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フリーシアがリールストン邸に滞在して一ヶ月が経った。
出会い頭に最悪の印象を与えた彼女は、心身共に傷を癒した結果、態度が一変した。
……となれば良かったのだが、フリーシアは相も変わらずリンヒニア国の流儀を押し通している。
二言目には「これだからマルグルスは」という侮辱した物言いと高慢ちきな態度は、使用人達の額にことごとく青筋を立てさせた。
なのにグレーゲルの前だけは、別人のようになる。言葉を選ばなければ、あからさまに色目を使う。それが更に使用人達をブチ切れさせる。
もはや負のループと言える毎日に、ユリシアの心は疲労困憊だった。
「ーーあの、ちょっと宜しいでしょうか?」
客室の扉を開けて顔を覗かせた途端、毛虫を見るような視線をフリーシアから頂戴してしまった。
「目障りだわ。勝手に入ってこないでちょうだい」
「グレーゲルから入室の許可は頂いてます」
「……本当にマルグルスの人間は礼儀がなってないわね。で、何?」
グレーゲルの名前を出した途端、しぶしぶ顎で入室を許可されたユリシアはフリーシアの傍まで歩く。
今日の彼女はレースをふんだんに使ったリンヒニア国デザインのドレスを身にまとい、髪も銀細工が美しい簪を使って緩く結っている。
着の身着のまま迎え入れた現場をばっちり目にしているユリシアは、今、フリーシアが身にまとっている全てがグレーゲルの私財で用意されたことは聞かなくてもわかる。散財させてしまった彼に土下座したい気持ちでいっぱいだ。
「用があるならさっさと言ってちょうだい。あなたと同じ空気を吸いたくないの」
口元を扇子で隠すフリーシアの手つきは優雅であるが、口から飛び出す言葉は随分攻撃的なもの。目つきも尖っていて、控え目に言って憎まれているのがありありと伝わってくる。
ただユリシアは、そうまでされる身に覚えがない。リールストン邸の使用人達だって同様に。
「お話したいことは一つです。初日にお伝えしたとおり、ここはマルグルス国です」
「で?」
「使用人の皆さんは、フリーシアさんに快適に過ごしてもらえるよう心を砕いてます。あまり皆さんを困らせないでください」
「あれで、心を砕いているですって?笑っちゃうわね」
あはっと、フリーシアは本当に笑った。
穏便に話をして仲を取り持とうと思っていたユリシアも、これにはカチンときた。
「どこまで下手に出れば納得してもらえるかわかりかねますが、フリーシアさんがここにいるのは義兄アルダードから避難してきたからです。それをお忘れではないですか?」
「……なっ、なによ」
目を逸らしていた真実を突き付けられたことが嫌だったのだろうか。フリーシアはみるみるうちに真っ赤になった。
「自分の出自が薄汚いからと言って、わたくしを侮辱するなんてあんまりだわっ」
「私が平民だというのは紛れもない事実です。そしてフリーシアさんが平民出身の私に助けを求めて来たことも事実です」
「なっ、あなた良くそんなことが言わるわねっ」
「ええ。まぁ」
噛みつかれても、ユリシアは真実しか言ってない。
だから後ろめたさを覚える必要もないし、フリーシアの顔色を伺う義理は無い。
その強い気持ちは、しっかり伝わったようでフリーシアは、忌々し気に顔を歪める。でも、謝罪の言葉を紡ぐこともなければ、己を顧みる態度も取らない。
それどころかユリシアが一番触れて欲しくない部分を的確に突いてくる。
「あなたグレーゲル様に婚約者だと言われたからって、何か勘違いされてない?」
「……っ……そ、そんなことはないです」
ここは絶対にブレずに答えなければならないところ。
でも彼への恋心を自覚してしまったユリシアは、不意打ちにも似たその問いかけに動揺を隠すことができなかった。
だってグレーゲルは、正式な婚約者じゃない。
自分は期間限定の、本命を射止める間だけ存在。わかってて受け入れているのは、優しい彼に唯一自分が与えられる誠意と真心だから。
「私は、ちゃんと自分の立場を弁えています」
震える声を隠すように、ユリシアはぎゅっとスカートの裾を握る。
でもその僅かな仕草で、フリーシアはあっという間に見抜いてしまった。
「グレーゲル様が、あなたのような女に本気になるわけないでしょ?それとあなたは、リンヒニアで一番捨てても問題ない存在だったから、マルグルスに送られただけ。おわかり?」
