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寡黙の外連に魅せられて  作者: 小娘
幻想の怪異
18/41

固血

 湯屋の外に逃げ出したキャットとハーレイは、あっという間に建物の屋根に登り、そこで一息ついた。追ってきた従業員たちはなすすべなく二人を見上げている。何人かが同じように登ってこようとしたが、上手くいかなかった。そのせいか、彼らはどうするわけでもなくその場に立ち尽くし、じっと侵入者を見上げるばかりだった。キャットは辟易したように彼らを見つめ返した。


「さて、どうしましょうか?」


「あのまま動かないつもりなら、俺たちには好都合なんじゃない?」


ハーレイは手頃な場所に腰を下ろしながら答えた。キャットは鼻を鳴らした。


「睨み合うだけなら効率が良いわね」


と、欠伸を漏らす。実際のところ、本当にこの膠着状態が続きかねない雰囲気であった。従業員たちは微動だにせず、二人も彼らを懲らしめてやろうとかいう気分ではなかった。


「カヤはいないね」


ハーレイはぼんやりと呟いた。親玉が追ってくるとは端から思っていなかったものの、となると彼女がどこにいるのか、という疑問が湧いてくる。アストリッドたちは彼女に遭遇するだろうか?たった一人が相手なら、マギーが苦戦することもないはずだが。


と、何かが屋根にこつんと当たる音がした。見ると、一人の従業員が石を拾ってこちらに向けて投げているではないか。その仲間たちは、小さな驚きと共に彼の猿真似をした。キャットは思わず顔をしかめた。


「なんて賢いのかしら!」


「当たったら痛そうだよね」


ハーレイは小石を片手で受け止めて投げ返し、キャットのほうは棍棒で応戦を始めたが、それではとても追いつかないような勢いで石の雨は降り続いた。すぐにうんざりして、キャットは棍棒にもたれて立った。


「やってらんないわ。早めに戻ってきてくれないかしら、アスト」


と、頭を傾けて石をかわす。ハーレイもいよいよ面倒になって、両手で壁を作って頭を守るだけで十分であるような気がしてきていた。


「これ、いつまで続くんだろう?マヨが何とかしてくれないかな」


「何よ、あんな怠け者。どうせまだあそこで寝てるわ。消灯も済んでるし」


キャットが言ったとき、場の空気ががらりと変わった。はて、何故かと考えてみると、どうも下の獣染みた連中が石を投げつけるのをやめてくれたようである。そして、二人の背中を照らしていた日の光もどこへやら……そう考えたとき、二人ははっとして後ろを振り返った。間一髪、キャットは迫りくる拳から身をかわした。


そこに立っていたのは巨躯の老人であった。そう、男湯でハーレイとアイニックが遭遇した、そして、アストリッドが昨夜その背中を眺めたその男。彼がいつの間に背後に回ってきたのか、二人には全く見当がつかなかった。さらに言えば、その不自然なまでに筋骨隆々とした身体つきも、何か理解の及ばないものであるように思われた。委縮するような気持ちを味わったのはいつ振りだろう?


「珍しいお客人じゃな……」


彼はしわがれた声で言った。腹の底を撫でるかのような響きだった。二人は答えなかった。正装を纏って敵の前に出るときは、極力声を出さないのがマギーの決まりだからだ。


「何者かの?」


そう尋ねながらも、老人は答えなど期待していないらしかった。ハーレイは別の圧迫感を感じて下を見た。小石を握りしめた観客たちが、揃って顎を軽く上げ、ぎょろりとした目でこちらを見上げている。彼らは、実際は低い位置にいるのにもかかわらず、壁のようにそびえ立っているように感じられた。


目線を老人に戻すと、彼は肩を揺らして笑っていた。キャットが何か面白いことを言ったのだろうか?それを聞き逃したことをハーレイは悔やみかけたが、さすがの彼も場違いだと気付いた。第一、彼女は老人が現れてからは一言も口にしていない。微動だにしていないではないか。つまり、とハーレイは虚無の結論を下した。あの御爺さんはおかしい。


キャットにしても、老人が愉快そうにしている理由はわからなかった。戦いの予感に昂っているようには見えないのだ。むしろ、その笑いは小刻みな震えにも見えた。あるいは、恐れなのか?何にせよ、とキャットは心の中で呟いた。あの男が永遠に笑っていれば、こちらも幸せというものだわ。


