序奏
アストリッドは夜空を見上げていた。雲一つなく、星は我が身を憂いているのか、心なしか息を潜めて輝いているようである。そうか、主役は月なのだ。マグノリオ団でマンフレッドが主役であるのと同じ……いや、違う。彼はもう引退したのだ。おかしな勘違いを自分で笑いながら、アストリッドは三日月に目を凝らした。あの月は、どうして赤黒いのだろう?線対称の曲線、薄く、きゅっと閉じられた……グウェンドリンの唇。
ぞっとして、アストリッドは飛び起きた。嫌な汗が背を伝う。あの日、仲間を初めて失った日から、何度も見てきた夢だった。頭に来るあの微笑みを恐れている自分が憎らしい。深々と息を吐きながら、アストリッドはゆっくりと寝そべった。
「グウェンドリン……」
小さく呟いてみる。泡沫のように消えてしまった宿敵。あの修道院には、最後に立ち入って以来近づいてすらいない。三人の団員たちは、彼女がとうにこの国を去ったと見做していた。先王が玉座を追われてから、マグノリオ団は幾度ともわからぬほど公演を行っていたが、彼女は一度も姿を見せていないのだ。
ひょっとすると、ハーレイやキャットはグウェンドリンのことを忘れてしまったかもしれない。二人を愚かだと言いたいわけではない。ただ、彼らはこだわらない。いや、そんな言い方は正しくないだろうか?こだわっているのはアストリッドだけなのだから。マンフレッドも、道化のベッファも、死んだレオやアーウィンだって、生き死にということに心を悩ませた試しがない。少なくとも、そんな素振りは見せたことがない。
「それが、私たちでしょ」
アストリッドは低く、息を吐くように言った。ともすれば、もう終わったことだという可能性もないわけではない。グウェンドリンの狙いが何だったのかはわからないが、彼女がマンフレッドへの接近も図ろうとしていないらしい今、余計に頭を悩ませる必要もないではないか?
しかし、今日の夢には、マンフレッドの姿がふと浮かんできたのだ。それは何かしらの予兆ではないのか?もしも、彼に危険が及んだら?もしも、グウェンドリンが……
「で、寝れなかったってわけなの?あなたもなかなか哲学的ね」
キャットはアストリッドの充血した目をせせら笑った。アストリッドは彼女を睨みつけようとして、欠伸に邪魔された。目を擦りながら言う。
「私だって真剣なんだよ」
「わかってるわよ。けどね、アスト。あの女が現れない以上、どうこう言ったってしょうがないじゃないの。乗り込むわけにもいかないのは実証済み。それでいて、特に困らされてるわけでもない。放っておきましょうよ。私たち、忙しいんだから」
キャットは肩をすくめた。横からハーレイがのんびりとした調子で口を挟む。
「そうだよ。だって、今日から旅行なんだよ」
「旅行ではないけどね。まあ、遠出なのは確かだし、寝不足はちょっと効くかも」
と、アストリッドは再び大きく欠伸をした。そこに、ぺたぺたという足音が聞こえてきて、クララが姿を見せた。彼女は靴を与えても履こうとせず、相も変わらず裸足で歩き回っているのである。
「おねえちゃんたち、団長さんが探してるよ」
「もう?まだ朝ご飯の後のぼんやりする時間なのに」
ハーレイはなおのこと脱力し、ぐったりと壁にもたれた。クララはきょとんとして目を見開いた。
「でも、今すぐにって」
「あら、無駄よ、クララ。哲学っていうのは、思慮の浅い人しか動かさないんだから」
「ハーレイは重たい考えを巡らせてるから立てないみたいって、フレッドに言ってきてよ」
キャットに合わせて、アストリッドはクララに目配せした。団きっての怠け者は不満げに二人を見上げた。
「やめてよ……行けば良いんでしょ、行けばさ」
傍若無人のハーレイを唯一脅かすことができるのが、怒れるマンフレッドの銅鑼声なのである。それ以外は少しも効きやしないというのに。彼らは連れ立って小屋を出て、天幕を通り抜けた。外ではマンフレッドとアイニックが待っていた。珍しいといえば珍しい組み合わせである。
「ふむ、来たか!そろそろ出るぞ、陛下をお待たせするわけにはいかん」
「約束は昼でしょ?」
「そうだ。そして、昼においでになる陛下をお待たせしないために動くのは当然のことだ」
滔々と答えるマンフレッドは、滑稽を超えて最早感嘆ものであった。笑ってしまうのも不憫なので、感心させてくれるのもありがたいことである。
「ねえ、団長。キテスに行くんでしょ、王様って?俺たちは何するの?」
ハーレイはマヨがのんびりと歩いてくるのを見守りながら尋ねた。マンフレッドは苦い表情をした。
「陛下の御身をお守りする……と言いたいところだが、どうやら、ただ同行するだけのようだな」
「何それ?行進でもさせられるわけ?」
アストリッドは眉をひそめた。陛下、つまりアルヴァがまた何か妙なことをしでかそうとしているのだろうか?
