錯綜
これでもかというほど揺れる馬車に乗ること数時間、ラナボルッカに到着した一行だったが、残念ながら、御者の言葉が正しかったと認める他なかった。そこはこじんまりとした村で、それもほとんど人が住んでいないように思われた。裏を返せば、訪問者がいれば目立つということでもある。アイニックがここに来たのなら、誰かが覚えているに違いない。
一行は御者に頼んでそこで待っていてもらうことにしてから、すぐそこの家の前で掃き掃除をしている老女の元に歩いていった。近づいてくる彼らに、老女は押し売りにでも遭っているかのような辟易した顔を向けた。
「やあ、おばあちゃん」
「こんな辺鄙なとこに何の用だい?」
老女はアストリッドを睨みつけ、塵取りを片付け始めながら言った。
「最近、この辺に人が来なかった?」
「え?何だって?」
わざとらしいほどの身振りで聞き返す老女に、アストリッドは負けじと声を張る。
「最近、この辺に、人が、来なかった?」
「来たよ。今、ここに」
不愛想な。アストリッドは内心呆れながら片頬を引きつらせ、一つ手っ取り早くいこうと決めた。
「じゃあ、わかった。変な研究者を知らないかな?アイニック・カッパーって人なんだけど」
アストリッドがその名を口にした途端、老女の顔つきが変わった。彼女はかっと目を見開き、鬼のような形相をして相手に詰め寄った。
「アイニック・カッパーだって!よくその名をあたいの前で言えたもんだね!とっとと消えとくれ!その男の話なんざ少しも聞きたくないよ!」
老女は憤慨しながら箒をアストリッドの目の前で振ると、ずかずかと小さな家の中へ消えていった。マギーは困惑して目を見合わせた。
「良かったわ、当たりみたいね」
キャットが軽く眉を上げながら言った。クララは深刻に眉を下げた。
「うん……でも、おじさん、あの人に何したんだろう?」
「俺たちには関係ないよ。カッパーさんにも、怒ってくれる大人は必要だし」
ハーレイが言ったとき、隣家の扉が静かに開いた。その扉の細い隙間から、そっとこちらを窺う若い女の頭が覗いた。マギーがにじり寄ると、彼女は諦めたかのように扉を大きく開いた。
「……お探しの人のことで、お手伝いできるかもしれません」
「本当?アイニックを見たの?」
「いえ、私では……あの、良ければ、上がっていきませんか」
中に入ってみると、狭い部屋の半分ほどを占めているかのような大きさの肘掛け椅子に腰掛けた、若い男性が彼らを待っていた。
「ありがとな、ペニー」
彼は一行を通した女に言うと、客人に向き直った。
「俺はリオネル。足が悪くてね。座ったままで失礼するよ」
残念なことに、他に座れそうな場所はなかった。
「頭が低いに越したことはないよ」
フェリクスがにこやかに言った。マギーが勝手に各々一番くつろげる体勢を見つけるのを、リオネルと名乗った男は当惑しながら眺めた。
「ああ……?えっと、あんたら、アイニックって人を探してるんだよな?」
「聞いてたなら、わざわざ聞き返すことないじゃないの」
キャットがつんけんとした態度で答えた。リオネルは目を泳がせる。
「うん……まあ、その人、この村じゃ名が知れてるんだよ。っていうのも、あんたらがさっき話してた婆さんな、そのアイニックって奴の嫁さんの母親なんだぜ」
「何だ、そういうこと。それで?」
アストリッドが相槌を打つと、リオネルはますます困惑したような顔をした。どうやら驚いてほしかったらしい。だが、そういうのはどちらかというとマグノリオ団の仕事だった。男は頬を掻いて続けた。
「いやあ……で、俺も妹のペニーも、その嫁さん……エイダのことはずっと前から知ってたんだ。気立ての良い人でさ。けど、ほとんど駆け落ちするみたいに出てったもんだから、専ら噂に――」
「へえ!カッパーさんもなかなかやるねえ」
今度はハーレイに遮られ、リオネルはすっかり体面を失ったように思われた。見かねた―いや、耐え兼ねたのか―ペニーが不愛想に口を挟む。
「もう前置きは良いでしょ、兄さん」
「え、そうか?……うん、でな、そのアイニックなんだが、つい数日前にここに来たんだよ。って言っても、真夜中の誰もいない時機を見てこっそり来たらしいから、気付いた奴は俺以外いないと思うんだが」
彼は座っている位置からすぐ傍にある窓を指さした。マギーと老女の会話も、アイニックの姿もそこから見聞きしたということだろう。
「何しに来たのかわかる?」
