君を愛するのはちょっと無理じゃないか?と夫は言った
初夜、本来ならば夫婦は寝室にいるべきだろう。しかし私と夫になった人は、二人揃って応接室のソファーに向き合うように座っていた。
テーブルの上にあるお茶はもう冷めてしまっているかもしれない、しかし私たちはお互い重苦しい沈黙を破る手段を思いつくことが出来ないままこうして時間を過ごしている。
おそらく相手だって同じだろう、そう思っていることは分かる。でもお互いに、それを言い出す勇気がないのだ。もしもそうでなかったら、と考えると恐ろしい。
しかしそれでも、言わなければならないのだ。曲がりなりにも夫婦になったのだから、ここははっきりしておかなければならない。そうしなければ、なにも始まりはしないのは分かっているのだ。
そう、一刻も早く恥を忍んで「あなたのお名前はなんでしたっけ?」と、そう聞かなければならないのは分かっているのに!
この結婚は完全なる政略結婚。理由のほどはよくわからないが縁を結ばなければ色々と問題が出る、そんな本人の意思は二の次三の次になるくらいの絶対にしなければならない結婚だった。
しかし本来結婚するはずだった花嫁は、式の一週間前に姿を消した。結婚を拒絶する手紙を残した上での家まで捨てる覚悟の出奔、しかもなにやら理由もあり連れ戻そうにもどうにもならないということでまず大騒動になった。
ここから結婚相手を別に用意するにしても、まず花婿の方に話をしなければ。そう思って花婿を訪ねれば、こちらはどこぞの貴族令嬢に手を出して子供が出来たと大揉めに揉めている最中。もうおしまいである。
このまま他の誰かを用意して結婚させたところで関係が破綻するのは目に見えている。初夜で妻が夫を刺し殺すような事件が起こりかねない修羅場具合になっては、もうなにを目的に結婚させるのかすらわからなくなってしまうと関係者一同頭を抱えたそうだ。
しかし式は一週間後、招待客の中には今さら無しでと言えないほどのお偉方もお越しになる。進退窮まった両家は、ここである解決の一手を思いついたそうだ。ちなみにここまでは概ね伝聞だが、ここからは私も関わってくる。
その解決の一手というのが親戚で未婚のやつを今すぐ養子にして結婚させよう。という少しばかり正気のほどを疑うような思いつきだった。しかし切迫していた状況ではそれが通った。その結果私は、名前もよく覚えていない夫と同じ苦しみをこうして分かち合っているのだ。
養子になり得る親戚の適任者を探すのに四日、そこから結婚衣装をとりあえずで仕立て直したり色々な準備をするのに二日、そうすればもう前日だ。顔合わせすら満足にする時間はなかった。
そのため名前をちゃんと聞いたのは結婚の宣誓をするために司祭様に名前を呼ばれた時くらい、そんなもの覚えられていなくて当然だろう。なんならまともに顔を見たのだって屋敷に向かう馬車の中がはじめてなのだから、別人に入れ替わっていてもお互いわからないくらいなのだ。
「……今日は、その、新婚初夜なわけだが」
「……はい」
「……君を愛するのは、ちょっと無理じゃないか?」
「ええ、まぁ、無理がありますね」
後はお若い二人でゆっくりと、なんて言われたところでどうしろと?と言う考えで私たちの心は一つになっているだろう。結婚してこんなことで一体感を感じる夫婦は他にいないはずだ。
深い深い息を吐いた対面の今日結婚したばかりの夫が、カップを手に持ち中の冷めたお茶を一気に飲み干した。そして決心したようにこちらを向いたその顔を見て、私も応えなければと心を決める。
「俺は……俺は君の名前すら、ちゃんと覚えていないんだぞ!」
「わ、私、私もです!覚えてないです!」
「フ、から始まったような気はしたが、それすら自信がない!」
「私も名前にガが入っていた気はしますけど、気のせいだったかもと思い始めてます!」
言いきった後、私たちはどちらともなく手を差し出して固い握手を交わした。なにか一つの大きな山を越えたような、そんな達成感で胸が熱くなるようだ。
胸のつかえが取れた私たちは、とりあえず寝るところは別でいいかとそれぞれ部屋に向かっていく。結婚祝いで貰った物の一つであるこの屋敷は広く、客人用の部屋も二部屋あるのだ。