「御命令ときたら、喜んでってね。ただ、何か嫌な意図が張り巡らされてるんじゃないかって、気になってしょうがないわ」
と、キャットは自らの肩をはたいた。その会話を横目に、アイニックがそろそろと動き出した。研究室―とは名ばかりの掘っ立て小屋―に引っ込もうとしているらしい。それに気付いてか気付かずか、ハーレイは彼に声をかける。
「カッパーさんは留守番なんだっけ?」
「ああ。生憎、研究で忙しいのでな」
と、博士はぴたりと立ち止まって答えた。捕まったのが残念なのか、その逆なのかは判然としない。アストリッドは当然のように彼の傍に立つクララを苦笑しながら見つめた。
「クララが熱心に手伝っちゃうからね」
「だって、おじさんってすごいんだよ」
少女が”すごい”と言っているのは、あくまで実験で起こるあらゆる演出の派手具合を指しているのだろう。マンフレッドは杖を地面に打ちつけた。しかし、土の上では良い音がしなかったので、代わりに咳払いをした。
「良いか、カッパー。我がマグノリオ団の敷地に、猫一匹入れるんじゃないぞ」
「あ、蜘蛛」
と言ったのはハーレイで、アイニックの肩に手を伸ばし、小さな蜘蛛を摘んで一同に見せびらかした。博士は呆れたような顔をしてそれを眺めながら言う。
「こういう類であれば構わないかね?」
「もちろんよ、博士。待ち人来たるってことだもの」
「その人を連れてきてくれるかもしれないから、放しておこうっと」
ハーレイはのんびりと屈み込んで蜘蛛を逃がしてやった。マンフレッドはすぐに会話の流れが変わってしまうことを憂いているように見えた。これもまた、教育の結果の一つなのである。アストリッドは、キャットやハーレイの気ままさに拍車がかかってきたせいで、我らが団長が困り果てているのを見るのが楽しかった。心身ともに常人離れしたところのある彼を、最も身近に感じられる瞬間だからである。
それはともかく、一行はアイニックとクララを後に残し、新王となってしばらくになるアルヴァの呼出しに応じるべく出発したのだった。
アルヴァは約束の時間をたっぷり過ぎてから姿を現した。輝かんばかりの白馬に跨った国王は、護衛の兵士をぞろぞろと侍らせていた。豪華な行進になるのは間違いない。レカンキチとしての誇りか……いや、ただアルヴァの趣味だというほうがありそうな話か。彼はマギーの姿を見止めて馬を降りた。
「やあ、来ていたか!待たせたのかな、すまないね」
と、少しも悪びれない様子で言う。マンフレッドは恭しく頭を下げた。
「御機嫌麗しゅうございます、陛下。我々なら、百年でもあなた様をお待ちいたしますぞ」
「そりゃないよ、団長」
暢気に笑いながら、ハーレイが口を挟んだ。マンフレッドは渋い顔をしたが、アルヴァは気に入ったらしい。
「俺も、約束した日のうちにはどうにかするようにはしているんだ」
「さすが陛下ね。なかなかいないわ、そう約束を守るのに必死になる貴族って」
そう言って、キャットは片眉を上げて微笑んだ。国王はこういった冗談も好むと見える。
「誠実なほど裏切られるからね。難儀なものだよ、まったく」
アルヴァは左手で顔にかかった髪を払おうとしたようだが、引きつったような動きをして、結局やめた。アストリッドに見られているのに気が付くと、彼は右手を挙げて爽やかに笑った。
「おお、アストリッド。調子はどう?」
「まあまあですよ。……その腕は?」
「これか。例の事件の毒にやられてね。ろくに動かなくなったんだ、利き手なのに。未だに慣れないよ」
と、答えたアルヴァは、その顔つきに一縷の憎しみすら浮かべなかった。すっかり過去のこととして水に流してしまったのか、それとも、ただ面白がっているだけなのだろうか?どちらにせよ、人を呆れかえらせるような性質であることに変わりはない。