「いや、そこまでは。だが、婆さんの家の裏手に回ったのは確かだぜ。婆さんも耳が遠いからな、家の周りでごそごそやられても気付かないんだよ」
「その後、彼はすぐにここを離れたんでしょうね?」
「ああ。来たときと同じように、こそこそ帰っていったよ」
リオネルは実に役に立つ情報を提供したと言いたげにはにかんだ。マギーは互いに目を見合わせた。とりあえず、老女の家の裏手を探っているしかなさそうだ。
「どうもありがとう。邪魔したんじゃないと良いけど」
フェリクスが言いながら早々に扉に向かい、マギーはずるずると家をでていこうとした。そこで一つ思い出し、アストリッドは振り返った。
「ねえ、アイニックの奥さんってどんな人だった?」
「そうだな、優しい人だったよ。俺たちにも良くしてくれてさ。な、ペニー?」
リオネルは穏やかな顔つきで妹を見たが、ペニーのほうは仏頂面で床に目を落とすばかりだった。
「……別に。末裔だったし」
「はは、こいつ、魔術師の末裔の伝承を信じてるんだよ。あんたらも知ってるだろ?例の村がこの辺りにあったってんで……そういや、アイニックってのも伝承を追ってここに来たんじゃなかったかな。それでエイダに会って……うん、そうだ」
またマギーは目を合わせ、それから同時にクララに視線を投げた。少女はすぐにでも逃げ出したそうに、じりじりと後退りしていた。一行は兄妹に礼を言うと、家を出た。
「あんた、そうなの?」
外に出るなり、アストリッドはクララに尋ねた。この奇妙な少女はかつて、自身の力でとある村を全焼させたと―つまり、伝承の末裔が自分だと告白したようなものなのだが―主張したことがあった。それが真実だとすれば、彼女の生まれの謎がこの辺りに隠されているかもしれないのである。しかし、クララは俯いて足元の砂をいじりながら言う。
「覚えてないもん……」
「仕方ないわ。そういうのは本人じゃなくて歴史が物語るものよ」
キャットは澄まして言い、老女の家のほうを覗き見た。
「少なくとも、帳は閉まってるわね」
「早くやろう。日が暮れると困る」
フェリクスが意気揚々と家の裏手へと歩いていく。
「何で困るの?」
ハーレイが後ろから尋ねたので、フェリクスは立ち止まって仰々しく振り返った。
「だって、暗いと虫が寄ってきてもわからないでしょ?僕、虫って嫌いなんだよ。あんな風に自由に飛び回るなんて羨ましくて仕方ない」
彼の横を素通りして、アストリッドとキャットは放置された雑草の中に足を踏み入れた。ふと顧みると、先ほどの窓からリオネルがこちらを見ているのがわかった。
「なんか見られてるけど」
「自分で自分をもてなすこともできないのよ。見られていてあげましょ」
キャットは彼に見向きもしないで言った。アストリッドが手を振ってみると、リオネルは口元に人差し指を持っていって悪戯っぽく笑った。内緒にしておく、という意味か、それとも静かにやれ、という意味か。他人になると、些細な合図の意味も判別できないとは不思議なことである。
さて、地面をよく見てみると、草の中に埋もれた一か所に、掘り返された形跡があるのが見て取れた。ここに何か埋めたのか。アストリッドとキャットは素手で地面を掘り始めた。途中からハーレイが加わったが、フェリクスとクララは見ているだけだった。黙々と掘り進めると、予想よりも早く指先が硬いものに当たった。あまり深く埋める余裕はなかったらしい。少々無理やり土の中から取り出したところ、それは至って普通の缶箱だった。
老女に見つかっては堪らないので、マギーはそそくさとその場を離れ、馬車の傍に戻った。歩きがてら箱を開けてみると、そこにはたった一枚、文字の書かれた紙が入っていただけだった。それはどうやら、破り取られた手記の一片のようだった。
≪我輩は見てしまった。一切合財をこの目で見たのだ。破壊的な再生の力だ。これは矛盾ではない。あの頭巾の下に誰がいたのか、我輩は知らない。しかし、あらゆる理論を超越した力を持つ者がこの世界にいるとわかっただけでもとんでもないことだ。そして、今なら確かだと言える。ここは我輩の知っている世界ではない!≫
走り書きされたその文章は、間違いなくアイニックの筆跡によるものだったが、その内容は彼らしくもなく、まったく整ったところがなかった。文章を読み上げたアストリッドは、思わず渋い顔をした。
「何だこりゃ……」
「忙しすぎて気が狂ったんじゃないかしら。見つけたら労ってあげなくちゃ」
