停滞
「……じゃ、とりあえず逃げようか?」
フェリクスが口を切り、芝居がかった仕草で大通りのほうに手を広げた。そのとき、再び轟音が響いた。連れ添うは喧しい悲鳴。
「何が、起きてるの……?」
クララが怯えたように通りを見つめた。煙の匂いが漂い、空気が熱を纏っていた。ハーレイが鉤縄を取り出しながら言う。
「考えてもしょうがないよ。俺、巻き込まれたくないから先行くね」
この状況について必死に考えを巡らせていたアストリッドは、現実に引き戻されて彼を見た。
「合流は?」
「愛しの我が家で良いんじゃないか」
と、フェリクス。つまり、レカンキチにあるマグノリオ団の天幕ということだろう。ハーレイは頷いた。
「じゃあ、それでよろしく。気をつけてね」
彼は軽やかに動乱から離脱した。これは決して薄情な行為ではない。一人で身軽に動ける人員に、重りをつけるのは馬鹿げている。結局、全員の命を救おうなどという義侠心ほど彼らに不要なものはないのだ。アストリッドは頭の中を整理した。今すべきは追手を撒くことだ。前世云々のことは後回しでまったく構わないし、アイニックの居場所はどうせわからない。何故追われているのか考えるのも無駄だ。理由がわかったところで、褒美に相手の足がなくなるわけではない。彼女は軽く深呼吸をすると、仲間たちを見た。
「二手に分かれよう。私、クララを連れてくから」
キャットは頷き、早速通りに出ていこうとしながら答える。
「了解。行くわよ、フェリクス」
「うん。お二人さん、後でね」
二人が飛び出していくと、遠くから怒声が聞こえた。
「いたぞ!」
その声に気圧されたかのような様子で、クララは二人を引き留めようとした。アストリッドはそれを制し、少女の手を握った。
「あの二人なら大丈夫。ほら、行こう」
アストリッドは時機を見計らって通りに出ると、クララの冷たい手を引きながら駆け出した。水の上を火が飛び交い、悲嘆の声を怒号が貫いた。その光景は、長らく続いてきた戦の最中にあるかのような、浮いた非日常の一幕だった。この町の誰が、快晴の昼下がりの下で、夕陽の代わりに血と炎と煙を同時に目にすると想像しただろう?アストリッドは目も眩むような炎の輝きに、汗が噴き出るのを感じた。
これはすべてグウェンドリンの手が及んだ結果なのだろうか?ぜひそうであってほしいものだ、他にわけのわからない敵が出てくるくらいなら。しかし、グウェンドリンが行動に出たのだとすれば、やはりマドレーヌとの会話を聞かれていたのではないか?それならば、どうやって――
「おねえちゃん、危ない!」
こちらを見上げて叫んだクララの声にはっとして、アストリッドは咄嗟に身を屈めた。頭上の空を斬り裂く儚げな音が聞こえた。彼女が当てずっぽうで放った肘打ちを喰らい、刺客がよろけるのがわかった。ざっと辺りを見回すと、片手では数えられない程度の数の敵がこちらににじり寄っているのが確認できた。アストリッドはクララの手を離し、短剣を構えた。
「逃げな!ここは私が何とかする!」
「でも……!」
「曲芸師は一人のほうがよく動けるんだよ」
それが真実かどうかはさておき、アストリッドは腰に下げた箱から適当に毒針を抜き取り、正面から走ってくる二人の刺客に投げた。片方には膝の辺りに命中したが、もう片方にはかすりもしなかった。当たったほうはどうやら即効性の猛毒が塗られていたようで、刺客は激しい痙攣を始めていた。突進してくる敵にはこちらから近づき、距離感を狂わせたところで思い切った飛び蹴りを喰らわせる。倒れた男の顔を踵で潰しながら、クララにもう一度顎で合図する。彼女はようやく躊躇いがちに駆け出した。
守るべきものが自分の身一つとなれば、アストリッドはもっと自由だ。まずは上から飛び掛かってくる刺客の攻撃をかわす。反撃にその腹を突き刺し、短剣を抜く前にこちらに引き寄せ、別の敵の攻撃を吸収する盾にする。盾を打ち捨てた彼女は、今度は傍にあった木箱に向かって飛び、その角を蹴りながらさらに高く飛躍した。宙返りしながら、敵の首の後ろを掻き斬る。
