独奏
翌日、騎士王とレカンキチ王女の婚約は正式に各地に通知された。キテスの民は口々に祝いの言葉―それは決して本人に届くことはないのだが―を述べ合い、国内は珍しく浮かれた空気であった。しかし、新たな王妃はひどく沈んだ気分だった。アストリッドが様子を見にいったとき、ティーナは物憂げな顔をして、手狭な庭園を一人歩いていた。
「昨日の夜はどうだった?」
アストリッドが尋ねると、ティーナは彼女とろくに目も合わせずに歩みを進めた。
「どうということもなかったわ。あの御方、ただの一言だって口になさらなかったもの」
「一晩中一緒にいたんでしょ?」
「ええ、そうよ。ずっと黙って歩いて、よく月が見える丘で立ち止まって、そこでじっとしていたの。時々、あの御方の手を握る力が強くなることがあって、それが痛くて……ええ、それだけよ」
と、包帯の巻かれた自身の手を見やる。魔術師の末裔の力で傷が癒せるなら、漆黒の瞳を持つティーナも同じことができるはずではないか?そう考えながらも、アストリッドは馬鹿げた考えを頭の端に追いやった。末裔の力のことはもう忘れることにしたではないか。
「嫌な感じだね」
「それも否定できないけれど……何だか、寂しそうな顔をなさるのが気になってしまって。……わかっているわ、アストリッド。おかしいわよね。きっと、何とかして共感できるところを探しているんだわ、私」
ティーナは自嘲気味に笑った。アストリッドには、共感のなしうることがはっきりとは想像できなかった。しかし、それを口にする必要はない。
「悪いことじゃないよ、多分」
「そうよね。心を通わせて損することはないはずだわ」
そういうものか。アストリッドは自身が心を通わせた相手がいたかどうか記憶を辿ったが、心当たりはなかった。いなくても生きていけるものらしいが。
「上手くやっていけそう?」
「もちろん、やってみせるわ。けれど、やっぱり……ね、あっけないものね?不思議な気分だわ。ため息を通り越して、欠伸が出そう」
そうは言ったものの、ティーナの口から漏れ出たのはやはりため息だった。彼女がすぐに続きを話し出すのはわかっていたので、アストリッドは黙っていた。
「お兄様ったら、早朝に帰ってしまわれたのよ。知っていて?お別れも言ってくださらなかったわ。置手紙はあったけれど。何でも、キテスでは豪勢な祭りなんて開かれないだろうからって。儀式を終えて戻ってきたら、そんなことが書かれていたのよ。あんまりだわ。それに、お兄様にも体裁はあるでしょうに。
それで私、眠れなくて、そのままここにお散歩しに来たの。すごく霧が濃かったのよ、今朝は。歩くのも不安になるくらいね。慎重に歩いていたら、バルトロメオ様がいらっしゃるのが見えたわ。あの御方、振り返ったと思ったら、わけのわからないことを口走ったのよ。何だった?リジー、とか何とか。夢でも見ているような御顔だったから、昔の誰かと見間違えたのね。
けれど、すぐに私だと気付いたみたいだったわ。あの御方も私も疲れていたから、何だかよくわからなくなってしまって。二人でそのまま城に帰ったわ。もう少し外にいたかったのだけれど、部屋まで見送られてしまったらそうするわけにも、ね?……あら、嫌だ、私ったらくだらない話をしてしまったわね」
ティーナはアストリッドの表情を窺いながらはにかんだ。無意識なのだろうが、こうして長く話すのは彼女の癖の一つだった。こういうとき、アストリッドは彼女がまだ一緒にいてほしいと思っているのだと解釈するのだった。例によって、今もティーナは心許なさを感じているのだろう。
「そうだ。明日の夜、公演があるんだけど。滅多にお目にかかれない演目なんだよ。観にきたら?」
アストリッドがそう言ったのは場を持たせるためであって、もちろんこの提案は冗談だった。レカンキチでは名が知れているとはいえ、マグノリオ団の襤褸天幕に王族が来るはずがない。これまでだってなかったのである。しかし、予想に反して、ティーナは爛々と目を輝かせた。
