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君の席

作者: 棉畑

 田中涼にとって、二年ぶりの春が訪れた。

 駅前からキャンパスへ続く大通りを、風が吹き抜けてゆく。向こうに三角屋根の塔が見える。その背後に広がる空が、いつになく青く思えた。涼は腕時計をちらりと見て、歩く速度を少し落とした。

 浪人が決まった日のことを涼はよく覚えていない。その日を忘れさせるほど、彼の予備校生活は苦しかったのである。シャープペンシルのせっかちな音。自習室の隣人のため息。両親の少し老いた表情。自分は浪人向きの性格ではなかったのだ、とやっと悟ったのは、合格通知の到着とほぼ同時だった。

 涼は正門前の広い階段で足を止めた。もう大学には数回来ているので、門の側に咲く桜も見慣れてしまっている。とはいえ、感慨が失われた訳ではない。涼は階段の真ん中寄りを一段ずつ登った。一ヶ月前、入学試験の日には、真ん中は歩けなかった。

 この日は、クラスオリエンテーションが行われる日である。開催場所の教室はすぐに判った。ドア越しに中を覗く。誰もいないかと思ったが、一人だけ女子がいた。青い眼鏡を掛け、文庫本を手にしている。彼女は教室の最後列右端に座っていた。意を決してドアを開け、軽く会釈すると、彼女も会釈を返してくれた。

 さて、どこに座ろうか。教室には、三人机と一人机が並んでいる。涼に奇妙な直感が働いた。ここで一人机の方に座ってしまえば、自分の大学生活はその時点で終了だろう。孤独なら、この一年間で充分味わった。ここは三人机の方に座るべきだ。涼の脳裏にふとよぎったのは、「足切り」の三文字だった。自分はこちら側でありたいと思った。結局、教室中ほどの三人席に座る。

 かなり早く到着してしまった。口下手な涼は、待ち時間を自己紹介のシミュレーションに充てることにした。しばらくして、続々と新入生が集まってくる。最後に司会の先輩が教室に入り、時間通りオリエンテーションが始まった。



 長宮晴海は、書棚と書棚のあいだで崩れ落ちた。

 ミステリが、ない。大学図書館だから、小説の収蔵数が少ないのは覚悟していた。でも、ここまでとは……。

 晴海が上京した理由はただ一つ、本に飢えたからである。人生の始まりの十八年間を、北海道の漁村で暮らしてきた。人々は海を見るばかりで、まともな図書館など存在しようもない。小学校で本と出会い、その魅力にとりつかれた晴海にとって、その街は狭すぎた。もっと、もっと。彼女の活字欲は、いつしか故郷への怒りに変わっていた。

 そして手にした東京行きの切符。厳しい冬は終わりを迎えたのである。今この瞬間こそが、紛れもなく、春だ。晴海は、引越しの日からこの日まで、毎日本屋に通っていた。これほどがっかりしたのは、そのせいかもしれない。

 今日の予定が完全に崩れてしまった。クラスオリエンテーションが始まるのは、二時間後である。とりあえず図書館を出る。

 適当に歩きながら、晴海は行き交う人々を観察した。マスクをしている人が多い。花粉症にならないのは、道民の特権の一つだ。わたしはいつ発症するだろう、などと考えているうちに、開催場所の教室に着いてしまった。狭い大学である。

 仕方ないので、教室の中で待つことにした。ドアから一番近い最後列右端に座る。鞄から取り出したのは、眼鏡拭きと、昨日購入した泡坂妻夫『煙の殺意』である。この春新調した青い眼鏡を丁寧に拭き、しおりの続きから読み始める。

 開始三十分前に、前のドアから一人入ってきた。顔は平凡だが結構背が高い。彼は教室を見回してから、三人席に座った。晴海はすぐに読書に戻る。

 人が集まってきて、ついに時間になった。物怖じしない性格とはいえ、自己紹介は少し緊張するものである。席の位置からして自分の出番は最後になりそうだ、と気付いて心拍数がまた上昇する。晴海は本を閉じて黒板を向いた。

 背の高い彼が、震えているのが目についた。手に持っているのはペンだろうか。彼の前に自己紹介した男子が爆笑をさらった時、彼の震えは最高潮に達した。ペンが床に落ちるのを、晴海は見逃さなかった。