着地した瞬間、アストリッドは背後から抱え上げられ、そのまま地面に叩きつけられた。鈍い痛みが背中から走る。毒針の箱が破損したのが音でわかった。間一髪、振り下ろされる棍棒を横に転がって避け、身体が漏らす痛みなどという不平を無視して立ち上がる。マンフレッドは繰り返していたものだ、痛みは暗殺業に最も不要なものであり、畢竟、集中力の問題に過ぎないのだと。そうした暴論は、時に真実よりも理屈が通るものだ。
アストリッドは敵を見極めることに集中した。相手は大柄かつ機敏、力も並外れて強い。仲間をすべて彼女に倒され、怒りか焦りを感じている。だが、相手もかなり彼女に集中しているらしい。焦らす策は通用しないだろう。ならば、こちらが焦れてやるしかない。
どちらにも余裕があれば、力関係は水平のままだ。力関係を崩すなら、どちらかの余裕を削ぐしかないのは疑いようもない。同時に、一方の余裕が減るほど、他方に余裕が生まれるのも真である。そして、過剰な余裕を得たことで高を括る人間もいる。脅しなり何なりが通用しない状況ならば、こちらに余裕がないふりをすることもまた有効である。
そういうわけで、アストリッドは無暗な突撃に始まる連撃に出た。できるだけすんでのところで相手の攻撃をかわし、短剣を振り回し続ける。相手の目の色が変わった。つまり、冷静になった、ということだが。彼は考えている。勝つのも時間の問題だと。もう一発喰らってやるなら、今だ。
相手の攻撃を弾き返した勢いでよろけたようなふりをする。そういう演技も、アストリッドにはお手の物だ。当然、相手は迷わずとどめの一撃を振り下ろす。犠牲にするのは左肩と決めていた。攻撃を命中させる瞬間というのは、必ず隙を孕む。肩に重い一撃が響いたそのとき、アストリッドは強く握りしめた短剣を相手の利き腕に喰い込ませた。刺客は痛みの理由にも気付かずに武器を取り落とした。続いて、アストリッドは敵の腹を立て続けに突き刺し、思い切り胸を蹴飛ばして彼を地面に打ち倒した。その傷を膝で踏みつけて彼女は男の傍らに屈んだ。
「あんた、何者?」
「ま、待て……!」
アストリッドは短刀を彼の目の前に突きつけた。
「聞いてんだよ。誰の指示?」
「……グウェンドリン様だ」
「その女の正体は?」
「い、言えない!それだけは言えないんだ!勘弁してくれ!」
アストリッドは舌打ちして、無傷なほうの男の腕を抉った。醜い叫びと、聞き苦しい咳き込み。
「無駄……だ。言わねえぞ……」
ぜいぜいと喘ぎながら男は言った。今度は膝でも潰してやろうかと考えたとき、角を曲がって別の刺客がこちらに走ってくるのが見えた。もうここにはいられない。アストリッドは男の首を掴んで揺さぶった。
「アイニック・カッパーはどこ!?見つけたの?」
「知らねえ、知らねえよ!くそっ……あんたらを仕留めるだけの簡単な仕事だって……聞いてたのによ……!」
悪態をつきながら、彼女は男の首を掻き斬った。素早く立ち上がり、反対方面に駆け出す。簡単には追えないように複雑な逃げ道を取っているうちに、彼女は町名物の噴水の前に辿り着いていた。追手の影は見えなかったが、足を止めている余裕はないように思われた。しかし、噴水の横を通り過ぎようとしたとき、彼女はふいに腕を掴まれた。はっとして突きつけた短剣は、すぐに下ろすことになった。
「……アイニック」
驚きと疲労のあまり、声はほとんど出なかった。アイニックは優しく彼女の肩に手を置いた。
「君を見つけられて良かった」
「え……待って、どういうこと?ここで何してるの?」
アストリッドが目を白黒させるのに対し、アイニックは石のように静かだった。
「説明している暇はないのだ、アストリッド」
「でも……いや、今は撤退しないと。ほら、早く!」
彼女は早くも駆け出そうとしたが、博士は微動だにしなかった。
