俳句、興味ない?
「うーん……」
翠は、さっきからずっとひとつの教室の前をうろうろし続けていた。扉には『退屈な日常をその手で彩りませんか?』という謳い文句が掲げられている。
文芸部の部室である。
入学したての翠は小さい頃から本の虫で、ひたすらに書くことに快さを感じるほどに小説に熱を上げていた。中学にはなかった文芸部が、ここ、横浜緑嶺高校にはあると知り、喜び勇んでやって来た。だがそこまではいいものの、他に誰か部員も、自分と同じ一年生も見当たらず、どうしたものかと悩んでいるのである。
入学式の後に配られた部活紹介のパンフレットを見る限り、加えて目の前の扉が半開きになっていることを考えても、今日が定休日なわけではないだろう。
他に誰もいないのをいいことに、そわそわと部室の中を覗いてみたり、半径数メートルの範囲をぐるぐると歩き回ったり、挙動不審っぷりを遺憾なく発揮していると、
「もしかして、文芸部の仮入部?」
「ひょわっ!?」
背後から声をかけられて、翠は思わず奇声をあげてしまった。
ばっと振り向くと、髪を肩で切りそろえた、綺麗な女の人が立っていた。凛とした顔立ちで、涼しげな目元にはほくろがある。
完全にパニックになってしまった翠が何と言えばいいのかわからずにわたわたしていると、女の人はその目元を崩してはにかむように笑った。
「あ、驚かせてごめんね。私、文芸部の部長をやっているんだけど」
「はい! いえ! あっ、えっと」
「落ち着いて」
さらにパニックを継続させる翠に、その人はくすくすと笑って先を促す。
「えっと、うるさくしてすいません、文芸部の仮入部がしたくて来ました!」
翠はシュッと敬礼でもしそうな勢いで宣言した。
「もうすぐ他の人とか先生とか来ると思うから、準備しちゃうから先に座ってていいよ」
「ありがとうございます」
部室に入ると、机が班の形にくっつけて並べられているのがまず目に入った。全体を覆うように大きなテーブルクロスがかけられ、真ん中には色んなサイズの紙が大量に並べられ、散らばっている。
翠は目を大きく見開いてそれを眺めると、わくわくしながら席に着いた。きっとこれから、公私共に文字にどっぷりな高校生活が送れるに違いない。
しばらくすると、もう二人の生徒と、先生一人が来て、部活が始まった。最初に私に声をかけた人が口を開く。
「改めてじゃあ、自己紹介だけしちゃおうか。さっきも言ったと思うけど、部長をやってます、二年の山瀬みどりって言います。唯一の二年生だから、実は会計もやってます……。部員が増えてくれると嬉しいな」
にっこりと笑って頭を下げるが、翠はわずかな圧を感じたような気もした。
続いて喋った三年生は、山瀬先輩の隣に座った、茶色がかった長い髪の先輩と、それと比べると短い髪を後ろで一括りにしている、メガネの先輩だった。
「元部長の三年で、羽鳥彩月です〜。よろしくお願いします〜」
「三年の卯花玲です。実は元々お手伝いで顔出してただけで、最近入部したので、ほとんど同期みたいなものなんです。だから仲良くしてくれると嬉しいです」
羽鳥先輩は、語尾を少し伸ばす話し方が印象的だ。卯花先輩は、芯の通ったよく響くアナウンサーのような声をしていて、思わず聞き惚れてしまった。
一通りみんなが喋り終えたので翠の番がきて、多少緊張しつつも口を開いた。
「長嘴翠です。小説、特にファンタジーが大好きで書くのも読むのも大好きで来ました! よろしくお願いします!」
決意を込めて頭を下げたのだが、部室がほんの少しだけ微妙な空気になったような気がした。……あくまでも気がしただけで、ただ緊張している翠の杞憂、で終わるかもしれないが。顔を上げても、先輩たちはニコニコしてるし。
ところが、それはある意味では当たっていたのかもしれなかった。
最後まで何も言わずに聞いていた顧問の石海先生が、苦笑いのような表情を浮かべて、翠に向けて話し出したからだ。
「長嘴さん、だよね」
「はい」
先生と、真正面から視線がぶつかる。
「『俳句』、始めてみない?」
——「『俳句』、興味ない?」
先生が何を言ったのかわからなかった。はいく、ハイク、HAIKU……?
