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リールストン大公ことグレーゲルが、自分に対して遠回しな人権剥奪をするのは愛する人を守るためなのだろう。
要は自分に向けて「勘違いするな。お前は正妻など名ばかりのお飾り妻だ」と言いたかったのだ。そこが憎めない。だってそれほどシャリスタンという女性を愛しているのだから。
ユリシアの母シノエは妾だった。当然、世間の風当たりは強かった。でも父ローレムはいつも全力で自分と母親を守ってくれた。そんな父親の姿とグレーゲルはどうしたって重なってしまう。
そりゃあ心底憎めないからと言っても、あんまりなグレーゲルの態度に”何しても殺されない”という保証があるならなら一発殴りたい。……ごめん、嘘。やっぱ2発。
というのは置いておいて、とにかくユリシアは腹は立つけれどグレーゲルのことを心の一部で許してしまっている。
シャリスタンとグレーゲルが、どんな道ならぬ恋をしているのかは不明だ。
でも、よほど障害がある恋なのだろう。だって国王陛下の甥である彼が持つ権力は絶大のはず。
貴族でない娘であっても望めば手に入れることができる。それこそシャリスタンが既に既婚者であっても。
なのにそうしないのは、シャリスタンが未だにグレーゲルの手を取ることに迷いがあるから。言い換えるなら彼女が心を決めるまで、真の正妻の座を守り続けたいと思っているのだろう。
(一途なんですね。私も微力ながら協力させてもらうね……がんば)
そんな結論に至ったユリシアは、心の中でグレーゲルにエールを贈る。
あとこの期をチャンスとして、こちらにとって都合の良い条件を出すことで、お飾り正妻を引き受けるのも妙案だと考える。
「─── 拝読させていただきました」
未だ脳内で行き場を無くしてさ迷う熊とゴリラを追いやってから、ユリシアは丁寧に書簡を丸めてブランに返却する。
そして居住まいを正して、口を開く。
「先ほどはその……少々、取り乱してしまいました。どうぞお許しください」
「構わない」
「寛大な閣下のお心に感謝いたします。……それで」
「前置きが長い。君は俺の正妻になる。それだけを認識したなら話は以上だ」
ぴしゃりと会話を打ち切ったグレーゲルは、出て行けと顎で示す。
しかしユリシアは席を立つ気は無い。
「恐れながら閣下、わたくし達は普通の結婚ではないはずです」
芯のある声でユリシアが主張すれば、グレーゲルは意外にも「確かに」と素直に頷く。どうやら、大公は聞く耳は少しくらいはあるようだ。
「国内同士の……まぁ……いわゆる貴族同士が行う政略結婚なら、閣下の先ほどのお言葉で終わりにすべきでしょう。ですが今回の婚姻はそうではありません。はっきり申し上げると、今後の生活においてしっかりと決め事をしておいた方が良いかと思います」
「決め事だと?」
「さようです。そのほうが後々、閣下にとって有利になるからです」
暗に「私は二人の恋の邪魔はしません。野心も無いです。ちょっと条件を呑んでくれたら、こちとら時が来たらさっさと隠居生活します」と伝えてみた。
「俺にとって、有利になる……か」
「はい。間違いなく、私ときちんと取り決めをしていたことを良かったと思う日が来るはずです」
「まるで未来でも見てきたようだな」
「……ははは」
見たのは過去の二人のイチャラブ姿だ。
だが、言えるわけが無いので、今回もまたユリシアは笑って誤魔化す。
「まあ、君が預言者でも未来からやってきた人間でも、事前に取り決めをするのは悪くない提案だ。君の要求を呑もう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げたユリシアは、交渉権を得たことに踊りだしたい気分だ。
とはいえ、これが限界だった。
まさか今日グレーゲルが魔物討伐から戻って来るなんて思ってもみなかったし、自分が彼のお飾り正妻になるなんて一度だって想像したことはなかった。
しかも交渉は一回きりのチャンス。
自分にとって有利な条件を提示したいが、何一つ考えが纏まってなかったりもする。
そんなこんなで、棚ぼた的なチャンスに喜んだのは束の間。ユリシアは、むぐっと渋面を作る。
(うーん、気が変わらないうちに、ちゃっちゃとやるべきなんだけど……できれば一度別邸に戻って考えたいな)
欲張りすぎれば全てを失う。だけど事が事だけに、慎重に進めたい。
そんな気持ちで唸り始めるユリシアに、グレーゲルの目が猫のように細くなる。
「一刻も早く部屋に戻って要求事項をまとめたいようだな」
「……っ」
(わかってても、そういうことを口に出さないで!)
息を吞みながら、ユリシアは心の中で叫ぶ。
「図星を刺されて声も出ないようだな」
「……っ」
(だからっ、一々そういうことを言うな!!)
いっそ椅子を蹴倒して、彼の執務机に両手を叩きつけてそう叫べたらどんなにすっきりするだろう。
しかしその直後、首より上がスッキリしちゃう。
だからユリシアはむむっと唇を引き結んで、グレーゲルを見る。睨んでしまっているかもしれないが、因縁を付けられたら逆光で眩しいと言い訳をこく所存だ。
それから数秒、両者見つめ合っていたが、先に目を逸らしたのは意外にもグレーゲルの方だった。
「まあ、俺としても今日の今日、取り決めをしなくても良いと思っている。数日後に改めて席を設けよう」
「アリガトウゴザイマス」
これはユリシアの為に譲歩していただけた展開であるが、なぜかグレーゲルは意地悪く微笑んでいる。
まるで無理矢理リスからクルミを取り上げたような表情だ。シャリスタンが彼の伴侶になるのを戸惑っているのは、この性格が枷となっているのかもしれない。
……かもしれないが、今はどうでも良い。とにかく考える猶予ができたのだから、喜ぶべきなのだ。
しょっぱい気持ちなんて、これまでのリンヒニア国での生活に比べたら旨味として受け止められる。
そんなわけでユリシアは静かに立ち上がると、グレーゲルに退席の断りを入れて扉に向かう。けれども、
「───ユリシア嬢、俺に交渉を持ち掛けたというからには、それ相応の面白い内容ではないとタダじゃおかない。それだけは覚えておけ」
「……ぅはい」
ぴきっと固まったユリシアであるが、処刑場に最も近いこの部屋にこれ以上長居したくはない。なので、ぎこちなく頷き廊下に出た。
行きと同じ経路でユリシアは、別邸に戻る。2歩前には、これまた行きと同じようにブランが歩いている。
「……あの、ブランさん」
「何でございましょう?」
回廊の途中で声を掛けたユリシアに、ブランは足を止めて振り返った。
「ちょっと散歩しても良いですか?」
「もちろんでございます。ですが上着が必要ですね。あと、侍女も」
「あー……いえ。本当にちょっと歩いたら戻りますので。だから大丈夫です。それに今は一人になりたくて……」
そう言うユリシアはもう既に回廊の離れて、庭の石畳の上に立っている。
「かしこまりました。でも今日は特に冷えますので、あまり長い時間のお散歩はお体に障ります。どうかほどほどでお願いいたします」
「もちろんです」
こくっと素直に頷いたユリシアに礼を取ったブランは、身体の向きを変えると振り返ることなく本邸へと消えていった。