 彼の出番が来た。

「た、た、……田中涼、…田中涼と、いいます……。と…とうきょ…東京都、出身、で、す」

 彼の人生はこの時点で終了だろう、と晴海は確信した。声の小ささはまだ許せるとして、問題は話の長さである。高校時代の部活動から浪人したことまで、興味のない話題が延々と続く。晴海は本を開きたいのを必死に我慢した。

 やっと彼が座った。と同時に、机に突っ伏してしまった。まばらな拍手が起こる。肩の震えが、後ろからでも判った。

 しばらく自己紹介が続き、最後は晴海の出番だ。

「長宮晴海です。北海道から来ました。こちらに来たばっかりで慣れてないんですが、仲良くしてください。よろしくお願いします」

 出身地を言っただけで覚えてもらえるのも、道民の特権である。



 オリエンテーションが終わってなお、涼は顔を上げなかった。もう帰ってもよい時間なのだが、皆教室に残って喋っている。すでに、クラス内の勢力図は固まりつつあった。初対面の相手と、これだけ話が続く周りが信じられなかった。

 腕のあいだから、前の席が見える。涼にいらぬ重圧を掛けた彼である。どうやらLINEの交換をしているようだ。彼を囲むように人が群がって、四方八方からスマートフォンを持った腕が伸びる。涼は再び顔を埋めようとした。

 こつん、と後頭部を叩かれた気がした。

 振り返ると、青い眼鏡の彼女がいた。

「大丈夫?」

「えっと、名前、何でしたっけ」

「聞いてなかったの? 長宮晴海」

 思わず丁寧語で返してしまった。話題を探そうと、晴海の全身に目を走らせる。右手に持っている文庫本に目が止まった。

「その本、何ですか?」

 この言葉が晴海の宣伝欲を刺激した。



「やっぱり、八月生まれなんだ」

 駅までの道を二人並んで歩く。晴海は背の低い方ではないが、涼に対しては見上げる格好になる。

「そう。僕が生まれた夏は記録的猛暑で、東京も四十度近くの日が続いたらしい。うちの親は、クーラーにあたりながら僕の名前を考えたんだって」

 涼も落ち着きを取り戻して、口が回るようになった。ただし、晴海はこの話を知っていた。涼の後頭部を叩いた時、机上に置いてあったスピーチメモを見てしまったのだ。もちろんそのことは黙っておく。

「そもそも、田んぼの中に涼なんかある訳がないんだ。農家って大体汗かいてるし」

 涼の話は終わったようだ。晴海はすかさず本の紹介に入ろうとしたが、もう駅前に着いてしまった。涼は電車通学である。

「これ」

晴海は『煙の殺意』を涼に差し出した。読め、と目で訴えながら。

「あ、ありがとう」

涼は改札の中へ消えていった。晴海はその足で、本屋へ向かった。



 時は変わって、土曜日。時刻は十一時である。

 涼は改札を出て、曇り空を見上げた。少し肌寒い。

 駅前はちょっとした広場のようになっている。数日通って判ったことだが、この広場では、毎日のように何らかの団体が活動を行っている。ある時はビラ配り。ある時は選挙演説。またある時は宗教団体。充分気を付けなくてはならない。

 この日はティッシュ配りだった。

〈鳥たちに夜を 減らそう夜間照明〉

 涼は迷わず受け取った。この時期のティッシュ配りは、さぞ効果的だろう。

 この日はサークル紹介の日である。入学以来、気の張る行事が続いていたので、涼にとってはうれしい休息の日だ。特に入りたいサークルがある訳ではない。適当にぶらぶら周るつもりだった。

 階段の一段目に足を掛けた時、後頭部に痛みが走った。

「うっ」

「おはよう」

 今日は手刀で殴られた。謝りもせず、晴海は訊いた。

「どこか周りたいサークルはある?」

「いや、別に」

「じゃ、一緒にミス研に行こう」

 断る理由もない。正門で中央新歓のパンフレットを受け取り、構内に入る。

 パンフレットによれば、現在活動しているサークルは二百以上。あちこちで呼び込みの声が聞こえる。行き所に迷う新入生は、容赦ない勧誘の機銃掃射を浴びせられている。

 各サークルはそれぞれブースを設けている。小さな教室一つを借り切るサークルもあれば、大きな教室を分割して使用するサークルもある。サークルの規模、雰囲気ともに様々である。

