6
(……やってしまった)
別邸の居間の壁に額を付けて、ユリシアは完全に沈んでいた。
女豹よろしくグレーゲルを狙っているフリーシアに、シャリスタンの名前を出すべきじゃなかった。
二人の恋の応援団長を務めているいつもの自分だったら、間違いなく毅然とした態度で断わっていた。
でも勘違いをしているフリーシアに、ガツンと言ってやりたかったのも本音である。
「ああ……嫌な子だぁ、私」
身の丈を弁えろとフリーシアに言ったつもりだったけれど、心の中では悔しがる彼女を見たいという欲求があった。なんて最低な人間なのだろうか。天国のお父さん、お母さんごめんなさい。
(いやいや、謝るのは両親にじゃなくグレーゲルとシャリスタンさんに、だ!)
ユリシアは、己の身勝手さに頬をパチンと打つ。ヒリヒリと痛んで涙目になりながら、グレーゲルにこの一件を報告すべく本邸に行こうとして立ち上がり、すぐにへなへなとしゃがみ込む。
そして再び、壁に額を付けて余計なことを言ってしまったと後悔する。
……ということをユリシアは、客間を出てからかれこれ1時間は繰り返している。
傍から見たらはっきり言って、奇行である。
ずっと様子を伺っているモネリとアネリーの表情も最初は心配げだったけれど、今は若干いかがわしい何かを見る目つきになっている。
「あの、ユリシア様」
「……ぅぅーうー」
「一先ずソファに座りませんか?」
「うぅ……うーん」
「ユリシア様?」
「……」
モネリが声をかけても一切顔を上げず、このまま床に沈み込んでいきそうなユリシアを見て、侍女二人はどうしたもんかと顔を見合わせる。
「あの……フリーシア様の件で何かあったんですか?ユリシア様」
可能性としてはそれしかない。そんな消去法で今度はアネリーが問えば、ユリシアの肩がビクンと撥ねた。
「はいはーい。閣下にご報告をしに行きましょう」
「悩むのは後にして、まず執務室に行きましょう」
モネリとアネリーはすぐにパンっと手を叩いて、同時にそう言った。
対してユリシアは渋面になる。
(……や、やだなぁ)
この件を報告したら、間違いなくグレーゲルは怒るだろう。
その時、フリーシアと自分を同等に扱うグレーゲルの姿を見ることになるかもしれない。
二番目にグレーゲルに近い存在でいたいと願うユリシアにとって、それはどうしようも無いほど、辛いことだった。
そうは言っても、それはそれ。やらかしてしまった事は消せない事実である。
だからユリシアは胸に大きな石を抱えたような暗澹たる気持ちで、グレーゲルがいる執務室に向かった。
回廊を歩いて本邸に入る。フリーシアが好き勝手振る舞うせいで使用人たちの不機嫌度は高いけれど、ユリシアには皆にこやかに接してくれる。
すれ違う時は、丁寧に頭を下げられ当然のように道を譲られる。一つ一つの仕草が優しすぎて胸が痛い。
(ああ……もういっそフリーシアさんごとトオン領の端っこに移住しようかなぁ)
思っても無いことを心の中で呟き、ユリシアは不意に泣きそうになる。
それから執務室に向かう時、いつだって自分は軽やかな気持ちで向かったことが一度も無いことに気付いて、はぁーっと深い溜息を落とす。
(いや馬鹿。浮かれた気持ちで会いに行く想定が間違ってるじゃない)
当たり前のことを自分に強く言い聞かせた途端、ざわざわしていたはずの胸がすんと静まった。
一拍置いて、胸が締め付けられるように痛くなる。
こんな感情なんて知らない。でも教えて貰わなくてもこれが何なのかわかってしまうのが、恋の厄介さなのだろう。
知りたくなかったなと苦笑した途端、更に胸の痛みが増して泣きそうになる自分を使用人達に気取られぬよう、ユリシアは足早に歩く。
でも角を曲がれば執務室といったところで、ユリシアの足はピタリと止まった。
反対側からバタバタと聞こえてくる足音と、「グレーゲルはここにいるのね!?」と叫ぶシャリスタンの声が聞こえて来たから。
少し悩んでユリシアが気配を消して角から顔だけを出せば、シャリスタンは険しい表情で今まさに執務室の扉を開けるところだった。
すぐに顔を引っ込めたユリシアは、痛む胸を庇うように押さえると、足音を立てぬようそっと踵を返した。
(勝手にフリーシアさんを呼び寄せてしまったこと、怒ってる……んだよね)
