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執務室の扉をノックをしたら、すぐに「入れ」と低い声が聞こえてくる。
そっと扉を開けて顔を覗かせたら、書類を片手にこちらに目を向けるグレーゲルがいた。
彼は何かを言いかけて一度口を噤んで、頬杖をつく。そして紡ぎたかったものではない別の言葉を口にした。
「ったく。どうしてお前はそんなに泣いてばかりいるんだ?」
呆れ笑いを浮かべたグレーゲルは、こっちに来いと手招きする。
ーー罪悪感ではない別の感情のせいで、ギシッと音を立てて胸が軋んだ。
これまでだったら執務机に対面した椅子に腰掛けるのがデフォルトだったけれど、今日はグレーゲルと並んでソファに腰掛けている。
だってこの部屋にはソファが一つしかないから仕方がない。
そう言い聞かせていても、ついさっき今まで感じたことがない胸のざわめきを覚えたユリシアは、ソワソワと落ち着かない。
「ーーあいつらと仲直りできたか?」
「ひゃいっ」
「……できたようだな」
急にグレーゲルから声をかけられたユリシアは、返事なのか悲鳴なのかわからない声をあげる。
しかしユリシアの奇声に慣れたグレーゲルは、一瞬眉を顰めたがすぐに納得する。
そんな彼の仕草が今日に限って眩しく感じるのは、多分、トオン領が珍しく晴天だからだろう。
雪山から流れてくる粉雪が陽に反射してキラキラ輝いて、昼間なのにグレーゲルを無駄にライトアップさせているに違いない。
と、やや無理矢理に自分を納得させたユリシアは、本題に入る前にどうしても彼に伝えておきたいことを口にする。
「グレーゲル、あの……この前の夜会で、えっと……離宮でちょっとお話した件なんですが」
「ああ」
優しく続きを促してくれるグレーゲルをユリシアはチラッと見上げて、すぐに俯き指をこねこねする。
エイダンはグレーゲルの過去を語ってくれた時、はっきりとは口にしなかったけれど本人には言うなというニュアンスだった。
でもチクるつもりは無いが、やっぱりちゃんと今の気持ちを彼に伝えたい。
「母国が犯した罪を私は一生忘れません。そして、こんな私を受け入れてくれてありがとうございます。あと、大切な友人と仲直りできるきっかけを作ってくれてありがとう」と。
……と、まぁたったこれだけのことを言葉にするだけなのだが、いかんせん追い出されるように執務室を訪ねたせいで、ユリシアは気持ちが落ち着かず上手く口に出すことができない。
「あ、あの……えっと、あのですね。えっと、ええっとっ」
「おい、落ち着け」
「はい、落ち着いてます。あのですね、先日の夜会のですね、えっと、えっと」
早く言え。噛まずに言え。簡潔に伝えろと、どんどん自分を追い込んでしまったユリシアは、一人勝手にアタフタする。
それを止めるべくグレーゲルは肩を掴んで優しく揺さぶろうと思った。
しかし、思いのほか力が入り過ぎでしまい、肩を掴まれた途端、ユリシアはずるっとソファに寝そべる形になってしまった。
客観的に見たらこの状況は、グレーゲルがユリシアに襲い掛かる直前の体勢で。
誓ってそんなつもりはなかったグレーゲルだが、見下ろすユリシアがあまりに魅力的で、己の願望をつい言ってしまった。
「あの日、帰らずに初夜の練習でもしたかったのか?」
「いえ、まさか」
即答されたグレーゲルは、撃沈した。
対してユリシアは、グレーゲルの際どい発言は、遠回しに「俺の過去に触れるな」という訴えだと解釈してしまった。
それからのそのそとソファに座り直した二人は、しばらく沈黙する。
「ーー……茶でも飲むか?」
最初にギブアップしたのはグレーゲルで、彼は大公爵らしからぬ弱り切った声で、隣に座る婚約者に声をかけた。
「はい。あ……よろしければ、私が淹れても?」
「ああ、頼む」
頷いた途端に、子ウサギのように入口扉近くのワゴンに向かったユリシアを見て、そんなに俺の隣に座りたくなかったのかと、グレーゲルは未練たっぷりの目で追ってしまう。
いやいや、実際のところユリシアはそんなふうには思っていない。
グレーゲルと並んで座るのが、シャリスタンに対して申し訳ないと思っているだけ。あと彼が触れて欲しくなかった過去をほじくり返そうとしてしまった自分を責めてもいる。
でもそれを謝ってしまうと、結局またほじくることになるので、八方塞がりになっているだけである。
「どうぞお飲みください」
「ああ、上手そうだな」
たかだかポットからカップに移し替えただけなのに、グレーゲルは手渡された茶を見て顔をほころばせる。何か良いことでもあったのだろうか。
「……ん?どうした??こっちに座れ」
