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シンフォニア「ひむか」

作者: 長光一寛

シンフォニア ひむか


(第3楽章と第4楽章は切れ目なく)



第1楽章

           

 よく晴れているが冷たい風の吹く朝、私は大学の音楽科校舎の二階のピアノ練習室で少し離れた練習室から聞こえてくるバイオリンの音を聞きながらその日の午後のM高校での面接のことを重苦しい気持ちで考えていた。窓の外で子供たちが凍った水溜りの上をスケートの真似ごとをして遊んでいる。

自分は教師になりたいと思ったことはない。少なくともそのために音楽を勉強してきたのではない。しかし作曲家として身を立てるという中学時代からの願望は、自分の才能に自信が持てなくなってきた今は諦めるか、少なくとも当面選択を迫られている卒業後の職業として実現させることは不可能であろう。やはり今は確実な教職の道を選ぶしかないだろう。学校で教えながら作曲の勉強を続けることもできよう。作曲法の教授はまず第一に第一級の演奏家をめざせと言っていたが、自分はとうてい一人前のクラシックピアニストにはなれまい。度胸がない。中学一年生の時、県のコンクールで自分はステージ度胸がないことを思い知らされた。


 そのコンクールで私はショパンのポロネーズの一つを弾いていた。快調に弾き始め難しい部分も練習の時よりも綺麗に弾けた。そしてふと客席の母に心の中で「どう、上出来だろう」とつぶやいた。そして母のいつもの上機嫌の声が快く聞こえてきた。その時私はつい一瞬客席の母がいるあたりに目を配った。ところが母の姿をとらえ損なったかわりにたくさんの見知らぬ人たちがじっと自分を見ている視線をまともに受けてしまった。 家で練習している時そばに立って聞いている母によく視線を投げ母の表情から演奏の出来ばえを判断する、それは私が物心ついた頃からピアノの手ほどきを受けた母との間にそれまで何度も交わされた無言の会話であり、うまく弾けたと思う時の癖となっていた。ところがこの時私の目は聴衆の中に母のいつものほほえみをとらえ損なってしまった。そしてそれまでは母ひとりを意識して弾いていたのだが、急に何百という聴衆が私の意識の中になだれ込み私を見つめ私のたてるピアノの音にきき耳を立て始めたのだ。私は一瞬軽いめまいにおそわれた。自分が今ライトを浴びてステージの上でピアノを弾いているのは現実に今起こっていることではなく、もう済んだことを回想しているのだという心地がし、そして次のフレーズではしくじってしまうということまで覚えているような気がした。たちまち音を間違える。練習では間違えることのまずないなんでもないところだ。心臓が激しく鼓動し始める。そしてその時初めて私は遺精を経験した。それは私のリズム感覚を一瞬のうちにマヒさせ、射精の律動だけが私を支配した。曲は崩壊した。「お母さんが悪いんだ!」そう思うと私は曲を中断した。客席からため息が聞こえてくる。それは私には非難の声として聞こえた。私は立ち上がって小走りにステージから去った。それ以来永く私はステージでは弾こうとしなかった。やっと高校生になって学園祭などの気楽な場で二度弾いただけだ。そしてそれはジャズバンドのピアニストとしてだった。


 悪夢のような回想が中断された。バイオリンが鳴り止んだのだ。やがて床板をきしませる足音がこちらのコンパートメントに近づき、軽いノックの音とともにドアが開いた。

 「江島、そろそろ行こうか」バイオリンを脇に抱えた男が上半身だけ部屋に入れて言った。

 「うん」私はアップライトピアノの上に置いておいた腕時計を見、それをはめた。「高橋、お前の曲はもうだいたいいいみたいだね。さっきから聞いてたけど、いつのまにか仕上がってきてるじゃないか。上出来だ。ピアノ伴奏のほうもうまく出来てればもう完成だな。無伴奏であれだけしっかりしているから伴奏を仕上げるのも簡単だろう。ずいぶんいいのが出来そうだなあ」

 「いや、実はもう先生の手がかなり入ってるんだ。だいぶ削られて短くされちゃったよ。そっちのバリエーションはうまく進んでるか?」

 「いや、このところずっと堂々巡りにあけくれているよ。スランプだ。重症だ」

 「スランプ?めずらしいな、おまえがスランプと言うとは」

 「めずしくないよ、しょっちゅうだよ。だからおれの曲はみな未完成のままだ」

 「おれはスランプになったと思ったら一日二日バイオリンを弾かないことにしている。こいつを部屋に残してひとりで旅行にでも出かけるんだ。おまえも曲のことは忘れてどこか行ってこいよ。気分転換するんだ。それも作曲のうちだ」

 「気分のバリエーションか?」私は笑った。

 「そうだ、バリエーションだ。名曲は旅のあとに生まれるもんだ。授業のほうはおれが代返しといてやるからさ」高橋も笑っている。

 「旅行したくても金欠病だ」

 「きょうバイト代が入るじゃないか。一二泊ぐらいの外泊はできるだろう」

 「そんなぐらいじゃあこのスランプは脱出できそうにないからな」

 「まあとにかくスランプには旅が一番だ。さあ、そろそろ行かなくては、バスがあと7分だ」


 私と高橋はM大教育学部特設音楽科の同じ研究室で作曲を勉強しているピアニストとバイオリニストで、日曜日の朝十時から十二時まで宮崎市内の楽器店でその店の主催するジュニアオーケストラの指導をアルバイトで引き受けていた。私が指揮をし高橋がコンサートマスターで、あと三人管楽器奏者が同じ音楽科から参加していた。私たちは三週間後に控えたクリスマスコンサートまでこのオーケストラを指導することになっている。

