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「座れ」
壁に背を押し付けて青ざめるユリシアに、グレーゲルが命じる。
しかしユリシアは動かない。いや、動けない。
「座れ」
もう一度グレーゲルは同じ台詞を吐いた。今度はトンっと机を叩きながら。その音は最後通牒だった。
「……はい」
観念したユリシアはノロノロとグレーゲルに近付く。
一体どころから持ってきたのかわからないが、グレーゲルがおわす執務机の対面にブランが椅子を用意する。
この流れはどう考えたってここに座らなくちゃいけない。でもユリシアは、ずるずると椅子を扉側に引っ張って執務机と距離を取る。
それからスカートの裾を広げ、優雅に腰を落とした。
「お初にお目にかかります。わたくしユリシア・ガランと申します。この度───」
「知っている。あと早く座れ」
(さいですか)
嫌というほど練習させられた挨拶をさっくり斬り捨てられた事実にしょっぱい気持ちが湧き上がる。
でも、首までさっくり斬られたく無いユリシアは、大人しく椅子に着席する。
「なぜこんなに離れる必要がある?」
「……お気になさらず」
間合いを取りたいなどと、どうして言えようか。沈黙は金なり命なり。
だからユリシアは、すまし顔を貫く。背中は冷や汗でびっちょりで不快だけれど、生きていれば着替えることもできるし、風呂に入ることだってできる。
今は、とにかく平穏無事にこの部屋から出ることが先決だ。
そんな気持ちでユリシアは、グレーゲルが口を開くのをじっと待つ。でも、彼は探るような視線を向けるだけで、なかなか要件を言わない。
(それにしても奇麗な人だな)
重々しい空気に耐え切れず、ユリシアはつい現実逃避をしてしまう。
早朝の庭でちらっと見たグレーゲルもカッコよかったけれど、じっくり見れば見るほど彼は破壊的に顔立ちが整っていた。
一体、どこの誰が彼のことを熊ゴリラなどと言ったのだろうか。もし仮にグレーゲルが熊ゴリラならば、この世界の全ての男性は熊とゴリラになる。しかも劣化版の。
「───君は」
「ひゃいっ」
熊とゴリラが闊歩する世界を想像していたユリシアは、急に語りだしたグレーゲルにびっくりして変な声を出してしまう。
「それは相槌か?」
「……似て異なりますが、そう思っていただければ幸いに存じます」
例えるなら地雷が埋まる大地を目隠しで歩いている状態のユリシアは、言葉遣いに気を付けつつ、ふわっふわな返答を心がける。
幸い今回は大公様の地雷を踏まなくて済んだようで、彼は一瞬だけ訝しそうにしたが直ぐに要件を言った。
……有り得ない要件を。
「俺は回りくどい話は好きじゃない。だから単刀直入に言わせてもらう」
「は、はい」
良くない内容しか思い浮かばないユリシアは、ごくりと唾を飲む。
「君を正妻として迎えることに決めた」
(……は?)
「……は?」
理解しがたい宣告を受けたユリシアは、つい思ったままを口にしてしまう。
しかし、すぐにグレーゲルに問いかけた。
「恐れながら閣下、マルグルス国では何人ほど正妻を迎えることができるのでしょうか?」
真顔で問うたユリシアに、悪意はない。
だって【正妻】とは読んで字のごとく、正式な妻。一夫多妻制では、一番主立った妻のことを言う。
ユリシアは半分平民の血が流れている。だが侯爵家当主だったお爺ちゃんのような父親から、手取り足取り貴族教育を受けた過去がある。
だから正妻は唯一無二の存在で何人もいちゃいけないのはわかっているし、彼に向けた質問は愚問でしかないことも自覚している。
けれども、ユリシアは見てしまっているのだ。グレーゲルとシャリスタンが抱き合う姿を。
あの時、熱烈に抱擁を交わす二人の周りには、ユリシアの目には雪ではなく薔薇の花びらが舞っているように見えた。
とても美しかった。
まぁ、二人は美男美女だから殴り合っていても美しい光景だったかもしれないし、どっちかが首輪を付けられてお散歩をしていてもそれはそれでアリと思わせる輝きがあった。
……とにかく二人は神の意思でカップルになったような恋人同士であり、グレーゲルはそんな美女シャリスタンを一番大切にしたいはず。なのに、
(なのに、私を正妻に迎えるってどういうこと?)
彼の意図がまったく見えないユリシアは、思わず渋面を作ってしまう。
「不満か?」
ユリシアの表情を目にしたグレーゲルは、冷たい双眸を向ける。
「……不満などはありませんが……その……まぁ……」
不満というか疑問を抱えているユリシアであるが、自分がリンヒニア国からの貢ぎ物という立場でいることはわかっている。
だから言葉尻を濁して、その場を何とかやり過ごそうとする。
しかしそんなユリシアの態度をグレーゲルはどう受け止めたのかわからないが、おもむろに机の引き出しを開け、1通の書簡をブランに手渡す。
「読んでみろ」
その声と同時にブランは書簡を持ってユリシアの前に移動する。伝書鳩化してしまった執事に申し訳ない思いを抱えつつ、ユリシアは書簡を受け取ると一言断わってから目を通した。
「───……ははは」
ユリシアの小さな唇から乾いた笑いが漏れる。泣くのを堪える為のものだった。
グレーゲルが読めと言った書簡は、リンヒニアの国王陛下がリールストン大公宛に送ったもの。
その内容は簡単に伝えるとこうだった。
【我が国の令嬢を一人、貴殿に捧げます。後は、煮ようが、焼こうが、妻にしようが、妾にしようが、使用人として使おうが、どうぞお好きに】
(酷い内容だ。……そしてこの人も酷いお方だ)
そりゃあ貢ぎ物にされた時点である程度、自分の扱いがどんなものなのかわかっていた。だからってこの書簡は人を人とも思っていない失礼千万なもの。
そんな機密保持しなければならない書簡をグレーゲルがわざわざ自分に読ませた意図はただ一つ。
─── 己の立場を弁えよ。お前に、良いも悪いも言う選択権は無い。
そう言いたかったのだ。
貢ぎ物とはいえ、ユリシアは意思がある血の通った人間だ。人形なんかじゃない。
なのに、こんな遠回しなやり方で人権剥奪をするリールストン大公は、とんでもなく嫌な男だ。
でもユリシアは心の底からは、彼を憎むことはできなかった。