立ったままぼぉーっとしているユリシアを、グレーゲルは訝しそうに見ながら空いている方の手でソファを叩く。
断わる理由を見付けられなかったユリシアは、グレーゲルと一人分の空間を空けて着席する。それからポケットに入れたままのフリーシアからの手紙を取り出し、本題に入ることにした。
「実はグレーゲルに相談したいことがあって……あの、説明をする前に、まずこれを読んでいただきたいのですが」
「わかった」
あっさりとグレーゲルはユリシアから手紙を受け取ると直ぐに黙読する。ボルドー色の瞳が物凄い速さで文字を追っているのがわかる。
「ーーなるほどな」
あっという間に手紙を読み終えたグレーゲルは、ふむっと顎に手を当て一つ頷く。
だが思案する間もなくこう言った。
「俺としては、彼女の望み通りあの男から匿ってやれば良いと思う」
「ええっ!?」
こんなにもあっさりグレーゲルが結論を下すとは思ってなかったユリシアは、驚きの声を上げる。
「えっ、だ、だ、だって、フリーシアさんは女性ですよ!?」
「だろうな」
「だろうなって……ちょっと待ってください!女性をこのお屋敷に匿って良いんですか!?」
「むしろ男の方が問題だと思うが?」
「どうしてですか!?男性なら問題な……あ、ありますね」
「そうだろう」
くるりと目を向けて笑うグレーゲルは、ユリシアに対して独占欲を隠すことはしていない。
でもユリシアからすれば、グレーゲルの独占欲はシャリスタンに向かっていると信じて疑っていない。
しかし妙に会話が噛み合ってしまった今、二人は互いの勘違いに気付かないまま会話が続いてしまう。
「しかしこちらが匿うと言っても、相手は監視されているかもしれないから、ここまで来るのは容易じゃないだろうな。で、お前はこのフリーシアという女と仲が良いのか?」
「あいにく、お名前を知っている程度の仲です。ですので……」
ユリシアとしてはシャリスタンのことを考慮して、できればフリーシアの件はもう一度考え直して欲しかったし、それをはっきり言葉にして伝えようとした。
なのにグレーゲルはそれを遮ってどんどん話を勧めていく。
「なら、部屋は客室で良いな。あと連絡は俺が……いやラーシュにやらせよう。なにか伝言があるなら、今のうちに言え」
「……いえ、特には」
「そうか。ではこの件は、俺が預かる。半月もあれば、受け入れられるだろう。お前は何も心配しなくていい。落ち着くまでモネリとアネリーと一緒に別邸で遊んで……あ、待て」
最後に何か閃いた顔をしたグレーゲルに、ユリシアはやっと自分が伝えたかったことに自ら気付いてくれたのだと思った。
でも、違った。彼は恐ろしいほどズレた発言をした。
「この前の夜会の褒美をやろう。何が良いのか、別邸で菓子でも食べながら考えておけ」
「……は?褒美??」
何をとち狂ったら、自分に褒美を与えるという発想になるのだろうか。
ユリシアはグレーゲルの思考回路がてんで理解できない。
そして「何言ってんの、コイツ」という目を無遠慮に向けてしまっているが、本人は至って真顔で「何でも良いぞ」と付け加えてくる。もう本当に意味が分からない。
だがお茶を一気飲みしたグレーゲルは、立ち上がり執務机に向かう。どうやら、この話はもう終わりらしい。
「あのぉ、グレーゲル」
「欲しいものを、しっかり考えとけ」
「……」
異議申し立ては一切受け付けないと言いたげなグレーゲルの態度に、ユリシアはむむっと渋面を作るが一旦引き下がることにした。
*
パタンと扉が締まったのを確認して、グレーゲルはもう一度フリーシアの手紙を読み直す。
「……どうもきな臭いな」
プライドが高いリンヒニア国の人間が、さして仲が良いわけでもない相手に一方的に助けを求める。しかも侮蔑の代名詞マルグルス国に行きたいとーーこれは裏がある。
夜会の後、シャリスタンからアルダードの調査報告書を受け取っていたグレーゲルは、この手紙に何か隠された意図があることに瞬時に気付いた。
グレーゲルは情に厚い男ゆえに”血濡れの大公”と呼ばれるようになった。
しかし誰に対しても情け深いわけじゃない。守るべきもののために冷徹な一面だって持っている。
今回、フリーシアに手を差し伸べたのは、人助けをするつもりじゃない。監視目的で目の届く場所に置くことにしただけだ。
「……宝石でも土地でもドレスでも買ってやる。だからどうか笑顔でいてくれ」
悪いことは全部、見えないところで終わらせる。ユリシアに褒美をやると言ったのは、彼女が余計なことで憂いて欲しくなかったから。
どうせ悩むなら華やかなもので、心を占めていてほしいという気持ちから咄嗟に思いついたもの。
そしてユリシアが望むものが手に入るまでには、不穏なものはすべて排除しようとグレーゲルは決意した。




