花筏
聖俗は秩序の両輪である。聖なる物のみを残し、俗なる物を世から追い出したとて、それで秩序の均衡が保たれるわけではない。
潮来は利根川支流にある水郷の里にして、江戸の世には那珂湊から陸送を経て運ばれた東北諸藩の積み荷などが置かれた場所であり、常陸と下総の境にありつも、かの吉原辰巳と比されるほど栄耀華やぐ色町であった。人が集まれば自ずと娯楽が求められる。前川の両岸にはいつしか妓楼が建てられ、名物の花魁太夫が町に艶美な彩りを加えた。水郷に咲く彩華は何も遊女一つとは限らない。潮来の入り口である前川から大門への沿道には夥しい菖蒲が咲き誇り、東国三社の参詣を終えて精進落としに来る船客を出迎えた。
さように夜となく昼となく漂う色香を撥ねつけるかの如く、朝の縹色が薄らぐ頃から積み荷を乗せ始め、背高く屏風のように並んだ葦の群れを南風が過ぎていく中を、わき目も降らず棹を指して進む者がある。彼の名を佐内といった。齢二十六と壮年を間近に控えるも、斜陽に差し掛かった利根川水運の舟子を辞するでもなければ、所帯を持つでもない。朝夕を水面に漂泊して常に櫓を漕げば、帰途に着く頃にはすっかり草臥れて寝床に倒れるばかり。色香に溺れる暇だにない。そも、舟子は貧なる職にして、遊行に蕩尽する金もないのであったが。
利根川の端、銚子の水平線から太陽が昇ってようやく幽明の境を越えると、稲無き田の遥か上空を燕が飛んでいるのが見える。この日は米沢からの米俵二つを銚子の港に届ける他に、鹿島大明神へ捧ぐ酒樽も運ばねばならなかったので、いつもの如く世の更けぬうちにもやいを結ぶことは叶わない。空一面に敷き詰められた鰯雲が紺桔梗に染まる中、筑波の紫峰を背にして佐内が船は潮来の一衣帯水を出、外浪逆浦の清艪明媚を望む。復路に至って、櫓を漕ぎつ入相の眩い日差しを半身に受けながら、川面を滑りゆくうちに日は暮れていき、堤と群れた葦の境さえもはや見定めがたく、とうとう夜影が青鷺の姿をも隠すほどになった。
桟橋に船を寄せ、舷灯の光でもやいを結ぼうとすると、陰間から佐内のもとへ近寄ってくる者がある。佐内は蔵中の年貢米を狙いに来た偸盗ではないかと身構えた。
「何者か。」
「怪しいものではありませぬ。どうか湖の沖まで乗せてくださいまし。」
若い女の声であった。徳三郎は桟橋の脚柱に括り付けていたもやいから手を放して女の顔を凝視して言った。
「渡しは行っておらぬ。」
「貨物船であることは承知でございます。」
「では湖で何をしようというのか。」
「気分でございます。日が出ればまたこちらへ戻りますえ。」
「それではお前様は長らく船上に浮かぶというのか。」
「もとよりそのつもりでございます。」
佐内は女の柔らかな口調の影でひっそりと漏れる意気を快く思った。
「宜しい。明日は休みであったから乗せてやろう。」
船中に跨ってもやいを解くと、小舟は自走を始めた。片足を水に浸しながら、佐内は桟橋の先端で脚柱を掴んで今に河岸を離れようとする船を留めている。辺りはひっそりとして、小舟から沸き立つ水紋も穏やかである。屋漏の影が月光を遮って深みを増した闇夜の中、佐内が棹を携えて客の方を振り向くやいなや、若い女は桟橋を駆けてひらりと飛び乗った。歪んだ水面が俄かに蒲の穂を揺らす。
「さあ、お座りな。」
「おおきに。」
静まった袂を捲りながら女が言った。
桟橋を離れた小船が隘路を出て前川へ差し掛かると、前方から喧しい声が聞こえだした。