 「江島、そのバッグ何だい?」高橋は床に置いてある白いバッグを指差した。

 「学生服だよ。実はきょうの午後沢田さんに会ってM高に面接を受けに行くんだ」私は後片付けをしてピアノの蓋をしめる。「やっぱり音楽教師になってしまいそうだ」

 「M高?いいじゃないか、女子高だし、音楽には力を入れてるみたいだし、あそこの合唱部は九州でもトップクラスだ。あそこに推薦してもらえたなんてたいしたもんだ」

 「しかし沢田さんも言ってたけど、あそこは進学校だから大学受験優先のカリキュラムを組んでいて生徒たちもその気で音楽の授業なんて息抜き的存在なんだ」

 「それならなおさら気楽でいいじゃないか」

 「沢田さんはうんざりしているらしいよ。あと一年で辞めるんだって」


 私は面接用の学生服の入ったバッグを持ち、高橋はバイオリンケースを持って校舎を出る。雀の一群が校舎前のベンチの周りから一斉に飛び立った。すると氷のかけらが滑ってきて私の足元で止まった。さっきまで水溜まりに張った氷の上を滑っていた子供たちは、氷を割ってそのかけらを蹴ってサッカーのような遊びを始めていた。私はそのかけらを彼らの方に正確に蹴返した。よく晴れた空に飛行機雲が一本にじんで消えかけている。風が冷たい。

 「沢田さんはあれはペシミストだからいけない。彼の言うことをいちいちまにうけていたらこの世は闇だよ。あの先生は歌を歌わせると超一流だが、しゃべらせるとどうも人の気分を悪くさせる。まあおまえもおれもあの先輩にはアルバイトや楽器のことでいろいろお世話になってるけど、どうも尊敬できないんだよな」高橋はそう言いながらどんどん歩く速度を速める。

 「うん、まあとにかくきょうの面接は気が重いよ」


 大学前の停留所でバスに乗った。三つ目のバス停で三人の同僚が各々の管楽器の入ったケースを持って乗ってきた。

 「よう」五人はお互いに声を交わす。

 「先生、きょうあたりあのおりんちゃん、お茶でも誘えよ。あの子お前に気があるよ、みえみえだぜ」トランペッターの神原が高橋の隣にどんと座って言った。「もうあんまりチャンスは残されてないぞ」

 「言うなよ、それは。気がふさぐから。オレはおまえみたいなプレイボーイじゃないんだから」高橋はバイオリンのケースで神原の腹を突く真似をした。

 彼は高校二年生の少女でジュニアオーケストラのあるバイオリニストが確かに好きだった。そして毎週日曜日の朝の練習を一度も欠かさなかったのは、そのためであることも事実だ。そしてその少女も練習には必ず来て高橋を「先生」と呼び、いつもバイオリン奏法に関する質問を一つ二つ用意していた。ところが高橋は先生と呼ばれることに戸惑い、無理して先生らしく振る舞おうとするのでぎこちなくなり、その様子はふだんの彼を知っている同僚たちを喜ばせた。彼らはその子を内輪で「おりんちゃん」という愛称で呼んでいた。そして高橋は「先生」だった。

 「先生、だけどこんどの演奏会で一応おれたちはお役目ご面で引退だよ。それまでになんとかしろよ。おまえ卒業したら東京だろ、もう会えなくなるぞ。おりんちゃん連れて行ってやれよ」トランペッターはあたりをかまわず高らかに言う。

 「ばかなこと言うなよ、神原」

 「先生、映画だ。ほら、ロミオとジュリエット、いいらしいぜ。練習が終わったら二人で行ってこいよ」フレンチホルンのケースをジーンズの両足の間に置いてすわった吉田が、窓の外の映画館の大きな看板を指差してそそのかす。するとバスは右にカーブを切り、目抜き通りに入った。

 「そういえば、あのおりんちゃん最近眼鏡してないけど、コンタクトレンズなのかなあ。やっぱり先生を意識してるからじゃないのか?」はしっこに座ったひげ面のフルーティストの佐田が笑って言う。


 高橋はもう彼らを言うがままにさせている。彼にとってこの話題になんらかの意志を表明することは、彼が永く持ち続けているある願望に関する意志の表明をも意味していた。彼には他に長い間思いを寄せている女性がいる。同僚たちはまたそれも知っている。そちらの話題はしかしタブーである。だから彼らは知らないふりをせざるをえない。

