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棒読みの笑い声を上げたグレーゲルは、ユリシアをベッドの背もたれに寄りかからせると素早く正面に移動した。
そして負傷していない方の肩をガシっと掴む。
「で、どこのどいつがお前にそんなくだらないことを吹き込んだんだ?」
問いかける口調はどこまでも優しい。だがボルドー色の瞳はギラギラと物騒に光っている。控え目に言って怖い。
「あ、あの……誰にも吹き込まれてなんかいません」
「嘘は良くないぞ。心配するな、殺しはしない。ちょっとお話し合いをするだけだ。だから正直に答えろ」
「……ぅう゛う゛、ごめんなさ」
「謝罪は聞きたくない」
全力で頭を下げようとしたユリシアをグレーゲルはぴしゃりと拒み、もう一度問いかける。口調こそ優しいが目付きは先ほどより尖っている。
それでも無言でいれば、グレーゲルは「なら使用人一人一人に尋問するしかないな」などと卑怯なカードを出してきやがった。
……ユリシアは、白旗を揚げた。
「犯人は私です」
「は?」
「ですから、私……見ちゃったんです。別宅の庭で、あなたとシャリスタンさんが抱き合っているところを」
「いつだ?」
「ここに来た翌日の早朝です」
「あ……あ、あの時か」
取り返しのつかない失態を犯したような顔をしたグレーゲルは、「迂闊だった」と呟き、こう付け足した。
「あれは、お前に興味を持ったシャリスタンを羽交い絞めにしていたんだ」
「は?」
何とか一言を絞り出したユリシアは、そのまま口を半開きにして固まった。
そんなユリシアに向け、グレーゲルはそれはそれは丁寧に説明を始めた。
シャリスタンは従妹で、女性しか愛せない特殊な性格だということ。あの日、抱き合っていたわけじゃなく噂を聞きつけたシャリスタンを止めていただけということ。
二人の間には過去もこれから先も、絶対に恋の【こ】の字も無いことを。
「ーーわかったか?」
「はい」
言葉足らずなグレーゲルとは思えない程、長々と説明を受けたユリシアは即座に頷いた。
と同時に、一つの疑問が浮かび上がる。
(じゃあ……じゃあ、これまでのグレーゲルの言動って……)
グレーゲルが本当にシャリスタンと道ならぬ恋をしていないのなら、どうして自分を正妻に迎えると言ってくれたのだろう?
離婚はしないと頑なに言い張ってくれた真意は?
名前で呼べと、どうしてあんなにも強く求めた?
ボールルームまで並んで歩いた時のあの表情は?
男性を屋敷に入れる方が問題だと言った意味は?
沢山の疑問が頭の中で暴れている。
そして、その全ての答えを自分都合で受け取ろうとしてしまっている。
(違う、違うっ。そんなわけないじゃん!まさか……そんなっ)
自惚れそうになる自分を諫めるように、ユリシアは出会った頃のしかめっ面のグレーゲルの顔を思い出す。
「で、誤解が解けたところで、他に俺に聞きたいことは?この際だから何でも聞いてくれ。些細なことでもいい」
頭の中が真っ白になってもグレーゲルの声だけは明瞭に聞こえる。
今、あなたはどんな気持ちでいるの?とユリシアは聞いてみたい。それが一番知りたい。
でも、口に出したものは別のものーー傷付きたくない自分を守るためのものだった。
「ではお言葉に甘えて……あの、グレーゲル。あの日……どうして私にリンヒニア国からの書簡を見せたのですか?」
正妻に迎えると言ってくれたのに自分がごねた際、グレーゲルは「お前に発言権は無い。身の程を弁えよと」と言いたいから、それを読ませたのだと思っていた。
(……でも、もしそれが違ったなら、私はきっと、絶対、間違いなく自惚れてしまう)
縋るようにグレーゲルを見れば、彼は記憶を探るように視線をさ迷わせたかと思えば、己の失態を恥じるように片手で顔を覆ってしまった。