両岸の水楼はいつになく騒がしい。陽気な三味線の旋律、女の笑い声、茶引きの世間話がのべつ幕無しに水上を流れ、絢爛な欄干は鉄檻のごとく先端を尖らせつつ、無欲恬淡を防ぎつつ貪婪を引き寄せて檻の外周を囲繞するのである。
畔の草莽は低く、潮は高く土手に満ちて砂礫を浸す。舷灯は寸先を照らして月輪の如く、光を満たして春曙の如く、艶美なる三千世界に浮かんで水鏡の境面を取り去って、あたかも垂れた柳葉が川藻へ続いているかのような錯覚を抱く。
水門に近づけば、左右に菖蒲が見え始める。暦上では四月を過ぎれど、咲初めは月の下旬であるゆえに遠目より望めば、いずれは杜若とも思えぬ唯の稲田と変わるところはない。
「菖蒲の咲くまではあとひと月も掛からんでしょう。」
佐内は船尾で棹を水底に突き刺しつつ、乗り始めてより長らく息を潜めたように黙り込む女の後ろ姿を見やりながらひとりでに呟いた。
「近くにいながら、その華やかな姿を見たのは、親に売られて潮来の大門を潜った日の一度ばかりでございます。」
女の返しで、佐内には何となくこの女の素性が知れた。船子と遊女、夜の繁華を抜けるといえば心中ものの序章である。が、生憎佐内には同乗の女と死出の旅に出る義理はない。とはいえ、舳先を翻して女を楼主に突き出す気分でもなかった。
「菖蒲が咲くまで逃げるおつもりか。」
「潮来の花などは全て徒花でございます。盛りの頃は美しいでしょうが、いずれ花は枯れて腐ると分かっているのなら、咲き誇りを見たとてかえって虚しくなりんしょう。」
「そういうものか。」
「はい。」
紫に染まった柔らかな花弁が次第に散って、沼沢の泥のような灰土に落ちていく。佐内はその蕭々たる様を思い浮かばずにはいられなかった。月影はさやかに、黒川の上に漆を塗りあげる。
思案橋を過ぎ、水雲橋を過ぎ、一つ二つ、三つ四つといくつ橋を数えたか判然としなくなるうちに、船はいつしか前川の境を抜け、利根川の支流に差し掛かっているのである。
細く長い前川の衣帯一江を左に折れて、船は常陸利根川に出る。銚子の方へ東行するにつれて次第に水底は深まっていき、船の進みが悪くなったところで、佐内はさっと棹先の水滴を振り払って舟横に片付けると、船尾の櫓を器用に操り始めた。
女の背中が軽くなったように思えたのも丁度この頃であった。先ほどまで背を曲げ俯くようにして座っていたのが、少しく見ないうちに川端の桜などをぼんやりと見上げているのである。佐内が棹を櫓に替えてのち、夜鷹の船がたむろする川路を背にした辺りで、若い女は腰を上げ船の縁に身を乗り出すと、両足を川に下ろして奔放に泳がせ始めた。佐内の読み通り遊郭の大門を抜け出して前川を過ぎたのであれば、もう捕まることは殆どないであろう。追手から逃げ切った訳ではないものの、さぞかし気も楽になったのではないか。もはや心配事などないかのように、船べりに添えた手を離して浦風に崩れた横髪を直している。純白な素足の元で湧き立った泡が、後方に流れて勢いを失い暗夜の中に弾けていく。
「船頭さん、私は今夜仲間を見殺しにするのです。」
佐内は櫓を止めた。
「して誰を。」
「朝霧と小糸という遊女でございます。」
朝霧と小糸とは潮来で俄かに名を聞く太夫である。両人とも女郎から格を上げたばかりであるが、遊郭に出ずっぱりの船頭の間で最近頓にその評価が高まったせいか、大門を潜ったことのない佐内もその名前を知っていたくらい。
「その遊女を身代わりにするおつもりであるか。」
