伝来
「……生き恥」
「……守銭奴」
「……貪婪。あ」
ハーレイの間の抜けた声に、アストリッドは抑えた笑い声を上げた。
「はい、ハーレイの負けね」
「何でわざわざそんな言葉を引っ張ってきて負けるのか、理解できないわ」
キャットが澄まして言うと、ハーレイはふらふらと座り込んだ。ふてくされたように両足を投げ出す。
「朝からぶっ通しでしりとりなんかし続けてるほうが理解できないよ」
「まあね。言葉という言葉を使い果たした気はしてるけど。とにかく約束通り、後で買い物、よろしくね」
アストリッドに肩を叩かれ、ハーレイは不満げな顔をしながらも頷いた。キャットが伸びをしながら、部屋の高い天井を仰ぎ見る。
「ここのご主人はいつ帰ってくるのかしらね?私たち、随分信頼されてるみたいだけど」
この日のマギーの任務は、とある貴族の令息のお守であった。彼らはかれこれ半日近く、揺り籠の前で暇を潰しつづけていたのである。しかも、その部屋の暗いことと言ったら、気の滅入ることこの上ないのだ。アストリッドは揺り籠の中を覗き込んだ。
「もうじきでしょ。それにしても、この赤ちゃん……声一つ立てやしないの、ちょっと不気味じゃない?」
「生きてはいるみたいだけどね。ずっと俺を見てるもん」
と、ハーレイは首を伸ばし、赤子の漆黒の硝子玉のような目を見つめた。キャットがくすくすと笑う。
「賢い子ね。一目惚れする時期なんて、早ければ早いほど良いわ」
「美人でごめんね、君。でも俺、男なんだよ」
調子を合わせて馬鹿げたことを言う二人に、アストリッドは呆れた視線を投げた。彼らは余程退屈しているらしい。
「その羽が気になってるだけでしょ」
「何にせよ、お目が高いね。今朝拾ったんだ、良いでしょ?」
そう言って、ハーレイは頭につけていた大きな羽を指先で突いた。アストリッドは思わず顔をしかめた。
「うわ……」
「汚いわね」
キャットまでもが眉をひそめたとき、扉の外で小さな物音がした。三人はぴたりと黙り、息を殺して耳を澄ませた。誰かが部屋の様子を探ろうとしている気配だ。彼らは目を合わせた。真剣な面持ちでハーレイが合図を出す:「めんどくせ」。彼にも困ったものだ。
キャットは目玉をぐるりと回し、扉の横の影になる位置についた。アストリッドのほうは口の端をぐいと持ち上げながら彼を小突くと、頭上の照明にぶら下がった。少しなら負担をかけても問題ないだろう。
数秒後、静かに取っ手が動き、扉が開いた。二つの人影が滑らかに侵入してきた……が、どちらも二歩目を踏み出す隙もなく、アストリッドとキャットに叩きのめされた。アストリッドが勢いをつけるためだけに使ったせいで激しく揺れている枝垂燈の下で、ハーレイはそっと赤子の目に片手を被せておいた。彼はふと振り返り、暖炉に向かって矢を放った。煤だらけの恰好で、ごろつきは情けない声と共に眠りに就いた。
「麻酔?珍しいね」
敵が全員気絶しているのを確かめたアストリッドはハーレイに向かって言った。彼は仕方ないと言いたげに肩をすくめる。
「だって、こういう大きいお屋敷に住んでる人、血痕にうるさいんだもん」
「そうね。口を開けば決闘、血統だもの」
ごろつきの一人を乱雑に縛り上げながら、キャットはぶつぶつと言った。三人は残りの連中の手足を縛ると、ちょうど帰ってきた屋敷の主人から報酬を受け取り、各々一体ずつごろつきを引きずりながら屋敷を後にした。外で待っていたベッファの馬車に、ごろつき共を積み入れる。
「後はよろしく、ベッファ」
「ちゃんと正体を聞き出すのよ」
「はァい!」
道化はおどけた辞儀をしてから御者台に飛び乗り、慌ただしく去っていった。
「本当にわかってるのかなあ」
ハーレイは小さくなっていく馬車を見送りながら呟いた。あのごろつき共が墓場に行くのはすでに決まったことだが、問題は彼らが何を残していくかである。そして、その管理を任せされているあの道化師の悪癖が抜けないばかりに、マギーに益がなくなったことは一度や二度ではないのだ。決して損にはならないにせよ、少なくとも喜ばしいことではない。
