破砕
翌朝、一同は日が昇るのと同時に目を覚ました。天井を凝視して眠気を追い払いながら、アストリッドは昨晩の出来事を頭の中で再生し直した。今、冷静になって考えてみれば、あの場で逃げ出したのは間違いだったかもしれない。相手は一人だったのだ。仮に苦戦したとしても、負けを見ることはなかっただろう。そして、あの部屋の中には、きっと大勢の末裔たちが囚われていたはずだ。
しかし、それにしても、あの空気は耐え難かった。今でも鮮明に思い出せる、生暖かい命の残滓……アストリッドは思わず身震いした。何にせよ、末裔たちのことは助けなければならない。そしてどうせ助けるのなら、昨夜彼女がどんな行動を取ったかなど、取るに足らない問題だ。さて、作戦に移らねば。
「皆、準備は良い?」
アストリッドは起き上がりながら出し抜けに言った。きょとんとした眼差しが返ってくる。
「何の準備よ?」
「ああ……だから、その、末裔を助けに行こうってこと」
考え事をしていたばかりに、順序というものをすっ飛ばしてしまったことに少し赤らみながら、彼女は答えた。ハーレイがのそのそと身を起こしながら言う。
「良いけど、その前にご飯にしようよ」
「こんなところで、食事を取る気になるかね!本当に、君という人間は……」
アイニックが眉をひそめたのに対し、ハーレイは真面目腐って同じ顔つきをした。
「俺はどこにいてもお腹は空くけどなあ。ねえ、マヨ?」
語りかけられたマヨは首を傾げた。ふらりと部屋を横切りながら、キャットが短く鼻を鳴らした。
「せめて銀の匙でも持ち歩きなさいよね」
「ハーレイは匙なんか使わないでしょ。それより、私たち急いだほうが良いみたいだよ」
アストリッドが言うと、キャットはぴたりと立ち止まって振り返った。
「クララみたいなことを言うのね。そういえば、あの子ったらどこに行ったのかしら?」
アイニックは別としても、マギー以外の人間と行動を共にすることがないせいか―それとも、単に寝起きだからだろうか―、彼らは少女の不在にすぐには気付かなかったのだ。アストリッドはっとして立ち上がった。
「あ、しまった!一人で行っちゃったのかも」
すぐに彼女は急ぎ昨夜見聞きしたことを仲間に話して聞かせた。人伝に聞いたことのように、言葉はあっさりと出てきてくれた。が、その説明は的を得ていないか、意味を成していないかのどちらかだったのだろう。皆、怪訝そうな顔をするばかりであった。
「何で末裔を殺したら万病を治すお湯ができるの?」
ハーレイが無邪気ですらある調子で尋ねた。アストリッドは若干呆れつつ答える。
「それがわかったら良かったんだけど。とにかく、居場所もわかったことだし、早いとこ助けちゃおうよ。クララのことも心配だし」
「まあ、それもそうね。どうもきな臭いけど」
あまり乗り気ではない様子のキャットの言葉を軽く聞き流し、アストリッドはアイニックを見た。
「アイニックも来る?」
「ああ、そうだな」
「だよね。じゃあ、ここで待ってて」
アストリッドはおざなりに言い、つかつかと部屋の扉に向かった。博士はやれやれと立ち上がる。
「質問をするなら答えをしっかり聞きたまえ、アストリッド」
「カッパーさん、一緒に行くってさ」
見かねたハーレイが―彼は立ち上がる素振りすら見せていないが―言った。アストリッドはくるりと振り返ると、悪びれもせずに肩をすくめた。
「ごめん、聞き間違えかと思って。どういう風の吹き回し?」
「興味があるというだけのことだ。案ずるな、邪魔はしない」
「それはこっちの問題じゃないかしらね」
そんなことを言いながら、キャットはアストリッドの横を抜けて扉を開けた。
「行きましょ。金庫を探す時間を考えたら、今すぐに問題を片付けたほうが良いわ」
「可及的速やかにってやつ、キャット?」
ハーレイはここぞとばかりに言った。マンフレッドが時折使うのを、何とかして真似したがっているだけである。キャットは綽々とした笑みを浮かべながら軽く舌を鳴らした。
「それよ。一刻も早くあの襤褸小屋に帰りたいじゃない?」
「まあね。ところで、クララのこと探すべきだと思う?」
アストリッドが尋ねると、ハーレイはようやく腰を上げながら答えた。