老人は大きく身震いしてから笑うのをやめると、水面をそっと撫でようとするかのような動きで身構えた。その様は、毛一つ動かすまいとするかのように静謐である。


「狼藉を働こうと言うのなら、折檻も覚悟の上かの?いずれにせよ、己もおぬしらを許しておくわけにはいかぬぞ。さあ、仕合じゃ、仕合じゃ。己はコマ……お手並拝見じゃな、お若いの」


キャットはぞっとして、咄嗟に後ろに飛び退いた。直後、彼女が立っていた位置にあった瓦は尽く粉砕された。突進と呼ぶには速すぎるコマの攻撃である。ハーレイは慌てて立ち上がり、鉤縄を引っかけて上方に逃げた。彼の座っていたところも悲惨なことになった。


ハーレイは弩を取り出して上からコマを狙ったが、発射された矢はいとも容易く片手で受け止められてしまった。あの反応速度では、何度放っても同じことだろう。となれば、彼にできるのは妨害行為だけであり、主戦はキャットに任せるしかない。


と思ったのも束の間、コマの腕に命中したキャットの棍棒が無残にも折れてしまった。上質な木で作られたもので、簡素な見た目で重量も軽いとはいえ、ちょっとやそっとのことでは折れないようにできているというのに!動揺しながらも、彼女は踊るようにコマの肩に登り、正面から顔を蹴ってやろうとした。が、彼女はあえなく脚を掴まれて後方に投げ飛ばされてしまった。格闘でも勝ち目がないときたら、彼女のほうができることは少ない。


ハーレイの傍に着地したキャットは、彼をちらりと見上げて微かに首を振った:「無理そう」。彼は肩をすくめ、仕方なく矢を立て続けに放った。コマはちょうど振り返ったところであったというのに、即座に反応して、虫でも追い払うかのように腕を振って対処した。一本が肩の近くに刺さったが、少し痒いくらいにしか思わなかったと見える。


「興ざめじゃの」


呟きながら、コマがこちらにのしのしと歩いてくる。想定と違う事態に焦った―いや、苛立ったのほうが正しいかもしれない―キャットは、飛ぶように彼のほうに駆けだした。嘲るような顔つきで迎え討とうとするコマの意表を突こうと、彼の股の下を滑りぬける。背後から、彼女は敵の尾骶骨の辺りに向かって脚を上げた。彼女の相手をしようと身体を捻りかけたコマは、彼女に合わせようとして反射的に飛び出したハーレイへの対処に一瞬出遅れた。彼は縄で勢いをつけながら喉元を狙ってくる。


二人は同時に蹴りを繰り出した。背後からの一撃は大した衝撃を与えなかったようだが、咽頭には少しは効いた。コマは息を詰まらせ、その動きが痙攣しながら止まった。それでも、これはほんの足止めに過ぎない。二人では、この摩訶不思議な力量の老人を打ち負かすことはできないようだから。


まずはハーレイが親指と二本指を立てて合図を出してから離脱した。そして、彼に影のようにくっついて、キャットも素早く建物の屋根から飛び降りた。二人は獰猛な目線を寄越して今にも飛び掛かってきそうな従業員たちを押し退け、湯屋の中に撤退した。



 アストリッドは暗闇の中を走っていた。通路にあったはずの薄ぼんやりとした灯りが消えていたのだ。あれがせめてもの頼りになるのか、はたまた気味悪さを助長していただけなのか、はっきりと言うことはできない。とにかく、今は闇に慣れてきた目でどうにか進むしかない。


背後に、息を切らしながらついてくるアイニックの気配を感じていた。アストリッドは時折振り返らずにはいられなかった。というのは、彼の気配が何か生きていないものに取って代わりはしないかと、そんな馬鹿馬鹿しい不安を抱えていたからである。幸い、博士は博士のままだった。走り慣れてはいないが、文句一つ言わずについてきてくれる、何とも健気なアイニック!