 推理小説研究会、通称ミス研のブースは、大教室の奥の判りづらい場所にあった。見ると、会員は男一人しか座っていない。頬杖をついて、虚空を見つめている。涼も晴海も一瞬入室をためらった。

 二人が近づくと、やっと気付いたらしい。紙皿と紙コップを並べ始めた。

「新入生? 座って座って」

 彫りの深い顔に、優しそうな目。青のチェックシャツがよく似合っている。

「会長の佐々木です。烏龍茶とオレンジジュース、どっちがいい」

「烏龍茶で」

「僕も」

 佐々木は烏龍茶を注いだ後、アポロチョコを紙皿にばらばら出した。遠慮せず食べてね、と二人に差し出す。

「これは会誌ですか」

 晴海が訊いた。長机の上に、うず高く積まれている冊子があった。

「そう。毎年このサークルで出している会誌です。僕も頑張って書いたんで、よかったら読んでください」

 表紙には『言霊』四十八号とある。号数から察するに、かなり歴史あるサークルのようである。晴海は眼鏡を拭いてから、冊子を手に取って読み始めた。

 涼が恐る恐る切り出した。 

「あの、会員は何名いるんですか」

「何名だと思う」

 晴海はくすっと笑い、涼に目次を見せた。三作品掲載されている。

「三名ですか」

「残念ながら、二名なんだ」

 晴海が再びくすっと笑う。

「最初のが僕の作品で、次が宇野さんの、最後のが野川の作品」

 涼が聞き出したミス研の現状は、以下の通りである。

 会員は二名。会長を三年の佐々木、副会長を同じく三年の野川が務めている。昨年まで十名いた会員のうち、八名がこの三月に卒業してしまった。宇野はその中の一人だ。歪な人口ピラミッドが、一瞬のうちにミス研を地獄へ叩き落としたのである。現在、ミス研は猶予期間を与えられている。この新歓で会員が集まらなければ、非公認サークルへの転落が決定する。

「宇野さんに頼み込んで、一作品書いてもらった。さすがに二作品じゃ寂しいからね」

「僕が言うのもなんですけど、もうちょっと勧誘を頑張った方が……」

「本当にそう思う。会員数は正義だからね。でも、昨年はアポロチョコもなかったんだよ」

 涼は教室内を見回した。この教室に集められているサークルは、どこもミス研と似た境遇に見える。右隣は『チェス同好会』。左隣は『セグウェイの会』。いずれも座っている会員は一人である。他の教室のような活気は感じられない。

「昨年はもっと目立つ場所にブースを出せたんだけどなあ」

 晴海は会誌に没頭している。涼も読みたいと思ったが、並んで読むのも気恥ずかしい。紙皿に手を伸ばす。

 しばらくして、教室に一人入ってきた。太った眼鏡の男である。

「おい、野川」

佐々木が責めるように声を掛ける。

「遅刻だぞ」

「あれ、新入生じゃん。ミス研の野川です。よろしく」

野川はリュックを下ろして椅子に腰掛けた。涼と晴海は軽く挨拶する。

「野川、聞こえてるか。遅刻」

「ごめんて」

「何で遅刻した」

「寝坊。大体、何で土曜日にサークル紹介があんだよ。土曜の昼ってのは、家で気持ちよく眠るための時間でしょ」

「新入生の前でそれを言うか」

言い争ってはいるが、佐々木はどこか諦めた風である。野川は自分でオレンジジュースを入れて、一気に飲み干した。



 十二時半。

 晴海は相変わらず会誌に熱中している。涼はそろそろ他を周りたくなってきた。サークル紹介は十七時までである。佐々木に訊いてみる。

「あの、お勧めのサークルはありますか」

「僕は兼部はしてないからなあ。ちょっと、それ、見せて」

 ぱらぱらとパンフレットをめくる。自らの新入生時代を懐かしんでいるようにも見えた。

「あっ。これかな」

 佐々木が示したのは演劇サークルの紹介ページだった。


 劇団いぶりがっこ 新入生歓迎公演『パニック』

 場所:講堂小ホール

 日時:①十三時~ ②十五時~

 予定上演時間:五十四分


「いぶりがっこって何だっけ」

 野川が呟いた。

「たくあんを燻したやつでしょ。秋田の特産品」

 佐々木が答えると、晴海が口を挟んだ。

「燻してから漬けるんですよ」

 佐々木が感心した様子で晴海を見た。

 その横に紹介文があった。


 一九九三年、秋田県出身のメンバー三人を中心に結成。年四回のプロデュース公演のほか、他劇団との交流も精力的に行っている。その異次元の劇世界は、観客を置き去りにすることもしばしば。圧倒的な舞台を、今、体感してほしい。