「まあ、本当?ぜひ観にいきたいわ。レカンキチではなかなか出かけられなかったものね。……そうだわ、バルトロメオ様もご一緒していただきましょう!せっかくあなたたちが重い腰を上げて出てきてくださったんだもの」
王妃はいかにも幸福そうな顔をして両手を合わせた。アストリッドはぎょっとして立ち止まり、彼女の横顔をまじまじと眺めた。
「え……っと、本気?あの堅物そうな王様を?」
「ええ。案外好きかもしれないじゃない。それに、初めのうちくらいなら我が儘も聞いていただけそうだし」
ティーナは小さく肩を上げて笑った。アストリッドが呆気に取られているのも構わず、彼女はさっと踵を返した。
「楽しみができて、気分が晴れたわ。もうひと眠りできそうね」
と、今にも駆け出しそうな足取りで庭園を進んでいく。アストリッドはその後をのろのろと追いながら、呆れるべきか感心すべきか首を傾げた。
さて、翌日の夜、キテスには珍しい曲芸団の天幕はそこそこの人数の観客を集めた。団としては集客が上手くいかなかったと考えるのが妥当な気がしたが、思い返してみれば、毎週のように飽きずに公演を見にやってくるレカンキチの人々のほうが変わっているのかもしれない。
しかし、普段より客席が寂しいことも、ある存在がすっかり掻き消してしまっていた。もちろん、騎士王とその妃である。アストリッドはティーナに声をかけたことだけは仲間たちに報告していたが、誰も期待などしていなかった。だというのに、二人は堂々と、あろうことか時間に十分な余裕をもって登場したのだ!
「彼女、なかなかのやり手ね」
キャットがぼんやりと呟いた。フェリクスは演技が急ごしらえであることもまるで気にせず、意気揚々と言う。
「僕の記念すべき晴れ舞台に王サマたちが?これは腕が鳴るな」
「あ、まずいよ、フェリクス。あの人が君を見たら、卒倒しちゃうんじゃない?」
ハーレイが珍しく気を回して言った。新入りの団員はきょとんとして彼を見やった。
「どうしてさ?」
彼が本気で心当たりがないかのように尋ねるので、アストリッドはわずかに顔をしかめた。呆れた奴め。
「どうもこうも。レカンキチで自分が何したか忘れたわけ?」
「ちょっと前のことなのに。……じゃあ、こうしよう」
と、フェリクスは買い出しに行ったときの紙袋を引っ掴むと、中身をおざなりに出した。それから、適当な位置に穴を開け、頭に被る。間に合わせの仮面の完成というわけだ。そこに、ちょうどマンフレッドが口上を始めたのが聞こえてくる。
「ようこそ、我々マグノリオ団の公演にお越しくださいました!紳士淑女の皆様、並びに小さなお子様や矍鑠としたご高齢の皆々様に、心から歓迎の意を申し上げます。もちろん、大きなお子様や、最後の歓心をお求めの皆様にもね。
さて、僭越ながら、手短に自己紹介をさせていただきましょう。マグノリオ団、団長を務めますは、私、マンフレッドにございます。刃を扱う腕前は皆様に負けず劣らず、硬い鎧を打ち破り、肉を斬るのはお手の物です。……ええ、もちろん、亀を調理するときの話ですがね。
冗談はさておき、我がマグノリオ団は、それはそれは長い歴史を歩んで参りました。本日皆様にお見せいたしますは、その長い歴程で編み出された中でも最高傑作の演技……ある、美しき騎士の物語でございます。言葉はいりますまい、どうぞ、心ゆくまでお楽しみあれ。……ただし、夢中になるあまりに剣を手に取るなどということは、ゆめゆめなさらぬよう……」
ささやかな拍手を背に受けながら戻ってきたマンフレッドと入れ替わりに、演技用の剣を手にした紙袋の青年が舞台に躍り出た。団長が彼を振り返る。
「ふむ、当分は馘にしないで済みそうだな」
「お気に召したってことかしら、団長?」
キャットがからかうように尋ねると、マンフレッドは皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「始末するには惜しいというだけのことだ。やたらと肝心な情報を流すなよ」