「もう目標の場所はわかってるんでしょ。あの子に頼らなくても良いんじゃない?」
「それは薄情ではないかね?危険な目に遭っていたらどうするのだ?」
と、アイニック。ハーレイは博士に見向きもしないでふらふらと歩き出した。
「俺、人探しは苦手なんだもん。探されるほうが嫌だけど」
「それに、私たちに薄情も何もないわ。ただの曲芸団なのよ」
彼らはさっさと廊下を進み始めた。アストリッドもそれに続いて行ってしまったので、アイニックはそれ以上何も言うまいと決めて彼らについていった。
アストリッドの案内に従って、一同は例の井戸に足を運んだ。そこに通じる、ほとんど自然に還っている小道に新しい足跡がついているようだ。昨日の夜に、アストリッドとクララ―前者は十二分に痕跡を残さないよう気を付けていたし、後者は裸足だったのでほとんど跡はつかなかっただろうが―が残してしまったものか、あるいは姿を見せたカヤのものか。ぜひそうであってほしいものだが。
先の光景をすでに想像しながら、アストリッドは少し足を速めた。予想は正しかった。離れたところからでも、井戸が無残にも破壊されているのがわかった。彼女は黙って井戸に駆け寄り、中を覗き込んだ。一体どこから持ち込んだのやら、ほとんど岩のような大きな石が大量に積まれている。後からその様子を見た面々は、がっかりしたような、そうでもないような声を漏らした。
「カヤがやったのかな?」
ハーレイは両手を井戸の淵にかけ、そのままこっそりと伸びをした。隣でマヨが欠伸をしている。アストリッドは昨晩の射貫かれたような感覚を思い出して危うく身震いするところであった。
「だろうね。ここにいたのが私とクララだとは知らないと思うけど」
「こういうの、自然破壊だと思わない?気に入らないわ」
誰に問いかけるでもなくキャットは言った。そんなことを言いつつ、彼女は井戸のほうなどほとんど見てはいないのだが。
「ここから入れないとなれば、君の言っていた階段のほうを探すしかないな」
と、アイニック。彼は井戸を埋め尽くす岩の出どころを訝っているらしく、周囲と井戸に交互に目をやっている。アストリッドはため息と共に頷いた。
「そうだね。問題は、その階段が多分従業員しか入れないところにあるってこと、か」
「大したことないわよ。私が一騒ぎ起こしたげるわ」
キャットが楽しげに眉を軽く上げて言った。破壊こそは彼女の至上の喜びである。
「俺もそれやりたい。楽しそう」
また彼にとっても。アストリッドは思わず笑みを浮かべた。
「どうぞ楽しんで。その間に、私とアイニックで地下を解放するから」
「気は進まんな……」
アイニックは唸るように言った。危険の匂いを敏感に嗅ぎ取っているらしい。すかさずキャットが軽口を挟む。
「あら、良いのよ、博士も一緒に好き放題暴れたって」
博士は深々とため息をついた。ハーレイが小さく笑い声を立てた。
「そうと決まれば、さっさと湯屋に戻ろう。ここにいるところを見つかったら、いよいよ面倒だし」
アストリッドが言ったので、一行はせかせかと建物に取って返した。湯屋に入ってみると、その広間の中央にカヤが陣取っていた。二人組の客の相手をしていたようだが、その客たちはちょうど湯の間に歩き出したところであった。女当主は一同に気付くと、両手を固く身体の前で組み、穏やかで決まりきったやり方で微笑んだ。
「あら、昨晩の!」
そう言われて、アストリッドは内心飛び上がりそうになった。カヤは続けた。
「お湯加減はいかがでした?昨日のうちにぜひお伺いしたかったのですけどねえ、そうもいかなかったものですから」
そうだ、井戸にいたことに気付かれているはずはないのだ。アストリッドがほっとしている間に、キャットが澄ました調子で答える。
「騙されたと思って入ってみたら、噂が本当だったんだから驚いたわ。私なんて、会う人皆を褒めちぎってあげたい気分なの。心の病まで直しちゃうなんてね」
それが嫌味っぽさの捨てきれていない言い方であったのにもかかわらず、カヤは満悦したようであった。
「そうでございましょう?効果のほどを信じていただけましたようで、何よりでございます」