「しゃらくせえ」

 野川が吐き捨てるように言った。佐々木はそれを無視して話し始める。

「僕は二年前に新歓公演を見たんだけど、結構面白かったよ。演目も変わっていないようだし、よかったら行ってみたら」

 晴海はまだ残って読むらしい。涼は一人で教室を出た。



 外は相変わらず盛況である。空模様も少し改善し、雲の切れ間が見えるようになった。

 公演開始まであと二十分もない。急いで講堂へ向かいたいが、ビラ配りの集団のせいでなかなか前に進めない。涼は拒否の態度をとっていたものの、強引に手渡されると受け取ってしまう。

 一面に大きくQRコードが描かれたビラがあった。他には何も書かれていない。涼は苛立った。確かにQRコードには読み取りたくなる何かがある。とはいえ、あまりに使い古された手法ではないか。受け取ってしまったのは不本意だった。破り捨てようかと思ったが思いとどまった。

 講堂は人で溢れ返っていた。ホールの入口で二人のスタッフが何かを配布している。涼は何とかそれを受け取った。明らかにスタッフが足りていない。

 ここ、講堂小ホールの舞台は長方形ではなく、中央が膨らんだ円形である。客席もそれに合わせて放射状に配置されている。総座席数は三百ほど。座面が跳ね上がるタイプの座席を採用している。前後を貫く通路は二本。普段は講演会や学会に使われているという。

 到着が遅れたので、中はすでに満席だった。涼は後ろで立って観ることになった。先ほど受け取ったものを確かめる。劇団のパンフレットだと判った。上品なデザインである。QRコードも、裏表紙の隅に慎ましくあるのみだ。

 開くと、キャスト・スタッフが記載されていた。


〈CAST〉

 杉浦友里

 木之本裕翔

 篠宮鏡子


〈STAFF〉

 音響:須藤祐希

 照明:佐田健太郎・長崎あかね

 衣装:田村果歩・杉浦友里

 舞台美術:伊野聡


 実を言うと、涼は演劇に興味がなかった。どうしても冷めた目線で観てしまうのである。同じ理由でテレビドラマも映画も観ない。このせいで、周りの話についていけないことが多々あった。

 加えて、たまった気疲れもある。涼は眠気を感じていた。こういう時、立席はつらい。もう少し早く出発すべきだったと後悔した。座っている人が羨ましい。

 十二時五十九分。アナウンスが流れ出す。

「ご来場ありがとうございます。まもなく開演です。携帯電話の電源を切ってお待ちください」

 涼は指示に従って、スマートフォンの電源を切った。こういう所は真面目である。

 奇妙なことが起こった。

 涼がいる立席スペースの五列前方で、先程まで楽しそうにじゃれ合っていた女子四人組がいた。そのうち通路側の三人が、突然立ち上がりホールを出ていったのである。

 何か別の用事を思い出したのか。涼は突然のことに驚き、残された一人を見た。彼女がこちらを振り向く。視線は三人の背中を追っている。表情がこわばっている、と涼が視認した瞬間、客席の照明が落とされた。