それから長い沈黙のあと、グレーゲルは絞り出すようにこう言った。
「腸が煮えくり返るほど悔しかったんだ。物のように扱われたくせに、まだリンヒニアに未練があるように思えて。……あんな国、とっとと見限ってしまえと思ってあの書簡を読ませた」
すかさずユリシアは反論する。
「違いますっ。私、リンヒニアに未練なんかなかったんですっ。あの時は、あなたとシャリスタンさんの未来を思って!」
「思ってごねてくれたわけか。それはそれは、ドウモアリガトウ」
最後はこれみよがしに棒読みになったグレーゲルに、ユリシアは半目になる。
可愛げの無い態度だとわかっていても、そうするしかないのだ。
だって彼への期待値が急上昇している今、気を緩めたら自分はみっともない顔になるのがわかっているから。
「じゃあ、夜会の時にお前は気を利かせてエイダンのところに行ったってことか?」
「ま……まぁ、そうなります」
「斜め上の気遣いに、俺はもう一度ありがとうとでも言えば良いのか?はっ、馬鹿馬鹿しい。誰が言うか」
「だって!」
「だってじゃねぇ。俺はもう1曲お前と踊りたかったというのに」
「っ!!」
じっと見つめらてユリシアは言葉を失った。
拗ねた顔をするグレーゲルは、まるで少年のようで本気で悔やんでいるようにしか見えない。
心が意味もなく弾んでしまう。幸福感に溺れてしまいそうだ。でも、でも……
「でも、グレーゲルはシャリスタンさんと一緒にお城の庭に消えたじゃないですかっ。夜会に出席していたご婦人方が囁いておられました。庭に出る男女は恋仲だってっ」
「そうか。そのガチョウ共の特徴は?即刻始末する」
「ダメです!そうじゃなくってっ。グレーゲルは、あの時シャリスタンさんとーー」
「お前の話をしていた」
「……っ!?」
「あのクズ野郎の態度がどうも気になってな。それでシャリスタンに幾つか調べものを頼んでいただけだ」
「……嘘」
「嘘なもんか。ったく、すぐに話を終えて会場に戻ればお前はどっかに消えているし。お陰で俺は城内を探す羽目になった。6年ぶりだぞ。城を全速で走ったのは」
夜会の時のことを思い出しているのだろうか。グレーゲルは視線を遠くにした後、大げさに肩をすくめた。
その仕草、言葉一つがどうしたって、一つの結論に辿り着いてしまう。
「……そんなの駄目です」
ユリシアは首を横に降りながら呟いた。
ぐちゃぐちゃになった心はとっくにキャパオーバーだったようで、胸に収めようとした言葉がポロリとこぼれてしまう。
「何が駄目なんだ?」
心底不思議そうに首を傾げるグレーゲルを直視できない。
「もう、そんなこと言わないでください。駄目なんです。あなたは私にそんなこと言っちゃ駄目なんです」
「どうしてだ?」
ここにきてグレーゲルは、恐ろしいほど優しく問いかけてくる。
「だって、あなたが私と同じ気持ちだと錯覚してしまいそうになるから」
言葉にした途端、あまりの恥ずかしさにユリシアは両手で顔を覆った。なのにグレーゲルはそっとそれを剥がす。
無理矢理合わされた視線は熱く、彼のボルドー色の瞳はどことなく意地悪く輝いている。
「へぇ。同じ気持ち、か」
「……っ」
「それは、どんな気持ちなんだ?」
デリカシーの欠片も無い問い掛けにユリシアは絶対に答えてやるもんかと口をつぐんでプイッと横を向く。
瞬間、グレーゲルに強く抱き寄せられた。
「俺は、お前が好きだ」
耳に注ぎ込まれた言葉に、ユリシアは目を見張る。
「俺は父を……仲間を失った時から、家族を持たないと決めていた。幼い頃に死んだ母は、慣れない北の地で苦労したと聞いている。だから俺は誰かを不幸にさせるような結婚なんてする気はなかったし、新しい家族を守りきる自信もなかった。跡継ぎは遠縁を養子にすれば良いとすら思っていた。……だが、馬車から降りてくるお前を一目見た瞬間、心を奪われた。望んではいけないはずの未来を描いてしまった」