「……」
どうしてこんなにも的確に言って欲しくない言葉を紡ぐのだろうと、ユリシアは扇の隙間からチラチラ見える赤いフリーシアの唇をぼんやりと見つめる。
「聞いてるの?」
「はぁ……まぁ一応は」
気の抜けた声で返事をするユリシアに、フリーシアは手ごたえを感じてニヤリと微笑む。
「わたくしね、グレーゲル様と先日、庭を散策したの」
「……っ」
「わたくしの話に熱心に耳を傾けてくださったわ。ああ、そうそう。あなたは庭を歩いたことなんて無いらしいわね。お可哀そうに」
「……」
実際のところ、グレーゲルがフリーシアから聞き出したいことがあったから散策に応じただけ。
しかし秘密裏で事を片付けようとしているグレーゲルはユリシアに何も伝えていないし、ユリシアも問いただすこともしていない。
だからフリーシアから放たれるこの言葉は、ユリシアにとって凶器でしかなかった。
「あの……フリーシアさん、私は可哀相なんかじゃありません」
庭に出ないのは、グレーゲルとシャリスタンの為を思って自らそうしていないだけ。第一、彼を散策に誘う必要性なんて無かった。
だから可哀相なんかじゃない。庭を一緒に歩いたからって勘違いするなと、苦い気持ちが溢れてくる。
「あらそう。自覚が無いなんて、もっと可哀相ね。同情してさしあげるわ」
ふふんとフリーシアは意地悪く笑う。
その中に、都合が悪い話題を変えることができた安堵が混ざっていることにユリシアは気付いたけれど、言葉が出てこなかった。
そんなユリシアを見てフリーシアは、ドレスの裾をなびかせ足を組む。
「ま、あなたがグレーゲル様の婚約者でいられるのもあとわずかだし、これ以上は言わないでおいてあげるわ」
「……っ!!」
フリーシアは、グレーゲルとシャリスタンのことを知っていたのか。
知らず知らずのうちに俯いていた顔が跳ね上がる。
でも、ユリシアは思い違いをしていた。
「グレーゲルの隣に立つのは、このわたくし。あなたなんか、目障りだから雪山に捨ててやるわよ。ふふっ」
うっとりと夢見るように笑うフリーシアに、ユリシアはぞっとした。
(この人……アルダードから逃れるために、グレーゲルの妻になる気なんだ)
リンヒニア国では、女性は駒として扱われることが度々ある。
なら、なんの権力も無い非力な女性が、強い男を求めることは生き延びるための術の一つだ。ずる賢さと強かさは紙一重。奇麗ごとだけでは生きてはいけない。
でもいざ、身近な人間が標的にされたとなれば話は違う。
「そんなことできませんよ。フリーシアさん」
「あら、そうかしら。少なくともグレーゲル様は、あなたよりわたくしの方に好意を持っているけれど?」
「そうかもしれません。でも、グレーゲルは、あなたを選ぶことは絶対にあり得ません」
「なっ」
ついさっき惨めな姿を晒していたはずのユリシアが急に態度を変えことに、フリーシアは怪訝な顔つきになる。
「随分と自信があるようね。あら……もしかして身体で誘惑でもしたの?本当に下品な女ね」
そんな発想を持つこそが下品の極みである、と言い返してやりたい。
だが、今日ここに来たのは、フリーシアに苦言を呈するため。あと、これ以上好き勝手ふるまえば、リールストン邸から追い出される可能性大だと警告するため。
当初の目的を思い出したユリシアは、ぐっと感情を押さえて違う言葉を放った。
「フリーシアさん、己の立場を弁えるのはあなたの方です。グレーゲルは既に心に決めた方がおられます。その方は私よりあなたよりも美しく聡明で、世界で一番彼の隣に立つのに相応しい女性です。彼を誘惑しようとしても無駄です。逆にここを追い出されたくなければ、使用人の皆さんへの態度を改めて波風立てずにお過ごしください」
息継ぎする間を見せぬほど一気に語り終えたユリシアは、一方的に話を打ち切り客間を出ようとする。
しかしフリーシアに呼び止められ、予想通りグレーゲルの意中の女性を問われた。
名を出してはいけない。ユリシアの頭の中で警鐘が響く。
でも、もう二度とこの話題に触れたくないと思ったと同時に口が勝手に動いていた。
「シャリスタンさんという女性です」
「……そう」
酷く落ち着いた表情で頷いたフリーシアは、もうユリシアを引き留めることは無かった。




