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のちに寝室で睦言として何度も語られる【口付け事件】だが、された直後にユリシアは喜びマックスで熱を出して寝込んだ。
そうさせてしまった張本人であるグレーゲルは、「せっかく目を覚ましたのに!」とブランを始め、モネリとアネリーからド叱られた。ラーシュはますます拗ねた。
恨みがましい目で見られたグレーゲルは、内心そんなに激しいことはしていないと主張をしたかったがそれをグッと堪え、甘んじて使用人達からの非難を受け入れた。
その後、5日間。ユリシアの熱が下がるまでリールストン邸はちょっとおかしな空気になっていた。今は至って平和である。ラーシュの機嫌も元通りである。
とはいえ、これで大団円とはいかなかった。
リンヒニア国から持ち帰った手土産ことアルダードから国際問題に発展しそうな供述を得て、条約を対等な内容に変更するとか、その流れでマルグルス国王女の奪還交渉をしたりとか、やることはごまんとあった。
一つ一つ確実に、それでいて迅速な対応を求められる事後処理を、グレーゲルは国王陛下と殿下を支え片付けていった。
そうして、圧倒的不利な内容の条約は破棄され、王女が再び自国の地を踏む頃、マルグルス国は、色とりどり花びらが舞う季節になっていた。
マルグルス国では雪解けの季節は、祭りの季節でもある。
王女の帰還と不利な条約から解き放たれたことが重なり、春の到来を祝う祭りは例年より盛大に催された。
そんな中、喜びを分かち合う民たちは、口々にこう言った。
『この奇跡は、大公爵の元にやってきた春の妖精がもたらしたものだ』と。
ーーしかし、マルグルスの民に笑顔を与えた春の妖精ことユリシアが、二ヶ月間ベッドに監禁されていたことは誰も知らない。
うららかな日差しが新芽を照らす穏やかな春の午後、ユリシアは別宅にて大好きな侍女二人と共にシェフ特製の木苺のパイを頬張っている。
肩の傷は、手厚い看護のおかげですっかり良くなっていた。
しかし未だに屋敷に軟禁状態だ。
なぜならグレーゲルが心配性だから。
ただ街の祭りに参加できない代わりに、庭で同規模の祭りをすると言ってくれた。ただし定員二名の祭りである。
もちろんユリシアは、その気持だけ有り難く受け取り丁寧に辞退させていただいた。
すぐさましょんぼりと肩を落とすグレーゲルだったが、「秋にも祭りがあるから一緒に」と再び提案すればユリシアは二つ返事で頷いた。
約束をするということは、真っ白な未来にちょっとだけ色付けをすること。
そんなことを無邪気に語り、そうだなと共感してもらえる日々に新鮮なくすぐったさを感じるけれど、夏でも山脈に雪が残るようにこれは慣れなくて良いものだろう。
「ーーそれにしても、フリーシアさん変わりましたねぇ」
「本当、ほんっと!もう、ほんとぉーに変わりましたよねぇ」
二杯目のお茶を淹れながらモネリが呟けば、アネリーがすかさず同意する。
まるで怪談話を聞いているかのような表情の二人を見つめながら、ユリシアは「……ははは」と乾いた笑いを漏らした。
つい5日前、フリーシアはシャリスタンと共にリールストン邸にやって来た。
一応の名目は、ユリシアのお見舞い。でも実際は、これまでの無礼を使用人達に詫びるため。
一人一人に丁寧に頭を下げるフリーシアはまさに別人で、立ち会ったユリシアは唖然とし、使用人達は引きつった笑みを浮かべた。
その後、こっそりシャリスタンから「教育し直したから安心してね」とウィンクされたけれど、どんな教育を受けたのかユリシアは敢えて聞かなかった。
ただ現在、シャリスタンの侍女として第二の人生を歩み始めたフリーシアは、誰の目にも幸せそうに映った。
というわけで彼女に対する感情は色々あったけれど「まぁいっか」の一言で、一先ず終止符を打つことにした。
ただシャリスタンの来訪は、グレーゲルの留守を狙ってのことだったので、ブランの提案でこの件は当分の間内緒にすることが決定した。
リールストン邸の使用人達は総じて口が堅いおかげで、ご当主様は気付く様子はない。
「あっ、殿下がこちらにいらしてます」
「大変っ、お茶の用意をしないと」
噂をすれば何とやら。
激変したフリーシアに、今度手紙でも書こうかと盛り上がっていたモネリとアネリーだが、中庭からこちらに向かってくるのに気付き慌てて席を立つ。
ユリシアはグレーゲルを出迎えるために玄関へと足を向けた。
「ーーお疲れ様でした。あの人は……その……どうでしたか?」