「陛下、そろそろ出発なさるのがよろしいかと」
と、従者ラウルが背後から言った。
「そうだった。あまり遅くに到着するのもみっともないからね。さて、行こうか?……あ、その虎、後でよく見せてくれ」
アルヴァはマヨを指さしてそう言うと、馬に跨って颯爽と道を進みだした。護衛が慌ただしく彼に続いていく。マギーの馬車はやや遅れ気味にその後についていった。
「諸君、たとえ行って帰ってくるだけだったとしても、文句は言ってくれるな。特にハーレイ」
馬車に揺られてしばらく、御者台にいるマンフレッドが少し声を張って言った。ハーレイは不服そうな顔をして少し背筋を伸ばした。
「俺?文句なんか生まれてこの方言ったことないよ」
「そうよ、団長。彼、嘘だってついたことないじゃない」
マンフレッドは二人の戯言を片手であしらった。ハーレイはマヨの横に寝そべった。今にも眠りに落ちそうに欠伸をしながら言う。
「そういえば、アストは王様に会うのは久しぶりだったの?王女様にはよく会いに行ってるよね」
「よくってほどでもないよ。まあ、アルヴァの顔は久しぶりに見たかな。いつもティーナの部屋に直接行ってるから」
アストリッドは最後だけ少し声を潜めた。常軌を逸した侵入経路を使っていることなど、マンフレッドも気付いているのかもしれないが、何にせよ体裁というものがある。
「あの王様も、事件以来長いこと私室にこもってたって聞いたわよ。政だけはしっかりしてたから、文句も出なかったみたいね」
と、キャットが小道具の手玉を弄びながら口を挟んだ。先王が玉座を追われてからというもの、ティーナは出かけていく先がないと言って結局こもりきりになっていたのだが、まさか兄まで同じ状態だったとは。最早一種の病なのか……いや、あの男が理由もなく奇怪な行動に出るとは思えないが。
「そうなの?意外かも。……ていうか、そんなことどこで知ったのさ?」
「どこだったかしら?仲間みたいな顔をして、酒場にいた兵士の一団に混ざったときとかじゃないの」
キャットはしれっとして答えた。彼女にかかれば、踊り子という身分の上に重ね着をして、兵士でも老婆でも、下手したら王族にもなれてしまうのだ。問題は、その使いようが個人的な快楽ですらないことだろうか。
「本当、趣味悪いよね」
アストリッドはそう苦笑すると、だらりと姿勢を崩して馬車の揺れに身を委ねた。騒がしい旅路になるわけでもないらしいから、休むなら今だろう。隣国と言えど、キテスまでの道のりはまだ長いのだ。
靄の中、仲間の悲鳴が聞こえる――
アストリッドははっと目を覚ました。まだ馬車は動いていた。顔を上げてみると、嬉々とした様子のハーレイが外を指さして、キャットに何か言っているところだった。悲鳴ではなく、歓声だったというわけか。アストリッドは寝ぼけ眼で彼の指さす方向に目をやった。外は随分霧がかっている。そんな中、キテスの豪奢な城が、まるで空に浮かんでいるかのように、遥か遠くでその姿を現しているのだ。なるほど、絵画のような景色である。
前が馬車の速度を速めたのか、マンフレッドは馬をぴしゃりと叩いた。一行は粛々と道を進み、気付けばそこは町の中であった。そこを止まらずに通り抜け、街道を進み、木々の下をくぐっていくと、ようやく騎士王のおわす城下町クーリガに到着した。アルヴァは兵士を連れてそのまま城へと赴き、マギーのことはまるで相手にしなかった。
任務がわからないうちは始まっていないと見做すべし、という信条の下、団長を除いた面々は町の散策へと乗り出した。初めに目についたのは、だだっ広い広場の中央に雄々しく立っている銅像であった。
「崇高にして偉大なる騎士、アルフォンス、ね……」