そうしてベッドの中に入り、枕元のランプを消してフと気づく。結局名前を聞いていない。お互いに知らないと言うことを告白して気が楽になったまま、なんかいい感じに別れてしまった。
今から部屋に突撃して名前を聞くわけにもいかない、明日聞くしかないなと思いながら眠りにつく。心労とかそういったものでなく普通にこの激動の日々で疲れていたので、眠るのに苦労はしなかった。
「おはよう……君の名前を教えてくれ」
「おはようございます、あなたの名前も知りたいです」
夫婦の寝室に二人揃っていなかったため、朝から使用人たちを慌てさせてしまった以外は清々しい朝だ。昨日と違って名前を聞くことに少しのためらいもないため、お互いの顔色もいい。
信じられないものを見る目で朝食の皿を運んでくれたメイドが私たちの顔を見比べた以外はなんの問題もない。使える家を間違えたと思われていなければの話だけど。
「俺はルドガー、ついこの間からケイオンになったルドガー・ケイオンだ」
「私はフローリアと言います、二日間だけアシュウッドでした」
やっと名前を知ることが出来て安心した。ルドガー……とりあえず当面はさん付けで呼んだ方がいいだろうか。別に仲のいい夫婦に今すぐなれと言われているわけでもないのだし、馴れ馴れしいよりはいい。
しかし瞬きの間に過ぎていったアシュウッドだけでなく、ケイオンというのも中々慣れない。広いお屋敷というのも、最近まで職場の寮で生活していたのもあって忙しさが落ち着くと変な感じがする。
元々名乗っていたバレッズ姓は父の実家の伯爵家の物だが、その父は宮廷で働くための準男爵を持っているだけで自分はほとんど平民みたいなものとよく言っていた。アシュウッドと親戚なのは母の方なので、わりと遠い。
「俺は結婚するならと提示された条件が余りにもよかったから結婚したんだが、君もそうか?」
「そうですね、予定もなかったですし話が本当ならかなりのお得だなって」
お祝いという名の結婚への報酬はこの屋敷だけではない。私とルドガーさんそれぞれにちょっとした一財産くらいの現金、そして私には準男爵である父の男爵へ陞爵と余りに破格だ。
ルドガーさんも元々爵位はなかったのが男爵になったはずなので、今の私は男爵夫人。準男爵と違い男爵は継げる上に貴族年金も出るし、困窮すれば売れるため老後も安心である。
しかも結婚しさえすれば後はなにもしなくてもいい、というのだから最初詐偽なのかもしれないと考えてしまったほどだ。アシュウッド伯爵御本人が来なかったら断っていたかもしれない。
かなり憔悴した伯爵に拝むように頼み込まれて、結婚が成立しなければこれだけ困るというなら詐偽ではないかと適当に了承したら世界の救世主かのように感謝されてさすがにびっくりした。
結婚式に明らかに身分の高い方々が揃い、極めつけに王家の方までいらっしゃっていたのであの憔悴ぶりの謎も解けたがあの時は早まっただろうかと少し心配にもなったものだ。
私たちは結婚さえしてくれればいいから、と言われていたのでこの結婚によってなにがどうなるかは余りわかっていない。それでも結婚式のあの顔ぶれを見る限り国も関わっている大きな仕事が関係しているのはわかった。
必要なのは縁結んだという事実だけなのだろう。その結果として私たちは色んなものを貰いたっぷり得をしたのだから、人生なにがどうなるかわからないものだ。
「昨日も言ったが、いきなり愛し愛される関係……というのは無理がある」
「そうですね、名前も知らなかったわけですし」
「当面はお互いに良き同居人として過ごしていかないか?」
「ええ、お互いに善良でないと……得をしたバチが当たりそうですしね」
「それもそうだ!」
話してみればルドガーさんは普通に良い人で、細かいことにも気がつくまめな人だった。私はそこまで細かい人間ではないが、だらしなくないのはありがたい。
食事に文句をつけたりなどの横柄な態度もないし同居人としてはこの上なく良いと言えるだろう。私の方が足りないところがあるのではないかと逆に気になってしまうくらいだ。