執務室に入ろうとしていたシャリスタンはとても険しい顔をしていた。控え目に言って激怒している様子だった。
きっと今頃グレーゲルは、冷や汗をかきながら一生懸命謝罪を繰り返しているだろう。
(私も……一緒に謝った方が良いよね。でも勝手に部屋に入るわけにはいかないし……うーん)
しっかり仮初の婚約者だと自覚してはいるが、やはりシャリスタンからすれば、自分がしゃしゃり出れば面白くないはずだ。
だからといってグレーゲルに丸投げするわけにはいかない。
そんなことを考えながらユリシアは本邸をウロウロと歩き回る。
ここでブランやラーシュが通りかかってくれたら、迷わず相談するところだが今日に限って彼らの姿を見付けることができない。
(別邸に戻って、モネリとアネリーに相談してみよっかな)
大丈夫、大丈夫と肩を叩いて見送ってくれた二人に、こんな不要な手土産を持って帰るのは気が重い。
などと鬱々と考えていても、名前もうろ覚えのメイドに相談する内容じゃないことはわかる。
ならここで時間を無駄にするより、信頼できる二人に相談するのが最善だと長い時間をかけて結論を出したユリシアは、別邸に戻るため身体の向きを変えた。
と、同時にかなり離れた場所で、フラフラとおぼつかない足取りで歩いているフリーシアが視界に入った。
彼女は遠目からでもわかるほど片手をドレスの裾に不自然に隠している。とても嫌な予感がする。
ユリシアは考える間もなくフリーシアの元に駆け寄った。
「フリーシアさん!」
「……なに?」
彼女の行く手を阻むように前に立って声をかければ、少し間を置いて返事が返って来た。
フリーシアに声音は心ここにあらずといった感じで、目も虚ろだった。でもその視線は間違いなく執務室に向いている。
嫌な予感は、確信に変わった。
「隠しているやつ、見せてください」
「……」
「そっちの手に持ってるもの、何ですか?」
「……」
「失礼しますっーー……っ!?」
無理矢理隠している方のフリーシアの腕を掴み上げれば、その手には短剣が握られていた。
慌てて取り上げようとするが、令嬢とは思えないくらい強い力で握っているせいでなかなか引き剥がすことができない。
それでも諦めるわけにはいかないユリシアは揉み合いながらも、フリーシアを思いとどまらせようと声をかける。
「フリーシアさん、馬鹿な真似はやめてくださいっ」
「ねえ、馬鹿な真似ってなあに?私が誰を刺すと思っているの?」
「や、それは……グレーゲルかシャリスタンさんのどっちかじゃ」
なんてことを聞いてくれるんだと思いつつ、とりあえずユリシアは答えてみる。
瞬間、フリーシアは壊れたように笑い出した。
「あははっははっははっはははっ。あなた、本当に馬鹿ね!あははっははっはは」
「……っ」
豹変したフリーシアは、顔を仰け反らせて大声で笑う。控え目に言って気持ち悪い。その怯えが伝わってしまったのだろうか、フリーシアは無言でユリシアを突き飛ばした。
え?と思ったと同時に背中にドンっという強い衝撃を覚え、壁に打ち付けられたことを知る。
「……ケホッ……ゴホッ……フ、フリーシアさん?」
上手く息が吸えなくて、視界が狭まる。
そんな中でもフリーシアは笑っている。笑いながらこちらに近付いてくる。
間近に見える彼女は憤怒の表情をしていた。
「わたくしがマルグルスの男を本気で望んでいると思われるなんて、とんでもない屈辱だわ。それにシャリスタンという女、どこが美しく聡明なの?わたくしがあんな女より劣っているだなんて、あなたの目は大丈夫かしら?ったく、アルダード様もどうしてあなたなんかに執着するのか意味が分からないわっ」
フリーシアはユリシアの髪を乱暴に掴み、それこそ唾を飛ばしそうな勢いで一気にまくし立てた。
対してユリシアは、痛みと息苦しさに呻きつつ、最後の一文に息を呑む。
「え?……アルダードって」
フリーシアの言っていることは全てが意味不明だ。てんで理解できない。
ついさっきグレーゲルを射止めると宣言してたくせに、今の言葉は真逆のそれ。何より、アルダードが自分に執着しているなんでーー
「フリーシアさん……こんな時に、う、嘘はやめてください」
混乱する頭は今、真実だけを求めている。
なのにフリーシアはユリシアの髪を更に強く引っ張りながら、もっと理解不能なことを語り始めた。