通路は昨夜感じたほどには長くなかった。すぐに白い光が漏れ出る空間が目に飛び込んできた。まるで天国にでも続くかのような残りの道筋を、アストリッドはさらに足を速めて進んでいった。足は速いほうだと思っていたのに、ここまで自身の動きが遅いと感じる日が来るとは。


ようやく、彼女は部屋の入口に辿り着いた。白い光の中、一人の背中が見えた。


「カヤ……!」


女当主は振り返った。あのしなやかな落ち着きは見る影もなく、ぎらつくような光を抱えた眼差しをしている。筋張った手は死体を掴んでいた。


「あら、お客さん」


そう言って、彼女は手を離した。どさりと死体が床に落ち、衝撃で血が飛び散った。隙間風が囁くような音。そう、それは末裔たちの声である。カヤは血塗れの手を振った。血が飛んだ音がはっきりと聞こえた。アストリッドはつかつかと中に入っていった。追いついたアイニックは部屋の入口で立ち止まっている。


左右に檻があった。合わせて二十人ほどだろうか。知らない顔に驚いたのか、末裔は揃って身を固くしてこちらを見上げている。皆座り込んでいた。


「これが秘湯の秘密なの?」


アストリッドの問いを、カヤは鼻で笑って一蹴した。答えるまでもないというわけだ。彼女は台の上に置かれた、赤黒い液体の入った瓶を指先で撫でた。そこここに跳ねている飛沫と同じ色。これが秘湯の何になるというのか?


「何がどうなってるのか知らないけど、これ以上のことは許さないよ」


どういう料簡からそれを許さないのか、アストリッドには自分で説明できない気がした。カヤは低く笑った。


「様子のおかしい客だとは思ってたが、まさか正義の使者気取りだとはなぁ!」


穏やかな当主だったときと同じ声をしているものだから、その言葉は馴染みもすれば、受け付けがたくもあった。アストリッドは眉根を寄せた。


「解放しなよ、この人たちのこと」


「はっ、お断りだ!お客さん、あんたは何もわかっちゃいないよ」


「何をわかれっての?」


「あたしらはね、大勢の人間を救ってきたのさ……死にかけの爺から、病でろくに歩けもしないがきまでね。こいつらの力を使えば、信じる者みぃんな救えるんだ!気付いていて、お客さん?これから不幸に死ぬ人間を増やそうとしてるってことに」


うねるように変わる語りの調子が耳に不愉快である。アストリッドは奥歯をぐっと噛みしめた。こんな相手に道理まがいのことを説かれる筋合いはない。彼女は何とか反駁を試みた。


「この人たちの命を無駄にして万病を癒すなんて、できるわけないでしょ?あんたの勘違いだよ、全部」


「何をおっしゃいます!できてるからこの湯屋は人気なんだよ、わからないお人だね!どうせこいつらは罪人の末裔だ。放っておいたらまた、大火事でも何でも起こすに決まってる!それが魔術師の運命なのさ!」


聞き捨てならない推定だ。アイニックは思わず部屋に一歩足を踏み入れた。


「何故だ……何のために彼らを恨む?」


「恨んじゃいないね、ちっとも。ただ、これが一番合理的な犠牲でございましょ?」


カヤは悪びれもせずに微笑んだ。それがアイニックの神経を逆撫でしたようだった。


「これ以上は我慢ならんぞ……!」


博士は震える手で懐から試作品の光線銃を取り出し、危うく取り落としそうになりながらも、素早く構えた。いかにも高い威力を秘めていそうな見た目の武器だ。カヤの目が一瞬怪しく光った。動揺か、興奮か?


「我輩が引き金を引けば、熱光線が君の身体に穴を開けることになるぞ。言っておくが、避けることなどできはしない。さあ、彼らを解放しろ!今すぐにだ……そうすれば、大事にはしない。約束しよう」


これを優しさと呼ぶのなら、誰かが彼に教えておいてやるべきだったのだ。優しさとは、己ばかりを狙う刃なのだと。カヤは薄ら笑いを浮かべながら横歩きをし、ゆっくりと檻に近づいた。アイニックは銃口を敵から逸らさなかった。アストリッドは彼らの間には立っておらず、二人の様子を窺いながらも、博士の激昂に少々面食らっていた。


彼女が固唾を飲んだときだった。カヤが人とは思えぬ速度でアイニックに飛び掛かった。避けられないだろうとは豪語していたものの、彼が引き金を引く間もないという可能性のことは考えていなかったらしい。カヤは光線銃を揉み取ろうとした。


はっとして、アストリッドは二人に加わった。後ろからカヤを殴りつけたが、彼女はびくともしない。アストリッドは咄嗟にアイニックを突き飛ばした。よろめく彼の手を離れた光線銃は通路に滑り出た。彼女は短剣を抜いて敵の首を狙った。しかし、カヤはその刀身を素手で鷲掴みにしてその攻撃を止めてしまった。だというのに、血の一滴も出ていないではないか!