翠の頭がそれを「俳句」だと理解するのに、かなりの時間がかかった。
「ええっと……俳句ってあの五七五の……?」
「うん、そう! 季語使うやつ!」
真っ黒な瞳をキラキラさせて、石海先生は大きく頷く。
多分、俳句と言われて誰も彼もが思い浮かべるのは<古池や蛙飛び込む水の音>なんじゃないかと思うが、例に漏れず翠もその一人であった。
翠にとって、俳句を作らないか? ということは、あれの亜種を作らないか? と言われているのと完全にイコール。なので先生の問いに対しても当然、
「興味、が、あるかないかでいうと、あー、正直あんまりないですけど……そもそも国語の授業でしか触れたことないですし」
「だよねえ……」
先生が困ったように眉を寄せたのが見えた。
「どうして俳句なんですか? その、自己紹介の時にも言ったんですけど私、小説がやりたくて……文芸部ならできる! って勝手に思ってたんですけど」
その質問に答えたのは石海先生ではなく、山瀬先輩だった。
「うちの文芸部は、元々俳句や短歌をやるために立ち上げられたらしいの。なら俳句部とか短詩部とか名乗れよ、って言いたくなる気持ちは分かるんだけどね」
先輩はぽかんとしている私を見て、可笑しそうにふふっと笑って続ける。美人って何しても絵になるなあ、いいなあ……。
「今は俳句をやってるけど、昔は短歌が強かったらしいの。あくまで私とか羽鳥先輩たちが入部するよりもっと前の話だから、全部『らしい』としか言えないんだけどね」
「短歌、はあれですよね、俳句に下の句がついたみたいな……」
「大体正解かな。今俳句をやってるのは、石海先生が俳句をやっていらっしゃったからで、短歌と俳句がだんだん入れ替わっていったみたい。今は完全に俳句ばっかりだけど、各々好きなことをやっているよ」
つまり、翠が聞く限りは、最初の人がどうして短歌をやりたかったのかはわからないけど、伝統的にそれをやる人たちが入部し続けているから、翠もそれをやらないか、ということだろうか。
「あのー、でも、絶対に嫌だってわけじゃないんですけど……。各々好きなことをやってるなら、小説でもいいんじゃないですか? その、あの、本当に嫌だってわけじゃないんですけどでも、そのために来たようなもので、パンフレットにも小説のことも書いてあったと思うんですけど」
手足をバタバタさせながら、あくまでも拒否ではないということを主張しつつ、翠は質問を重ねる。
「うん、そうだね。各々好きなことやっていいってコンセプトも本当。だから、翠ちゃんが小説がいいっていうならそれでも何の問題もない」
そこで先輩は言葉を切った。だが、翠がその表情や雰囲気を見る限り、多分、話はこれで終わりではない。
「ただその、みんなでお願いしてる理由が実は他にもあって……」
山瀬先輩が、会話の主導権を石海先生に戻したのが目線でわかった。それを受けて、先生は数枚の紙を取り出す。
一枚はカラーのチラシ、もう一枚は先輩たちの名前が書き込まれた書類。
「俳句、選手権……?」
チラシに踊るポップな文字。翠は、部室の温度が確かに一度上がるのを感じた。それを裏付けるように、その場にいる、翠以外の人物全員が深く頷いた。
「毎年うちの文芸部はこの大会に出てるの。五人一チームと補欠が必要なんだけど、最近は見ての通り人数が全然足りなくて……。実は三年生に一人、卯花さんみたいに助っ人がいるの。それと、長嘴さん以外にもう一人入部希望者が来てて、その子が出てくれれば、今年は出場資格が得られるから、俳句は作らなくてもいいんだけど、補欠要員がほしくて……」
石海先生が拝むような仕草で翠を伺うように見る。
「どういう大会なんですか?」
待ってましたと言わんばかりに、先生は胸を張る。
「事前に、大会の一、二ヶ月前にお題が出されて、私たちチームはそれに合わせて俳句を作るの。だからよく勘違いされるんだけど、その場ですぐ俳句を詠むわけじゃないの。事前に提出して、相手チームには当日お披露目する。試合では作るんじゃなく俳句に関するディベートをして、俳句とディベートそれぞれの点数の合計点で勝敗を決めるっていう……口だけじゃ伝わらないと思うけど、つまり俳句がテーマの弁論大会って感じね」