フェリクスの鞭遣いは、曲芸でも大いに役に立つらしかった。剣舞、つまり団員たちが剣を受け渡していきながら進むこの演技は、少々厄介な演目だった。というのは、普段のように勝手気ままに技を見せるのではなく、技の中で戦場の騎士を演じる必要があるからだ。
今フェリクスがやっているのは、剣を繰り返し、それも素早く投げ続けることで、剣を激しく打ち合わせる様を表現したものである。本来ならば、二人の人間が互いに向かって投げ合うことで成立するのだが、フェリクスの場合、鞭の尾が飛び回ってくれるので、案外その演技も上手くいっていた。それにしても、一体どうやって鞭にあんな動きをさせているのやら。
彼がしっかりと観客を魅了したのが気に食わなかったのだろう、剣を受け取ったキャットは奮ってとびきりの踊りを披露してみせた。天幕の中を彼女の色に染め上げるには十分すぎるほどだった。続くハーレイの出番は、彼の相変わらずの無頓着のせいでいまいち盛り上がりには欠けたものの、妙にマヨはやる気だった。
アストリッドは支度を整え、綱の端に立っていた。照明はまだハーレイとマヨに当てられている。彼女は注意深く客席を見回した。客の誰もまだ彼女を見上げてはいなかった。赤黒い曲線もない。あの女はいない。安堵のため息が自然とこぼれた。
「……いるわけないでしょ」
ぼんやりと呟いていると、視界が眩い光に包まれた。下から、実に正確な狙いでもってハーレイが剣を投げ渡してくる。アストリッドは間違いなくそれを受け取ると、刃先を前に向け、ゆっくりと歩き出した。集中しなくては。彼女が最も苦手とする演技でありながら、現役時代のマンフレッドが最も得意とした演技でもある。それが剣舞だ。
歩くのは大したことではない。回るのも。飛ぶのも、今ではすっかり慣れたものだった。ただ、細い綱から足が離れ、再びその上に身体を委ねるのはなかなか恐ろしい。戦う剣士の舞……アストリッドはちらとティーナのいる辺りを盗み見た。王妃は目を輝かせて見入っているようであったが、その隣の騎士王は無表情で、固く両腕を組んでいた。頭に来たが、それを顔に出すわけにはいかないので、アストリッドは二人から目を逸らした。
さて、演技も大詰めである。この後が問題だった。剣が刺さり、倒れる演技。真上に投げた剣を脇に挟んで受け止め、そのまま綱の上に倒れ込むのだ。少しでもずれれば、この高さから落下することになる。マンフレッドいわく、身を横たえるだけのことらしいが、そう言われる度、彼女は親愛なる団長を殴りつけたくなるのだった。
いよいよである。剣を投げ、受け止める。ここでやめたい気がしたが、そうもいかない。ええい、ままよと背中から倒れると、骨に沿うように綱が触れる感覚がした。後は弾みを利用して起き上がり……上手くいった!アストリッドは内心胸を撫でおろしながら一礼した。拍手喝采が待っていた。
彼女は少々得意になってティーナのほうにもう一度目をやった。が、ティーナはこちらを見上げてはいなかった。その顔つきを見た瞬間、時が止まったような気がした。彼女の表情に映る、焦りと驚き……それが嫌な予感を最大限呼び覚ますようであった。
ティーナはつと立ち上がり、突然夫に覆い被さった。直後、その彼女に、血走った目をした男が短剣を突き立てた。アストリッドは血の気が引く思いを味わった。誰も悲鳴を上げることはなかったが、皆が事態に気付くまでに時間はかからなかった。すぐに鋭い怒声が響く。
「貴様、何をする!」
バルトロメオだった。その声にはっとしたアストリッドは、衝動的に綱を飛び降りると、その勢いで刺客に殴りかかった。隣で王がティーナを腕に抱きかかえた。
「まさか、私を庇ったのか……!何故そのような真似を……」
ティーナは何も言わずに微笑した。やってきたマンフレッドが彼女の傷を手際良く検めた。
「ふむ、幸い傷は深くないようですな。ベッファ!どこにいる!人を呼べ!」
「外だァよ!ここから呼べるもんかァ!」