と、キャット。フェリクスはアストリッドの手から紙を取り、顔に近づけて眺めた。
「いや、書かれたのは大分前らしいから、今これから労う必要はないと思うよ」
「おねえちゃん、裏に何か書いてある」
下からクララが言った。フェリクスから紙を奪い返して裏返してみると、『ノチロンペ、マドレーヌ』という記述があった。その箇所はまだ変色しておらず、アイニックが新しく書き足したようである。となれば、次なる目的地はノチロンペ、すなわちタスパ王都だということだろうか。ならば初めからそう言ってくれれば良いものを。ともあれ、従う他ない。マギーは待たせていた馬車に行先を告げ、中に乗り込んだ。そのとき、家の周りで掃き掃除をしていたペニーと目が合った。彼女は恭しく頭を下げたが、顔を見ればこちらを疎ましく思っていたのが丸わかりだったので、マギーには少しも良い気がしなかった。
馬車に揺られる間、アストリッドは小難しい表情をして例の手記の断片を眺めていた。ここは我輩の知っている世界ではない……その意味するところはいざ知らず、だがグウェンドリンに追われている以上、ラカオ王国の秘密に彼が触れてしまったと考えるのが妥当である。
「アイニック……どこから来て、どこに行っちゃったんだか」
アストリッドは呟いた。知っていると思っていたもののことをよく知らなかったと思い知らされるのは、もたれていた壁が消えたり、歩いていた大地が崩れたり、あるいは食べていたものが腐っていたと気付いたりするのと似たようなものだった。金貨を弾いて遊んでいたフェリクスが顔を上げる。
「ハカセの過去については誰も知らないの?」
「昔の話はしなかったよ。研究のことばっかりだったもん」
と、ハーレイ。実際のところ、彼はあまりアイニックと会話をしなかったし、したとしても真剣に話を聞くことはなかったようなものだが。キャットが寝そべった姿勢で目を瞑ったまま口を挟む。
「だけど、おかしなことはよく言うわよね。世界の理が何だとか……ちょうど、クララと出会ってすぐのときだったんじゃなかったかしら?」
魔術師の末裔たちが持つ奇々怪々な治癒能力を目の当たりにしたアイニックは、それが世界の理を揺るがすものではないのかと疑ったのだった。
「そうだったね。末裔たちの謎の力を見て……ねえ、あんた、”破壊的な再生の力”って心当たりないの?」
アストリッドが尋ねると、クララは力なく頭を垂らし、小さく唸った。
「……わからない。わたしの……魔術師の末裔たちの力は、確かに再生の力だけど……」
「ただ、破壊的ってほどでもないわね。あの力が破壊したものと言えば、せいぜい常識くらいだわ」
今度は目を開けたキャットが言葉を繋いだ。ハーレイが同調して頷く。
「カッパーさんが昔見たのが末裔の力だったら、神秘の里でもっと騒いだはずだよ」
「まあね。でも、末裔のだってどうかしてる力なのに、それを超える何かがあるってことになるよね。もう、夢でも見てる気がする」
アストリッドは頭を押さえて考え込んだ。決定的に手掛かりが足りていない。光がないせいで見えない路地裏に足を踏み入れたかのような気分だった。本当に夢だったら良かった、影に潜む何かにも、虫の羽音にも、信じがたい異臭にも怯えずに済んだのに。
「僕には何が何だかよくわからないけど、確かなのは、破壊的何たらかんたらのことを知られちゃ困る人間がいて、カラス……前世信仰を拗らせた連中に援助を求めたってことだ。いや、それか……」
フェリクスは視線を落として言葉を切った。彼が目を上げたとき、一同の思考は一致していたように思える。
「グウェンドリンが本人、とか……?」
「ありえなくはないわね。だけど、それなら団長との関係はどうなの?彼女が特別だとして、マギーに執着する理由は何?」
キャットはいつになく真剣だった。クララが前のめりになりながら言う。
「団長さんも特別な力を持ってるのかも。だって――」
「もうやめようよー……俺、頭痛くなってきた」
ハーレイが呻くように遮った。何かと勘は良い男だが、こうなってくると使い物にならない。アストリッドは肩をすくめた。
「……まあ、根拠もないもんね」
「マドレーヌって人が良いことを知ってることを祈ろうか。彼女も別の世界から来たとか言い出すかもしれない」
フェリクスの言葉にマギーは薄い笑みを浮かべた。だが、このマドレーヌなる人物が、ぜひともまともなことを言う人間であってほしいと思っていたのは、おそらく共通していたことであろう。




