反戻
湯屋の中に駆け込むと、キャットは追手が入ってこれないよう、玄関の扉を閉めて押さえた。彼女が傍に落ちていた箒を閊えさせている間に、ハーレイが傍にあった低い机を引きずってこようとした。が、それがなかなかの重さで、思うように動かすことができない。彼らの姿とこの騒ぎに驚いたのか、人影―おそらく客―がさっと退いていった。
あの従業員たちが体当たりでもしているのか、扉は繰り返し衝撃を受けており、今にも壊れてしまいそうである。箒だけではとても頼りない。キャットは背中でも扉を押さえていたが、後頭部に何度も扉が当たるのに嫌気が差し、ついとそこを離れてしまった。
「これ以上持たないわよ、ハーレイ!」
「でもこれも持てやしないよ。マヨみたい」
ハーレイは机から手を離して背を伸ばした。キャットは離れたところで寝そべっている虎を一瞥した。
「その怠け者さんに手伝わせたら良いじゃないの。ほら、起きてるわ、あの子」
そう言いながら、キャットは彼に歩み寄り、自らも机を持ち上げてみた。一瞬でうんざりさせられた。
「重いでしょ?―おーい、マヨ!手伝ってよ」
相棒の呼びかけに応じて、じっと寝そべっていたマヨはようやく起きてきた。急かすように扉ががたがたと鳴っているのもものともせず、のんびりと歩いてくる。やる気はなくもないらしい。二人と一匹は力を合わせ、のろのろと机を動かし、扉の前に押し付けた。案外間に合うものだ。横幅はぴったりで、これならば少し時間を稼げそうであった。
めげずに扉を殴りつける敵のことなどすっかり無視して、キャットはその机の上に腰掛けた。ハーレイはその真似をし、マヨは彼らの足元に座った。
「どうしようかしらね」
「あの人たち、ちょっと強すぎると思わない?」
ハーレイは扉のほうを振り返りながら言った。キャットは苦々しく口を鳴らした。
「そうね、ちょっと嫌な気分になったわ。唾でも吐きかけられたみたい。―それにしても、うるさいわね。静かにできないものかしら?」
彼女はふらりと立ち上がり、小窓から外を覗いた。どこか別の入り口がありそうなものなのに、従業員たちは扉の前に群れ、虚ろな目でその扉に執心している。何か閃いて、ハーレイは顔を輝かせた。
「爆弾投げようよ。持ってるんでしょ?」
「博士に預けちゃったわ。……何よ。持ち歩きたくないじゃない?私、四肢が散り散りになるのなんか似合わないと思うわ」
「どうするの、カッパーさんが爆散したら?」
「秘湯に浸けたら元に戻るわよ、きっと」
キャットは皮肉な笑みを浮かべた。そのとき、薄暗い中に素早く影が飛び出してきた。アストリッドたちの元から逃げてきたカヤである。彼女は着物を振り乱した格好で広間を見回し、吐き捨てるように言う。
「随分な騒ぎじゃないか!うちの湯屋を引っ掻き回しておいて、どう落とし前つける気だい?」
「何だか元気そうだね、カヤ」
「そうね。さっき会ったときから変わりないみたいで良かったわ」
二人は顔を寄せて囁き合った。何とも暢気なものである。何故かと問われたなら、彼らはきっとこう言っただろう。だって、勝てそうにないから、と。
「目的は何だ?金か?それとも永遠の命か?お客さんのお仲間は、正義めいたことを説いていらっしゃいましたけどねえ!」
「永遠の命が良いな。お金はあげるよ、キャット」
「どこから腐り始めるかわかったもんじゃないわよ。それより彼女、やっぱりアストに会ったみたいね。―ねえ、ちょっと!まさか、私の仲間に傷でもつけてないでしょうね?」
と、キャットは澄ました様子でつかつかとカヤのほうに歩き出した。その後ろから、ハーレイが立ち上がろうともしないまま声を上げる。
「やめとこうよー……」
カヤはがたがた揺れる玄関の扉をちらりと見やったが、すぐにキャットに向き直った。
「あら、お仲間のことが気になりますの?それよりも、まずは自分の身を心配したらどうだい?」
「してるわよ、失礼ね。大体ねえ―」
キャットは何かしら文句をつけようとカヤのほうに腰を曲げた。が、彼女が切り出すのを阻止しようとするかのように、凄まじい音が建物中に鳴り響いた。埃が舞い上がり、日の光が中に大きく差し込んだ。コマである。彼は超人的な力によって穴を開け、屋根から一階まで直接降りてきたのだ。カヤは歪んだ笑みを浮かべたが、すぐに眉間に不満げな皺を寄せた。どこの馬の骨とも知れない連中に一本取られたことを思い出したのである。
「どこほっつき歩いてたんだい、コマ!うちの湯屋を守るのが手前の仕事じゃないか!」
「そうがみがみ言うでないわ。だから言うたのじゃ、怪しい輩なら早う追い出せとな」
カヤは鼻を鳴らし、二人の敵に冷ややかな一瞥を与えた。
「秘密を知られたからには、生きては帰せないね。覚悟は……よろしくて?」
嫌ね、と言いたげにキャットはため息をついた。振り返って見てみると、ハーレイはすっかり部外者のような顔をして座っていた。彼女はもう一度、今度はより深いため息をついた。カヤが目にも止まらぬ速さで迫ってきているのがわかった。目の端に移ったその手には匕首が握られている。