 舞台上をスポットライトが照らし、女優が一人、静かに現れる。

 涼はしばらく観ていたが、すぐに脚が痛くなった。とても演劇に集中できる環境ではない。あの席に座ろう、と決めた。

 女優の独白が終わった。今がチャンスだ。

涼が移動を開始した、その時。

何者かに腕を掴まれた。

振り返ると、先程パンフレットを配布していたスタッフがいた。

「上演中です。移動はご遠慮ください」

小声ながらきつい口調である。

「でも」

「ご遠慮ください」

「別に良いじゃないですか」

「ご遠慮ください」

結局座らせてもらえなかった。ふざけんなよ。涼は静かに呟き、やがて眠りに落ちた。



どこかで聞いたようなチャイムで、目が覚めた。

「緊急地震速報です……強い揺れに警戒してください……緊急地震速報です……」

客席のあちこちから悲鳴が聞こえる。舞台は真っ暗である。

涼の脳は一気にフル回転した。揺れはまだ来ていないようである。

ここにいるのは危険だ。涼は賭けに出た。

ホールの後ろのドアから全速力で脱出する。引き止めるスタッフも突き飛ばした。とにかく、外へ。

講堂をやっと飛び出した時、地面が揺れ始めた。ビラ配りの人々がざわめく。涼は地面に伏せ、頭を守る体勢をとった。



「揺れてますね」

 晴海の対処は冷静だった。会誌を読み終え、佐々木に感想を伝えているさなか、突如足元が揺れた。長机の下に一旦隠れた後、スマートフォンで情報を収集する。

「揺れた揺れた」

 佐々木も同様の対処をとった。野川は、チェス同好会の男と対局中だったので、盤上の駒が落ちないようにするのに必死だった。

「震源地は駿河湾。発生時刻十三時十六分〇三秒。マグニチュード六・五。静岡県西部で震度六弱。東京は震度三」

 佐々木が画面を読み上げた。

 教室に、男が突進するように入ってきた。涼である。

「ちょっと、今、パニックです。こわい……」

 息が上がっている。佐々木は憐れみの目を向けた。

「さすがに、びびりすぎでしょ」

「出てきちゃったの?」

 同時に二人に話しかけられて、処理できる精神状態ではない。涼は、とにかく座るように勧められた。

「おいおい、落ち着け落ち着け」

 さすがの野川も対局を中断し、烏龍茶を入れてくれる。

 十分位たって、涼は平静を取り戻した。

「すみませんでした。取り乱しちゃって」

「君も疲れてるんじゃないの。ほら、アポロもあるよ」

 野川は涼を面白がっているようである。

「そうなんですよ。スタッフのせいで、座らせてもらえなかったし」

「座らせてもらえなかった?」

 晴海は眼鏡を外して、拭き始めた。

「もらえなかったって、どういうこと?」

 涼は一連の出来事を話した。去っていった三人の女子のこと。頑なに移動を禁止したスタッフのこと。

「これは、会場で貰ったパンフレット?」

 涼の鞄にくしゃくしゃに詰め込まれたパンフレット。取り出して、一ページずつ中身を調べる。

 瞬間、晴海が微笑みを見せた。そして佐々木の方を向いて、

「これは、面白いことが起こったようですね」

 佐々木もにやりと笑った。

「判ったようだね。でも、ここで謎解きをするのは……」

「そうですね。移動しましょう」

「野川、ここを頼んだ」

 佐々木と晴海はすでに荷物をまとめ始めた。

「えっ、待って。話が見えない話が見えない」

 野川が騒ぐ。涼は口をぽかんと開いたままである。

「長宮さん、彼らにヒントを出してあげて」

 晴海は、すぐに告げた。

「何故、『いぶりがっこ』は講堂小ホールを使用できたのか?」



 十四時。生協食堂はすでに空き始めていた。三人はお盆を持って奥のテーブル席に移動した。周りには誰もいない。

 涼と晴海が並んで座り、佐々木は晴海と対面する形で着席した。

「おごるにしては安いけど、許して」

 佐々木は財布から五百円玉を二枚取り出し、二人に渡す。

「とりあえず食べよう」

 三人は同時に食べ始めた。涼はカレーライス、晴海はかき揚げうどん、佐々木は生姜焼き。涼は焦らされているような気になって、味がよく判らなかった。

 三人とも食べ終わった。佐々木が切り出す。

「そろそろ、始めようか」

 晴海は水を飲んで、話し始めた。

「さて――」

 涼は劇団のパンフレットを机の上に用意して、聴く態勢を整えた。



「まず、田中くんの身に起こったことを整理します。ある劇団の公演を観にいった所、会場はすでに満員だった。仕方なく立席で開演を待っていると、並んで座っていた女子四人が、一人を残して出ていってしまった。田中くんがそこに座ろうとするのを、スタッフが引き止めた。その後地震が起きて、田中くんは命からがら逃げ出した」