「な、なるほど……。でもだったら、個人戦でいいんじゃないですか?」
「いい質問ね。五人一チームで、一試合の中で基本的には三句勝負なのよ。だから5人の句を全部提出して、その中からより強い三句を選んで試合に出す。全国の決勝戦とか、もっと大規模な試合になると五句勝負になる。二句先取、三句先取のチームが勝つ!」
「誰かが強いだけではダメで、全員がいい句を出せなきゃいけないってことですね……?」
「飲み込みが早くて助かるわ。ちなみに点数は奇数人の審査員が多数決で決めてるから、勝敗に納得いかないことも意外と多いけどね……」
だんだん頭がこんがらがってきた。つまり、先輩たちは、この試合に出たいから翠に俳句をやってほしい、ということだろう。
「あの、ただでさえ俳句も作ったことないのに大会とか、その、弁論とかっていうのは……やっぱり私には難しいかなって……見たこともないですし」
「わかってる。いきなり試合に出せる句を作れとは言わないし、私たちでもそんなことはできないから、今はとりあえず補欠として名前だけ貸してくれないかしら……?」
少し悩んだが、補欠なのであれば、実際に試合するメンバーなわけではない。試合にはついて行かなければいけないだろうが、文芸部には入部するつもりだし、特に問題はないだろう、と翠は判断した。
「名前を貸すっていうだけなら別に大丈夫です!」
「ありがとう! 本当に助かる……!」
翠が書類に手早く必要な情報を書き込むと、石海先生は職員室に帰って行った。どうやら大会が近いときには具体的な指導があるものの、普段の活動は今のような事務的な用事がある時以外、生徒に任せているようだ。
翠が、この署名が悪魔の契約だった、と気付かされるのは、ほんの少し先のお話。
石海先生が帰っていくと、羽鳥先輩から何か促された山瀬先輩が口を開いた。
「今日は句会をやるんだけど、よかったら翠ちゃんにも参加お願いしてもいいかな」
「く、かい……って言うのは……?」
「ああ、ええっと、匿名で自分が作った俳句を披露して、その中からいいと思った句を選んでどこが好きかとかをみんなで言い合いながら勉強するっていう……まあ、企画……? みたいなものかな」
「でもあの、その、ほんとに俳句って全くやったことなくて、披露できるような句なんて作れないし」
「最初はみんなそうだよ。俳句が作れなくてもいいから、好きな句を選んでもらうだけでも!」
「じゃ、じゃあやってみます」
「ありがとう! 先輩たちの句見るだけでも結構面白いと思うし。週一で句会やってるからこれからよろしくね!」
山瀬先輩がいい笑顔でぐっとサムズアップしている。翠は、自分がもう文芸部からも俳句からも逃げられなさそうだ、ということを察した。
机の真ん中に大量に積まれた紙に混じって、ひとつだけ箱が置いてある。山瀬先輩がそれを開けると、中にはみんな一様に細長くカットされた紙が散らばっていた。翠の前にその紙が一掴み置かれる。
「これは短冊ね。完成した俳句をここに書いて、裏返して提出するの」
「なるほど」
「それとあとこれ」
次に先輩が取り出した紙は一枚だけ大きくて、何かが書き込まれていた。
「霞、風船、シクラメン……?」
「これは、五月に提出する俳句選手権の兼題けんだいです。俳句のお題のことを兼題って言うの」
「じゃあ、これを使って俳句を詠むってことですか?」
「そうそう、これ実は全部季語なんだよね」
「えっ?! 風船もですか?」
「そう! 霞も風船もシクラメンも全部春の季語だよ。なんでこれがこの季節なんだろう、とか、逆にこれは春じゃないの?! みたいなのも結構あるから調べてみると面白いと思う」
「へえ……」
翠が羽鳥先輩と卯花先輩の方をちらっと横目で見ると、二人ともノートを広げて熱心に何かを書き込んでいた。