キャットは思い切り仰け反ってその初撃をかわすと、そのまま床に手をついて脚を振り上げ、カヤの顔を勢い任せに蹴った。案の定、カヤの身体はびくともしなかったが、それでも驚かすには十分だった。素早く立ち上がった我らが踊り子は、敵の手から武器をあっという間にもぎ取った。
「ただで勝てると思った?」
彼女はそう挑発して一度距離を取った。一方、傍観者ハーレイにはコマが突進をお見舞いしていた。すんでのところでそれをかわしたハーレイは、咄嗟に鉤縄を天井に引っかけると、慣れたやり方で壁に留まった。
「おじいさん、そんなに筋肉質だったっけ?」
「言ったじゃろう、若いの。騙されてみることじゃと。信ずれば叶い、疑わば虚無を喰らう……それが神秘の里じゃよ」
コマは低く言うと、例の机を易々と持ち上げて投げつけてきた。ハーレイは縄を握りしめて壁を走り、キャットを見習ってせめてもの抵抗に打って出ることにした。机が退けられたことでようやく中に入ってくることができた従業員たちがマヨと睨み合っている。なるべく早く助けてやらねば。
ハーレイはコマに飛び掛かると、縄と脚でコマの首を絞め上げようとした。効き目はあまりないようである。が、ハーレイはそのまま敵の背にぶら下がり、逆さの状態で弩を構えた。短く口笛を吹くと、マヨがさっとその場から飛び退く。
彼は何本か矢を放った。カヤやコマとは違い、従業員はそこまで屈強ではないらしく、矢は効果的であった。とはいえ、あの数が相手では分が悪い。彼は懐から閃光弾を取り出すと、放り投げ、自らはぐいと身体を起こして目を守った。従業員たちは余すことなく気を失った。
コマに振りほどかれてやると、ハーレイは再び壁に避難して考えた。コマはぴんぴんしている。キャットも防戦一方のようだ。この無茶をいつまで続ければ良いのやら!と、彼がうんざりと呻き声を漏らそうとしたときだった。
一閃――鋭い刃がコマの左目に突き刺さった。彼は痛みに湧き上がるような雄叫びを上げた。刺さった短剣を抜き取り、それが飛んできた方向を猛り狂ったように見やる。
「目は弱いって?」
アストリッドは予想が当たったことに笑みを漏らしながら言った。カヤは舌打ちをして彼女を襲おうとしたが、軽やかな動きのキャットに阻まれた。ハーレイがほっとしたように手を振る。
「アスト!死んだのかと思った」
「そんな簡単に殺さないでくれる?」
そう文句を零しながら、彼女はコマとの距離を一気に詰めた。駆け出した勢いのまま飛び上がり、こちらを睨みつける血走った目に向かって脚を蹴り出す。コマは瞬発的に両手で彼女の脚を掴むと、そのまま壁に叩きつけようとした。が、それが仇となった。よもや、ハーレイがそこにいることを忘れるとは!ハーレイは壁を蹴って勢いをつけると、敵の守りががら空きの顔に拳を振るった。
激しい痙攣。コマはアストリッドの脚を手放し、苦悶に打ち震えた。アストリッドはぎりぎり壁に叩きつけられないで済んだ。彼女はコマを足蹴に着地した。
「よしっ……!」
カヤが猛然とこちらを向いた。仲間がしてやられたことに気が付いたのだ。
「くそっ、あんの……」
彼女はキャットを無理に突き飛ばすと、アストリッドめがけて大きく前に進み出た。その爪が身をかわしたアストリッドの頬を引っ掻く。
「信じるかどうかは私次第……あんたの言っていた意味がようやくわかったよ、カヤ。私たちを下に置いて逃げ出すべきじゃなかったね」
「……好きにおっしゃいな」
アストリッドは後ろ手で落ちていた自身の短剣を拾い上げ、一気に振るった。これで決着がついてしまえば良かったのだが、現実はそう上手くいかない。カヤは避けた先で待ち構えていたキャットの攻撃を、信じがたいやり方で身体を捻って回避した。ハーレイの矢を叩き落とし、すかさず攻撃に転じる。カヤはアストリッドとキャットにそれぞれ爪を振るい、後者の肩に決して浅くはない傷を負わせた。
コマが力に依存して戦っていたのに対し、カヤはもっぱら速さに頼りきっていた。そして、マギーとしては、彼女のほうが余程厄介であった。ただでさえ急所の範囲が狭いというのに、攻撃を尽く避けられてしまうのでは堪らない。
とはいえ、形勢は徐々にマギーのほうに傾きつつあった。カヤは疲労を見せていた。それも何か、邪険で粗悪な力に身体の芯から蝕まれているかのように、息が細く荒い。神秘の力を使うのにも限度があるようだ。マギーは一瞬目を合わせ、頷き合った。畳みかけるなら今だ。
その頃、アイニックは苦戦して末裔たちの檻の錠を破壊し終えたところだった。錠は古びているようでいて頑丈で、少し叩いたくらいではびくともしなかった。生憎、博士は針金やら何やらを使って鍵を開けるなどという芸当は身に着けていない。彼は光線銃で錠を破壊しようとしたが、試作品だったその銃はまったく作動しなかった。大恥をかかないで済んだのが彼にとっては不幸中の幸いである。
結局、彼は頑丈な銃の持ち手で繰り返し錠を殴りつけることにした。二つの檻を解放したときには、彼も銃もすっかりくたびれていた。末裔たちは恐る恐る檻から出てきた。息を整えながら、アイニックは彼らの顔を見回した。漆黒の瞳が余すことなくこちらに向けられている。何故、と彼は考えた。何故、彼らはあのような力を持っているのだろうか?