彼女は細かく息を区切りながら、長々と笑った。それはさも、少しでも声を発する時間を引き延ばし、会話の主導権を握ろうとしているかのようだった。そういった支配をアイニックは好まない。
「客の相手をしていないときは、何をしているのかね?」
出し抜けに彼は尋ねた。カヤはぴたりと笑うのをやめた。微笑みは何とか形を保っている。
「あら、そんなことを気になさるなんて、変わってらっしゃいますのねえ」
「いや、失敬。少々気になったものでな」
「答えるほどのことはしておりませんのよ、私。何せ、従業員の不始末だとか、お金の勘定だとか……華のない業務の山が暖簾の後ろに控えておりますばかりで」
一瞬、カヤは少し顎を引き、一行をじっと見定めたように見えた。こちらが警戒しているからそんな風に思えただけかもしれないが。すぐに彼女は元の穏やかさで言う。
「もう一度、入ってゆかれますの?よろしければ、そちらの子に何とか秘湯をご用意しましょうか?」
と、彼女は頭を傾けてマヨを指した。虎はふいと顔を背けた。ハーレイはいかにも悩ましげに唸った。
「気分じゃないみたい。その辺を散歩させても良い、カヤさん?」
「そう……ですわねえ、大人しい獣のようですし。好ましくはありませんけど、少しなら、ええ」
カヤは戸惑いながら答えた。はっきりと断ってやる気概がないのはいささか妙でもある。ハーレイはにっこりと笑うと、行っておいで、とマヨの背を軽く叩いた。が、マヨは数歩歩いたところで止まり、床に伏せってしまった。類を見ない怠け者である。カヤは安堵したようだった。彼女は壁にかかった大きな時計を見上げた。
「あら、いけない!そろそろ行かないと。それじゃ、お客さん、どうぞゆっくりしていってくださいな」
そう言って首を傾げると、湯屋の女当主はのんびりと振り返り、暖簾のほうへ歩き出した。アストリッドは思いつきでこう声をかけた。
「カヤ!クララを見てないかな?ほら、私たちと一緒にいた子」
カヤは思案顔で首を回して振り返った。
「あのお嬢さん?ごめんなさいね、見ておりませんわ。迷子ですの?従業員に聞いてみましょうか?」
「あー、いや、大丈夫。その辺にいると思うんだ。ありがとう」
アストリッドの答えを聞くと、カヤは控えめに微笑んだ。それから、着物を手ではたきながら暖簾の後ろへと消えていった。彼女の向かった先こそ、アストリッドたちの目指している場所である。一同は顔を見合わせた。始めるとすれば今だろう。
キャットとハーレイはどこからともなくマギーの正装である外套を取り出し、肩に羽織った。それを見て、アストリッドは素早く受付台のほうへ歩み寄った。アイニックが空気を読んでついてくる。受付の女は近づいてくる二人に気付いて顔を上げた。
「おはようございます!ようこそ、神秘の里へ!」
「どうも。ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、何でしょう?」
「女の子、見なかった?私くらいの背丈の。いや、もうちょっと小さいかな……」
どうせ先ほどのカヤとの会話は聞こえていなかっただろうと思い、アストリッドはそう尋ねた。そのとき、両手で受付台にもたれるのは忘れなかった。仲間たちに注がれうる視線は少しでも減らしておくのが良い。意識したのか偶然なのか、アイニックがちょうど良いところに立ってくれていたので、従業員の意識は十分に二人に向けられた。
「いえ、心当たりは。女の子が一人でいれば、すぐ気付くと思うのですが……」
「だよねえ。どこ行っちゃったんだろう?」
と、アストリッドはアイニックのほうを振り返り、彼の肩越しに二人の様子を確かめた。彼らはすでに仮面まで装着していたが、まだ何かに手間取っているように見えた。大方、暴れるとは言ったものの、やり方などまるで考えていなかったのだろう。アストリッドは笑いを噛み殺しながら従業員に向き直った。
「えっと……ところで、何かこの辺匂わない?」
「え?そうでしょうか?」
「しない?おっかしいなあ。ねえ、こういう匂い、なんて言うんだっけ?」
彼女はわざとらしく連れの顔を見た。
「なっ……あー、ふ、腐敗臭かね?」