「どうかしらね。まあ、良いわ。私たちも帰りましょう」
三人は活気ある町を流水のごとく下っていった。そこにいたことすら、誰もが忘れてしまう黒い影。彼らは町の外れにある天幕に落ち着き、その外で、ありふれた日常が再び始まろうと躍起になるのだ。
前日――
≪……魔術師の末裔など、実に馬鹿馬鹿しい。だが、狙われるのなら、次は我が子に違いない。ああ、葬儀屋よ、もし本当に存在するのなら、どうか我が子を救ってくれ!≫
「魔術師の末裔、か……」
アストリッドは合点のいかない様子で呟いた。そもそも、その類の言い伝えのことはあまり知らないのだが。
「ふむ!光すら宿さぬ漆黒の瞳を持つ者たちのことだな」
依頼の手紙を折りたたみ、マンフレッドは両手で杖を持った。この手の依頼に対し、彼が胡散臭いものを相手にしているような顔をしないのは珍しいことだ。
「本当に先祖が魔術師なの?」
ハーレイが健気に聞くのを、キャットは軽く嘲笑した。
「そんなわけないじゃないの。ただの迷信よ」
「しかし、かなり根強く信じられていることでもある。発端は、いつとも知らぬ昔、ある小さな村で起きた火事だというが……何だったか」
マンフレッドが真剣に思い出そうとし始めたとき、背後から声がした。
「”闇を抱く眼、天に祈りて、その身を炎とせん。業火、水を穿ち、草木は二度と立たず。これ魔術師が遺せし力なり”」
一同が振り返ると、そこには発明品を片手に持ったアイニックが立っていた。音を立てずに動くなど、実はお手の物なのである。マンフレッドは疑るような、呆れた眼差しを彼に向けた。
「いたのか、カッパー」
「他のどこにいるものか。魔術師の末裔がどうしたんだね?」
発明品を弄り回し、無関心を装ってはいるものの、彼は普段よりマギーの任務に興味を持っているように見えた。隠す理由もないので、アストリッドは親切に答える。
「少し前から、妙な人攫いがいるんだって。子どもから大人まで、瞳が真っ黒だったら例外なく標的にされるみたい」
「この国に限った話ではないらしいのよ。一体何のためなのかしらね?実際、あの人たちって何の力も持ってないんでしょ?」
キャットは真偽を確かめるように一同の顔を見回したが、肯定も否定も返ってこなかった。知りもしなければ興味もなく、関係すらないのだ。ハーレイがしきりにマヨを撫でながら言う。
「伝承を信じてる人たちが怖がってそうしてるのかも」
「だったら、起きるのは誘拐じゃなくて虐殺だと思うよ。わざわざ手間をかけてる理由があるはず」
アストリッドは言った。なるほど、その通りかもしれない。ハーレイはいかにも考えているかのように短く唸ったが、愛猫に夢中なのは言わずもがな。マンフレッドが杖を軽く打ち鳴らした。
「ふむ!しかし、この依頼主の子が狙われるというのなら、そこで連中を捕らえてしまえば良いだけのことだ。いつ連中がやってくるのかはわからんが……狙うなら、明日、依頼主が留守にするという間のことだろう。明日の朝から任務にかかるように。言うまでもないことであるが―」
現在――
「駄目だァよ。何にも吐かなかったんだァね」
ベッファは肩だけを大きく動かしながら言った。マンフレッドは顎に手を添えて険しい顔をした。
「ふむ!もう全員か?」
「そうだァよ」
道化の態度には、どこか引っかかるところがある。アストリッドは早々に何が起きたのかを察した。
「それ、また間違えて殺しちゃったんじゃないの?」
「……くたばるのが早かったんだァよ」
それを聞き、キャットは道化師顔負けの動きで呆れを前面に押し出した。
「そんなことだろうと思ったわ」
「悪い癖だよ、ベッファ」
アストリッドに言われると、道化は悪びれもせず、驚いたようにふざけた仕草をすると、くすくすと笑いながら天幕を出て行った。一同は目を見合わせた。マンフレッドが短くため息をつく。
「まあ、良いだろう。依頼は完了したのだ、我々がその謎の組織を追わねばならない道理もないだろう。それよりも、今夜の公演だ。そうだろう?」