おっと、忘れていた。まあ、ベッファでなくても、誰かしらが手を打つことだろう。レカンキチの民とは違い、キテスの衆はじっと黙って成り行きを見守っていた。騒ぎ立てるのは好まないらしい。何人かが人を呼びにいったらしいのを見送ってから、マンフレッドは犯人を睨み下ろした。
「その男は縛っておけ、アストリッド」
「わかった。―あんた、ただじゃ済まないよ」
「……くそっ!くそったれが!ぽっと出の野郎が、台無しにしやがって!」
男はここが最後と言わんばかりに喚いた。誰に向かって言っているのか初めはわからなかったが、どうやらその矛先はバルトロメオに向いているらしかった。騎士王は怒りに唇を震わせた。
「……決闘も申し込めないとは、騎士の名折れよ!立て、私から申し込んでやろうではないか!」
と、いつも下げているらしい剣に手を掛ける。その勢いを見事に挫いたのは、傍若無人のハーレイだった。
「え、困るよ。マヨのご飯の時間だし」
「そうよ、王様。ここじゃ、手袋の落とし物もうちの道化が拾ってっちゃうし」
キャットが刺客の足を強く踏んづけながら追撃した。アストリッドは慌てて団員たちと騎士王の間に割って入った。
「あー……つまり、その、御妃様を早く連れ帰って差し上げては、ってことですよ、陛下」
バルトロメオが烈火のごとく怒り出すのではないかと思われたから口を挟んだのだが、彼は案外すぐに平静を取り戻した。
「ああ……」
それだけ呟くと、彼はマンフレッドが差し出した布をティーナの傷に押し当てながら、自ら彼女を抱えて去っていった。
翌日、アストリッドは城に入り、ティーナの容態を確かめに行った。刺客は王妃が飛び出してきたことに驚いたのだろう、短剣を深く押し込むことはしなかったらしい。大事には至らなかった彼女は、数日中に歩けるようになるということだった。
「痛むの?」
アストリッドは尋ねた。ティーナは安らかに微笑んだ。
「じっとしていれば平気よ。……それより、バルトロメオ様に叱られてしまったわ。騎士王たる自分を庇うなど、なんて」
彼女はバルトロメオの口調を真似ながら言った。アストリッドは呆れて首を振った。
「感謝もできないわけ?」
「そう言ってはあんまりだわ。あの御方だって、随分動揺していらしたのよ」
「ふーん……けど、私も良くないと思うよ。身を挺して守るとかさ」
アストリッドが少し真剣さを帯びた調子で言うと、ティーナは少々むっとしたように顔を背けた。
「私にだって、色々と思うところはあるのよ」
「そりゃ、生きてる人間は皆そうでしょ。とにかく、やめてよね。アルヴァのことも考えてさ」
兄の名が強い影響力を持っているのがわかっていたので、アストリッドはわざとそう言った。王妃はしばし窓の外を眺めると、口元を引き結んで視線を友人に戻した。
「……そうね。驚かせてしまってごめんなさい。けれど、悪いことばかりではないのよ。あの御方も、ようやく心を開いてくださってね」
「今更だね」
「意地悪ね、あなたって!けれど、そう。血を流してようやく、心を通わせることができたみたい。何ともキテスらしいわ」
意地が悪いのはどっちだか!アストリッドが苦笑していたところに、注意深く扉が開いた。見ると、戸口にバルトロメオが立っている。
「……怪我の具合はどうだ」
「あなたの御顔を見てようやく思い出す程度ですわ」
ティーナが言うと、騎士王は心底衝撃を受けたように目を泳がせた。彼女は控えめに笑う。
「まあ、本気になさらないで!……あなたがどうしてお兄様と取引できたのか、不思議で仕方ないわ」
彼女の笑いが収まらない様子―と言っても、わざとやっているらしいが―を眺めながら、バルトロメオはばつが悪そうに部屋に入ってきて、力なく椅子に腰を下ろした。
「何故、私を庇ったのだ?」
「忘れまして?夫を守るのも、妻の務めですわ」
ティーナは平然と答えた。もう幾度となく繰り返した問答らしい。バルトロメオはその答えをじっくりと反芻しているように見えた。やがて、再び重々しく口を開く。
「……私は貴女を妻として扱ったことがないだろう」
「あら、そうでしたの?酷い御方!」