その後半年ほど同居になった新婚生活を送ったが、特になにか問題が起こることはなかった。ルドガーさんとは価値観も合うようで、庭に迷い込んだ怪我をした鳥を手当てして野生に返した時なんかは二人して飛び立った空を見上げ涙ぐんだりしたものだ。
その後しばらくして家に居着いた猫を飼うのもお互いがお互いに勧めようとしたくらいで、揉めたのも猫の名前をどうするのかと気を回したのが裏目に出たルドガーさんがジャムの瓶を勝手に処分してしまった件についてだけだった。
ちなみに子猫の名前だけれども、庭で洗っていたところ白い靴下のような模様を見て「くっく!」と庭師見習いの少年にくっついてきた小さな妹が言ったことでクックに決まったため、私たちの名付け争いは両者敗けの引き分けで終わった。
見習いの少年にはどうしても預けられなくて連れてきてしまったと平謝りされたが、子供の声で無益な争いをしている大人というしょうもなさを自覚できたのでなにも咎めはしていない。おかげで庭もきれいだしクックも元気だ。
ルドガーさんは勤務地を王都である私が勤めているのと同じ場所に移したので、度々職場で顔を合わせる。私は計算手として働いているため、研究助手をしているらしいルドガーさんは少しだけ仕事場が重なるのだ。
詳しいことは私にはわからないものの、細かい気遣いのできるルドガーさんは中々好評らしい。そうなると普通に仕事をするだけなので、職場でも特になにかが起こることはなかった。変わったとすれば、同僚に少しからかわれるようになったことくらいだ。
だから私は今大変に驚いている。私に会いたい合わせてくれと懇願している女性が押し掛けてきていると聞いて、全く身に覚えがなく混乱しているからだ。
普通こういうのはルドガーさんに会いたいじゃないんだろうかと思いながら、少し大きくなったクックと遊んでいるルドガーさんを置いて玄関に向かう。怖いから扉からちょっと顔を出すくらいにするつもりだ。
「ああ!ごめんなさい!私の代わりに貴女が結婚するなんて、私、私……!」
「ええっと、あの……」
「あのクズ男の被害者を私が産み出してしまったと思うと、いてもたってもいられなくて……」
「フローリア、大きい声が聞こえたけど大丈夫?」
「えっ……だ、誰?!」
混沌である。とりあえず玄関先で混乱し続けているわけにもいかないと応接室に女性を通した。見れば髪は短いものの綺麗な方で、服からして修道女のようだった。
話を聞いてみて驚いたのだが、この人こそが結婚式の一週間前に逃げ出したかの花嫁予定の人だったのだ。逃げた後で身の回りの物や髪を売ってお金を作り移動して修道院に入ったらしい。
「私、どうしても耐えられなくて……」
「あぁ……酷い人だったらしいですね」
「結婚しないと世界に危機が迫るって言われても実感はないし、あんな男に人生めちゃくちゃにされるなら世界なんてとも思ってしまって……」
「え?」
「え?」
ルドガーさんを見る、なにも知らない顔をしている。私も結婚しないと世界に危機が迫るなんていうのは初耳だ。そんなこと結婚してくれと言われた時から今まで一度も話に出たことがない。
確かにそれくらいの事情があるならあれだけの錚々たる顔ぶれが結婚式に参列するかもしれないが、世界を危機から守るようなことを結婚してからした覚えは全くない。
「世界の、危機?」
「え、ええ、大神官様へ神様から御告げがあったとかで……聞いていなかったんですか?」
「俺はとにかく結婚してくれとしか」
「私も、結婚式まで一週間もないからとお拝み倒されたくらいでなにも」
とりあえず結婚式だけ挙げてくれればよかったとか、そういうことなんだろうか。私たちの子供がどうみたいなこともないだろう、それならばさすがに結婚に加えて跡取りもよろしくと言われているはずなので。
私たちの生活は本当に何事もないくらいに平和で、特別な何かなんて一度も起きたことはない。養子に入った扱いの家から誰かが訪ねてくる、程度のことすら一度もないのだ。
「とりあえず、結婚が大事だったんですかね?」
「ダメならまた御告げがあるとかだろうか」
顔を見合わせたところでなにもわからない同士、ふわふわとしたつかみ所もない想像しかできない。なんならダメだと言われてないんだから、別にこのままでもいいんじゃないか?と思ってしまっている。
