4
「ああ、初めましてだな」
見慣れないグレーゲルの微笑みを見て、ユリシアは小さく息を呑んだ。
夢かと思うほどの信じがたい光景に、これが現実だと実感する間もなくグレーゲルとフリーシアは会話を続ける。
「グレーゲル様のお名前はリンヒニア国では知らない者はいないほど名高いですわ。そんなお方のお屋敷にお招きいただけて嬉しゅうございます」
「礼には及ばない。婚約者の願いを叶えただけだ。勝手が違うマルグルスで、何か不便があれは遠慮なく言ってくれ」
「まぁ、お優しいのですね」
「ははっ」
甘い声をだしてしなを作るフリーシアに、グレーゲルは微笑を崩すことなく受け答えをしている。
ユリシアにとってグレーゲルは、滅多に笑わない男だ。しかめっ面と呆れ顔は嫌というほど見てきたが、彼の笑顔なんて冬のトオン領で野花を探すくらい難しいことだと思っていた。
でも今、王太子にも国王陛下にすら愛想笑い一つしなかった彼が、フリーシアに向けて笑みを浮かべている。
ユリシアは強い眩暈を覚えて、咄嗟に片手で顔を覆う。瞼に浮かぶのは、初めてここでグレーゲルと会った時の厳しい彼の表情。
確かにこちらも失礼千万な態度を取ったことは認めるが、それでも……
「ーーシア……おい、ユリシア」
低いグレーゲルの声にはっと我に返ったユリシアは、慌てて顔を覆っていた手を離す。
グレーゲルとフリーシアが無表情でこちらを見つめていた。
「申し訳ございません。ちょっと……あの……何でもないです。ぼうっとしてました」
二人が仲良くしている姿に衝撃を覚えたなど口が裂けても言えないユリシアは、不明瞭な言葉を紡ぎながら後退する。
「顔色が悪いが、風邪でもひいたか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか?とりあえず座れ。今にも倒れそうで、見てられない」
「……お、お見苦しいものをお見せして」
「おい。また酒でも飲んだのか?」
「まさかっ」
気遣いなのか冗談なのかわからないことを言うグレーゲルから目を逸らしたら、今度はフリーシアと目が合った。
不出来な自分を嘲笑う彼女の表情は勝ち誇っていて、ユリシアは泣きたくなる。
『わたくしとあなたは、最初から立場が違うの』
執務室に向かう前にフリーシアが言った言葉が、時間を置いて胸に刺さる。出会って呼吸をする間に打ち解けた彼女の言葉が正しかったことを身をもって知る。
「......ごめんなさい」
誰に何を謝っているのかわからないけれど、気づけばユリシアは頭を下げていた。そして痛みから逃れるようずるずるとまた後退する。
でも、2歩後ろに下がった途端、グレーゲルに肩を掴まれた。
「フリーシア嬢、わざわざ出向いてもらい足労かけた。部屋までの道順は、ブランに聞いてくれ」
「え?」
「廊下でうちの執事が待機している。一先ず足りないものがあれは、そいつに言えばすぐに用意できる」
「ちょっとお待ちください。わたくしまだお話ししたいことが」
「すまないが、急用ができた」
フリーシアの主張を遮るグレーゲルの口調は、聞く人が聞けばどれだけ苛立っているかわかる。
でも自我を失いかけているユリシアには、それがわからない。グレーゲルのことを何も知らないフリーシアも同様に。
「リンヒニア国から来たわたくしのお話より、大切なことがおありなんですね?」
「ああ」
被せるように頷いたグレーゲルは、己の手で扉を開けた。
廊下にはブランが姿勢を正して主の命令を待っていた。
「ブラン、フリーシア嬢を部屋に送れ」
「かしこまりました」
一方的に部屋を追い出されたフリーシアは、それでもグレーゲルに何か言い募ろうとする。しかし扉は乱暴に閉められた。
二人っきりになった途端、グレーゲルはユリシアの腕を乱暴に掴んで、投げ捨てるようにソファに座らす。
はっと我に返ったユリシアは本能で逃亡を企てようとするが、それを阻止するようにグレーゲルが素早く座った。
「俺の服装が嫌だったか?」
「……は……い?」
着席と同時に意味不明な問いを投げ掛けられ、ユリシアは間抜けな声を出してしまう。