「じゃあ、三十分後くらいに声かけるから、それまでは自由に俳句考えてみて。なんでも聞いてくれていいし、一句もできなくても今日は見るだけで全然大丈夫だから」
「は、はい!」
「あと、兼題をわざわざ使って詠むのって実はかなり難しいから、まずは思いついたものなら季語はなんでもいいよ!」
一気に部室が静まり返った。せっかくなので、翠がまず風船について調べてみると、元々の季語としての風船は紙風船のことを指したらしい。春祭りなどで子供相手によく売られていたことが名残で、春の季語となったんだとか。ふうん……。
翠がつーっと画面に指を滑らせると、いくつか先人の作った例句が出てくる。別に今では紙風船じゃなく、ゴムの風船も季語として普通に使われているみたいだ。
翠が俳句に触れたのは、さっき自分で述べたように小学校の授業が最後である……というのは、翠が忘れていただけで、実は嘘だ。
本当は、中学校の夏休みの自由課題。大抵の場合は読書感想文を提出するのだが、それが面倒だった翠は俳句コンテストへの応募を選択し、ぱぱっと作って提出したことがある。
当時の国語科の先生が、「凝った表現をしようとすると固くなる」「見たまんまを十七文字にすればいい」と言っていたのを、短冊を前にして初めて翠は思い出した。
<窓ガラス くり抜く空に 春の雲>
これが、翠が、文芸部人生で初めて作った俳句になった。この日提出できたのは結局これ一句だけだったが、翠は満足していた。
もう一句作れるだろうか、兼題を使ってみたいな、と翠が頭を抱えているところに、山瀬先輩の声がかかった。
「そろそろ時間になるので、できてるものから順に短冊を提出してくださーい」
恐る恐る、翠が一枚だけ短冊を差し出すと、山瀬先輩はその手をガシッと掴んだ。
「すごい! できたの?! 私が初めての時は五七五の季節って言われても難しくてどうしたらいいかわかんなかったのに!!」
「あ、いや、その、全然面白いのじゃないし、その、兼題? も使えなかったですけど、一応五七五になったので……」
「それだけで凄いんだよ、自信持っていいよ!」
テーブルの真ん中に空間が作られ、裏向きのままの短冊が並べられる。翠が見ていると、山瀬先輩は短冊を大体同じ枚数になるように四つの山に分け、一人に一山を渡した。
羽鳥先輩が、机を空けるためにどけた普通サイズの紙束の中から、翠に一枚渡して説明してくれる。
「今から、句を選ぶ、って書いて『選句』っていう作業をするのよ〜。この大きい紙に、今渡された短冊に書いてある俳句を清書してほしいの〜。字体で誰かわかっちゃったら匿名の意味がないからね〜」
「は、はい!」
「そんなに気負わなくて大丈夫よ〜。ちゃんと読めれば綺麗な字の必要はないよ〜」
「わかりました」
翠は一句しか出していないのに、配られた短冊の山は全部で六枚あった。先輩たちは今この時間でこんなにいっぱい作ったのだ、と驚く。ちょっと恥ずかしいような、期待と緊張が混ざった気持ちで翠は短冊を覗き込んだ。
「あっ」
「どうしましたか?」
と、突然山瀬先輩が声を上げる。
「あのね、清書するときに気をつけてほしいことがあるんだけど」
「はい」
「五七五で作ってると思うけど、書くときに、五と七の区切りのところでスペースを空けないで欲しいの」
「えーっと、全部繋げて書けばいいってことですね……?」
「そう。スペースを空けると『分かち書き』って呼ばれて、結構嫌がる人多い……」
「そうなんですね……。知りませんでした」
翠は自分が提出した短冊に分かち書きで書いてしまったことを思い出し、これでは私の句だとバレバレではないか、と頭の中でひとりごちた。
だが、翠の短冊を持っている人以外には(下手すぎてバレるかもしれないが)バレないかもしれない。なるほど、このための清書なのだと翠は身をもって納得した。
気を取り直して、翠は先輩方の作った句を覗く。
<かすみいるすりがらすごしみるせかい>
(な、何これ!? 全部ひらがな!? わざとこう書いたってことだよね……?)
