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「返事も出来ないのか?」
「……」
俯きスカートをぎゅっと握るユリシアに、アルダードは意地悪く笑う。
「やはりお前はどこに行っても出来損ないだな。返事一つできないとはな。はっ」
「……」
嘲笑うアルダードに、ユリシアは何も言い返せないし、顔を上げることもできない。
だって顔を上げれば、アルダードと目が合ってしまうから。紺色の瞳はいつだって、自分を冷たく見下ろしている。
彼の赤茶髪だって嫌い。どことなく葉巻の火の色を思い出してしまうから。
トオン領で過ごすこと早数か月。やっと自分を取り戻しつつあったユリシアだけれど、アルダードはそれをものの見事に壊してくれる。
ユリシアはそれがとても悔しかった。
でも身体は正直で、悔しいという気持ちより恐怖を感じてガタガタ震えている。癒えたはずの足の指の付け根がものすごく痛い。火傷なんてしていないはずなのに。
「どなたかわかりませんが、こちらは我が主の婚約者です。無礼な態度はお控えください」
自分の前に影ができたと思ったら、すぐにラーシュの低い声が頭上から降って来た。さっき令嬢達に向けての声音よりもっともっと怒りを全面にだしたそれだった。
一拍遅れて、彼が自分とアルダードとの間に入ってくれたことに気付く。
(……婚約者じゃないんだけどぉ)
この後におよんでそんな突っ込みを入れるユリシアだが、そうでもしていなきゃ平常心を保つことができないのだ。
しかしアルダードは、非情にも小刻みに震えるユリシアを見て快感を得ているようで、もっともっと傷付ける言葉を吐く。
「はぁ、婚約者?そんな戯言、信じると思うのか?この女はどうしようもない出来損ないだ。そんな女に求婚する男などいないはずだ。どうせ、人数合わせでここに連れてこられたんだろう?はっ」
酷い言い様だが、否定はできない。
ぐっと唇を噛むユリシアだが、前に立つラーシュは我慢の限界を超えてしまったようで剣の鞘に手を置く。いや待って。それはちょっと方向性が違う。
「ラーシュさん、剣は駄目ですよ、剣はっ」
別にアルダードが血塗れになるのは構わない。でもこんな場でこの男を斬ってしまったら、ラーシュの立場が悪くなる。
そんな気持ちでブンブンと首を横に振れば、アルダードは満足そうに笑う。
「ああ、やっぱり長年躾た甲斐があったな。最低限のことは忘れていないようだな。はっ」
人を人とも思っていない発言に、頭がおかしくなりそうだ。
もういい。こうなったら、ラーシュの剣を奪って自分が罪人になろう。そうすればグレーゲルのことだって万事解決だと、ユリシアが一線を超えようと思った瞬間ーー
「躾ただと?寝言は寝て言え」
軽口のように聞こえるが、明確な殺意を感じさせる声音が会場に響いた。
その声は決して大きくは無かった。
しかし、人を惹きつける……いや、従わせる声だった。
「おい、ユリシア。こっちに来い」
ゆっくりと確かな足取りで近付くグレーゲルは、ユリシアに向けて手を伸ばす。そうすることが当たり前だという感じで。
グレーゲルは、別に優しい言葉をかけてくれたわけじゃない。
酷い言葉を言われた自分を慰めてくれたわけでもない。
でもユリシアにとって伸ばされた手は、世界でたった一つだけ自分を裏切らないと信じられるものだった。
「……は……い」
アルダードに背を向け、覚束ない足取りでユリシアはグレーゲルの元に向かう。
震える手で彼の指先に触れようとした瞬間、逆に強く掴まれてしまいーーあっと思った時には、もうぎゅっと抱きしめられていた。
「……もう大丈夫だ」
耳に注ぎ込むように優しく言葉を落とされ、ユリシアはグレーゲルには双子の兄弟がいるんじゃないかと本気で思ってしまう。
「で、コイツは誰だ?」
カタカタ震えるユリシアを宥めるように優しく背を撫でながらグレーゲルは問うた。アルダードではなく、ラーシュに。
「ユリシア様に無礼を働いた不届き者です」
ラーシュはあえてグレーゲルに、これが例のユリシアの兄だということは伝えなかった。鋭い主の眼光を見て、言う必要などないと判断したからだ。
「へぇ。じゃあ、適当に刻んでおけ。俺は婚約者とダンスを踊らないといけないからな」
「御意に」
蝶の群れに一匹の羽虫が紛れていたところで、人は騒ぎ立てることはしない。
だって虫だから。相手にする必要はないのだ。
それをはっきり態度で示したグレーゲルは、強引にユリシアをダンスホールへと誘う。
「グレーゲル、待ってください!あの人はーー」
「知ってる。何も言うな」
「……っ」
びっくりするほど優しいグレーゲルの口調に、ユリシアは不覚にも涙ぐんでしまう。
(くっそ、むかつく)
泣かせようとしているグレーゲルに、わざと憎まれ口を叩いてみる。
だってそうしないと駄目なのだ。何がと言われたら良くわからないけれど、駄目なのだ。彼の言葉に身を委ねるのは。
「ったく、泣くな。おい見てみろ、今の俺は、婚約者を泣かせる非道な男になっているじゃないか」