「そうでございます。明日の暁七つを過ぎたくらいでしょうか、支那朝鮮から兵隊がやってきて、十ほどのからゆきさんを連れて行くのです。朝霧も小糸も運が悪うございます。もう少し太夫になるのが早ければ、兵隊も別の者を連れて行くでしょうに。楼主の温情で、折角六つ半まで大門を出られたというのに、逃げるどころか早々に巣へと戻っていきました。娼妓と芸妓との差はあれど、あの二人とは大変仲良うしておりましたから、私一人だけ逃げ出したというのは実に心苦しく思うのですが。」
嬉々として女は語れど、水に泳がせた足は止まって、だらりと前川の方に垂れている。
「唐はそんなに悪いところであるか。」
「太夫を連れていくのですから、きっと花形として扱われましょう。今回のからゆきで、潮来には大量の富が流れてくるようですし。唐へ連れられるのは、貧しい女郎が大半でありますゆえ、このような試しは聞いたこともないのでございます。しかし先見た菖蒲のように、私は水郷の里で生き、水郷の里で死にとうございます。例え足抜けの仕置きで死を迎えようとも。」
「ほう。しかし潮来にはもう長らく戻れまい。」
「二十年も月日が過ぎれば、人流も絶えて大門も朽ちているかもしれませんえ。あの松岸でさえ近頃はかつての隆盛を失って居るそうですから。万が一私が潮来に戻ろうとした時は、お引き留めなすってください。」
滔々と思いの丈を披瀝した女は、しばらく輪郭のみを映した漆黒の水面を凝と見つめていたが、佐内が櫓を操って船を再び前進させると、土手に立ち並ぶ満開の桜に眼をやった。佐内も時折、女と同じ方を向いて、桜が微風を受けて散っていくのをぼんやりと眺めては、物憂げな女の面に比べていかに自分の面が懊悩に欠いているかを考えた。ともすれば女は太夫の仲間に足抜けを促したのかもしれぬ。そうであるなら、女は善良なる働きかけを行うも叶わず、仕方なく仲間を見殺しにせざるを得なくなったということになる。佐内には果たしてこの女が淳良であるか邪であるかが分からなくなった。性淳良にして、敢え無く独り潮来の大門を出るというのであれば、引きずる枷も重たいに相違あるまい。佐内は老婆心から満開の桜が並び立つ土手の方へ船の舳先を反らせた。
「櫓を操るのは思ったより労力がいるもので、ここらで休息を取りたいのであるが宜しいか。」
「構いやせん。」
夜四つも半ばを過ぎたであろうか、春宵はいよいよ深まって青山一髪もはや山容を望むに能わず、
辺りは淡きを払った山水画の如くなる中を、舷灯のみ炯々と光を放って音なく零れる桜雲を照らしている。土手に小舟を添わせて川の沖を見ると、川幅広大にして対岸は遥か、堤はおろか桜の影も見当たらない。未だ常陸利根川の道中を進んでいるという佐内の見込みを裏切るように、小舟は両端を葦に覆われた常陸利根川を抜けて、いつしか外浪逆浦の口に入っていたのである。肌に掛かる恵風が水上を吹き抜けるも、花筏は春を降ろさぬまま鈍行を続け、飛花を加えて宴は華やか、帳の降りた湖面にも桜堤の繚乱を映すのである。
「土手にお上がりな。今にもやいを結ぶ杭を見つけるから。」
「暗うございませんか。」
