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寡黙の外連に魅せられて  作者: 小娘
幻想の怪異
16/41

地下

 アストリッドとクララは旅籠屋の廊下を忍び足で進んでいった。忍び足とはいえ、裸足のクララの足音は誤魔化せなかったが。階段に向かおうとしたアストリッドは、一人の従業員が番をしているのに気が付いた。その女は微動だにせずに前を見据えていた。ここを通り抜けるのはやめておくのが無難だろう。アストリッドはさっさと踵を返した。不思議そうな顔をするクララに、彼女は肩をすくめる。


「目立つことはできないからね」


「うん、わかってる」


「それで、あんた、この湯屋のどこから来たの?」


偵察をするのだから、問題の末裔たちが閉じ込められているという場所に、無事辿り着けるだけの情報を得られなければ意味がない。クララはじっと考え込んだ。


「……わからない。あそこを出たときは、真っ暗だったの。暗くて、怖くて、ずっと歩いてたら、おねえちゃんたちのところに着いたんだよ」


真実なのだろうか?あの時間に団の天幕に辿り着くなら、日が沈む前にここを出たのでなければおかしいのではないか?それに、子どもが一人きりであの距離を?アストリッドの中で、そんな疑問が頭をもたげた。そして、思い出されるのは、何度生まれてもクララ、というあの主張だった。アイニックの言ったように、どれもこれも子どもらしい勘違いの結果なのかもしれないが。


「ねえ、あんた、死んだことある?」


普通に聞けば、何と常軌を逸した質問に思われることだろう?しかし、この少女に関してはそれが通用する気がしたのである。実際、それは間違っていなかった。


「……そう思ったことは、何度もある。でも、わたしはわたしのまま目が覚めるの。おねえちゃん、信じてくれるの?」


クララはおずおずと言った。信じるはずもないことだ。しかし、神秘の里に来てからというもの、マギーはすっかり異常な空気に飲み込まれてしまっていた。それは鯨の腹の中を家だと勘違いするようなものだったが。アストリッドは短く笑った。


「さあね。死ぬのってどんな感じ?」


「あんまり、覚えてない」


それは残念。


「ふーん?まあ、良いや。末裔の居場所の手掛かりを探さないとね」


二人は廊下を戻りつつ、上手いこと建物を抜け出せそうな場所を探した。すると、突き当りに大人でも通れそうな大きさの窓があるのが目に入った。そこから出てしまえば、従業員の目に留まることもないだろう。二階と言えど、大した高さでもない。振り返って誰もいないのを確かめてから、アストリッドはクララを抱えて外に出た。


湿った風が吹いている。地面に降り立ち、アストリッドは窓を見上げた。開いていても不審には思われないだろう。クララを見ると、辺りを熱心に見回していた。何かしら思い出そうとしているらしい。手掛かりがないのだから、彼女の記憶に頼るしかないだろう。アストリッドは待つことにした。


それにしても、奇妙な場所である。鬱蒼とした森の中にあることも然り、この異様な風貌も然り。まるで、存在する世界がそもそも違うかのようだ。と、クララが小さく声を上げた。


「井戸があるの」


「井戸?どこに?」


「森の中。もう使われてないはず」


言い終えるが早いか、クララは左右に目を配りながらふらふらと歩き始めた。その後をついていきながら、アストリッドは尋ねる。


「井戸があったら何なのさ?」


「わたし、井戸の下から星を見た気がするの」


「じゃあ、ひょっとしたらあんたは地下から……そうか、地下なら大人数末裔がいても隠しておけるもんね。そういえば、末裔ってどれくらいいたの?」


「……たくさん」


クララは低く呟くように答え、足を速めた。二人は黙って森に分け入り、わずかに残る人が往来した跡を見つけた。枯れ葉を踏みしめて道を辿っていくと、古ぼけた、遠目で見ればほとんど切り株のような井戸があった。


一体何のためにそこにあるのやら、貫禄ばかり一人前で、役に立たぬから人が寄ってこないのだということにも気付いていない有様であるように思われた。アストリッドは井戸の中を覗き込んだ。滑車が壊れており、縄はない。枯れた井戸の底に鶴瓶が落ちている。降りるのは問題ないが、登るのは一苦労だろう。


「私が見てくる。クララはここで待ってて。ていうか、戻ってて良いよ」


「わたしも一緒に行く!」


クララは小さくなったほうの手で腕を掴んできた。アストリッドは片手で井戸の底を示しながら首を振った。


「戻ってくるとき、こんなとこ登れないでしょ?」


「……おねえちゃんは登れるの?」


と、ぎょっとしたように少女は尋ねる。確かに、この井戸にはそれなりの深さがあるのだ。とはいえ、できない、と言っていても始まらない。


「仕事が仕事だからね。そりゃ、ハーレイの鉤縄があったら一番良かったけど」


アストリッドはこれ以上の問答を避けようとして、さっさと井戸を跨いだ。クララは従順に諦めた。


「気をつけてね……」


「ありがと。あんたも、待ってるならちゃんと隠れておくんだよ」


「うん、わかった」


クララは早速近くにあった大木の陰にしゃがみ込んだ。アストリッドはそれを見届け、えいと井戸の中に降りた。



 難なく着地すると、アストリッドはさっと辺りを見回した。細く暗い道が続いている。上を見上げると、なるほど星が見えた。クララの記憶していたのがここであるのは間違いないだろう。アストリッドは用心深く道を進んでいった。うんざりするような湿気だった。


