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フリーシアに斬られた肩が痛い。失血のせいで視界がグルグル回る。気持ち悪い。身体がとても寒い。
でも、そんな泣き言なんて言ってられない。
だって自分はフリーシアによって、どこかに連れ去られたのだ。
無意識に助けを求めて名を呼ぼうとしたその人は、さすがに駆け付けてくれることは無いだろう。だから状況を打破するためには、自分が頑張らないといけない。
……そうユリシアは思っているけれど、その前に色々思うところがある。
(この二人、何やってるの??)
眼前に広がる光景に、ユリシアは唖然としている。
ついさっき転移魔法で到着したここは見知らぬ部屋で、最悪にもアルダードがいた。
ただユリシアは状況を把握する前に、フリーシアに「リンヒニア国民がそれを使うのは、ナシでしょーーー!?」と叫んだ。
まぁ実際にはアルダードに抱き寄せられていて、彼に向けて叫ぶ結果になってしまった。すぐさま張り倒された。
でも彼は自分の肩の傷を見て、拳の先をフリーシアに向けた。
そこから二人は取っ組み合いの喧嘩をしている。
喧嘩の発端は、フリーシアが自分を傷付けたことにアルダードが激怒したから。
しかしフリーシアは謝るどころかそれしか方法が無かったんだと開き直り、早く王妃に推薦しろとまくし立てた。
その態度に更に激高したアルダードは「そんなもの嘘だ!誰がお前なんかを推薦するもんかっ」と吐き捨てた途端、フリーシアに飛びかかられ、二人はもみくちゃになっている。
聞くに堪えない罵詈雑言が飛び交う中、客観的に見て、男であるアルダードの方が優勢ではあるが、それでもフリーシアだって負けてはいない。ユリシアは研いだ爪は凶器になることを初めて知った。
という修羅場であるが、ユリシアは仲裁に入るつもりはない。
ついうっかり見入ってしまっていたが、これは好機。二人が揉み合っている間に自分はどこかに逃げようと、そろそろと物音を立てぬよう気を付けながら這いつくばって扉の方へと移動する。
しかしあとちょっとでドアノブに手が届くといったところで、傷を負った側の肩をアルダードに強く掴まれてしまった。
「はっ。ユリシア、どこに行こうとしてるんだ?」
「痛っ」
顔を顰めたユリシアを見て、アルダードは嬉しそうに笑う。
「私の許可なく動くなんて、悪い子だ。あれほど躾けたというのに……たった数か月、他所に行っただけで忘れたのか?まったく、お前は本当に物覚えの悪い出来損ないだな。はっ」
「痛い……は、離して」
自分は出来損ないなんかじゃない。犬のように躾を受けなきゃいけない人間なんかじゃない。
そう伝えたくても、とにかく痛い。
もがいて何とかアルダードの手を振りほどこうとすれば、床でぐったりと倒れているフリーシアが視界に入る。
一瞬、死んだのかと思ったけれど、浅い呼吸が微かに聞こえてきてほっと胸を撫でおろす。こんな時に、人の心配なんかしている場合じゃないのに。
そんなふうに心の中で己に向けて舌打ちするユリシアの肩を、アルダードは更に力を込めて掴む。
「……痛っ」
「そうだろうな。だが、お前がよそ見するのが悪いんだ。こっちを見ろ」
誰が見るもんか。
反発心から顔をプイっと背けたユリシアの顎を、アルダードは強引に掴む。
強制的に目が合った瞬間、ユリシアは息を呑んだ。
今、自分を痛めつけている男は、うっとりとした表情を浮かべていたのだ。
「愛しているよ、ユリシア」
「……っ」
「もう、どこにも行かせない。ここで死ぬまで共にいるんだ。どうだ?幸せだろう?」
全然幸せなんかじゃない。控え目に言って地獄だ。
身震いして、嫌だと首を振って訴えて、眉間に皺を寄せて、身体全部でアルダードの言葉を拒絶したけれど、彼は恍惚とした表情を浮かべたままだ。
気付いていないのだ。
いや自分の言葉など彼の耳にも視界にも入っていないのだ。
「嫌……あっちに行って」
震える声でそう言ったユリシアは、動く方の手でアルダードの胸を押す。
でもその手も掴まれ、強く抱きしめられてしまった。
「誰を待っているんだ?」
力任せに抱きしめられ、息苦しさで喘ぐユリシアに、アルダードは囁くように問いかける。
ユリシアは、ぐっと奥歯を噛み締めた。死んだって答えてやるもんか。