そう言うと女は舷灯を持ち上げて、佐内の顔元へ近づけた。佐内はこの時初めて、頬に雀卵斑をまぶした若々しい女の顔を見た。白粉が映えない顔立ちであるも、きりりとした狐目に皓歯を際立たせる明瞭な輪郭、それから頂に一線を通した鼻梁は栄耀華々しい潮来遊郭の花魁に比肩するほどの器量であった。しかし佐内には、女の器量を眼で舐めるよりも、男手にも重い台形の舷灯をいち早く若い女の手から離してやることが先決であるように思われた。佐内は吐胸をつく暇もなく舷灯を受け取ってもやいを手繰り始めた。女は前かがみになって、もやいを木杭に結ぶ様をしばらく眺めていたが、見栄えのせぬ光景に見飽きたのであろうか、ふと見ると船中より手を伸ばして花筏を掬い上げては水に浸けている。いくつかの春が女の手によって瀞へと沈んでいったが、そのいずれも花の形を崩すことはなかった。
「さあ、上がった。」
「それではお先に失礼いたします。」
堤の石段を登る女の袂が揺れる。堤の上は微風の通い路であり、絶えず岸の桜を散らせども、桜は盛りの色を失うばかりか、白扇を振るが如く梢を震わせて嬌声を上げている。ひとひらの花弁が女の眼から離れぬうちに、またひとひら散っていく。桜は落花紛々として、移り行く栄枯盛衰を偲ばせるかと思うと、ひそやかに土手に積もって貝塚の如く千秋万古の相貌を垣間見せるのである。
「あたかも雨が降っているようだ。」
「かむろにも見せとうございます。」
「大門の中にも桜はあれど、かのような千本桜は見たことがないであろう。が、すぐに観桜の機に会えることであろう。」
明治もはや三十年を過ぎ、成田にも銚子にも汽車を通す計画が持ち上がりつつある。そうなれば利根川水運の景色は一変し、人流が衰微していくことは木流しを始め誰にも想像のつくことであった。「潮来の大門が寂れる時は必ず来る、だが今はまだその時ではない」という楽観を胸に利根川水運は今日も活気づくのである。
「両手を皿にして降る桜を集めると、なかなか楽しゅうございますよ。」
「どれ、ひとつやってみよう。」
桜は丈高く、瓔珞のように咲くのもあれば、枝がしなって吊り灯籠のように咲いているのもある。佐内は灯籠が連なって花傘となった枝の下で長いこと花雲を見上げて構えていたが、花びらはまるで意思でもあるかのように風に泳いで、皿の傍をすり抜けていった。そのうちに首を上げるにも疲れ、息も切れかかったところでようやく落ち来る一枚を掌に乗せた。
「そっちはいかがであるか。」
佐内は嬉々として女の方を見た。
「どうも花びらには好かれるようでございます。」
女の両手は春爛漫であった。
桜狩にも飽きた頃、俄かに西の平野、佐倉の辺りから火花が上がった。散花した光を追うように轟音が響き渡る。
「また戦でも始まるんでしょうか。」
「征露の動きが騒がしいが、あれは煙火だろう。」
佐倉は蘭学の要所にして、かの大政奉還から三十余年を過ぎた今もなお学者書士の往来足しげく、また香取大明神の武威赫奕として火器砲術の怒声が時折響いてくるのである。かつてご公儀の世にあっては墨田の川より上がったのを見るほかになく、さもなくば安城三河の試打を偸視せねばならなかったのが、明治の夜が明けて洋楽俄かに起こり、政府自ら進んで洋行に赴く世となっては、長崎も佐倉もまるで鉄鎖を切った犬の如く桜花の中を放縦しているのであった。
「綺麗なこと。少し色づいているように見えます。」
「小生も色のついたのは7年前に一度見たきりであるな。」
「7年前と言いますのは。」
「明治憲法の施行日でござい。」
「前に加波山の方で蜂起がありました時、潮来の大門に逃げ来る志士を匿ったと聞いております。今も菖蒲の道を通る殿方の中には、壺中に天を見ますとお召し物を脱いで、警官に斬られたという背中の傷を見せながら、自由や民権といった言葉を唱える方がおりますが、私にはそれがよく分からぬのでございます。」