しばらく歩いていくと、ぼんやりとした、ほとんど役割を果たしていない灯りが見えてきた。突き当りの壁にかかっているようだ。おそらく湯屋の地下に辿り着いたのだろう、剥き出しだった地面と土壁が人工物に取って代わっている。その突き当りでは、道が左右に分かれていた。左手側に、扉があるのがかろうじて目視できた。


上に通じているのだろうか?アストリッドは扉に近づき、ぴたりと耳を寄せた。かすかに物音が聞こえる。一定の拍子で板を叩くような……もしや、階段を下りてくる音だろうか?彼女ははっとして飛び退き、井戸に続く道に身を隠した。直後、扉が無造作に開かれる音がした。


アストリッドは息を殺して通路を注視していた。すぐに、痩せた背の高い男が影のようにゆらりと現れ、まっすぐに前を見据えて通り過ぎた。床の軋む音が徐々に遠ざかっていく。アストリッドはそっと小道から顔を覗かせた。男が振り返る気配はない。年配のようだが、湯屋の従業員なのだろうか?


男が十分に遠ざかるのを待ち、アストリッドは彼の後をついていった。等間隔に置かれた鈍い灯りが、男の触ったら砕けてしまいそうな背中を照らしている。彼らは左右に部屋がいくつか並んでいる前を歩いていった。部屋の中からは、人の気配がした。だが、部屋は外から見る限り平凡でしっかりした造りであるようだった。中にいるのは魔術師の末裔ではないだろう。


彼らはさらに進んだ。アストリッドは妙な気がした。この通路はどこまで続いているのだろう?そう感じるのも、錯覚に過ぎないのだろうか?と、通路の先に、ぽっかりと口を開けている空間があるのが見えた。扉はなく、やけに明るい光が漏れている。男がそこに入っていったので、アストリッドはその入り口の一歩手前に突っ立った。経験上、男に気付かれる心配はなく、また気配を悟られたにしても、すぐに逃げ出すだけの心構えはできていた。


しかし、その場所に立った瞬間、彼女は身の毛がよだつ思いをした。むせ返るような負の気配に襲われたからである。その部屋から漏れ出ていたのは、ぞっとするほど白い灯りと、死そのものであった。まさか人から出る音ではあるまい、何かが犇めき合うようだとでも形容すべき響きが、耳元を舐めるように通り過ぎていった。


壁に阻まれ、アストリッドには男の細長い背しか見えなかった。彼は部屋の中央にいた。そこに、床に直接設置された台があり、何かを並べ立てていたのである。ふと、彼は横に目をやった。強く床を擦ったかのような音がした。男はつかつかと目線を向けたほうに歩いていき、アストリッドの視界からは半身ほど見えなくなった。何かをがちゃがちゃと操作しているようだった。鉄格子が開いた音か?続いて、隙間風のような雑音が震えた。


男は中央に戻ってきた。怯えきり、青い顔をした末裔の首を左手で掴んでいる。その末裔はほとんど泥人形のようだった。男は末裔を軽々と持ち上げた。アストリッドには末裔の顔だけが見えていた。肉を貫く音がして、末裔の顔がふと歪んだ。死に際に、彼は叫び声すら上げなかった。だから、アストリッドは何となく、そこで起きたことが理解できない気がした。


男は、何をしているのか、しばらくその場に突っ立っていた。それから、不機嫌そうな足取りでさらに奥にある部屋に向かった。赤い跡が続いた。見ると、台の上には大きな瓶が置いてあり、それが赤い液体で満たされていた。奥から、荒々しく物が捨て置かれる音が聞こえた。


その瞬間、漂っていた死の気配が一段と強まった気がした。腐臭だ。腐臭がしているのだ。あの部屋の奥には、死体の山がある。アストリッドは直感した。耳元で嘆き、囁き、すすり泣き、嘲笑っているのは、死者の魂に違いないのだ。その場に釘付けにされるようなおぞましい感覚に身震いし、彼女は咄嗟に逃げ出した。



 アストリッドは音も立てずに通路を駆け抜け、井戸に続く小道に曲がるところで減速した。疲れからではなく戦慄から、彼女は動悸が激しくなっているのを感じていた。眩暈すら覚えた。墓場から這い出てきたかのような気分だった。


ふらふらと井戸の下まで向かい、空を見上げた。まだ暗く、星も見えた。もう何時間も経ったような感覚がしているというのに!気を取り直し、アストリッドは井戸の壁を見回した。登るなら、何か取っ掛かりが必要だが……


そのとき、小石が一つ、彼女の真横に振ってきた。それは音を立てて底で跳ねた。何故、小石が?井戸の中なのだから、誰かが投げたのでなければありえない。クララの仕業だろうか?もしそうならば、何のために?