いや、今考えても仕方のないことである。そうすぐに理由が思いついてなるものか。彼は小さくため息をつくと、わざとらしく咳払いをした。そんなことをしなくても、彼はすでに注目されていたが。
「良いかね、末裔諸君。我輩はこれから上の様子を見てくる。あの輩がどうなったか……おそらく我輩の友人がすでに懲らしめてくれていることと思うが、それを確かめねばなるまい。諸君らは、どうかここで待っていてくれたまえ。ここに至るまでの道は今のところ一つしかない。我輩の友人が戦い続ける限り、あの輩も戻ってはこられないであろうからな」
「……井戸は」
疲労のせいでろくに抑揚もつけられない様子の末裔が尋ねた。
「あれは連中の手によって埋められたのだ。とにかく、案ずることはない。諸君らを無事で帰すと誓おう」
またいらない誓いを立てたものだ。しかし、末裔たちはそれで元気づけられたようであった。アイニックは軽く頷いてから部屋を出て、早足に通路を進んでいった。走るべきかと考えたが、あまり早くに着いて戦いに巻き込まれるのは御免だった。
歩いている間、彼の意識は自然と魔術師の末裔という存在のほうに逸れた。何故と尋ねるべきか、あるいは何と尋ねるべきか。博士は切っても切れない因果を憂えた。そうこうしているうちに、階段が見えてきた。随分早く辿り着いたものだ。
アイニックはふと、井戸に繋がる細い道に目をやった。岩に封じ込められているせいで、井戸の辺りは暗かった。が、そこに一点の光が忍耐強く差し込んでいる。そして、それが指さしている岩の下敷き……その赤い歪に、彼は言葉を失った。
マギーは一気に攻勢に出た。言葉も合図も不要だった。カヤの敏捷さは落ちつつあった。今なら攻撃を当てられないこともない。必要なのは連携、つまり、上手いこと隙を作り、最高の一撃を喰らわしてやることだった。それができれば、カヤを倒せこそはしなくても、動きを封じるくらいのことはできる。
まずはキャットが、カヤの目の前で指を鳴らしてみせた。というのは、肩の負傷が効いていて、彼女も好きに暴れることができなかったからであるが。もちろん、それはほんの悪ふざけのようなものである。それでもカヤは一瞬彼女に気を取られた。それを利用して、ハーレイはあくまで避けやすいように蹴りを入れにかかった。カヤが身をかわした先は――マギーの予想通り。
目立たぬように先回りしていたアストリッドは気が急くのを抑えながら、これ以上ないほど完璧な塩梅で、敵の首の根を蹴り飛ばした。カヤは息の塊を吐き捨て、よろめいた。アストリッドは勝ちを確信した。
「観念しな!」
彼女がとどめの一撃を決めようとしたときだった。腕に鋭い痛みが走った。突然の刺激にアストリッドは思わず動きを止め、きっとして自身の腕を見た。従業員が噛みついている!彼らが目を覚ましたことに、マギーはまるで気が付かなかったのだ。彼らはぞろぞろと湯屋の中に入ってきた。相手をするには多すぎる。カヤを伸してしまえば?
そう思ったときには遅かった。カヤは敵の動揺を見て取ると、瞬時に床に伏せるコマの元へ飛んでいった。そして、あろうことか、彼の首筋に噛みついたのである。その素早い判断と動き、もちろんそのおぞましい行動も、すべてがマギーを驚かせた。仲間の血肉を喰らったカヤは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「観念するのはどちらかしら、お客さん?神秘の里の力を甘く見たね!」
敏捷さが蘇り、凶暴な爪と牙を持ったカヤは、真っ先にアストリッドに飛び掛かってきた。アストリッドの背後には従業員たちがいる。逃げられない。
「あーあ……」
アストリッドは覚悟に目を瞑った。