「之を思い之を思えば夕晨に達するというもの。朝令暮改なるものでいくら考えても仕方がありませぬ。」
「そないなものでしょうか。」
「自らに由ればそれで良いではないか。」
佐内の脳裏には自由を掲げて米蔵を壊す農夫の姿がありありと浮かんでいた。が、同時に若輩の船頭が年配を諫め、年配も理ありと耳を傾ける光景も思い浮かばずにはいられなかった。
佐倉の辺りから打ちあがっていた火花はいつしか絶えて、微風も淅瀝として僅かに寂しさを帯びた頃、佐内は土手下にある舷灯の光を眺めながら
「お前様を乗せてどこまで行けばよい。」
と言うと
「息栖の水鳥居までお願いいたします。」
とだけ女が返した。佐内は桜の大傘の下で休らう一時を捨てがたく思った。しかし陽が上る前にはこの若い女を船から降ろしてやらねばならない。せめて今見上げている桜花の一群から一枚でも零れるまではその場を立たぬと決めていたのが、程なくしてその一枚が微風も絶えた凪にあって力なく佐内の頬に落ちたので、佐内は俄かに立ち上がって石段を下りた。
外浪逆浦の広路を過ぎた頃であったろうか、櫓を漕ぐ音に交じって圧し殺したようなすすり泣きが聞こえ始めた。櫓漕ぎを止めると忽ちにしてその欷歔も止まる。佐内は初め、船と櫓の軋みであるかと考えたが、息栖の一鳥居が薄ら見えだしたころにはその音がはっきり女のものであると気づいた。
「船を止めておくんなんし。」
唐突な廓詞に佐内はたじろいで櫓を手離した。舷灯が波紋を照らす。鳥居の前を浮かぶは鰥寡を乗せた一隻ばかり、昼は木下茶船が行き交う水の道も、丑三つ時となれば蕭々と静まり返って、息栖の宮の森閑とした木立の騒めきが常夜灯を抜けて漆の如き水面に響くのみである。
「前川へ戻りとうござりんす。」
女のすすり泣きが内袖から漏れた。
「それはなりませぬ。」
佐内は船中で取り交わした女との約束を思い出して言った。何ゆえに独り水郷の妓楼を逃げ出したのか、今更女を連れ戻したとて、楼主の同情を得られるはずもないことは明白であった。しばらく時が流れて、木立の騒めきがとうとう女の欷歔を匿えなくなって、ついに女は観念したか
「後生でありんす。」
と弱弱しく言った。湿った声は迦陵頻伽の囁きにも似て艶美なものであったが、他方で意気の張ったように響いたのは、女の羽織が春風に逆らうように膨らんでいたからで、つまりは水郷を失いつつある辰巳の気風が尊ばれたことによるのであろう。さて、辰巳の実際はどうであったか知らぬが、潮来においては殊に欲を撥ねつける意気な態度が却って粋とされて称揚され、いつしかその美的観念が遊郭に通わぬ身にも浸透したに違いあるまい。そう佐内は考えた。
「後悔はせぬか。」
「心配いりんせん。」
水鏡を割る佐内の櫓が静穏にして漣だに立たぬ水面を撫でたのは、この時が最初で最後であった。昨朝から船を漕ぎ続けている佐内の腕はとうに限界を迎えていたが、櫓を操る手は至って滑らかであり、このまま銚子の方まで船を進めても彼にとっては造作のないことに思われた。
夜明け前の灰雲が春の夜を漂い始め、朧月を隠した中を船は前川へと走って行く。何処より来るか、五位鷺が頭上を高く飛んで小舟を導いたように見える。その鳥瞰するところ、紺藍抱く山影有り、業風に靡く葦蒲あり。小川に臨む家々の灯は仄々として暁を待つごとく、また春眠の夢を見守るが如く昏天の瞑茫に親しむ。花冷えの固い層を割りつつ、小嘴を傾ければ眼下には小舟一隻、葦の間を走りて舷灯のみ浮かぶ様、あたかも曙光を盗んで西北へ去るように見えるのである。船中は寡黙にして、船尾の菅笠はつゆだに揺るがない。