「……血濡れの大公閣下なんですから、今更じゃないですか」
「おっ、言ってくれるな」
機嫌を損ねたかと思いきや、グレーゲルはなぜか嬉しそうに笑う。
そしてダンスホールに到着すると、あの日と同じようにユリシアをダンスに誘うべく、グレーゲルは上着の襟を正してから手を差し出した。
「それでは1曲願えますか」
「……はい」
こくっと頷いてグレーゲルの手のひらに自分の手を乗せたけれど、震えはまだ治まっていない。こんな状態で踊れるのだろうかとユリシアは不安になる。
まぁ、派手に転んだなら転んだで、自分の評価が下がるだけ。それは当初の予定通りになるだけ。
そう、……なるだけなんだけど。
「安心しろ。今日はこの前みたいにはしない」
向き合ってダンスの型を組んだと同時に、グレーゲルに囁かれた。
驚いて見上げれば、彼は口の端をちょっとだけ持ち上げた。
「見せつけてやれ。お前がどれだけダンスが上手いか」
「……っ……!!」
あーもー。こっちは一生懸命、道ならぬ恋を応援しているというのに、どうしてこうズレたことばっかりしてくれるのだろう。
ユリシアはグレーゲルの脛を蹴りたくなった。けれども、
「お手柔らかにお願いします」
「任せておけ。俺はこう見えて、ダンスが上手い」
自分で言ってりゃ世話がない。
最後の憎まれ口を叩いたユリシアは、令嬢らしい笑みを浮かべグレーゲルと呼吸を合わせる。いつの間にか震えは治まっていた。
(ごめんなさい。シャリスタンさん。どうか今だけは自分の為だけに時間を使うことを許してください)
心の中で謝罪の言葉を紡いだユリシアは、最初のステップを踏み出した。
楽団が素晴らしい演奏をする中、ユリシアはグレーゲルと踊っている。
曲目はメヌエット。ワルツより格式高いそれは、幸運にもユリシアがもっとも得意とするところ。
でもこれまでで一番上手に踊ることができているのは、グレーゲルの巧みなリードのおかげだ。
見せつけてやれと言った通り、彼は徹底的にユリシアを美しく見せるよう心がけている。
沢山の男女がペアになって踊るダンスホールで、ユリシアは一際輝いていた。
「なんだか夢を見ているようです」
「酒でも飲んだのか?」
うっとりと目を細めて呟くユリシアに、グレーゲルは僅かに眉を潜める。その表情はどこかお父さん臭がする。
「違いますよ。こうして一度も間違えずに、転ぶこともなく踊れているのが夢のようだってことです」
もうっと少し拗ねた口調になってしまうのは、お礼を言いたいのに素直に言わせてくれないグレーゲルが悪いのだ。
「やっぱり酒でも飲んだようだな」
「ですから」
「俺はとんでもなく強い酒を飲んだようだ」
「……はぁ」
噛み合わない会話と、ほんのり赤いグレーゲルの顔。
おそらく別行動した際に、付き合いでアルコール度数の強いシャンパンでも飲んだのだろう。
「……あと少しですから頑張ってください」
「いや、ずっとこのままがいい」
体調を気遣いそっと声をかければ、グレーゲルは今度もまたズレた返答をする。
よほど強い酒を飲んだのかとユリシアは結論を下す。そしてダンスが終わったらすぐに冷たい水を手渡そうと決めた。
無事に踊り終わったユリシアは「もう1曲踊るぞ」とごねるグレーゲルを説き伏せ、水を求めてホールを彷徨う。
ピカピカに磨かれたグラスには、どれもこれもお酒しかなく水がどこにもないのだ。
「お水が……どうしてないんでしょうか?」
「夜会で水など出したら興覚めじゃないか」
素晴らしいほど酔っぱらいの発言だ。
ユリシアは一刻も早く水を飲ませようと、辺りをキョロキョロする。なのにグレーゲルは、ダンスホールに戻るぞと腕を引いてくる。
「ダンスは駄目です。それより水を飲んでください」
「……なんで駄目なんだ?」
血濡れの大公といじった時はぜんぜん不機嫌にならなかったのに、体調を気遣えば不機嫌になる。もう意味が分からない。
「ですから、ダンスを踊るのは」
ーー今度はシャリスタンさんとにしてください。
察しの悪いグレーゲルにユリシアは、そろそろはっきり言葉にして伝えようと思った。けれど、ここで邪魔が入った。
「ダンスを踊るのは、別にあなたとだけじゃないのよ、私ーーなんて、言ってもらえると誘いやすいのですが」
とんでもなく気障な台詞を吐いてユリシアとグレーゲルの間に割って入って来たのは、長いブラウンピンクの髪を一つに束ねた碧眼の紳士だった。
(……あ、このお方は)
紳士と目と目が合った瞬間、ユリシアは息を呑んだ。
一見、夜空に輝く星すら霞ませるほどの美男子に見えるが、違う。この人は男性じゃない。
世界中の花をも曇らせる美女ーーシャリスタンだ。
「どうされましたか?もしよろしければ、私と1曲お相手いただけますか?」
まさかここで道ならぬ恋をしている彼女と会うなんて思いもよらなかったユリシアは、差し出されたシャリスタンの手を無視してオロオロとグレーゲルを見つめる。
彼は自分の視線なんか気付いていない様子で、食い入るようにシャリスタンを見つめていた。
そしてグレーゲルは、無意識にポツリと呟いた。
「くそっ、本気モードで来やがった」