 涼は頷いた。ほんの一時間前、自分が体験したことだ。

「そもそも、これら一つ一つは何でもないような出来事です。開演直前の離席は確かに不自然だけれど、絶対にないとは言えない。三人がたまたま用事を思い出したのかもしれないし、急に仲違いしたのかもしれない。我々に、それを知る手立てはありません。スタッフが執拗に田中くんを止めたのも、不自然ではあります。通路側の三席が空いたのだから、田中くんが着席するよりも、むしろスタッフと揉める方が観劇の妨げになる。しかし、単にスタッフが不慣れだった可能性を否定することはできません」

 晴海は再び水を飲んだ。

「それでは、わたしは何故、謎解きなどする必要があるのか。それは、二つの強烈な違和感を覚えたからです」

 佐々木が晴海をまっすぐ見つめている。

「一つ目は会員数のことです。先程まで我々がいた教室を考えれば判るように、この新歓ではサークルの会員数に応じて、かなりシビアな部屋割が行われたという印象を受けます。事実ミス研は、大教室の奥に押しやられている。ミステリだろうがチェスだろうがセグウェイだろうが、会員数の少ないサークルは目立たない所へのブース設置を強いられています。ここで、『いぶりがっこ』のパンフレットを見てみると、キャスト・スタッフ合わせて八名しかいない。もっと会員が多いサークルはざらでしょう」

 佐々木が小さく挙手する。

「今回の公演に参加していないメンバーがいる可能性は?」

 晴海はすぐに答える。

「その可能性は、かなり小さいと思います。入口でパンフレットを配布しているスタッフがいましたね。人を雇う訳にもいかないから、団員が自ら配っているに違いない。ところが、田中くん曰く人員が明らかに不足していた。この公演は、佐々木さんが観た時、すなわち二年前にはすでに行われていたのですから、ノウハウは蓄積されているはずです。もし余っている団員がいるなら、もっとスタッフは増員されていると考えました。つまり、『いぶりがっこ』の団員は、ほぼ全員があの講堂にいた。到底、小ホールを割り当てられるような規模ではないはずです」

「なるほど」

 佐々木が笑みを浮かべる。晴海の解答に満足したようである。

「二つ目。これはかなり核心に迫ることですが」

 今度は涼が水を飲む。

「教室で、緊急地震速報の報知音が鳴らなかったことです」

 涼は初めてそのことを聞かされた。そういえば、教室で緊急地震速報のことを話した時、佐々木と晴海が目を見合わせていたような……。

「そもそも、鳴るはずがないんです。東京は震度三。気象庁が緊急地震速報を発表した時、あの報知音が鳴るのは震度四以上の揺れが予想される地域と定められています」

 涼が反論する。

「気象庁とは別に、大学が独自の基準で鳴らしていたとしたら?」

「それなら、教室でも鳴っているはずです。理系の研究施設ならともかく、普通の教室と講堂で差を設ける必要はない」

「じゃあ、あの報知音は一体」

「田中くんが聞いた音は、劇中の演出の一部だと考えます。開演前流れたアナウンスは、携帯電話の電源を切るよう促していました。通常の観劇なら、マナーモードで充分なはずです。何故観客に電源を切らせたのか。緊急地震速報は、マナーモードの携帯電話にも届くからです。携帯電話をマナーモードにしている観客は、報知音の演出に差し掛かると、どうしても携帯電話が鳴らないことが気になってしまう。現実に引き戻されてしまう訳です。『いぶりがっこ』は、それを恐れたのではないでしょうか」

 佐々木が手を叩いている。

「その通り。二年前観た時も、そういう演出があった。僕は不真面目だからマナーモードにしていたんだけど」

 晴海は微笑み、さらに続ける。

「そして不幸なことに、その演出の直後、本物の地震が襲ったのです。報知音と揺れにタイムラグがあることはもはや常識。田中くんは、報知音と揺れは対応していると信じて疑わなかった」

