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もし仮に自分が留守にしている間に彼女が逃げたなら───。
グレーゲルは魔物と対峙している間、ずっと考えていた。そして怯えていた。
でもこう決めていた。
もし彼女が自分の元から逃げたなら、自由にしてあげよう、と。
リンヒニア国から人を人とも思わない内容の書簡が届いた時、グレーゲルはどんな悪女がやってくるのかと危惧していた。
と、同時に憐れんでいた。生まれ育った自国から出来損ないと呼ばれている女を。
しかし実際目にしてみれば、ただの杞憂に終わった。それどころか特別な感情を持ってしまった。認めたくはないが、ユリシアに一目惚れをした。
そんな彼女を大事にしたいと思う反面、二度とリンヒニア国には戻さないと決めていた。
だから彼女が逃げたなら無理矢理連れ戻すことはしない。ただ自分の目の届く範囲にいてもらう。この領地から一歩でも外に出れば、ユリシアは罪人となってしまうから。
そう決めて、万が一のことを考え私服の兵士を街の至る所に配置して、見付けたら安全な場所に送るよう指示を出した。そんなことにならなければ良いと願いながら。
でも実際のところ、ユリシアは自分の元から逃げ出した。
辛くなかったと言えば嘘になる。戻ってきて欲しく無いのかと聞かれたら即座に否定する。
ただ逃げるという選択をした彼女が幸せならそれで良いと思ったのも事実だった。
だからグレーゲルは自らユリシアが過ごしていた別邸に足を運び、彼女の世話をする侍女に説明した。
未練たらしく「もし戻って来たなら、何事もなかったようにふるまえ」とも付け加えて。
その一言が余計だったのか、それともユリシアが逃亡することが信じられなかったのかわからないが、侍女二人はおいおいと泣き出した。
そして「こんな寒空の下で放置なんかできませんっ。今すぐ迎えに行ってきます!!」と叫びテラスに飛び出した。
なぜ玄関ではなくテラスなのかと思ったが、それは単に自分が扉を塞いでいて邪魔になっていたからで。
……というのは後になって気付いたこと。その時はまったく気付くことができず、侍女を止めることが先決だった。
でも自分が呼び止める前に侍女二人は慌てすぎて転倒した。その際、侍女の一人がバランスを取ろうとしてテラスに続くカーテンを咄嗟に掴んだのを期に惨事が始まってしまった。
ビリビリと豪快な音を立ててカーテンがレールから外れ、それが転倒中の侍女二人の身体に巻き付いてしまい、その結果、突然視界が真っ暗に侍女二人は大混乱を起こし部屋中を転げまわった。
椅子を倒し、チェストにぶつかりその衝撃で上にあった花瓶を倒し、テーブルをひっくり返した。
しかも侍女二人は、転がりながら「あんた邪魔よ」と喧嘩を始める始末。
グレーゲルはこんな悲しい世界を見たことが無かった。
もう失笑するしかない。そう思っているグレーゲルは、滅多な事では人を斬ったりしない。ただ自他共に認める短気だった。
そんなわけで埒が明かないと判断したグレーゲルは腰に差していた剣を抜き、元凶である侍女二人に巻き付いているカーテンを切り裂いた。
幸いにも侍女達はすぐに我に返った。そうしてすぐに互いに身体を抱きしめ合いながら謝罪を繰り返した。
再びおいおいと泣き始める侍女二人を見て、グレーゲルは疲れ切った声で「……もう良い」とだけ言った。剣を鞘に仕舞うのすら面倒だった。
そうしてこの騒動は幕を閉じた。
……と、思ったのだが、ここで信じられない声を聞く。
「ラーシュさん、お約束を破ったようですので、今すぐ騎士の名を返上してください」
部屋に響く淡々とした声音は、他の誰とも聞き間違えようが無い。ユリシアだった。
