ふわふわして温かいもの
カタカタカタカタカタカタ、タン。
そして再びのカタカタ……エンドレスカタカタ。たまに気持ちを込めて強めのターン。
のゆりは閑散としたフロアで残業をしていた。
本当は定時で帰れるはずだったのに。
今日は華の金曜日なのに。
子供の頃から大好きな国民的アニメ映画(ノーカット版)が放送される金曜日なのに。
理文と『たこ焼きパーティーをしよう』と約束していた金曜日なのに!
そんなハッピーフライデーに残業。しかも自分のミスではなく、やらかした先輩の尻拭いの為の残業。
……朝の占いは一位だったのに。
あんな嘘っぱちな占いコーナーなんて、もう絶対に見てやらないんだから(見る)。
気が強くて女性社員を『敵か味方か』で考えるような取扱い注意な先輩は、とある日から変わった。
とある日──いつだったか頼み込まれてのゆりも参加させられた合コンで知り合った男性と交際をスタートさせた日のことだ。
それから先輩は絶好調。
周囲がびっくりするほど穏やかになり、当たりの強さが嘘みたいに薄れていった。
春が来た先輩は取扱い注意レベル10から、レベル4くらいまでに下がり、仕事はそれはもう捗るようになった。
しかも私語で恋バナまで振ってくるのだから驚いたなんてものじゃない。吃驚仰天である。
恋って、すごい! いつまでも末永くお幸せに!
のゆりは先輩の幸せを心の底から願ったし、祈っていた。
が。
つい先日、とうとう破局してしまった、らしい……詳しくは分からないが情報通の後輩くんによると先輩が振られたとか。
結果、先輩は仕事で大ポカをやらかした。そして、そのフォローを頼まれたのがのゆりである。
ちなみに先輩は今日の昼過ぎに体調不良で早退している……。
「『──の資料を添付しました。ご確認ください。よろしくお願いいたします。』と」
集中力が切れてくると文字の打ち間違いが多いのゆりは、逸る気持ちを落ち着かせて口の中で言葉を呟きながら文字を打ち、二度ほど文章を目で追ってから送信ボタンを押した。
時刻は二十二時を少し過ぎた頃。
どうやら日付が変わらないうちに自宅には帰れそうで一安心。
息を吐いて大きく伸びをする。
途端。ぐう──お腹の虫が「お腹すいた!」と鳴く。
当たり前だ。昼は食堂に行けず、栄養補助食品一本だけだったのだから。
忙しいのゆりにお腹の虫は気を遣い、残業が終わるまで鳴かなかったのだろう。しかし残業が終わった今、遠慮をなくした虫はぐうぐう鳴きやがる。
上司やまだ残っている隣の島の社員に挨拶をして帰り支度をしながらも、のゆりは何を食べようかと考えていた。
──たこ焼き? だめだ。のゆりは寝る前にソース系を食べると翌日高確率で胃がもたれる。では、ヘルシーに野菜スープ? だめだ。なんか気分じゃない。しっくりこない……。
ガタンゴトン。
金曜日で若干浮かれている者も少なくない電車内でも、のゆりの頭の中は『何食べよう』だった。
そしてようやくしっくりくるものを見つけた。
──やはり米だ。お米を食べよう! おにぎりだ!
最寄りの駅に降り、数あるコンビニの中で一番お世話になっているセブンマートに寄る。
あまり食べないデザートコーナーに足が向かってしまうのはもう癖だ。
理文の好きなプリンがラストワンで嬉しい。もちろん悩むことなく手に取って、今度はおにぎりコーナーへ。
しかし、のゆりの愛してやまない鮭おにぎりは売り切れ。それも当然、鮭はおにぎりの好きな具ランキング上位。こんな時間まで残っている昆布とは違うのだ。
のゆりは、しかたないと諦めてプリンだけを持ってレジへ向かった。
──のゆりの晩ご飯が『ふりかけご飯』に決まった瞬間である。
◇◇◇
「ただいまあ」
「おかえり」
のゆりが帰宅すると理文に出迎えられた。
「文ちゃんにプリン買ってきた。お土産」
お土産のプリンを渡すと理文は「やった!」と言ってから、「んん?」と首を傾げた。
「……のゆり、腹減ってる? 簡単なのでいいなら作るけど……」
「食べる! 食べたい!」
のゆりが食い気味に返事をして、「やっぱり文ちゃんはエスパー!」と理文に抱き着くと、「腹の音がすごいんだよなあ」と笑われた。
「仕事終わって退社してからずっと鳴ってたよ」
「ふはっ、じゃあこの状態で帰って来たってこと?」
「うん」
「あははっ!」
いや、笑い過ぎでは……?
そう。会社で上司に挨拶をしている時からのゆりのお腹の虫はぐうぐう鳴いていたのだ。
「はあ、面白かった。ああ、風呂に浸かってきな。その間に用意しておくから」
「はあい」
実に良妻!