 涼は恥ずかしさに顔を埋めたくなった。目の前のカレー皿に気付いて慌てて立ち直る。

「『いぶりがっこ』が講堂小ホールを使用できた理由の一つは、この演出でしょう。防音設備のある場所でないと、上演は不可能です。

部屋割の交渉をする時、この言い分は大きな武器になる」

「でも、それだけでは不十分だと思うよ。演目を変えるよう指示されるかもしれない」

 佐々木が試すように言う。

「わたしもそう思います。それに、冒頭に挙げた出来事も気になります。さらなる謎解きが必要です」

 晴海が一旦トイレへ行く。つかの間の休憩。



 晴海が戻ってきた。

「再開する?」

 佐々木が訊く。

「はい。大丈夫です」

 晴海は座った後、水を飲み、話し始めた。

「残っている謎を整理しましょう。開演直前に席を立った女子三人組。頑なに移動を禁止するスタッフ。あと、『いぶりがっこ』が小ホールを使用できた決定的な理由」

 佐々木は晴海を優しい目で見ている。この人には何か判っているのか。涼には佐々木の態度が不思議だった。

「最後の謎は一旦置いておくとして、前の二つを先に処理します。改めて考えてみても、スタッフの行動は不自然です。上演時間は五十四分。序盤のうちに観客に座ってもらい、存分に演劇を楽しんでもらう方が良いに決まっている。何故スタッフは着席を阻止したのか。わたしは考えました。田中くんの移動が観劇の邪魔になるからではなくて、空いた座席が埋まるのを防ぐためだったのではないか」

 晴海が突然立ち上がる。

「少々、本筋を離れた話をします」

 佐々木は相変わらず優しい目である。

「どんな話?」

「欠落について、です」

 佐々木が頷く。涼は聴いていることしかできない。

「かなり抽象的な話になりますが」

 そう前置きして、晴海は語り始めた。

「欠落、という言葉は、一般的にはマイナスのイメージを持たれています。ボルトが一本欠落したために、建物が崩壊する。ロックバンドからメンバーが一人脱退した結果、人気が急激に衰える。食生活から野菜が欠落していたせいで、生活習慣病にかかってしまう。欠落のせいで物事に不具合が起こる、という例は、あまりに多い」

 自分のことを言われているような気がして、涼は晴海のお盆を見た。晴海も小鉢などは付けていない。ひとまず安心する。

「ミス研もそうだね。かつての会員がいなくなったせいで、今大変な状況にある」

 佐々木が付け足した。

「でも、それだけではない。この世界には、必要不可欠な欠落も確実に存在します。例えば――」

 晴海は一枚のビラを手に取った。

「ここに、大きなQRコードがあります。この、四隅を見てください。漢字の『回』のようなマークが、右下隅だけ欠けている」

 涼はそのビラに見覚えがあった。

「どうして欠けているか、考えたことはありますか。わたしは初めてQRコードを見た時――といってもいつ頃かは忘れましたけど、右下にも『回』があればいいのに、と思ったことを覚えています。ここに『回』があった方が、対称的で美しいのに、と」

 何故だろう、と考えるうち、涼の脳内にフラッシュバックした光景があった。

「どの向きでも読み取れるように、か」

 晴海が微笑む。

「その通り。傷を抉るような話ですが、我慢してください。クラスオリエンテーションの日、田中くんの前の席に人気者がいて、そこでLINEの交換が行われていました。皆が群がって、あらゆる方向からQRコードを読み取っていた。もし四隅に『回』があれば、あのような交換はできません。QRコードが回転対称性を持って、読み取り方が四通り生まれるからです。右下隅は、欠落していなければならない」

 さらに続ける。

「欠落が埋まってしまうと物事に不具合が起こる、という例は他にもあります。あの日、田中くんの自己紹介は散々でした。何故あの自己紹介は失敗したのか。彼が間を恐れたからです。スピーチに無音の時間ができると、すぐに言葉を発してそれを埋めようとした。その結果、長々として要領を得ない自己紹介になった」

 涼の顔が赤くなった。無関係な先輩の前でそれを明かさなくてもいいのに。当の佐々木は晴海に聞き入っている。

「今朝、駅前でティッシュ配りをしていました。わたしは貰いませんでしたけど、主張の内容は知っています」

 涼はポケットに手を入れ、ティッシュを取り出す。

「〈鳥たちに夜を 減らそう夜間照明〉――つまり、光害防止運動です。現代の人類にとって、夜はもはや欠落ではありません。街灯が夜通し辺りを照らし、昼間と同様に活動することができます。しかし、夜行性の鳥類、例えばフクロウやヨタカにとっては、これは由々しき事態です。彼らには光のない時間が必要なのです。夜間照明のせいで光の欠落が埋まってしまえば、彼らは土地を去るしかない。生態系への影響が懸念されています」

