほとんどの真実を見ちゃいない。見てないふりをするときもあれば、明かされてないだけのときもある。だが、とにかく、頭で理解してる真実ってのには限りがあるんだ。だから、受け入れられる真実の許容量も決まってるんじゃないかって、俺はそう思う。多分、壊れないために必要なんだってな」
彼は続けて何か言いかけたのをやめ、地面に目を落とした。無造作に頭を掻く。
「じきにわかる。なあ、それより、少し一人で散歩でもしてこいよ。百聞は一見にしかずって言うだろ」
話を終わらせたいのだろう。アストリッドは食い下がりたかったが、結局やめた。
「……わかった、そうする。でも、道に迷いそうなんだけど」
「道なんざ、初めからない。それに、迷うほど広くもないぜ」
そう言って、レオはその場に寝転んだ。アストリッドは肩をすくめ、泉を背に歩き出した。景色は果てしなくも変わらない。自分が草を踏みしめる音がしなければ、歩いているとはとても信じられなかっただろう。レオは人がいないと言っていたが、本当に二人きりなのだろうか?誰かいるのなら、何かしら有益な―死んでいる以上、無益かもしれない―情報を得られそうなものだが。
そう思いつつ、同じ動作を繰り返していると、目の前に井戸が現れた。そこには蓋がされていて、それもかなり頑強に見えた。何のためにあるのやら。森の風景に似合っているようで似合っていないその井戸に背を向けようとしたとき、アストリッドは偶然小枝を踏みしめた。枯れた音が静かな空気を揺らしたのを心地良くすら感じた。すると、驚いたことに、井戸の中からくぐもった音が聞こえてきた。
「……そこに誰かいるんですか」
それは反響で聞き取りづらかったが、しわがれた声だった。アストリッドは振り返り、怪訝そうに井戸のほうに身を屈めた。
「いるけど」
「ああ……いつもの不愛想な人ではないみたいですね」
レオのことだろうか?彼は井戸のことには言及しなかったが。
「あんた、誰?」
「さて、思い出せません。人を探してここまで来たことだけは覚えてるんですが。あなたは?」
「私はアストリッド。ねえ、人を探してたんなら、そこで何してるのさ?」
「閉じ込められたきり、生きることも死ぬこともしてません」
彼は言い、長々と欠伸をした。妙な奴だ。アストリッドは思わず眉をひそめた。
「どういう意味?」
「その通りの意味です。わからない人ですね」
井戸の中にいるのでなければ、一発殴ってやりたいところだ。アストリッドは一度黙り込み、心を落ち着けてから再び開口した。
「じゃあ、誰にやられたの?まさか、レオじゃないよね」
「レオ、それが不愛想な彼の名前ですか?彼ではありませんよ。俺も、そこらの人に負けて井戸に落とされるほど軟ではありません。それに、誰、というのが正しいのかわかりませんよ。何、のほうが良いんじゃないですか?」
知ったことか!アストリッドはこれ以上真面目に対話するのも馬鹿馬鹿しいと気付いた。
「あ、そ……えっと、出してあげようか?」
「いえ、遠慮しておきます。また捕まる気がするので。それより、一つ頼まれてくれませんか?」
「聞ける範囲でね」
「彼女を探してほしいんです。俺が探してたあの人を」
「ここにいるの?」
「知りません。美しい瞳をした女性です。見ればきっとすぐにわかる。といっても、俺も会ったことはないんですけど。いえ、多分、会ったことはあるんです。忘れてしまってるだけ……そんな気がして」
いよいよどうかしている。が、彼の声色にふざけたところは一片もなかった。
「何言ってんだか。まあ、探してみるよ。どうせ暇だから」
そう言って、アストリッドは長く息を吐き出し、井戸から一歩離れた。
「ありがとうございます。そうだ、お礼といっては何ですが、俺が聞いた話を教えましょう。あなたの連れの……レオ、でしたっけ。彼、失敗したそうですよ。この空間から抜け出すのに」
すでに歩き始めていた彼女はぴたりと足を止め、慌てて井戸の前に戻った。蓋に両手を突き、そこに相手の顔があるかのように前のめりになる。
「え……どういう意味?元の世界に戻る方法があるの?」
「どうも、そうらしいですよ。俺には関係ないですけど。俺をここに閉じ込めた”何か”が、そのことを詳しく知ってると思います。それから聞いた話なので」
「その何かって、どこに行けば会えるの?」
「質問が多いんですね。どこでも会えるんじゃないですか、会おうと思えば」
勢いづいたアストリッドに対して、井戸の男は鈍く返事をした。彼女は出鼻を挫かれたような気分で、井戸からゆっくり手を離した。
「えー……まあ、良いや。ありがとう」
返事はなかった。アストリッドは井戸を後にした。この空間に何があるのかはほとんど見れていないが、ひとまず、事の真偽を確かめるべきかもしれない。
Twitter凍結されて草なんよ~