アストリッドは銅板に刻まれた文字を読み上げると、一歩下がって像を見上げた。いかにも崇高にして偉大そうに見える。
「この人、キテスを建国した人だよね?」
「そうよ。数十年前、ノガロトス帝国の騎士だったアルフォンスは、主君の暴政に嫌気が差して、一人で皇帝に宣戦布告した。彼に同調したほんの一握りの仲間たちと共に、アルフォンスは大陸随一を誇る軍師に勝る知略と、精鋭揃いの将兵たちを凌ぐ武芸で帝国を圧倒……レカンキチに並ぶ歴史があったノガロトスを、日が五回昇る前に滅亡させてしまった、ってね」
キャットはぼんやりと言葉を並べ立てた。それは有名過ぎるほど有名な話で、ある程度の年齢を重ねた者なら、大抵が暗誦できてしまうのである。が、この男はそうもいかない。
「よく知ってるね、キャット」
「どうして知らないのよ?路地裏にも転がってる話よ」
そう呆れたように言いつつも、キャットにはハーレイがこの話を知らないとわかっていたに違いないのだ。ハーレイは小さく肩をすくめた。
「森には熊の御伽噺しかないもん」
「でも、森で熊に会ったことはないんでしょ?」
アストリッドがからかうように言うと、ハーレイは穏やかに微笑んだ。
「うん。いまだに空想の生き物だと思ってるよ」
そんなような会話をあちこちで繰り広げながら、三人はクーリガの町を見て回った。しかし、マグノリオ団に言わせれば、ここは至極退屈な場所であった。ターバのように曲芸団がいるわけでもなければ、美味しい食事が出るわけでもなく、酷いことにすれ違う人々が揃いも揃ってしかめ面をしているのである。キテスの国民は平民さえも騎士のように育てられ、物腰こそ柔らかいが、厳格で面白味のない人間になるようだ。それは何か真面目なことを話し合うには役に立つ素質だが、声を上げて笑ったり、呼吸したりするには少しも必要にならない。
一つ悪ふざけでも、という気にはなったものの、あまり勝手をするわけにもいかなかった。三人は大人しくマンフレッドの元へと帰っていった。日が暮れる前だったからか、団長は渋い顔すら見せず、彼らが帰ってきたところで、そのまま話し始めた。
「諸君らには残念な知らせだろうが、我々はしばらくの間このクーリガに滞在することになった。もちろん、陛下の御意向でな」
「冗談でしょ、団長?こんな何食べても美味しくないところ……」
ハーレイに合わせるようにして、マヨが小さく唸った。マンフレッドは彼らを軽くあしらった。
「それが嫌なら、自分で何とかすることだ。当面は、ここにいることだけが任務だからな」
「曲芸でもやってろっての?どうせまた、我らが国王は妙なこと考えてるんだろうね」
アストリッドは両手を腰に当て、小さくため息をついた。マンフレッドも顔つきばかりは他の面々と同じであった。
「さあな。キテスと同盟を結ぶおつもりだとは聞いたが」
「それなら、差し詰め私たちは糸の結び目ってところね。なるべくこっちの国の深いところに潜入していれば、糸が切れたときに損害を与えやすいってことじゃないかしら?」
退屈そうに言いながら、キャットは壁にもたれ、脚を交差させて立った。
「どちら側と手を切るか、間違えないようにせねばならんぞ」
マンフレッドが言ったとき、部屋の扉を叩く音がした。そこにいたのはアルヴァの側近ラウルで、彼が言うには、主君がアストリッドを呼んでいるとのことだった。
「私?フレッドじゃなくて?嫌な予感がする」
アストリッドはできるだけ控えめに顔をしかめた。が、まったく乗り気でないのは誰の目から見ても明らかだった。マンフレッドはふと目を細めた。
「ふむ!何にせよ、従う他ない」
予想通りの言葉だ。アストリッドは仕方なくラウルに続いて部屋を出て行った。