 高橋はバイオリンと作曲を勉強するために音楽科に入ったが、三年生の時、同期のピアニスト岡田真理と組んでバイオリンとピアノのためのソナタや小品を数曲仕上げたことがあり、その時から彼女を好きになった。その気持ちを打ち明けたが、彼女は音楽科でも一二を争う練習の鬼で、毎日最低五時間はピアノに向かってないと気がすまないという熱心さで、ずっと異性関係を意識的に避けているようであった。二人の関係はそれでずっとあいまいなまま一年間も続いている。高橋自身も練習は非常に熱心であったが、岡田真理を恋するようになってから集中力が散漫になることが多く、長い間スランプに陥ったこともある。そんな彼の真剣さが、初めは他人の恋には冷淡だった同僚たちをも気遣わせた。したがって、「おりんちゃん」の登場は彼らにとって高橋の救済にはうってつけだった。


 ただ私だけは別の立場にいた。高橋はある時、特に親しくしていた私には自分の岡田真理への思いを吐露したのだった。そのことがこんどは私を悩ませることになった。高橋の告白があまりにも唐突だったので、これに対する私の対応は重要な告白を欠くことになってしまった。そしてそれは時間がたつとともに言いにくくなり後ろめたさも増した。私には岡田真理に関してだれにも打ち明けていない秘密があった。それは彼女が私にとって初めて自分の気持ちを打ち明けた女性であったということだ。


 「岡田さんが言ってたけど、江島、おまえM高の面接受けるんだってな。いよいよ教師になる腹を決めたか」吉田が私の肩をたたいた。「おれも故郷の山口の教職試験を受けるつもりだよ」

 「実は面接きょうなんだ。それで良ければ来春から採用になるんだ。沢田先輩があと一年でやめるそうで、それまでは見習い教師ということなんだけど」

 「沢田さんはM高やめてどうするんだい?」佐田が体をのり出してきた。

 「そりゃーオペラに決まってるだろう。あの先生は学校は二の次でしょっちゅう東京に行ってオペラをやってるんだから。給料のほとんどが飛行機代で飛んでゆくらしいよ。それでM校の方でもやめてもらおうということになったんじゃないの?」神原が知ったかぶりをする。

 「いや、もう一度ドイツに留学するんだって」と言った私はしかしすでに他のことを考えていた。沢田先輩には悪いが、面接は受けても何か理由を考えだして就職は辞退しようと。「それでこの一年間はドイツ語の勉強に励むということだ」

 「へえー、しかしあの人資金はあるのかい?」神原が聞いた。

 「独身だからすぐたまるんだろう」高橋がぶっきらぼうに言う。「酒もたばこも麻雀もやらないし・・・」

 高橋は沢田を目のかたきにしているようなところがある。沢田は学校の仕事が終わるとよく母校のM大を訪れた。そして最近は岡田真理にピアノ伴奏を頼んで歌曲の練習をしていた。いくつかのコンクールで入賞経験があり幅広いピアニストをめざす岡田真理にとってそれは歓迎すべき経験であった。しかし高橋には気にくわないことであり、特に練習が終わるといつも沢田が岡田を車で送っていくことには耐えがたい苦痛を感じていた。

 「教授や沢田さんの推薦だから江島の就職はもう決まったようなもんだ。なあ今夜みんなで前祝いに飲みに行こうぜ。バイト代も入るしよ。何ならおりんちゃんもさそおうよ。な、高橋」吉田が提案する。

 「いや、ちょっと待ってくれ」私は気まずそうに言う。「おれはまだ気が進まないんだ。ひょっとしたらおれの方で断るかもしれない」

 「そりゃもったいないな、M高だろ?」吉田がけげんそうに言う。

 「江島、おまえ他にどこかいい就職口でもあるんかい?」佐田が立ち上がりながら言う。バスがT通りの停留所に止まった。五人は降車口に向かう。

 「いいというのはないけど・・・」私はステップをおりながら、佐田の質問に対する答えを吟味する。

 私はできることなら高橋の行く東京に出てみたかった。東京には中学生の時知り合ったジャズのクラリネット奏者がおり、自分のジャズピアニストとしての才能をかってくれている。高橋が東京のG大の大学院で研修生として勉強すると決まったときから、今までは本気では考えなかった上京を具体的に考えるようになった。都会への憧れもあった。とにかく東京でピアノを弾いてみたかった。

 「おれできればこの宮崎から出たいんだ。高校の時から七年も住んでるとここでは何をやってもつまらない気がするよ。・・・おれも東京に一度出てみたいんだ」


 私は中学生の時、両親に反抗して家出したことがある。保護され、担任の先生に連れ戻されたが、その時から長い間ピアノを弾かなかった。部屋に閉じこもり自閉的生活をした。両親や六才年上の兄と口をきくことがなかったばかりか食事も共にしなかった。私がなぜ家出し自閉的になったかその原因を知っていたのは若い担任の先生だけだった。