「大公はここには来ない。フリーシアから聞いている。あいつは惚れた女がいるそうだな」
「……っ」
「お前はどうせ捨てられる運命だったんだ。あいつは絶対に助けになんかこない」
「……言われなくてもわかってます」
悔し紛れに言い返せば、アルダードは満足そうに笑った。
ユリシアはグレーゲルが助けに来てくれるという発想など、とうに捨てている。
だって自分は、彼が本命と結ばれる間の繋ぎでしかない。むしろ助けに来ないのは、当然だ。
それにここはおそらくリンヒニア国だ。
条約でマルグルス国民はリンヒニア国で魔法を使うことは禁じられている。それに手を尽くして自分を取り戻すなんて、彼にとって何のメリットも無いはずだ。
だからユリシアは、咄嗟に名を呼ぼうとした彼の名を口の中で噛み砕いた。
もし言葉にしてグレーゲルに助けを求めてそれが叶わなかったとき、自分が受ける心のダメージは半端無いだろう。
彼と結ばれたいと身の程知らずなことは誓って思っていない。でも自ら傷付く行為なんて、したくない。
「ああユリシア。やっと手に入れた……見ろ、ここは今日からお前が過ごす部屋だ。素晴らしいだろう?」
アルダードが抱きしめる腕を緩めたのを見逃さず、ユリシアはぐいっと身体を背ける。
否が応でも視界に映るそこは、全ての窓に鉄格子がはめられていた。
「ま……まさか、私をここに閉じ込めるつもりなんですか?」
「閉じ込めるなんて人聞きの悪い。鉄格子は外敵の侵入を拒むための特注品だ」
子供にプレゼントを渡すような笑顔を向けるアルダードは、どこかが壊れている。
世界中探したって、こんな鉄格子付きの部屋を見て喜ぶ人間などいるはずがないというのに。
一体いつから彼はこんなふうになってしまったのだろう。彼の心の中には自分では想像もできないくらい深い闇がある。
だからと言って、癒えぬ傷を抱えた彼と寄り添い生きていくなんてまっぴらごめんだ。
「いやだっ、こんなところ!私、帰る!!」
感情が制御できなくて、舌足らずな子供の言い方になってしまったけれど、ちゃんとアルダードには伝わったようだ。
みるみるうちに、彼の顔が険しくなる。
「どこに帰るというんだ?お前の居場所はここだ」
「やだっ。私の居場所はここじゃない!あんたの傍なんて絶対に嫌!!」
「なっ」
傷付いた顔をしてアルダードが再びユリシアを抱きしめる。
でもユリシアは、それを拒み手足を振り回す。肩が焼けつくように痛い。服が湿っていて、これが全部自分の血だと思うとこのまま死んでしまう不安が忍び寄る。
それでもここで一生過ごすよりマシだ。
「私、トオン領に帰る!モネリとアネリーが待ってるもんっ。早く帰るっ。ブランさんだってラーシュさんにだって待ってるもん!やだやだっ、帰る!離してよっ」
必死に伸ばす手の先には何も無いのはわかっていても、何かを掴もうと更に腕を伸ばす。
「帰るっ。こんなところ嫌!」
「……ユリシア」
「やだっ。もう嫌だ!!」
「ユリシア」
「あんなたなんか大っ嫌い!!」
「ユリシア!!」
泣き喚くユリシアよりもっと大きな声で、アルダードが名を呼ぶ。
「……駄目だ……消えないでくれ。私の傍にいろ」
別人のように弱々しい声が、ユリシアの耳に落ちる。
「お前がいれば、私は凍えなくてすむんだ」
「……私は寒いよ」
「私が暖めてやる。お前がいれば世界は明るく色を持つんだ」
「……やだ。あんたなんかに暖められたくないっ。私は真っ暗になるっ」
泣きそうな声で一方的な要求を突き付けるアルダードに、心はこれっぽっちも揺れ動かない。
何より好きじゃない人に触れられることが、とても不快だ。
「どいてっ、やだっ」
悲鳴に近い声をあげてユリシアは手を伸ばす。
虚空を掴む手は、きっと無様に映るだろう。それでも、手を下ろすわけにはいかない。地面に指先が触れた瞬間、きっと何もかも諦めてしまいそうで。
「……助けて、お願い」
愚かなことだとわかっている。でも、グレーゲルにどうか届いて。
それは絶対に叶わぬ願いだと思っていた。けれどもーー
「待たせたな」
金色の魔法陣が床に描かれたと同時に、他の誰とも間違えようがない低く美しい声が耳朶を刺す。
ボルドー色の瞳に自分の姿を映してくれたその人は、伸ばした手を大きな手でしっかりと掴んでくれた。