ふと、嫌な考えが頭を過ぎった。アストリッドは咄嗟に小道のほうへ身を隠した。直後、鋭い気配が彼女を刺した。殺意とも違う。あえて言うならば、獲物を付け狙う捕食者の吐息、息を潜めていた獣がその存在を獲物に知らしめる瞬間に初めて吐き出される温い息のような、感じ取った者を麻痺させずにはおかない空気である。それはしばらくその場に漂い、そしてふっと消えた。


アストリッドはそっと顔を覗かせて井戸の口を見上げた。何もいない。ともすると、すべて気のせいだったのかもしれない。彼女は音を立てないように神経をすり減らしながら、何とか井戸の中から這い上がった。ほっとしたようにクララが木陰から出てくる。


「無事だったんだ……!良かった」


「石、投げた?」


身の安全を喜ぶ気にはとてもなれず、アストリッドはせっつくように尋ねた。クララは頷く。


「あの人……カヤが来たんだよ。多分、わたしたちの足跡を見つけたんだと思う。わたし、おねえちゃんが戻ってくるところだったらどうしようって思って、それで、あの人が井戸に着く前に石を投げたの」


「助かったよ。……それより、クララ」


アストリッドは逃がすまいとするかのようにクララの肩を掴んだ。


「あそこで、何が起きてるの?あれは……何?」


余計な言葉で飾り立てることを恐ろしく感じ、アストリッドはただそう尋ねた。クララはどこか傷ついたかのように目を見開くと、震える手でアストリッドの手を振り払おうとした。


「ここじゃ話せない。あの人が戻ってくるかも―」


「もう来ないよ。今すぐ、ここで、話して。何なの、あれ?」


語気を強めたアストリッドだったが、彼女にはもう、今だけでなくこれまでも、クララが末裔の置かれている現状を口にしようとしなかった理由がわかっていた。それは途方もない嫌悪だ。喉に詰まり、吐き気を催し、考えるだけでその身を強張らせ、涙さえ溢れさせるのだ。クララは今にも泣き出しそうな顔をした。


「……あの人たち、皆の血を使ってるの。皆の血に、癒す力があるって……そんな力なんて、ないのに」


「でも、なら何で秘湯にはその力が?末裔には、やっぱり特別な何かがあるんでしょ?そうじゃなきゃ……」


クララがきっとしてこちらを見上げたので、アストリッドは思わず黙り込んだ。少女は険しい顔つきをして叫ぶように言う。


「そんな力、あるわけない!おかしいよ、おねえちゃん……あっという間に傷が治るわけない。病気だったことを忘れるくらい元気になるわけない。皆の血で、そんなことが叶うわけないの!」


「そう言ったって、起きたことでしょ?私たちに……他でもない、あんたに」


クララの剣幕に圧倒されながら、アストリッドは努めて声の調子を落として言った。クララは悔しげに俯いた。ただ、この異変を認めたくないだけだった。それは、常人であれば誰でも持ちうる感覚のはずだったというのに。アストリッドはクララの肩をそっと揺さぶった。


「ねえ、クララ。おかしいのは私にもわかってるよ。でも、そんなこと言ってたって何にもならない。何が起きてるのか、突き止めなきゃ。突き止めて、末裔たちを救いたいんだよ。そのためには、あんたの協力が必要なんだ」


少女は顔を上げなかったが、力なく頷いた。二人は井戸を後にし、器用に壁を登って―もちろん、アストリッドがクララを背負わなくてはならなかったが―窓から中に入った。言葉も交わさずに部屋に戻ると、物憂げな顔つきのアイニックが、何をするでもなく座り込んでいた。眠りはしなかったらしい。だが、二人が戻ってきたことにも気付かぬ様子である。キャットとハーレイは熟睡していた。


「戻ったよ、アイニック」


アストリッドは少しだけ声を張り上げて言った。普通に声をかけても聞き取ってくれないだろうと思ったのだ。博士はぼんやりと目を上げた。あるいは、彼も眠っていたのだろうか?


「ああ……早かったな。何かわかったかね?」


「まあね。でも、今は話したくない……かも。二人も寝てることだし、後で話すよ」


「そうか。構わん、我輩も仮眠が必要だったのでな」


アイニックはそのままの姿勢で目を閉じた。何故寝そべらないのかはわからない。アストリッドはキャットの横を陣取って睡眠を試みた。傍にクララが寄ってきたのがわかった。座っているようだ。やはり眠らないつもりなのか。


実に静かな夜であった。アストリッドには、すべてが悪い夢だったかのような気がしてきていた。平穏と静謐の波に揺られ、彼女は微睡んでいた。心地良い幻想の最中に潜り込もうとしたまさにそのとき、クララが呟いた。


「……おねえちゃん」


目を開ける気力がなかったので、アストリッドは眠った振りをした。それはクララにも好都合だったようである。


「この世界に、信じたくないくらい大きくて怖い力があるとしたら……その力を持ち続けないといけないとしたら、人はどうやって立ち向かえば良いのかな。消えちゃうこともできないの。怖い……怖いよ。どうしたら、わたし……」

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