 江島家に六年ぶりに生まれた二人目の子として私は両親や兄にこわれ物のように大切に扱われ、特に母親からは人形のように可愛がられた。そしてピアノの上手だった彼女は私にその手ほどきを始めた。私はやがて母親の期待に応えることを喜びとして生きるようになり、特に彼女の好きなショパンを上手に弾いて彼女を喜ばせることが最上の幸福となった。めきめき腕を上げた私は小学三年生の時からある先生について勉強した。しかし中二の時クラス委員長だった私は担任の先生とある級友の母親の葬式に参列するため車で町に出かけていったが、その時、自分の愛する母が、普段は丁重に応対する自分の尊敬するピアノの先生とまるで夫婦のように肩を寄せて歩いているのを目撃してしまった。その瞬間から母のかけた私に対する魔力は消え、私は人形から自分になった。自由になった。そしてピアノの練習を一切やめてしまった。母にそれをとがめられると家出し、二日目に連れ戻された。家に戻った私はピアノのある応接間に絶対入ろうとしなかったばかりか、自分の部屋に閉じこもっていることが多くなった。だがピアノから離れた私にはまるで生気がなかった。担任の先生は自分の家に連れていってピアノを弾かせようとしたが私はかたくなに拒んだ。ピアノを弾くということは自分をピアノを弾く人形のように育てておきながら自分を裏切った母親の魔術に再び屈服してしまうことだった。

 しかし二度目に担任の先生の家に行ったとき、先生の学生時代の友達だというプロのジャズクラリネッターが来ていて、先生と彼とはピアノとクラリネットで得意のジャズナンバーを二つ三つ弾いて私に聞かせた。私はこの演奏がとても気に入った。楽譜からすぐに目を離し、即興的音楽を積極的に楽しもうとする二人の演奏態度は新鮮だった。そしてこのような音楽を演奏することは母に対する反抗の態度と矛盾しないように思えた。また先生の温かい気持ちをこれ以上無視したくなかった。こうして私は休日や夏休みに先生の家に行ってジャズの手ほどきを受けた。レコードもたくさん聞いた。もともとピアノ奏法の基礎はしっかりしていたので、先生を驚かすくらいの早さでジャズをこなせるようになった。

 やがて私は家でもジャズを弾くようになった。家族の者たちには驚きであったが、それでも家ではずっと部屋に閉じこもっていた私が応接間でピアノを弾き始めたということは喜ばしいことだった。約一年後にクラリネッターと再会したが、彼も私の上達ぶりにあきれ、プロになる気があるならいつでも東京の自分を訪ねてくるようにと名刺をくれた。

 私は高校に入るとすでに存在していたジャズ同好会に入ったが、先輩の女性ピアニストよりはるかに上手だったので次第に居づらくなり、一年足らずでやめてしまった。二年三年の時学園祭のたびに特別に頼まれてピアノを弾いたが、私のジャズに対する興味はすでに薄れており、再びクラシック音楽を弾くようになっていた。高一の時ロマン・ロランのベートーヴェンの伝記を読み感動し、続いてこの音楽家に関する本を数冊読みたちまちこの大作曲家を神様のように崇拝するようになった。そしてベートーヴェンの曲ばかり練習し始めた。特にピアノソナタは一生かけても全曲弾けるようになろうと決心した。中学生の時一番を仕上げたし他に小曲をいくつか弾きこなしたが、その頃のそれらの曲に対する姿勢とは今度はまったく違っていた。以前の私は母親の評価をいつも意識して曲を仕上げていったが、いまではベートーヴェンを尊敬する気持ちから一音一音に祈りに似た気持ちを込め、どんな軽い曲も真剣な気持ちで練習した。

 やがて母との関係は外見上では回復し、結婚した兄も私がピアノを弾くことを励まし私に大学で音楽を勉強するようすすめ父親を説得してくれた。私は自分がピアノから離れるということは魚が水から出てしまうのと同じように不自然でありまた危ういことだと自覚していたので自分には音楽の道しかないと信じた。

 やがてベートーヴェンの影響はついに私に作曲家をめざさせた。学校から帰宅するとピアノにつきっきりで作曲の真似ごとをしている時が多くなった。もともと孤独がちな少年だったが、作曲をするようになってから孤独を愛するようになってきた。学校ではあまり口を聞かず、休憩時間には好きなSF小説を読んでいたり、楽譜をながめていたりして、人から話し掛けられなければいつもひとりでいた。そして授業中は自分の中を泉のようにあふれ流れる音楽を楽しんでいることが多かった。

 ジャズを弾いていたので即興演奏はおてのものだったが、ベートーヴェンを多く弾くようになってからもっと黙想的で長い即興演奏をするようになった。それによって私の孤独を愛する傾向はさらに深まっていった。即興音楽の中に陶酔し時間の過ぎるのを忘れて弾き続け、母に注意されて初めて夜の更けたことを知ることもあった。心を打ち明けて話し合える友のいなかった私にとって即興に自分の気持ちを込めて吐露することは心情発散の代償行為となるものであった。小学生の頃から好きだった近所の女性が交通事故で死亡したと聞いた日、私は彼女を想いながら長い弔いの曲を奏でた。和音と不協和音の呼応、それらに生命を与えるリズム、そして予知されることなく生まれ去ってゆく美しいメロディー、あるいは神秘的変調、それらが私の感応しやすい心と共鳴し、私を時を越えたはるかな音の世界に受け入れた。ベートーヴェンのソナタを練習する時が苦しい自己訓練の時間であるなら、即興の時は快い憩いの時間であった。