ティーナはおどける余裕を見せたが、アストリッドは嫌悪の表情を隠しもしなかった。
「えー……最低……」
「待て、そういう意味では―」
バルトロメオは慌てて弁明しようとしたが、ティーナは彼の腿に手を置いてそれを制した。
「ええ、わかっておりますわ。私のキテスでの待遇のことをおっしゃっているのでしょう?騎士からは敬遠され、あなたからは気の利いた御返事はおろか、微笑み一ついただけませんもの。そんな中で何故、あなたをお守りする気になったのか……そうお尋ねなのですね」
「ああ……」
浮かない返事をするのは、何某かの誇りのせいなのだろうか?アストリッドにはこの男のことがまるでわからなかったし、わかってもわからないふりをしようと決めた。
「そうですわね。ちょっとした気まぐれ、とお答えいたしましょうか。もちろん、妻として動いたというのも、まるきり嘘ではございませんけれど」
「気まぐれだと?」
「……ほんの腹いせですわ。我ながら、愚かな真似をいたしました。もう少し反省しないといけないかしら?」
ティーナはそう言って微笑み、一方的に話を打ち切ってしまった。その細い指先は、紫玉の首飾りを静かに弄んでいた。バルトロメオは眉根を寄せたが、追及はしなかった。
「何か必要なものがあれば言ってくれ」
と、立ち上がりながら言う。
「私に必要なものと言えば、心穏やかに過ごせる時間ですわ」
王妃はぼんやりと壁を眺めながら、何の気なしに言った。騎士王は元々固い表情を一層固くした。
「……そうか。邪魔をしてすまなかった」
彼が物思いに耽るような面持ちで出ていくと、ティーナはきょとんとしたように扉のほうを見た。
「あの御方がいては心穏やかに過ごせないだなんて、少しも言ったつもりはなかったのだけれど」
「あんたって本当優しいね」
アストリッドは薄く笑いながら言った。
「だって、お兄様だったらわざわざ居座るくらいのことはしたと思わない?それで慣れているんだもの、私」
と、ティーナは何となく子どもっぽい調子で答える。その物言いがどこか引っかかり、アストリッドはふと笑うのをやめた。
「……ねえ、さっき言ってた腹いせって、ひょっとしてアルヴァに?まさか、死ぬ気だったんじゃ―」
「嫌ね、アストリッド。冗談よ、わからないの?―ね、あの御方を追いかけて、私の言ったことを本気になさらないでってお伝えして。良いでしょう?」
これでは何を言っても無駄だろう。アストリッドは肩をすくめ、のろのろと廊下に出ていった。玉座の間のほうへ歩いていくと、どこか威厳に欠けたバルトロメオの背中が見えてきた。
「陛下!」
バルトロメオは億劫そうに振り返った。
「お前か。……待て、昨日の曲芸師か?」
気ままな男だ。アストリッドはどうとでも取れるように首を傾げた。
「陛下、奥さんの言うことを真に受けないほうが良いですよ」
「そんなことで追ってきたのか」
バルトロメオはつかつかと歩き出した。アストリッドはその後をついていった。
「主君にそうしろって言われたんでね。とにかく、あんたの奥さんは変わり者ですよ」
「しかし、心根の清らかな人だ」
「あ、わかってんじゃん」
二人はしばらく黙って歩いた。バルトロメオがちらりとこちらを窺う。
「まだ何か用があるのか?」
「別に。ただ、奥さんくらい大事にしなよってだけ。政略結婚だか何だか、私は知らないけど」
「……そう、だな。もう少し、落ち着けば……」
彼がそう言ったところで、玉座の間に着いた。アストリッドはしれっと中までついていった。そこには文官マイルズが待っていて、今にも何か話し出しそうな顔をしていた。が、バルトロメオは目ざとくアストリッドを気にする様子を見せた。仕方なく彼女が退散し始めると、背後で二人が話し出した。
「こんなことになろうとは……早く手を打たねばならん」
「もう間もなくでございますよ。陛下、よろしいですか。負の感情こそ、人を動かす大きな原動力となるのです。そうした力こそ、国のような大きなものを扱うのに役立つのですよ」