彼が両手を擦り合わせながら言ったとき、不自然な物音が耳についた。一同は音のした、物置に通じるほうの出口を一斉に振り返った。そこには、見覚えのない少女が立っていた。夜を吸い尽くしたような瞳をしていて、極めて平凡な服に、裸足だった。どうやって誰にも気付かれずにそこまでやってくることができたのだろう?マンフレッドは驚きから気を取り直し、作り込んだ朗らかさで少女に話しかける。
「おや、これは小さなお客様だ!曲芸を見に来たのなら、少し早かったね。ご両親は近くにいるのかな?」
「いない」
少女は淡白に答え、すぐに口元を引き結んだ。マンフレッドは怪訝そうな顔をした。
「いない?」
「迷子かな?」
その場から一歩も動こうとはせずに、ハーレイはまじまじと少女を眺めた。同じく立ち尽くしたままのキャットが言う。
「ここは町の外よ、ハーレイ。迷い込むならまだしも、迷い出るなんておかしいわ」
その発言の真偽はさておき、確かにこれまで、この天幕に観客以外の人間がやってきたことはなかった。アストリッドはマンフレッドの横まで歩いていき、少女に目線を合わせようと屈んだ。
「お嬢ちゃん、名前は言える?」
「クララ。あのね、皆が待ってるの」
ふと気力を取り戻したかのように、少女クララはわずかに目を見開いて言った。
「皆って?」
「わたしと同じ人たち。おねえちゃんたちは、違う」
彼女は団員たちの顔を見回して確かめながら断言した。アストリッドは困惑して首を傾げた。隣で、マンフレッドが小さく唸った。すると、ハーレイが喜ばしげに両手を打ち合わせた。
「わかった、瞳の色の話だよ」
クララが否定してかからないところからしても、どうもそうらしい。
「ってことは、魔術師の末裔が……ひょっとして、攫われた人たちのことを知ってる、とか?」
それは推論というよりも希望に過ぎなかったが、きっと間違っていはいまい。この世の出来事に意味のないことなどなく、すべては一つに繋がっているのだ。偶然など、ありえるはずもない。クララはアストリッドの問いかけには答えず、じっと彼女を見上げた。
「一緒に来て、おねえちゃんたち」
「え?でも……」
「急いで、お願い」
その懇願は堪えた。事情が判然としないのにもかかわらず、アストリッドはどういうわけか、この少女についていきたい衝動に駆られた。見かねたマンフレッドが杖先を少し前方にずらしながら言う。
「そうもいかんだろう。この直前になって公演を休むことはできん」
「そうね。季節の変わり目って、妙に曲芸が流行るもの」
キャットが適当に調子を合わせて言った。クララは悔しそうに唇をぐっと閉じた。アストリッドは立ち上がって考え込んだ。
「でも、放っておくわけにも……っと、アイニック!良いところに!」
物置側、つまり博士の小屋のあるほうから、居候の男が顔を出したところであった。彼はしまったと言わんばかりに顔をしかめた。
「何だね、また面倒事か?我輩は、先ほど子どもが一人でこの辺りをうろついていたと言いに来ただけなんだがな」
「そう、この子でしょ?悪いけど、公演の間、見ておいてくれない?ありがとう、さすがアイニックだね!」
アストリッドが捲し立てるのに、アイニックはいかにも嫌そうな顔をした。
「まだ何も言っていないぞ」
「預かっていろ、カッパー。さもなくば、ここから叩き出すぞ」
マンフレッドが冷ややかに言うと、アイニックは不満げに面々を見回した。キャットがからかうような笑い声を上げる。
「よろしくね、博士」
「やれやれ!横暴極まりないな!」
彼はぶつぶつと文句を言いながら、クララのほうに数歩近寄った。
「……来たまえ、君を預からないと我輩は雨風を凌げなくなる」
クララは訝るようにゆっくりと後退ると、傍に立っていたアストリッドを見上げた。ここで彼を信用してくれないと困る。アストリッドは取り繕った笑みを浮かべて頷き返してやった。少女はしばし考え、それから大人しくアイニックの元に進み出た。気乗りしない様子の二人が天幕を出て行ったとき、ベッファの声が響き渡った。
「もうお客を入れるんだァよ!」
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