 私はまたSF小説を愛読していたせいもあって、空想小説を書くことに興味を覚え、即興演奏をしながら創作中のストーリーの展開に思い巡らした。多くの場合読んだばかりの小説のパロディーであった。同様の趣味を持つSF愛読家たちと自作を見せ合い、空想を競い合った。私にとって自由な創作はいつも快い憩いであった。


 このような内向的な生き方の中にも三年生の時私にとって初めての異性の友達ができた。それが岡田真理であった。同じくM大の音楽科を目指しているということでふたりはある日音楽の先生に連れられてM大音学科のある教授に面会に行った。ふたりはそれぞれ初見でバッハの曲を弾かされた。ピアノを弾く岡田真理の横顔を私は美しいと思った。自分の母がピアノを弾くのを見るのが好きだった私は、真理の姿に我知らず見とれた。ふたりとも素質があるので一生懸命勉強に励むようにと激励された。この時からふたりはライバル同志となり試験曲のバッハのインヴェンション二声8番などを猛練習し、競い合った。音楽の先生の計らいで吹奏楽部の練習のない火曜日と土曜日の放課後に音楽室のグランドピアノで練習することが許された。入学試験ではグランドピアノで演奏させられるのでそれに慣れておくためだった。最初は私が火曜日、真理が土曜日と割り当てられたが、すぐにふたりはいっしょに練習するようになり互いに演奏を批評し合った。

 ふたりの技術を比べるなら、ずっとピアノの先生について勉強してきた岡田真理のほうが数段上だった。しかしある放課後、音楽室に彼女が来た時、私はショパンのノクターン第1番を弾いており、彼女は私に気づかれないようドアのところでたたずんで耳を澄ました。この時私はかつて盲愛していた母のことを悲しく思い浮べて弾いていた。真理が来たのを知ると私はすぐ弾くのをやめた。恥ずかしいという気持ちと腹立たしさが私を襲った。学園祭でジャズを弾いたり、作曲をしたりしている私を真理は軽蔑していたが、この時初めて彼女は私のピアノに魅かれ、やがて憧れるようになった、とのちに聞かされた。



 ふたりは共にM大教育学部特設音楽科に合格した。ちょうどその年はT大が大学紛争の影響で新入生を募集できなかった年で、M大も紛争に無縁ではなく学生ストが繰り返され、新入生たちは好むと好まざるとにかかわらず改革思潮の洗礼を受けることとなった。

 大学生となった真理は必修科目の「オーケストラ」でチェロを練習した以外はピアノ一筋に打ち込んだが、私はブラスバンド同好会に加わりフレンチホルンやトランペットを吹いたり指揮をしたり、さらに三年生になると作曲の先生の研究室に入り作曲法を勉強した。しかしどれも中途半端であった。何かに熱中しそれに励むということが大学生になってからの私にはなくなっていた。ベートーヴェンのソナタのレパートリー化も大学で本格的に取り組もうと決めていたが実行されていなかった。ソナタに限らずベートーヴェンの曲は避けるようになっていた。作曲もいろんな種類の曲を手掛けたがどれも未完成のままだった。

 そんな時研究室でいっしょになった高橋は私とは対照的に熱中型でありその正義感と行動力は私を強く魅きつけた。やがて高橋が真理のことを打ち明けるにつれ彼の鍛え上げられた精神力の陰に隠された生来の臆病さが私にも見えてきたが、それはかえって高橋に私をさらに近づけさせた。高橋はほとんどの音楽生と同じようにベートーヴェンをまず尊敬していたが、バイオリニストのせいもありパガニーニに強い愛着をもっていて、その難曲のほとんどを弾きこなした。また音楽生としては珍しく学生運動に深くかかわっていた。

 宮崎での大学紛争は過激な暴力事件はほとんどなかったが、ある時KM派の学生が占拠し長い間封鎖していた校舎を教官たちが解除しようとし、それを察知したMS系の学生を中心とした男子学生が応援にかけつけ、実質的には校舎に押し入った学生がKM派学生を強引に追い出したことがあった。高橋はその時窓ガラスを割って最初に校舎に入った学生たちのひとりだった。しかし彼は二階で、たてこもっていたKM派学生と遭遇し木刀で右手を打たれた。私は偶然向かい側の校舎にいて、これらの様子を窓から目撃した。高橋が右手を痛そうにかばいながら一階に降りてくると、私はすぐにその校舎に入って高橋のところに行った。彼の手の一部が青紫色に腫れ始めていた。外から入ってきたKM系らしい学生が消火器を振って噴き出す白い泡を高橋や他の学生たちにめがけて飛ばしていた。私はすぐに高橋を医務室に連れて行った。

 骨折はしていなかったが高橋は二ヵ月ばかりバイオリンを弾けなくなった。私は高橋の下宿に行ったり彼を自分の部屋に招いたりして、右手の使えない高橋の面倒を見た。私はそうすることに喜びめいたものを感じることができた。高橋に一度も会うことがなかった日には必ず夜に彼の部屋を訪れた。ある夜高橋がいなかったので朝までそこにいたこともあり、早朝高橋が帰って来ると「インスタントラーメンご馳走になったよ」と言って出て行った。