博士の咄嗟の発言によって、この湯屋ではそんなとても堪らない匂いがするということになってしまった。言い得て妙だというのは指摘しないでも良いだろうか。従業員の女はぎょっとして立ち上がろうとした。が、ちょうどそのとき、何かが割れる甲高い音と共に、広間がふと暗くなった。音は連続して鳴り、その度に闇が魔の手を伸ばしていった。ハーレイが灯りという灯りに攻撃しているのだ。
唖然としていた従業員ははっとして飛び上がり、アストリッドたちを置いて、ハーレイたちのほうへ一目散に走っていった。
「誰か!誰か来て!不審者よ!」
二人の不審者はぼんやりと立ち尽くしていたが、女が辿り着くすんでのところで煽るように駆け出した。女の声を聞きつけてわらわらとやってきた従業員たちが、月を追いかける子犬のように三人に加わった。その形相たるや、子犬と呼ぶには険しすぎたかもしれない。
「熱心なもんだね」
アストリッドは感心したように呟いた。隣でアイニックが呆れた顔をする。
「言っている場合かね?」
「そうだったら良かったんだけど。さて、行こうか」
二人は従業員たちが出てきた暖簾をくぐった。そこに、出遅れたのか、慌てふためきながらこちらに突進してくる青年がいたので、アストリッドは一撃で彼を伸してやった。
彼らは狭い廊下を足早に進んだ。が、給湯室やら備品置き場は見つかったというのに、肝心の地下に繋がる階段が見当たらない。気付けばもう廊下は行き止まりで、あとは戻るしかなくなってしまった。まさか、見当違いだったのだろうか?いや、しかし、この空間は狭すぎはしないか?先ほど出てきたそれなりの数の従業員たちが、ここに収まっていたとでも?
「変な場所……」
アストリッドは呟いた。振り返ると、あの暖簾がずっと近くにあるように思われた。アイニックは熱心に一点を見つめている。彼はおもむろに口を開いた。
「……井戸の中はどんな様子だったのだ?」
「どんなって?」
「どの方角に、どれほどの長さの道が続いていた?」
切羽詰まった調子で博士は尋ねた。そんなことを覚えているはずもない!アストリッドは知らないと突っぱねてやりたいのをぐっと堪えた。彼のことだから、答えれば何かが鳴るに違いない。
「えー……湯屋の方向だったとは思う。長さはわかんないよ」
「何歩歩いた?」
なおのことわからない。
「覚えてるわけないじゃん!三、四十歩とか?もうちょっとかもしれないけど」
「であれば……」
アイニックはくるりと彼女に背を向けると、床に伸びている従業員の男を暖簾の下までどかした。ついでと言わんばかりに、広間の様子を覗き見る。客らしき人影が、がらんとして真っ暗な空間を困惑して眺めていた。アイニックは床の木目に向き直った。アストリッドは期待しながら彼に歩み寄った。
「何かあった?」
「あるはずだ」
彼はじっと目を凝らし、そして何かを見つけてにやりと笑った。屈み込み、木目の一つを指さす。
「見たまえ、アストリッド。目立たぬようにしているようだが、ここのところがほんの少しずれている」
「……そう?」
「そうだとも。つまり、この辺りをどうにかすれば……」
と、博士は柄にもない勢いで床を叩いた。するとどうだろう、音もなく床が動き出し、階段へと続く口を大きく開けたではないか。アストリッドは目を瞬かせながらその階段を見下ろした。
「なるほど、ね……何でわかったの?」
「理由というほどのことはない。それより、本当にこの先なのか?何とも、空気が……」
アイニックは立ち上がって半歩後退った。反対に、アストリッドは大きく一歩進み出た。
「最悪でしょ?早いところ用事を済ませてずらかるよ」
彼女はさっさと階段を下り始めた。とはいえ、彼女も勇気を奮い立たせているのである。アイニックがいる手前、怖気づいてもいられないだけなのだ。だから、むしろ彼の存在がありがたくもあった。尻に火でも点けられたように、彼女は相方を置いて先を目指し始めた。反射的にアイニックは片足を一段目の板の上に下ろした。
「アストリッド!まったく、君は待つということを知らないのかね……」
一歩踏み出してしまえば、あとは同じことを繰り返すだけである。彼は深く息を吸い込むと、どぎまぎした様子で彼女の後を追った。