「ああ、変わらずだ。今日のラーシュはあいつにとっての弟だったようで、チェスを教え込んでいた」
「まぁ。この前は祖父だったのに」
「ははっ、そうだったな。あの時のラーシュのしかめっ面は見ものだったな。ま、今日は弟役を喜んで引き受けていたぞ」
「そうですか」
本来なら大公爵の婚約者を誘拐した罪で、アルダードは重い刑に処されなければならない。
しかしリンヒニア国との条約破棄と王女を奪還する際に、アルダードの供述は必要不可欠で彼はたくさん有利な情報をマルグルス国に与えた。
そのため司法取引という形で、アルダードは一生トオン領の小さな離島で軟禁するという判決が出た。
というのが建前で、全てを語り終えた彼は幼い子供に戻ってしまった。まるで愛されなかった時期を取り戻すかのように。
北の最果てのトオン領は極寒の地だ。しかし人の心は温かい。
愛情に飢えて誰彼構わず手を伸ばすアルダードに、監視の兵士も世話役の人々も無下にすることなく接してくれているという。
特にラーシュは面倒見の良い性格が災いして、一番慕われているらしい。帰る際にはアルダードにギャンギャン泣かれるため、監視の兵士達は毎度ラーシュを全力で引き留める。
そんなわけでグレーゲルは単身で離島から戻って来た。居残りを命じられていたラーシュがまた拗ねたりしないか心配だ。
……などと苦笑しながら、ユリシアはグレーゲルを居間に通す。
ついさっきまで女子会会場だった居間のテーブルは片づけられ、淹れたてのお茶が二人分用意されている。モネリとアネリーは、すまし顔で壁側に立っていた。
「身体の調子はどうだ?まだ傷が痛むか?食欲はちゃんとあるか?」
ソファに着席して早々、グレーゲルから矢継ぎ早に問われ、ユリシアはポカポカする気持ちが溢れて、ふふっと笑い声を上げた。
膝と膝もごく自然にくっ付いていて、そこから伝わる彼の体温が心地良い。
「元気ですよ。傷だってお医者様から完治の太鼓判をいただいてます」
「そうか」
ちなみにこの会話、昨日もしたし、一昨日もした。
なのに毎回生真面目な表情で確認するグレーゲルは、筋金入りの心配性だ。でも律儀に答えた後、ほっとした笑みを向けてくれるのが照れ臭くてこれがなかなかやめられない。
普段ならこのやり取りの後、他愛ないお喋りが始まる。
しかし今日に限っては、グレーゲルは神妙な顔で懐から2枚の紙を取り出した。
「契約書、作り直したから見てくれ」
出会って直ぐの頃に作成した結婚に関する契約書は、リンヒニア国に連れ去られた自分を取り戻す為に使ったとユリシアは聞いている。
どんな使い方をしたのか気になるところだが、申し訳なさそうに再発行を求めるグレーゲルの顔を見たらそれ以上追及することができなかった。
という経緯があり、ユリシアは素直に再発行した契約書に目を通し始める。正直なところ、もう必要無いと思っているが。
「少し内容を変更させてもらった」
「……そのようですね」
離婚の際の取り決め部分は、がっつり削除されている。
「あ、葉巻はもう吸って良いですよ?だからここは削除しても」
「いや、このままで良い」
「そうですか」
きっと今なら葉巻を見たって何とも思わないのにと思うユリシアだが、グレーゲルが引き下がらない気配を感じて黙って続きを読む。
最後は契約更新日の欄があるが、日付は記載されていなかった。
「あの……ここは?」
「好きに書け」
強気な態度でいながらも、グレーゲルは明らかに狼狽えている。
己の気持ちを抑えて、どこまでも自分の意思を尊重しようとしてくれる彼の優しさを、ユリシアはもう知ってしまっている。
「では、ペンをお借りしても?」
「日付を書くのか!?」
「書きますよー」
あっさり頷けば泣きそうな顔になるグレーゲルを見て、ユリシアはクスクスと笑いながら、ティーカップをよけてテーブルに二枚の契約書を広げる。
「グレーゲル、ペン貸してください」
「……ああ」
しぶしぶ手渡してくれたペンのキャップを取って、さらさらと筆を走らせる。背後でじっと見つめるグレーゲルを痛いほど感じながら。
そして、あっという間に署名まで終えたユリシアは、振り返ってニッと笑う。
「いかがですか?」
「上出来だ」
満足そうに頷くグレーゲルは、契約書の一枚を手に取ると大事に大事に懐にしまった。
契約更新日は、こう書かれていたーー【無期限】
◆◇おわり◇◆
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m