 高橋を学生運動に駆り立てた大きな要因は彼の正義感であったろうが、その活動に拍車をかけたのは彼の求愛に対して曖昧な態度をとり続けた岡田真理であったといえる。彼は彼女のいる所ではわざと革新的な言葉をはくことがあり、彼が手をけがしたのもあるいは名誉の傷を受けることにより真理の気持ちを引こうという潜在的願望があったのではなかろうかと私はかんぐった。実際その頃の彼は少なくとも音楽科内では英雄視され、下級生の中には彼に対する尊敬心から学生運動に参加するようになった者も二三人いた。ある時高橋は真理に、首から吊した包帯の右手を示しながら「おれ、今度のコンクールはもうあきらめたよ、ごめんね」と言ったことがあった。彼はそのコンクールで真理にピアノ伴奏をしてもらえることになっていた。しかし真理の彼に対するあいまいな態度は変わらなかった。

  高橋は音楽書だけでなく、たくさんの本を読み、議論に強く、学生大会でもよく発言した。また手相に通じていて、彼は自分の勉強しているのは手相術ではなく統計データに基づいた手相学だと言っていた。ある時彼は私の手相を見た。左手をとると「これが生命線だ。ああおまえ長生きするね」などと言いながら人差し指の先を筋に沿って滑らせた。私はその滑らかな動きに快感を覚えた。そしてずっとこのまま彼の手に触れられていたいと思った。すると高橋はある筋に指を止めて、「ほう、結婚したら奥さんを大切にするタイプだね」と言い、こんどは右手をとるとその左手の筋と対になる筋を探した。そして高橋は急に私の顔を見、にやりとして言った。「江島、おまえ女性を自分のものにしたと思うとすぐ突き放してしまうところがあるだろう?」その時私は「えっ?」と意外に思った。そして「そんなことはないよ」と笑いながら言った。しかし私はのちにこの時のことを思い返すたびにそれが外れてもいないことを知るようになった。



 「おれも東京に一度出てみたいんだ」私が言うと前を歩く高橋が振り向いた。私はジャズをやりたくなったら東京に出て来なさいと言った中学時代に知合ったジャズクラリネッターのことを思い出していた。しかしあれからもう六年たっている。「知り合いの人がジャズバンドにいてひょっとしたらという口なんだ」

 「そうか、ジャズか。なんという人だ?」吉田が火をつけたばかりのたばこを口に入れたままけむそうにしゃべる。

 「三上という人だけど有名じゃないね」私はだれかがその名前だけでも知っていてくれることを期待したがだれも知らない様子だった。「中学の時担任だった先生の友達だ」

 「なあ、江島、おまえその話うまくいったら、おれも紹介してくれよな」トランペッターの神原が冗談とも真剣ともとれそうな口調で言う。

 「おまえくらいのペッターなら就職口はたくさんあるだろう」

 「オーケストラだけじゃ食っていけねえから困るんだよな。結婚だってそう簡単にはできないんだ。ジャズなら食っていけそうじゃないか」


 日曜日の目抜き通りの歩道は朝から人で賑わい、バス停付近はいろんな行く先のバスを待つ人々でいっぱいになっている。そこを抜けてデパートの前に来ると、開店を待つ人々が寒風を避けようとデパートの入り口の陰に立っている。ジェット機がよく晴れた空を爆音を残して飛んで行く。

 五人は「ジングルベル」の鳴り響く楽器店に入っていった。すると思いがけなく沢田と岡田真理が楽譜売場の棚のそばに並んで立って楽譜をパラパラとめくりながら見ていた。長身で体格のいい沢田はどこにいてもすぐ目についた。

 「おっ、沢田さんと岡田さん」神原が言うと、「しっ、ほっとけよ」と高橋がぶっきらぼうに言って階段を足早に昇って行く。私は真理の横顔を見、沢田の横顔を見た。真理が肩で沢田をこづいて自分の見ている楽譜に彼の注意を引いて何か言う。私は抑えることのできそうにない憤りを感じ息が苦しくなってあえいだ。かつて母とピアノの先生が街で親しそうに肩を触れ合いながら夫婦のように歩いているのを目撃した時に感じたのと同じ絶望感と激怒による胸をねじって絞られるような痛みが彼を襲った。私はふたりの方に歩み寄った。

 「沢田さん、おはようございます」

 「おお、江島君・・・」沢田は振り向いたが、私の声が少々荒っぽかったのでまごつく。

 「先輩、本当に申し訳ないんですが、きょうぼくは面接に行けません。そしてM高は辞退させていただきたいんです。すみません」彼は沢田に一礼し、あっけにとられている真理に一瞥を与えると逃げるように立ち去った。その時の真理は今までに見たことのないほど大人っぽい化粧をしていて、その人工的に洗練された美しさの彼女と目が合った時私は一瞬めまいを覚えた。

 待っていた吉田と佐田が私の肩を軽くたたく。三人は並んで階段を昇った。私は三階の練習室に入るとすぐにグランドピアノの前にすわりジャズを弾き始めた。すでに来ていた四・五人のジュニアオーケストラの子供たちがびっくりして私を見る。高橋はそのピアノの反対側に立って、濃紺のセーラー服に身を包んだ高二のバイオリニスト「おりんちゃん」に誓いを立てる時にするように手の平を彼の方に向けさせそれに触れないで手相を見ていた。彼女は高橋が何か言うたびにうんうんと笑顔でうなずいた。やがて神原がトランペットを取り出して私のジャズに加わった。すると高橋も私の右横にやって来て右手だけで高音部のあるキーだけをリズムに合わせてたたいた。