色々と話を聞いたのととりあえずで出したお茶とお菓子、そして思った不幸がなかったことで突撃してきた彼女もどうやら落ち着いてくれたようだし、心配はいらないと言って馬車代を渡して帰ってもらうことにした。
馬車代に大変恐縮されたけれど、ある意味で私たちが得をした理由のような人なのでお礼くらいの気持ちで受け取って欲しいと言えば何度も頭を下げながら元花嫁は修道院に帰っていった。
「しかし連れ戻せなかった理由が花嫁が式で花婿を殺す覚悟を手紙にしたためていたからとはなぁ」
「宣誓書に署名する前なら、結婚は失敗になりますもんね」
「さすがに即日で代わりは探せないからな、俺たちに代えるしかないか」
馬車を見送って夕食を済ませすっかり寝る準備をしてから、二人で並んでミルクをたっぷり入れたお茶を手に衝撃的な今日の話をする。彼女は無事に修道院に着いただろうか、なんて考えながら。
どこにいるかも聞いたから無事を確認ついでに仕事を放り出して抜け出したことをあまり怒らないでくださいと手紙を書いておこうか、ついでにお菓子も贈れば喜んでくれるかもしれない。
私を心配して大いなる無駄足を踏ませてしまった上にこっちはすっかり元の花嫁なんて忘れ去っていたものだから、少しばかり罪悪感のようなものがあるのだ。お菓子と手紙でそのモヤモヤが無くなるなら送っておいて損はない。
「明日になったら、修道院にお菓子と手紙を送りますね」
「それはいいが、修道院は菓子作りもするだろう?珍しいものがいいんじゃないか?」
「詳しいんですか?」
「いやちっとも。だが子供の頃の俺にとって、修道院は祭りの日に行けば菓子がもらえる場所だったもんでな」
「なるほど……最近流行りの物にしておきます」
翌日手紙を添えてリキュールの代わりに甘いバラのシロップが入れられたボンボンを送ったところ、大変丁寧なお礼の手紙をもらった。ボンボンは修道院の皆さんで美味しくいただいてもらえるそうだ。
元花嫁の彼女は無事に帰っていたらしく、抜け出したことに関しては「規則なので罰則は必要ですが、お気持ちは伝えておきます」とされていたので必要以上に咎められたりはしていなさそうで一安心できた。
一安心できたのはいいものの、そうして気がかりだったことが解消されると彼女の言っていた世界の危機というのが改めて気になってくる。そんなものが迫っているなんて、ちっとも感じられないけれど本当だろうか。
今日も天気はいいし、クックは庭で蝶々を追いかけて濡れた土に突っ込んだせいでルドガーさんに全身を洗われてタオルにくるまれてしまっているし、なに一つ不穏という言葉にそぐわない。
さらに言えば涙ながらに見送った怪我を手当てした鳥(ピーちゃんと呼んでいる)がまた庭に顔を出すようになったという嬉しいことまであったのだ。
「世界の危機、感じますか?」
「軽い空腹くらいしか俺には感じられないな」
「クルミのケーキがありますよ」
タオルにくるまれたまま寝てしまったクックを膝に乗せてルドガーさんがクルミのケーキをつまむ姿は平和そのものだ。私が横に座ってひげに触ってもクックは起きなかった。
動物は危険が迫ると敏感に反応するのではないだろうか。子猫すらこれなのだから、人間の私たちに察知できる世界の危機などあるはずもない。
「結婚したおかげで平和なら結婚した甲斐もあるもんなんだけど、そんな実感はないとしか」
「私たち結婚してただ得しただけですよね」
「お嫁さんもいい人だったしな」
「お婿さんも負けてませんよ」
私たちは今のところまだ同居人ではあるが、その内夫婦になるのだろうなとなんとなく思っている。これは想像だけど、きっとルドガーさんもそう思っているだろう。
夫婦になってもきっとこんな風にのんびりと平和だなぁなんて思いながら庭でお菓子をつまんだりしているのかもしれない。その時は家族が増えているかも、なんてことも考えていることはまだ少し恥ずかしくて言えないけれど。
数年後、結果的にクックの名付け親になったあの見習い庭師の妹とはじめて会った時よりずいぶん大きくなった鳥のピーちゃんが聖女と霊鳥として世界の危機を救うなんてことは、 また別の話だ
書く前は「君を愛することはない」を書こう!と思ってたんです。