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「……そうか、気に入ったのか」
ユリシアが頷いた途端、グレーゲルは砂糖菓子を味わうように言った。
その仕草は彼のことを良く知っている者なら、どれだけ嬉しそうにしているかわかる。
でもほとんど面識のないユリシアにとったら、急に口調が変わったグレーゲルが呻いているようにしか見えなかった。
(あ、仮初めとはいえ元妻が同じ領地に住むのはマズいって思ってる……とか??)
北の暖かい人達に触れて、ユリシアはトオン領が大好きになった。
だからグレーゲルが無事に本命と結婚できた際には、トオン領の端っこの小さな家を終の棲家にしたいと思っている。
それ以上のことは望まない。ついつい離婚後の仕事の斡旋をお願いしてしまったが、そんなものは無しで良い。自分でなんとかする。
でもグレーゲルからしたら自分の一番の望みが、一番叶えられない願いなのかもしれない。
「……私がトオン領に住み続けるのは、駄目ですか?」
きっと離婚後はトオン領を去ると答えるのが正解だ。でも、それを口にするのは嫌だった。もうちょっともがきたい。
そんな気持ちで狡い問いをグレーゲルに向ければ、彼はびっくりしたように肩を震わせた。
「まさか」
「そうですか。では離婚後については私の要望をすべて呑んでいただけるということで?」
「……何度も言っているが、離婚は」
「閣下、これは兆が一のお話です」
遮られた仕返しに、ぴしゃりと言い返してやればグレーゲルはぐっと言葉に詰まった。そして暫くの間の後、ため息交じりに口を開く。
「……わかった。ただ、これで終わりだ。──……これ以上は、俺が耐えられん」
グレーゲルからすれば、惚れた女から仮定とはいえ離婚話をされるのは、心を抉られるようなもの。
けれど最後の本音は、あまりに小さすぎてユリシアの元に届かなかった。そのため、更に聞きたくもない言葉を耳にする羽目になる。
「かしこまりました。では結婚前の取り決めは以上ということで。お忙しいところお時間を取っていただきありがとうございます。あと、申し訳ありませんがこれまで話し合った件は全て書面にしたためていただいてもよろしいでしょうか?」
そう言ったユリシアに悪意はない。
単に「自分は、仮初の正妻。近い将来、離婚をするものだ」と思い込んでいるだけ。
加えていつでも奇麗にお別れするために契約更新の書類等は互いの為に必要だと信じて疑っていない。いやむしろ、グレーゲルを思えばこその発言だと思っている。
だけれどもユリシアがそんなふうに思っているなど露ほどにも気付いていないグレーゲルにとっては、自分のことを何一つ信用していない証としか思えない。
……しかしたった今、デリカシーが無いと烙印を押された彼は、嫌々ながらも引き出しから便箋を取り出し、契約書を作成することを選んだ。
「ったく、こんなくだらない契約書を作るのは生まれて初めてだ」
ぼやきながら羽ペンを走らすグレーゲルは、苛立つ気持ちを抑えきれなかった。
ーーそれから数分後。
「書き終えた。ほら、確認しろ」
「はい」
グレーゲルが投げるようによこした契約書をユリシアは恭しく受け取り、すぐさま黙読する。
「閣下、素晴らしい契約書ではありますが、離婚の際の取り決めが書かれておりません」
「それは本当にいるのか?」
「いります。重要です」
いやむしろ、そこだけ書いてもらえれば後は口約束でも構わない。
そんなニュアンスを全開にしてユリシアが頷けば、グレーゲルはあからさまに舌打ちした。次いで机の端に置いてあったシガレットケースから葉巻を取り出し口に咥える。
「ああわかった。書けば良いんだな、書けば」
半ばやけくそになった口調でそう呟いたと同時に、グレーゲルは親指の腹で葉巻の先に触れる。
すぐさま己の魔力でジッと葉巻に火が付き、細長い煙と共に甘く香ばしい香りが部屋を満たす。
マルグルス国では成人した男性の大半が葉巻を吸う。だからグレーゲルにとったら日常生活の一コマに過ぎないし、断りを入れることも不要だと思った。
しかしそれは過ちだった。葉巻の火を見た途端、ユリシアが血相変えて突然立ち上がった。
── バンッ。
「私の前で葉巻を吸わないで!!」
ついさっきまでオドオドしながら自己主張していたとは思えないユリシアの態度に、グレーゲルは面食らった。
「もしかして……葉巻の臭いが嫌いなのか?」
唇から葉巻を外して一先ず思い当たることを問うてみたが、ユリシアは首を横に振る。
「違います。葉巻そのものが嫌というより、葉巻を吸う人間が嫌いなんです!」
ユリシアの返答を聞いた途端、グレーゲルは即座に机に用意されている灰皿に葉巻を押し付けた。
「わかった。今後君の前では葉巻を吸わない。約束しよう」
「契約書にも記載を」
「する。もちろんする」
「私の前で葉巻を吸ったら、婚約を破棄する。結婚後は即離婚と追記ねがいます」
「わかった」
ユリシアのありえない条件にも、グレーゲルは反論することはしない。すぐに新しい便箋を取り出し、もの凄い勢いで新しい契約書を作成する。
心の中で「たかだか葉巻一つで嫌われるなんて冗談じゃない!」と叫びながら。
それからしばらくしてーー
「作り直した。これで良いか?」
今度はそっと差し出してきた契約書を、ユリシアは再び黙読する。
「……はい。問題ありません。ではサインをするので、ペンをお借りしても?」
「ああ。これを使ってくれ」
愛用の羽ペンを渡せば、ユリシアはサラサラと署名する。
ちなみに契約書は互いに保管する為に同じ内容のものが2枚あり、グレーゲルはそのどちらともサイン済みだ。
「ではこれで契約は完了ですね。これからよろしくお願いいたします」
契約書の一枚を大事に胸に抱えたユリシアは、さっきの剣幕はどこへやら。ぎこちなく、ぺこりと頭を下げた。
「あ……ああ」
クルクルと変わるユリシアの態度に、若干引き気味のグレーゲルは曖昧に頷く。
だがせっかくの機会だし、幸いにも午後は開けてある。っていうか無理矢理、開けた。だからこれから親交を深めるために散歩にでも誘おうと立ち上がる。
しかしユリシアは、小動物のような素早さで出口の扉に移動すると「では、お邪魔しました」と捨て台詞を吐いて廊下へと消えてしまった。
***
「おい待て。それは流石につれないだろうが」
しんとした部屋に、グレーゲルの呟きが無駄に大きく響く。
いっそユリシアを追いかけて、強引に庭に引きずっていきたい衝動に駆られる。
でもグレーゲルは、それができなかった。
ユリシアの存在があまりに大きかったから。嫌いと言われるだけでも、心臓に槍が刺ささったような痛みを覚えてしまうから。
(それにしても、あそこまで葉巻を嫌うのはどうしてだ?)
今更ながらグレーゲルは、怒りを露わにしたユリシアの態度に違和感を覚えてしまっていた。
ちなみにグレーゲルがその理由を知るのは、もうちょっと先のことになる。