 その日の正午過ぎに練習が終わると、高橋は初めて「おりんちゃん」を昼食に誘い、ふたりで出ていった。私は残ってピアノを弾いた。みんなが去ってひとりきりになるとショパンのノクターン一番を弾き始める。すると思いがけなく真理がひとりで入ってきた。私は演奏を中断しないで弾き続けた。曲が終わるまで真理は黙って私のそばに立っていた。終わっても話しかけてこないので私は立ち上がり、彼女を見ないで「先ほどは失礼しました。せっかくのデートのところを」と言う。

 「江島君、どうしたの?江島君があんな恐く見えたの初めてだわ。M高のこと、沢田さんとても困ってられたわよ。あなた・・・」

 「だからすいませんって言ったじゃないか」私はピアノの蓋を閉め荒々しくブレーザーを着た。「また彼に会ったら謝るよ」

 「江島君…」と言って真理はハンドバッグから何か取り出そうとしたが、バッグの口を閉め直して言う、「お昼まだでしょ、食事に行かない?」

 「なんだ、沢田さんといっしょじゃないの?」窓の外を見ていた私は振り向いて初めてまともに真理を見た。その時の彼女は朝会った時の大人っぽい彼女よりずっと真理らしく見えた。

 「何言ってんのよ、沢田さんは江島君のことを断るためにM高に急いで行ったのよ。教頭があなたの面接のためにわざわざ日曜日に学校に出てくるというのに困った困ったって言ってられたわ。あなた本当に無責任なところがあるのね。」

 「そうなんだ。だから教師になる柄じゃないんだ。だからはっきり断ったんだ」私の手が再びピアノのふたを開けた。

 「だけど断り方があるでしょう。もっと早く言わなくっちゃ。ずいぶん迷ってたの?」

 「まあね」私は真理の最後の言葉に思わぬやさしさを感じて視線を鍵盤の上に落とし、ふたを静かに閉め直す。「腹へった。昼付き合うよ」

私は真理に対してはだいたいいつもこのようにぶっきらぼうになる。それは高校生のとき彼女に思いを告白して以後の事で、まるでふたりは姉と弟というような印象を第三者には与えていたようだ。またその私の話し方は、家出する前の母に対する話し方とも似ていた。だからのちに私は、自分の心の中で母が占めていてすっぽり空洞となってしまった部分を埋めるために真理を押しこめようとしたのだと悟ることとなった。


 私が防音ドアを開けるとまるで突風のように、下のレコード売場から大きなボリュームのジョン・レノンのクリスマスソングが飛び込んできた。

 「江島君」私のあとを追って練習室を出た真理が言う、「でもあなた立派にここの指揮者や学校のバンドの指揮者が務まってるんだから教師としての素質は十分あるはずよ」

 私は黙って階段を下りていった。

 店の人からバイト代をもらうと私は真理に、自分のためにせっかくの沢田氏とのデートが台無しになってしまったのだからその償いとして昼食は自分がご馳走するよと、拒む真理を説き伏せた。

 外に出ると冷たい風が吹きつけふたりをレストランのたくさん並ぶ近くの横丁に急がせた。真理の希望で野菜スープがおいしいというレストランに入った。客の少ない二階に上がる。私はそこに高橋も来ているのではないかという気がしたが、奥のテーブルで中年のカップルが食事をしているだけだった。ふたりは窓際の席にすわった。赤白のシクラメンが飾られている。

 「江島君とふたりで食事するのって久しぶりね」真理は買ったばかりの大きな楽譜を紙袋から取り出してそれを開いてテーブルの上でパラパラとページを走らせながら言う。「ずっとなかったわねえ」

 「高校の時以来だ」私は真理の楽譜がピアノ伴奏付きの歌曲のものだとすぐわかったが、そのことには気づかないふりをしようと思う。

 「そうね、あの頃土曜日の昼によくいっしょに学校の近くの食堂に行ったわね。もうあの頃から四年もたっちゃったんだな」真理はすぐに楽譜を紙袋に戻しながら言う。

 「シューベルト?」しばらくして私が聞いた。

 「うん」真理は言って下を向いた。

 「けさ、楽譜売り場で会ったとき、目まいがしたよ、きれいなんで」

 「へへへ、これのせいかな?」真理はポケットからハンカチに包んだ付けまつげを出して見せた。

 「そうだ!これだったのか、これをつけてニ三回まばたきをされたら男はみないちころだ」

 「小学校の同窓会で、これ付けて行ったら、友達だった子が私を見てもすぐに私と気づかなかったのよ、そんなに変わって見えるっていうのもショックよ」

 「高校のときの君からもずいぶん大人びたから、小学生のころの友達なら君に気づかないのは自然だね」

 「覚えてる?高校のときラブレターくれたことあるの」

 「覚えてるよ、そりゃー。忘れようたって無理だ。振られたんだからね」

 「あら、私振ったんだっけ?」

 「振ったよ。あの手紙だって返したくせに」

 「でもそれからよくいっしょに食事に行ったり、けっこう付き合ってあげたじゃない」

 「そりゃーでも友達づきあいだよ」

 「ずるいね」

 「だれが?」

 「あなたよ」

 