(戻って来たのか)
背後でユリシアの声を聞いたグレーゲルはおずおずと振り返る。
そこには側近の胸倉を掴んだまま激しく揺さぶるパワフルな彼女がいた。
*
「ーーなぜ、ユリシアを連れ戻した?」
本邸の自室に戻ってきたグレーゲルは、執務机に着席したと同時に側近のラーシュに問うた。殺気などという言葉では到底言い表せないほどの鋭い目付きで。
「あー……いやぁー……そのぉー」
見えない刃でブスブスと刺されているような感覚を覚えたラーシュは、頬をポリポリとかきながら視線をずらす。
その態度は大公に対していかがなものかと思うが、逃げないところは度胸がある。
ただ主であるグレーゲルは、その度胸に免じて質問をナシにするほど優しくは無い。
「答えろ。それとも強制的に言えるようにされたいのか?」
ボルドー色の瞳が赤みを増す。彼の逆鱗に触れた何よりの証拠である。
グレーゲルは己を残忍な性格だとわかっているが、滅多なことでは怒らないとも誓って言える。
彼が刃を向けるのは法を犯すもの。そして大切にしている者に対して害なす者だけだ。そしてそういう者は、徹底的に排除する。それが長年仕える部下であろうとも。
「いやぁ、無理矢理連れ戻したのは認めます。すんません。でもユリシア様は、そんなに嫌がっていないと思うんですよね」
最後通告を受けたラーシュは観念して口を開いた。
「そんなに嫌がっていない……つまり少しは嫌だったということか」
「……」
くっそ面倒くさい質問を受けたラーシュは賢くも沈黙を守った。
ただ誤解を招くような言い方をした自覚はあるので、補足はさせていただく。
「そうじゃなくって、あのお……閣下が言う嫌とはジャンル違いの嫌だと思うんです。たとえて言うなら入団10日目の若い兵士みたいな感じ?」
「……なるほど」
少しの間の後、グレーゲルは苦い顔をしながらうなずく。
トオン領内には魔物が多発する雪山が幾つもあるので、独自の騎士団を持つことを許可されている。
実力主義であるその騎士団には毎年多くの志願者がやってくる。そうして、その一部は毎年決まって逃走するのだ。
ただ彼らが逃走する理由は「故郷が恋しくなった」とか「休暇で街に出たらなんかそのまま戻りたくなくなった」とか、いわゆる明確な理由の無い”出来心”的なもの。
そういった逃亡者に重い罰を与えず笑って再び迎え入れてやれば、彼らは決まって良い兵士となる。
余談であるが、ラーシュも若かりし頃、そんな理由で逃亡をかました一人だったりする。だから焚き火でホットミルクを飲んでいるユリシアを見てすぐにわかった。強引に連れ戻しても大丈夫だということを。
「それにしても、まさかあのタイミングで戻ってくるとはな。お前、なんか俺に恨みでもあるのか?」
「ないっす」
食い気味に答えたラーシュに、グレーゲルは納得できない様子で目を細める。すぐさま側近は首がもげそうなほど、左右に振った。
「……まぁ、良い」
グレーゲルは溜め息を吐きながら机の引き出しからシガレットケースを取り出す。
そして葉巻を咥えると、先端に軽く触れる。すぐさま己の魔力によってジッと火が付き、辺りに甘く香ばしい匂いが漂う。
「今回のことは、不問にする。だが次にユリシアが逃げるようなことがあった場合は、絶対に連れ戻すな。これは厳命だ。二度目は無いことを魂にでも刻んでおけ」
「はっ」
ラーシュは騎士の礼を取った。
だがしかし姿勢を元に戻したあと、余計な一言を口にする。
「閣下もユリシア様が逃げ出さぬよう頑張ってください」
「今すぐ出ていけ」
ごもっともではあるが大層腹が立つことを言われたグレーゲルは、唸るようにラーシュに命じる。
……言い終える前に、側近は姿を消していた。