のゆりは理文のことを心の中で称賛しつつ、とっておきの桃の香りのバスボムが解けたお湯に体を沈めた。
ふい~とおまぬけな声と共に肩から力が抜け、先輩への憤りも溶けていく。
……失恋は辛いことだ、ミスもするだろう。のゆりだって理文に振られたら、辛くて悲しくて仕事どころではない。
風呂から上がり、濡れた髪を適当に拭きながらフローリングの床をぺたぺた歩いていくと、良い匂いがのゆりを迎えた。
「美味しそうなにおいがする~」
ぐおおおおお! お腹の虫は進化し、もはや怪物である。
「のゆり、髪、きちんと乾かさないと」
眉を顰める理文に、のゆりは「大丈夫だよ~」と答えるが、彼は納得がいっていない様子だ。
「まあいいや。座って待ってて」
「……はあい」
まあいいやと言いながら、なぜそんな諦め口調なのか。
あと、のゆりの髪は直毛で尚且つ短いからそんなにきちんと乾かさなくても平気なのに。と、思いつつ、待っている間にタオルで髪を丁寧に拭いてみる。
理文はかなりきちんとしている部類の人間だ。
学生時代には部長や学級委員長になったことが多く、まとめ役や教えたりするのが上手な頼りがいのある兄貴肌で、先輩にも後輩にも好かれている。
そして、何でも卒なくこなせるタイプで、一緒に暮らし始めてから、家事は分担しているのだが若干理文の方が多く担っているくらい器用だ。
一方のゆりは大雑把でマイペース。
学生時代にリーダー役なんてなったこともなければ、頼られる側ではなく、頼る側。
要領は悪くないが飛びぬけて良いところがあるわけでもない十人並みの人間である。
そして同棲を始めて気が付いたことなのだが、大味でいつも同じ味付けになってしまうのゆりよりも、繊細な味覚の違いが分かる理文のほうが料理が上手い。
料理教室でも通おうか。男は胃袋で掴めと先人も言っているし……。
そんなことをつらつら考えていると、目の前にランチョンマットが敷かれた。
そしてその上に白米が入ったどんぶりが乗せられる。
米オンリー? と思っていると、まさかそんなはずもなく隣には焼いた塩鮭と急須、いりごまとネギの薬味皿と茶碗蒸しが並んだ。
「おお……っ」
「冷蔵庫の中、たこ焼きの具材以外何もないから簡単なので悪いけど」
「ううん。全然っ悪くないよ、美味しそう」
「急須の中ほうじ茶だから、米に鮭乗っけてお茶漬けにして食って」
「うん、いただきまーす!」
どんぶりに見合わない米の量に納得しつつ、鮭と薬味をたっぷり乗せてから急須のほうじ茶を注ぐとふわあと湯気がのゆりの顔を包んだ。
木のスプーンで鮭をほぐし、ふうふうと冷まして口に運べばもう止まらない。
「あちち」
夢中で食べていると、冷えた自家製麦茶が入ったのゆり専用のグラスが置かれる。……やはり良妻である。
「ありがとう、お茶漬け美味しかった。コンビニで鮭おにぎり買おうと思ってたのになくてがっかりしてたから、本当に嬉しい!」
「はは、よかった。茶碗蒸しは腹に入らなそう?」
「入るよ。お茶漬けに夢中で忘れてただけ」
具なしの茶碗蒸しはとろとろで美味しい。彼曰くとっても簡単に作れるらしいが、果たして同じものがのゆりに作れるかは甚だ疑問である。
小さめのココットに入っていたので、三口で食べきってしまった。
もしかしてのゆりは具なしの茶碗蒸しの方が好きなのかも知れない。
「はあ、美味しかったあ。ごちそうさま」
「お粗末様」
お茶を飲んでリラックスしていると、むくむくとのゆりの中から温かい何かが現れる──お腹の虫、もとい怪獣がまた進化したのだ。
このふわふわして温かいものをのゆりは知っている。
「──だなあ」
「ん? 何か言った?」
「うん、幸せだなあって……」
にこにこ顔ののゆりに理文は「ずいぶん安い幸せですね」なんて言い返すけれど、敬語になってるので照れているのはお見通しだ。
「はあ、私の文ちゃんが今日もとっても可愛い」
「またそれか。俺はいつになったら格好良いって言われんの? 言っとくけど、俺のこと可愛いって言うののゆりだけだからな?」
しみじみ呟くのゆりに、理文は唇を尖らせる。
いかんいかん。男子は可愛いより格好良いが言われたいのだと親友のみっちゃんが言っていたではないか。
「マサフミクン、カッコイイヨー」
言っていて違和感この上ないセリフだ。
だって理文は可愛い系だ。異論は認めない。
「ったく。……皿、片したら寝るぞ」
「え、待って。片付けは私がやるよ」
立ち上がって素早く食器を持っていく理文に付いていくけれど、広い背中に阻まれて皿に触らせてすらもらえない。
「ご飯も作ってもらったのに……」
「いいよ。今日はサービス」
今日はと言うが、今日もが正しい。
こんなにのゆりを甘やかしてどうするつもりだ、新田 理文!
「なんだかな~~も~~~」
「はは、またのゆりが一人で何か言ってらぁ」
これはいかん、やられっぱなしだ!
のゆりは皿洗いをしている理文の背中にどーんと抱き着いて「愛してるー! 結婚してくれー!」と、のゆり的に胸きゅんする言葉を叫んだ──来春実写化が決定している映画の原作である少女漫画のヒーローの渾身のプロポーズである。
「……結婚してくれって……もう、してんじゃん」
「あれ? ほんとだ、してたね」
先週、二人で役所に婚姻届を出していたことを思い出し、「えへへ」と誤魔化すと「頼みますよ、奥さん」と呆れ口調が返ってくる。
──やっぱり、可愛い。
愛する旦那様の耳は真っ赤なのであった。
【完】