「野川が遅刻してきたのも同じことだろうね」

 佐々木が口を挟んだ。

「そうかもしれませんね。土日も、日々の生活に設置された一種の欠落と言えると思います。二日間しっかり休むことで、勉強や仕事を頑張ることができる。ところが、土曜日にサークル紹介が入ってしまったせいで、野川さんの体内時計が誤作動を起こしたのでしょう。考えすぎかもしれませんが」

 晴海は一気に喋った。もう水がない。お代わりを汲んできて、また座った。

「少し話が広がり過ぎました。本題に戻ります」

 涼も座り直す。

「スタッフにとって、あの三席は空席である必要があった。そうでなければ、何らかの不具合が起こるからです。もう一つ飛躍させてみましょう。ホールを去った三人の目的も、あの三席を空席にすることにあった」

 涼はまた判らなくなった。晴海がさらに続ける。

「そう考えれば、結論は目前です。さらにヒントを出しましょうか。注目すべきは、キャストの少なさです。演劇のタイトルは『パニック』。演劇の可能性は無限大とはいえ、パニックを表現するのに、キャスト三人では心もとないと思いませんか」

 やっと閃いた。佐々木が微笑んで涼を見る。

「――客席にも、キャストがいた」

「わたしもそう考えます。パンフレットに載っていないキャストが、客席にいた」

 晴海の謎解きは最終盤を迎えている。

「数人の俳優が観客に紛れて入場し、着席する。そして、舞台上のドラマがある程度進行した後、突然客席で俳優が演技を始める。ホールのあちこちで、ドラマが進行していく訳です。こういった演出は、パニックを表現する時には特に効果的だと思います。現実と虚構の境目が、判らなくなる」

 涼は地震のことを思い出していた。あの時客席で上がった悲鳴は、もしかして……。

「地震発生は十三時十六分。田中くんが眠っていられた以上、パニックの引き金は、この直前に流れる緊急地震速報と考えるのが妥当でしょう。残りの上演時間は四十分弱あります。これが問題です。『いぶりがっこ』の団員は、客席の各所に散らばっている必要があります。ところがもし、座席列の真ん中に位置取ってしまえばどうなりますか。両端は観客ですから、四十分弱移動ができない。舞台に上がっていくには、観客が一旦通路に出なければならない。これは避けたいでしょう。したがって、団員は座席列の通路側に座る必要がある」

 また水を飲む。晴海は興奮している様子である。

「でも、全員が通路側に座るのも不自然です。ドラマが通路側だけで進行してしまっては、観客は現実に引き戻されてしまう。そこで一部の団員がとった作戦が、開演直前の離席でした。通路側の三席が空いていれば、その隣に座る団員はスムーズに移動できる。舞台へ上がることも可能です」

「三席も空いていれば、目立つんじゃない?」

 涼が訊くと、晴海は少し考えて返した。

「周りが明るい状況なら目立つでしょう。でも、照明を落として、スポットライトで団員だけを照らせば大丈夫です」

 涼は記憶を探った。今なら、残された彼女の顔がこわばっていた理由も判る。あれは友人に裏切られた表情ではなかった。一人の女優が、開演を前に決意を固めている表情だったのだ。

「隠れたキャストがいるとすれば、『いぶりがっこ』の規模が小さいと断定することはできなくなります。程度によっては、講堂小ホールを使用することも可能でしょう。以上です」

 佐々木は再び手を叩き始めた。

「大正解。野川はまだ観ていないから、ばらしちゃいけないと思って移動して来たんだ。二年前を思い出すよ。あの時は、楽しかったなあ」

 そして水を飲み、思い出したように言った。

「でも、一つだけ間違いがある」

 晴海は目を丸くした。

「キャストは全員、パンフレットに記載されている」

 佐々木はスマートフォンのカメラを起動し、パンフレット裏表紙のQRコードを読み取った。画面にテキストが表示される。


 作:浦野兼

 演出:村越涼花


 その後ろに、キャスト十七名の名前が連なっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] とてもよく書けていると思うのですが、行が詰まっていて読みにくいです。できれば適度に改行して読みやすくした方がいいかもしれません。 ウェブ媒体の小説は通常の紙媒体と違い、ある程度行を開けないと…
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