「我輩にはできん。マドレーヌ殿には会ったかね?」
「できないってどういうこと?急がないと――」
「少し、落ち着きなさい。マドレーヌ殿には、会ったのかね?」
アイニックはゆっくりと言った。彼に動くつもりがないとわかると、アストリッドは渋々彼の前に戻り、少し呼吸を整えた。
「会った、会ったよ。アイニックが変な話をしたって」
「……まあ、そう思われても仕方あるまい。とにかく、細大漏らさず聞いたのだな?」
アストリッドはしきりに頷いた。アイニックはひとまず安堵したように見えた。
「良いかね、アストリッド?今、この世界は重大な危機に瀕しているのだ」
「何言って――」
「我輩はそれを食い止めねばならん。いや、そんな使命などないのであろうが、少なくとも、何か行動を起こす必要はある。真実を知った以上はな」
「真実って?」
「それを話している時間はない。良いかね、私は真実に抗うために、君を……利用する」
力を借りると言わなかったのはわざとなのだろうか?アストリッドの身体を嫌な汗が伝った。アイニックはいつになく真剣で、そして何より、悲しげだった。
「君は我輩を恨むだろう。だが、これしか手がないのだ。我輩が君に言えることはただ一つ、我輩を信じてほしいということだけだ」
「信じてるよ、ずっと。でも、どうする気なの?あいつが、グウェンドリンが、あんたを追ってるんだよ。レオとアーウィンを殺した……覚えてるでしょ?きっと、今に見つかる……教えて、私、どうすれば良い?何でもする。もう仲間を死なせたりしない」
そう言いながら、アストリッドは目頭が熱くなるのを感じた。これを恐怖と呼ばないなら、何だと言うのだろう?それは謎に迫るために必要な恐怖であり、また友と離別する前に溢れ出る恐怖だった。彼女は、きっと何か予感していたのかもしれない。そして彼もまた、彼女の中に渦巻く情動を敏感に感じ取っていたのかもしれない。アイニックは目を伏せた。
「……もし我輩の見立てが間違っていたとすれば、いくら君に謝っても足りないことになる。ならばせめて一度は、今――」
「後ろ!」
アストリッドは刺客が突然アイニックの背後に姿を現したのに気付いて叫んだ。すると、アイニックは外衣の下から小型の光線銃を取り出し、普段の彼からは想像もつかない動きでその刺客を撃ち抜いた。敵は一撃で倒れた。博士は何事もなかったかのようにアストリッドに向き直った。
「せめて今、確かに謝っておくべきだろう。すまない、アストリッド……この世界の崩壊を止めるには――」
アイニックは銃口をアストリッドに向けた。
「え……待って、アイ――」
「――君の犠牲が必要なのだ」
言い終えるが早いか、流離の研究者は引き金を引いた。アストリッドの心臓を光線が貫き、冷たい痛みが汗のように全身を走った。風穴と口から血が噴き出し、彼らを赤く染めた。彼女は後ろによろめき、背が温い水に沈んだ。霞む視界の中で、彼が虚ろな目をこちらに向けていた。彼は傍に落ちていた瓦礫を彼女の腕に括りつけ、彼女を終点へと誘った。彼女は最早感覚のない手を伸ばし、彼の救いを求めた。彼は指先をその手に触れさせたが、すぐに引っ込めると、辺りを見回しながらその場を去った。一人の若い曲芸師の瞳はすでに何も映してはいなかった。水の腕に抱かれ、ただ一人を除いては誰にも知られることなく、温度のない場所へと消えていくのだ。
マンフレッドは一人思案していた。
「グウェンドリン……」
彼女は団員たちがタスパに出かけていった直後、つまり彼が一人のときを見計らって、彼の前に姿を現した。彼女が帰っていった後も、そのときの会話は、皮膚を裂くような爪痕を残していったように思われた。
「カッパーの居場所を知っていたのか?」
マンフレッドが一番に尋ねたのはそのことだった。グウェンドリンは不自然なほどに首を傾げ、時間を掛けて口の両端を持ち上げた。
「いいえ?それはそれ、これはこれよ。まあ、あの男が団に身を寄せていたのは知ってたけど」