「……嘘。そんな……だって、だって」
そんなふうに思ってくれていただなんて知らなかったし、そもそも一度として言葉で伝えてもらったことは無い。
だからこそ、ずっと勘違いしたままだった。
その思いは言葉にしていなくてもしっかり伝わったようで、グレーゲルはちょっとバツが悪い顔をしながら頬を撫でた。
「正妻にする。それ以上の言葉が見つからなかった」
頬に触れるグレーゲルの手が冷たい。いや、違う。これは自分が火照っているからだ。
戦で家族を失い、新たな家族を得たくないと思ったグレーゲルが、その決意を覆した理由なんて一つしかない。
自分はそれほど強く彼に求められていたのか。
今になってグレーゲルの想いを知ったユリシアは、くらくらと目眩を覚えてしまう。
赤面するユリシアを嬉しそうに見つめていたグレーゲルだが、表情を一変させると真剣な眼差しを向けた。
「俺はお前を正妻にする。そして、離婚はしない。誰が何と言っても」
強い意志を伝えたかと思えば、すぐにいつもの彼の表情に戻る。
「で、話を元に戻すが、同じ気持ちと言ったお前はどんな気持ちなんだ?」
「ひゃい!?」
てっきりそこは流してくれると思いきや、しっかり道筋を戻されたユリシアはすっとんきょうな声をあげる。
しかしユリシアの奇声など慣れっこのグレーゲルは、動じること無くさあさあ言えと迫ってくる。もはや恫喝だ。
「もうっ……もうっ、わかっているくせに!」
あまりの意地の悪さにユリシアはジト目で睨む。
対して惚れた女にほとほと弱いグレーゲルは、うぐっと唸り、悩み、こんな折衷案を出した。
「なら、俺とお前はこういうことができる関係ってことで良いんだな?」
壊れ物を扱うような手つきで顎に手をかけられ、親指の腹で唇をなぞられた。
それ即ち、口付けができる関係かと問われているわけで。
「あ……えっと……リンヒニア国で魔法を使った件は大丈夫なんですか?」
「ああ、安心しろ。お咎め無しだ」
「それは何よりです。シャリスタンさんもエイダン殿下も?」
「同じく、問題ない」
「それはそれは何よりです」
「ところでユリシア」
「な、な、な、な、な、な、なんでしょう」
「そろそろ答えてくれるか」
目を泳がしながら的はずれな質問をぶつけるユリシアに付き合っていたグレーゲルだが、限界のようだった。
「俺と同じ気持ちなら目を閉じろ。違うなら拒め」
反論は許さないと圧をかけられ、ユリシアはぎゅっと目を瞑った。そうすればどうなるかちゃんとわかっていて。
真っ赤になったユリシアの顔に、グレーゲルがそっと顔を寄せた。
二人の唇が重なり、言葉では伝えきれなかった互いの想いが交差する。
グレーゲルから狂おしいほどの愛を受け、ユリシアの瞳から熱い雫が零れ落ちる。
彼がこれまでのすれ違いも、家族を殺した国民であることも、全部受け入れて自分を選んでくれたことが嬉しくて幸せだった。
そして、グレーゲルに相応しい女性になりたいと願った。
大地に根を張る大木のように揺るぎない彼の隣に立った時、奢ることなく、卑屈にならず、だからといって意思を持たない従順な妻ではなく、春を告げる東風のような存在になりたい。
手を伸ばして、伸ばされて。絡めた指を離さず共に歩んでいけたなら、それは甘美な夢の中を生き続けるようなもの。過去の辛い出来事だって、これからの糧にしてみせる。
「大好きです。グレーゲル」
「……俺もだ」
ぎゅっと抱きしめる強い腕と、熱を持った掠れ声。
これが自分の為だけにあると気付いた瞬間、ユリシアは見えなかった春の兆しを窓の向こうにある景色からしっかりと感じることができた。