しかしその声はか弱く震えていて、グレーゲルは別の意味に受け取ってしまった。
「言い訳にしか聞こえないが、もし彼女がここに来るとしたって、てっきりブランが案内すると思ってたんだ。ならこの格好で問題ないと判断した。……ただ、それだけだ」
「……」
あまりに的はずれな説明に現在ユリシアの頭の中では、はてなマークがわちゃわちゃと大衆ダンスを踊っている。
ただ混乱を極めている思考でも、これだけは誓って言えることがある。
「嫌じゃないです。今日の服装は、グレーゲルに似合ってると思います」
「そうなのか?」
「そうなのです」
信じられないといった感じで目を見開くグレーゲルに、ユリシアは力強く頷く。
あとあまりに斜め上の熱弁を聞かされたおかげで、平常心を取り戻すことができた。
ついさっき心が乱れたのは、おそらく自分の持つグレーゲルのイメージが崩れたのが原因なのだろう。
グレーゲルはシャリスタンにだけ一途で、それ以外の女性に優しくなんてして欲しくなかった。シャリスタン意外の女性には、冷たい態度を貫いて欲しかった。
……と、ここまで考えてユリシアは、自分だってグレーゲルから優しさを貰った身であることを思いだし恥じた。
彼は紳士なのだ。笑顔で接する女性を無下に扱うことなんてしないのだろう。
それにフリーシアは、ここしか居場所が無いのだ。ならグレーゲルに縋る気持ちはわからなくはない。
そりゃあ彼女の頼り方には色々思うところがあるが、グレーゲルのことを熊ゴリラと思い込んでいた自分が物申す権利は無い。
とはいえあの時ーーもし初めて出会ったこの執務室でドアにへばりついて怯えることはせず、グレーゲルに微笑みかけることができたなら、彼は自分に向けて微笑んでくれたのだろうか。優しい言葉をかけてくれたのだろうか。
そんなことをつい考えて、ユリシアは慌てて不必要なタラレバを打ち消した。
「ところで、彼女から何か言われたのか?」
「え?」
今度の質問は、わざととぼけてみた。
しかし演技力が残念だったようで、グレーゲルの表情は険しくなる。
「彼女の件は、全部こちらで処理をする。無理に関わらなくて良い」
「でも」
「でもじゃない。それより褒美は考えたのか?」
「え?……あの……褒美ですか??」
「ああ」
胸を張って言えることじゃないけど、褒美のことなんて頭の隅にも置いてなかった。
なぁーんてことを今、素直に言えない空気をグレーゲルは醸し出している。
「俺は気が長い方だが、あまり待たせてくれるな」
「……」
あなたが気が長い人だなんて初耳だ。などと軽口を叩ける勇気はユリシアには無い。
……無いけれど、でも欲しいものはある。それは、
「私が望むものは、貴方の幸せです」
優しいあなたが、世界で一番好きな人と結ばれてほしい。誰かに優しさを与えた分だけ、ちゃんと幸せになって欲しい。
これまでもずっとグレーゲルとシャリスタンの恋を応援してきた。でも今、すごく声に出して伝えたい。
それが感謝や尊敬という感情ではなく、違う感情が混ざっていることをユリシアは気付いていた。
だから、気付かれてしまう前に幸せになって欲しい。
自分が二人の役に立ったことを見届けて、ひっそりとこの温かいトオン領で生きていきたい。それがまだ奇麗な心のままでいられている自分の切なる願いだ。
「てっきり宝石を強請ってくれると思ったんだが、随分と悩ましいことを言うな」
苦笑するグレーゲルに、ユリシアは感情を押し込んで笑みを浮かべる。
「物じゃなきゃ駄目だと言わなかったじゃないですか」
「確かにそうだな」
「そうですよ。私、ちゃんと考えたんです。それ以外は要りません」
「そうか。なら雪が解けたら、お前の望みを叶えよう」
「ありがとうございます」
春になれば、シャリスタンと正式に婚約する。
グレーゲルはきっとそう伝えようとしているのだ。
「……待ち遠しいですね」
「そうでもない。冬の峠は超えた。春は目前だ」
窓に映る景色は、銀世界。でもトオン領の領主には、既に春の兆しが見えているのだろう。
ユリシアはグレーゲルと同じように窓に目を向ける。
どれだけ目を凝らしても、春の兆しは見えなかった。