「私に何の用だ」
「わかってるでしょ、団長さん?」
確かに、マンフレッドには彼女の訪問の理由がわかっていた。ずっと前、彼女がすべてを始めたその日から。彼はそのことで白を切るのは諦めた。
「皆目わからんな。君が禁忌を犯そうとしている理由が」
「理由なんて何とでも言えるわよ。あなたが知る必要はないわ」
当然のことだと言いたげな顔つきで、グウェンドリンはゆっくりと首を振った。マンフレッドの表情が険しくなった。
「……あれは渡さんぞ」
「嫌でも手放すことになるわ」
グウェンドリンはふと笑顔を掻き消して言った。マンフレッドは黙っていた。数秒の沈黙の後、彼女は再び笑った。
「ねーえ、団長さん?いがみ合うのはやめにしましょうよ。あなたが協力してくれさえすれば、丸く収まるわ。誰も損することなくね。二人で新しい世界を創るの。わくわくするでしょ?」
「何を勘違いしているのか知らんが、貴様はどうあがいても創造主にはなれん。無論、私もだ」
「そうよ。だから協力しましょうって――」
「木もとんかちも持たん二人が集まって、小屋が建てられるとでも?」
マンフレッドが断固として言うと、グウェンドリンは蛇のように素早い動きで彼に詰め寄った。眉間に皺の寄った顔を彼の顔の目の前に突き合わせる。
「勘違いしてるのはあんたよ、マンフレッド。禁忌は、素晴らしい力を覆い隠すためにあるものでしかないの。世界を震え上がらせる力を持ってたことを、先人たちが誤魔化そうとした結果なのよ。私はすべてを覆す……きっとね」
マンフレッドは微動だにせずに彼女を見つめていた。彼女が少々冷静さを取り戻して離れてからようやく、彼は口を開いた。
「何故だ、グウェンドリン」
「それが正しいことだからよ。すべての魂が望んでることなの」
「そうか。だが、君に私を殺すことはできん。私も君を殺すつもりはない。話は終わりだ。とっととカッパーを探しにいったらどうだ?」
「今にわかるわ」
グウェンドリンはそう言い残し、恨みがましい表情を何とか隠して去っていったのだった。今、その応酬を思い出すにつけて、マンフレッドは額の皺をさらに深くしていた。彼が何もしなければ、グウェンドリンの宿願が果たされることはないはずだ。だが、彼女のことだ、何か想像もつかない手段を講じてきてもおかしくはなかった。
「……君ならどうしただろうな、マギー」
マンフレッドは小屋の机に向かって呟いた。答えを貰えるならば、どれほど良かったことか!彼はしばらく狭くも広くもない小屋の中を歩き回った後、ようやく決心して足を止めた。
「私がやらんでどうする!」
そんな言葉で己を鼓舞し、マンフレッドは急ぎ支度を始めた。いつもの旅行鞄に整然と荷物を詰め込み、ありとあらゆる武器をそこここに隠し、最後に杖を握った。小屋を出ようとして思いとどまり、机に戻って抽斗を開けた。肖像画を取り出し、瞬き一つせずにそれを眺める。
「止めねばならん。そうだろう、マギー?」
やはり答えはないが、彼はもう確信していた。彼は絵を壁に立てかけて置くと、振り返らずに小屋を後にした。今回の任務では留守番だったマヨが心配そうに追ってきたが、彼はその頭を撫でただけだった。国を出る前、彼は葬儀屋に赴き、親愛なる道化師に、しばらく天幕を空けると告げた。ベッファはろくに聞いていない様子で頷き、団長が扉から出ていく前から何かしらの作業を再開していた。
マンフレッドは道すがら、置手紙の一つや二つくらい残すべきだっただろうかと思案した。が、何をしても蛇足に過ぎない気がした。そもそも、何と書き残せば良いのか?彼らが生きて帰ってくるとも限らないというのに。考えれば考えるほど、孤独でいることこそが最適解なのだという考えは強まるばかりだった。本来、マギーとはそうだったのだから。
次回更新は九月の中旬を目標としています。
待てない場合は、私のつくった読みものがそこらに転がっていますので