灰雲が疎らになって僅かに春の宵が白んだ。春夜を映した水面に黄肌を濡らした月は白鞠となって点景の材より弾かれ、寂々と空に浮かんでいる。両眼を畔に挟まれた隘路は夜行の往路とは同じからず。蜻蛉陰より出でて浮かぶ様、縷々綿々として黒糸の如く、北辰は幽か、星宿水に沈みゆくうちに船は一衣帯水を抜けて前川の境へ差し掛かった。
「ここは前川でも目立たぬ場所である。決心がついたら太夫の元へ船を走らせよう。」
「ほんに痛みいりんす。」
辺りにはいくつかの小舟が浮かんでいる。夜鷹も客も今では眠りの最中にあって、呑気に船が水面を漂っている様はまるで根無し草が浮かんでいるかのようである。
時は明け六つに入ったところであった。黒雲の間より薄藍が漏れ、東の空は朝陽の余光で茜に染まっている。郭より遊女が連れられる頃合いであろう。佐内も女も舷灯の傍に並んで身をかがめて、陰間から菖蒲の道を食い入るように見つめている。
「あれは。」
兵隊と思しき二人の男を先頭に、十人ほどの女の列が続いているのが佐内の目に入った。皆項垂れたように菖蒲の道を進んでいる。
「朝霧どん、小糸どん。」
か細い声で太夫の名前を呼ぶと、女はそっと立ち上がった。
「朝霧どん、小糸どん。菊乃どす。」
声は掠れて、隣にいた佐内の耳になんとか届くほどであった。佐内はこの時になって船に乗せた女の名をようやく知った。船頭の間で歌聖と囁かれる菊乃という芸妓はまさしくこの女であった。女は繰り返し太夫の名を呼んでいたが、喉元が絞まったように口からは空気しか漏れなかった。見ると女の脚はわなわなと震えて今にも崩れそうである。佐内は今一度遊女の行列に眼をやった。行列は皆下を向いて葬列同然であったが、兵隊の真後ろを歩いていた一人が声を聞き分けたか辺りを見回し始めた。東の辺を覆った茜の空は黒雲を朱に染め、いつしか船べりからは影法師が伸びているのである。
佐内は遊女が船の方を見やるが早いか、咄嗟に女の肩を落として手で口元を覆った。温かい涙が滂沱として佐内の手を伝った。菊乃は抵抗することもなくひたすら黙りこくっていた。
「人違いではないのか。」
「…。」
「きっと人違いであろう。お主もそう思わぬか。」
「…。」
佐内は菊乃の眼を見つめて言った。菊乃は肯定も否定もしなかった。佐内が菊乃の口から手を離して菖蒲の道を見ると、すでに行列の姿はなかった。
小舟は女を乗せたまま、息栖の宮まで元来た道を引き返したが、船中はしんとして鰥寡の間で一語だに言葉が交わされることはなかった。つと湧き出した薄靄に豊潤たる菊乃の眼睛は曇り、半ば夢現を彷徨うかのようにぼうっとして、桜色に染まった水面を眺めるばかりであった。ただ葦の間に立つ流れ灌頂を見ては丹念に水を掛け、流木に停泊した送り船に愁訴を求めては、木を動かして船を鹿島の方へと流していた。
芸妓の女が息栖の宮で降りて後、波瀾に溺れず遂に帰郷を果たしてかの廃れきった楼閣を見たか、それともすずろなるままに太夫を追って唐に渡ったか、女の行末を知るのは独り佐内のみであったが、その佐内もとうに世を去って、今や前川の柳の下で端の欠けた碑がひっそりと悲譚を語っているばかりである。