一句目にいきなり翠は度肝を抜かれた。一目見ただけではそもそも文章として理解することも不可能なひらがなの羅列。
(かすみ、は霞だよね。『いる』ってなんだろう。居るか入るのどっちかっぽいかな。すりがら……すりがら過ごし? あっ、磨りガラス越し! 霞いる磨りガラス越し見る世界、っていう句かな)
翠の中で、早く他の人がこの句の感想を言うのを聞きたい、作者が誰か、どういう意図で詠んだのかを聞いてみたい、という欲望が僅かに頭をもたげた。
<風船を受け取れば手はふつくらと>
二句目。これはある程度翠が予想していた「俳句」というものの形に沿っていた。
<プテラノドンにも爪のある晩春>
三句目はまた翠にとって未知の領域だった。読みづらさを感じたのは、五・七・五の区切りではないからだろう。分かち書きをするな、というのはこの句みたいなのがあるからということか。
しかもプテラノドンの、爪。注目するなら翼とかじゃないのかなあ、詠んだ人は何を考えていたのかなあ、と考えを巡らせる翠の頬が少しだけ緩んでいることには、誰も気付かない。
<恐竜は肋骨に春愁抱へ>
<音もなく霞の底へ落つる石>
順番に紙に書き写していれば、六句目は翠自身の<窓ガラス>の句だった。分かち書きで作者だとバレる可能性が無くなってほっとしたが、先輩たちの句を見て衝撃さめやらぬ中で自分の句を並べると、やっぱり明らかに見劣りしてしまう気がする。
翠はがっくりと肩を落とした。
全ての句を写し終わる、というところで山瀬先輩の声がかかった。
「番号とりまーす、一番」
「二番」
「三番」
山瀬先輩の言葉に続いて、時計回りに羽鳥先輩、卯花先輩が続く。先輩方が翠の方をじっと見てくるので、翠は恐る恐る
「よ、四番……?」
と続いた。山瀬先輩が頷く。
「今のは、それぞれ持ってる清書した紙、清記用紙の番号。このあと全員が俳句を見れるように紙を回すから、右上に小さく書いといてね」
「はい!」
「ちなみに最後の番号の人は何番、って言った後に『止です』って言うといいよ。最初は私も何のことかわかんなかったけど、ルールみたいな感じ」
「な、なるほど? 四番止です……?」
「そういうこと!」
羽鳥先輩がさっきと同じように、大きい紙の束からもう一枚ずつみんなに配った。
「二枚目のこれは自分用のメモに使ってね〜。今から番号を書いた清記用紙を回すから、気に入った俳句をどんどん写してって欲しいよ〜。この用紙は回収とかしないし、後で喋るために好きなところとか自由にガンガン書き込んじゃって〜」
数字が順番になるように、さっきとは逆に反時計回りで紙を渡していく。
「毎回、全体の句数を鑑みて、部長さんが何句選ぶか決めてるよ〜。五句なら『五句選』、とかって言うから覚えといてね〜」
「あ、忘れてましたすいません。今回は四句選でお願いします!」
山瀬先輩の焦ったような声を合図に、翠はさっきと同じか、もしかしたらそれ以上の期待感を持って清記用紙を読み始めた。
<恐竜は肋骨に春愁抱へ>
<風船に爪を立てたるやうな恋>
<空青し入試選抜突破せり>
<観覧車の窓塗りつぶす花曇>
最終的に翠が選んだ四句。山瀬先輩に何番の紙から選んだか分かるようにしておけ、と言われたので番号と共に書き写してある。
「そろそろ選び終わった?」
「はい! 四句ですよね」
「これから全員が選んだ句を順番に発表していって、票が多かった句から順にみんなの鑑賞を聞いていきます、じゃあ今日は私からいくね」
「山瀬みどり選です。一番、<空青し入試選抜突破せり>」
「いただきました」
「同じく一番……」
一通り言い終わると、羽鳥先輩が付け加えて解説してくれる。
「今みたいに、まず自分の選んだ句を言うときは『誰々選です』って宣言してから始めるよ〜。『いただきました』って言うのは、自分が持っている紙の句が読み上げられたときにいう言葉なんだよね〜。清記用紙は後で大会とかコンクールに使える句を探すために先生に預けるから、誰がどの句を選んだかわかるように、選んだ人の名前を書いておいてね〜。いただきましたはそれを書きましたよっていう合図だよ〜」
「わ、わかりました」
次々と翠の知らない言葉が出てくる。羽鳥先輩が選んだ句を読み上げているときに、初めて翠の持っている四番の句が読み上げられた。
「……あっ、えっと、い、いただきました!」
翠はちょっと恥ずかしい気持ちになる。先輩たちはもう慣れているんだろうな。羽鳥先輩は淡々と続ける。
「同じく四番、<窓ガラスくり抜く空に春の雲>」
「えっ」
「ん?」
「あ、いや、なんでもないです! いただきました!」
自分の句が四句目に読み上げられて、翠は思わず声を上げてしまった。匿名なのに名乗りをあげてしまったようなものだ。再び手足をバタバタさせながら訂正した。
それにしても。
翠の心の中に、くすぐったいような暖かいような、液体が隙間をじわじわと満たしていくような感覚が生まれた。生まれて初めて、俳句を作ろうとして作った。自分の句を人に褒めてもらった。
緩みかけの表情筋を必死に制御している翠の横で、山瀬みどりは、石海先生の蒔いた種がまたひとつ芽を出したことを確信しているのだった。