驚愕している暇などない。アストリッドはカヤの首を絞めてやろうと、空いているほうの腕を伸ばした。が、カヤのほうも考えていたことは同じで、かつ動き出すのが早かった。武具のように長く鋭い爪が食い込んでくる痛みと息苦しさで、アストリッドは攻撃に出ることができなくなった。生温かい血が首を伝うのがわかった。


アイニックが仲間からカヤを引き剥がそうと、一心不乱になって彼女の首に腕をかけた。彼が何とか敵を後方に引っ張ろうとするのと同時に、アストリッドは突き刺さる爪を一本一本引き抜こうと力を込めた。カヤは最早正気とは思えない形相で食らいつこうとしている。ようやくアストリッドの首を解放すると、カヤはアイニック共々後ろ向きに倒れた。


博士が尻もちをつくが早いか、カヤは身体を捻って彼の顔を引っ掻いた。そして拘束が緩んだ隙に立ち上がると、脇目も振らずに通路を駆け抜けていった。アストリッドは即座に追いかけようとしたが、思ったよりも出血が酷い。


「くそっ……」


彼女は首に手をあてがい、傍にあった台にもたれかかった。光線銃を拾ったアイニックが戻ってくる。引っ掻かれたせいで彼の顔も出血していたが、大した傷ではないようだ。何にせよ、逃げられてしまっては意味がない。心配そうな顔をしている博士に向かって彼女は言う。


「あいつを追って!私のことは……だーっ!いったい!」


叫んだら余計に痛いだろうに。アイニックはカヤを追いかけようとはしなかった。


「我々の目的は、ここにいる彼らを解放することであろう?それが達成できる状況である今、案ずるべきは君の傷だ」


「馬鹿言わないでよ……あいつ、放っておいたら同じこと……あー……」


話す気力もなくなるというものである。アイニックは止血のために自身の服を引き裂こうとした。それを、ある手が押し止める。アストリッドかと顔を上げた博士は、それが一人の末裔の手であることに気付いた。彼は身体を弱々しく震わせながら立っていた。


「ああ、すまない。檻ならすぐに―」


「信じてください……」


出し抜けにその末裔は言った。アストリッドとアイニックはぎょっとして目を見開いた。すると、共鳴したように末裔たちが同じことを繰り返し始めた。


信じてください、信じてください、信じてください……


「な、何?何を?」


アストリッドは思わず後退りながら尋ねた。もちろん、後退った方向にも同じことを繰り返す末裔がいるのだが。


「その傷が治ると、信じてください」


最初の末裔が言った。二人は思わず目を見合わせた。彼らは何を言っているのか?


「治ります、今すぐに、信じてください、心から」


ぞっとするような調子の哀願だった。アストリッドは末裔の漆黒の瞳をじっと見つめた。真摯な光が返ってくる。彼らは本気のようだった。心底、二人に”信仰”を乞うているのだ。アストリッドはアイニックの表情に苦悶が浮かぶのを見た。彼は信じたくないと思っているらしい。どういうわけだろう?彼女は考えた。この状況下では、信じようが信じまいが同じことである気がした。それならば、信じてみても損はないだろう。


アストリッドは祈るような気持ちになってみた。この傷が今すぐに治り、血が流れたことすらなかったことになる……そんなことを想像した。変化が訪れたことに、すぐには気付かなかった。それを察したのは、博士が彼女を一種の畏怖の念を込めて眺めていたからである。彼女は傷があるはずの場所を指先で優しく撫でた。至って普通の肌である。指を見た。血すらついていない。もう一度、今度は両手全体を使って自身の首に触れてみた。


「嘘……」


アイニックを見ると、彼の顔についていた引っ搔き傷も消えていた。恐れと興奮に、二人はしばらく黙って立ち尽くしていた。末裔が微かな笑みと共に、幸福そうにこちらを見ている。つまり、秘湯の効能というのは本当に彼らに由来しているのか!そんなことがあるだろうか、そんな人智を超えた力を持つ彼らが、他の人々と同じように平然と暮らしているのか?いや、今考えるべきはそれではない。アストリッドは思い直した。


「……この人たちをお願い、アイニック。私は今からでもカヤを追う。そう遠くには行ってないはずだから」


アイニックは返事もままならない様子だった。アストリッドは答えを待たずに部屋を飛び出していった。

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