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半泣きになりながら回廊を渡って、胸に十字を切ってから本邸の執務室の扉を開けた。
どう誘うか悩んで、悩んで、悩み過ぎて……口から出た言葉は死に急ぐ台詞だった。
あ、終わったな。と、冷静に思う自分がいるのを感じつつ、どうにか取り繕うと思った。でも、口を開く前にグレーゲルがこう言った。
「……ああ。わかった」
紡ぐ声音も表情もびっくりするぐらい穏やかで、ユリシアは我が目を疑った。
数拍置いて、察した。シャリスタンと仲直りができたんだと。
いいんや違う!!お前、馬鹿か!?いい加減気付けよー!!と叫びたいところであるが、そんな間を与えられること無くユリシアとグレーゲルは並んで廊下に出た。
「あの、閣下」
「グレーゲルだ」
「失礼いたしました。グレーゲル……かっ……いえ、あの……教えて欲しいことがあるんですが」
「なんだ?」
「ボールルームってどこにありますか?」
「……この屋敷のボールルームに行きたいのか?」
「はい」
じっと探るような視線を向けられ、ユリシアはそっと目を逸らす。
だって「なんで?」って聞かれたら答えないといけないから。そして答えた後「じゃ、行かない」と言われたら困るから。
そんなふうにアレコレ考えるユリシアを無視して、グレーゲルはこっちだと誘導してくれる。しかもコンパスの差を考えて、ユリシアが小走りにならぬよう気遣ってくれる。
誰かと並んで歩く際に小走りにならないなんて、久しぶりの感覚だ。
おそらくグレーゲルは、紳士として最低限のマナーを守ってくれているだけだろう。でもその当たり前が、ユリシアは嬉しくてくすぐったい。
「……へへっ」
「なんだ?随分とご機嫌だな」
呆れ声に近いが、不機嫌ではないグレーゲルは、シャリスタンからきっと愛情溢れる手紙か何かを貰ったんだろう。
「閣下が嬉しいと、私も嬉しいです」
誰かと誰かが幸せになるのは、無条件に気持ちが明るくなる。
そんな気持ちと、遠回しに「良かったですねー」的なニュアンスを込めて笑い掛ければ、グレーゲルは信じられないものを見る目つきになった。ついでに足もピタリと止まった。
「……そうなのか?」
「そうですよ。そんなもんですよ」
深く考えずにユリシアが同意すれば、グレーゲルはなぜか口元を手の甲で覆った。
それから、ぶつぶつと聞き取れない何かを言いながら再び歩き出す。心なしかグレーゲルの足取りが浮いているように見えるのは、気のせいだろうか。
ただ一人の世界に入ってもグレーゲルは、歩調を合わせてくれている。さすが大公閣下。お育ちが違う。
……などとユリシアが斜め上のろこで感心しているうちに、ボールルームに到着した。
両開きの大きな扉を開けて中を伺えば、モネリとアネリーを始め、ついさっき別邸の居間にいた使用人たちがバタバタと忙しそうにしている。
「あのぅ、閣下をお連れしました」
「お待ちしておりました!」
最初に気付いてくれたラーシュが、どうぞどうぞと手招きしてくれる。
他の使用人達もすぐに手を止めると、大公閣下と未来の大公妃を迎えるために満面の笑みを浮かべながら深く腰を折った。
迎え入れてくれたボールルームは、眩しいほどに陽が差し込み大理石の床は鏡のように磨きあげられていた。
名誉挽回のお膳立てをされたユリシアは、気合いをいれるために軽く跳ねた後、背筋をピンと伸ばす。それからグレーゲルから数歩離れて澄まし顔になる。
もうこの時点でユリシアには出来損ない感は皆無だ。幾度も夜会を経験した完璧な淑女にしか見えない。
「……なるほど。そういうことか」
ボールルームに連れていけと言われた時点で大体のことは察していたグレーゲルは一つ頷くと、軽く髪を整えてからポケットにねじ込んであった手袋をはめた。
最後に気合いを入れるためにビシッとジャケットの襟を正して、ユリシアの前に立つ。
「レディ、私と一曲願えますか?」
片方の手を背に、反対の手をユリシアに差し出すグレーゲルは血濡れ感は皆無。
高貴な血を受け継ぎ、高貴な空気しか吸っていないと思わせる気品ある態度だった。
「ええ、よろこんで」
ふわりと笑ったユリシアは手袋に包まれた大きな手に自分の手を重ねる。そうして二人はホールの中央まで移動すると向かい合い、踊る姿勢を取った。
魔法石内蔵の蓄音機は、音質がすばらしい。まるで楽団がこの場にいるようだ。
奏でられている曲は、幸いにもユリシアの知っている円舞曲。どうやら音楽には国境は無いらしい。助かった。
などと考えられる余裕が持てるほど、グレーゲルのリードは優しかった。教本通りの動きをしてくれるし、思いやりもある。
シャリスタンが喧嘩したって彼を好きでいるのは、こういうところに惹かれてしまうからなのだろう。
なぁーんていう感じに他所に意識を向けていられたのは、最初のうちだけ。
ユリシアのダンスの腕がそこそこだと知るや否や、グレーゲルはリードを激しくした。
(ちょ……な、なになに??)
急に変わったステップにユリシアは冷や汗をかく。
だがしかし、これまで義兄アルダードからさんざん滅茶苦茶なリードをされてきたのだ。
(はんっ、この程度で怯むだなんてと思わないでくださいよーだ!)
今、ユリシアはグレーゲルのことが怖くない。
おそらく対等にダンスを踊れているからだろう。
ユリシアは受けて立ってやるよと言いたげにグレーゲルにニヤリと微笑む。これまであんなにも怯えていたのが幻だったかのように。
対してグレーゲルも挑戦的に笑う。チロッと見えた八重歯が獣の牙に見えたが、それはきっと気のせいだ。人間誰しも八重歯はある。
「……お前は」
「なんでしょう?」
ステップを踏みながらユリシアが続きを促せば、グレーゲルは「……いや」と言って黙る。
含みのある沈黙が気になって仕方がないが、とにかく全力で頑張らないといけない状況なのでユリシアは目先のことに集中した。
グレーゲルは数ある肩書きのせいで夜会に出席する機会が多い。時にはダンスを断れない場合だってある。その際、彼のリードについてこれる女性はほとんどいない。
だがユリシアは、とことん付いて来る。飛んだり跳ねたりアレンジをかましても、優雅な表情を崩さない。
とはいえ内心、ユリシアは腹を立てている。が、これは騎士でいうなら名誉をかけた決闘なのだ。負けるわけにはいかないし、実はちょっと次はどんな無茶ぶりをされるのかワクワクしている。
何よりダンスを踊り出したら、ガラン邸での辛かった日々を思い出すかと思いきや、脳裏に浮かぶのは亡き両親との幸せだった思い出ばかり。
(あぁ、忘れてた。ダンスを踊るのって楽しかったんだ)
ユリシアは大事なことを思い出させてくれたグレーゲルに、ニコッと微笑みかける。
そうすればきっと彼はもっと挑発的な行動に出るだろう。そう思っていたけれどーーなぜか、動きが止まった。
「……かっ、いえグレーゲル……どうされました?」
「いや、ちょっと不意を突かれただけだ」
「は?」
「……」
首を傾げるユリシアと、これ以上聞いてくれるなと言わんばかりにそっと視線を外すグレーゲル。
軽快な円舞曲が流れる中、立ち竦む二人に、使用人たちは孫の成長を見守るような温かい眼差しを向けていた。