 真理は付けまつげをしまうと、そのまま、だまった。つまらないことを言ってしまった、と私は思う。


 高校三年生の時、私は確かに真理にラブレターを書いたことがあった。それはラブレターというより、真理のピアノ演奏に関する感想といったほうがいいが、最後に英語で「With Passionate Love」と書いたからラブレターに相違なかった。

 私は初めて真理がピアノを弾くのを見たときから彼女に強く魅かれた。それまでに学校で何度か顔を会わせていたはずだったが、特に印象に残る女性でもなかった。かわいい子だなと思ったこともあったが、それは男性が少しでも魅力のある女性とすれ違うときに必然的に感じるあのマッチの炎のようにはかない一瞬の恋心以上のものではなかった。しかしM大の音楽科教授の研究室で初見でピアノを弾く真理はまるで別人のようだった。楽譜を見つめる真剣なまなざしときっと引き締まった口元は、あどけなさの残った彼女独特のかわいさをまぎれもない成熟した女性の美しさに完成させていた。

 その後、放課後音楽室のグランドピアノでいっしょに練習するようになってますます真理に魅かれていった。そしてまた真理が自分に好感を持っているようにも信じられた。真理は放課後音楽室で私といっしょになるとき、淡い香水の匂いをいつも漂わせていた。もちろん香水など学校では禁じられていた。

 夏休みが終わってしばらくしたある日、久しぶりに音楽室で会うと、彼女は「ずいぶん日焼けしたでしょう」と言ってブラウスの半袖をずっと押し上げ日焼けした部分と白いままの部分との境界線を私に見せた。ふたりきりだったという情況も手伝って、その肌は自分で「目の毒」と思ったくらい鮮烈な印象を私に与えた。その夜、眠れぬまま強いものに急き立てられるようにレポート用紙十数枚の長い手紙を書いた。それを書きながらどのようにして彼女にその手紙を渡すか思案した。次の練習日までは待てない。血潮がほとばしるような新鮮な気持ちは一刻も早く知らせないと、やがて自分でそれが恥ずかしくなってとても渡す勇気は持続しそうになかった。本文は、真理がいつか意見を求めていたクラシックとジャズに対する演奏姿勢の違いについて簡単に触れたあと、彼女のピアノ演奏に関する私の敬意を述べる他愛ないエッセイ調のものだったが、最後に唐突に 「With Passionate Love」 と書いたのでラブレターとなった。

 そうして翌日、昼休みに真理の教室に行きジャズ同好会のリーダーと学園祭のことについて話しながら、真理に手紙を渡すチャンスをうかがった。その教室は何度か行ったことがあってその様子は心得ているはずだったが、その日は自分が思い描いていた光景とは雰囲気がもっと疎遠なものだった。真理までが私の存在に無関心であるかのようであった。みんな私の知らない何か重大なことに気を取られていて、こんな時にラブレターなどを渡すなどもってのほか、といった雰囲気だ。手紙を渡す勇気がひるんだ。しかしその日渡せなかったらその勇気が次の日に再び湧いてくるかどうか自信がない。是が非でもきょう渡してしまおう、そう私は自分に言い聞かせた。やがて真理がやってきて話に加わった。私は無口になった。彼女が美し過ぎるように見えた。この女性を自分のものにしようなんてとんでもない野心のように思われ再び勇気がひるんだ。その時だれかが教室に入ってきてジャズ同好会のリーダーを呼んだ。そして真理と私はその場ではふたりきりになった。「これ、ピアノのことだけどよかったら読んで」私は立ち上がりながら封筒を押しつけるように渡し逃げるようにその教室を去った。まるですぐに爆発するようセットした時限爆弾を彼女の手に渡してあわててそこから遠ざかったようだった。私は自分のしたことに興奮してその日は何も手につかなかった。ただ心は明るかった。天気で言うと晴天風強しという心模様だ。その夕私が弾いた二時間にも及ぶ即興演奏に題をつけるなら「熱情」が最もふさわしかったろう。

 その日から次の練習日まで私には息苦しい悶々とした時間と甘い幻想に浸る時間が交互に訪れた。夜ベッドに入ってもなかなか眠れず浅い眠りの中で何度も真理の夢を見、朝まだ薄暗いうちに目が覚め、天井の木目をさまざまに見つめながら真理のことを占った。学校にいるときにはクラスの女生徒たちがひそひそ話をしていると自分が手紙を真理に渡したことを彼女たちはもう知っていてそのことをおかしがっているのだという気がしてならなかった。家でピアノを練習しようとしても真理のことばかり考え手につかず即興演奏に走ってしまう。

 私は思った。「あのPassionateという言葉はまずかった。あれは余分だ。With Love だけで十分だったのに、ちくちょう!」私の十本の指が突然激しく白鍵と黒鍵とを打ち不協和音が鳴り響いた。しかしその次の瞬間私の指は優美な旋律を奏で始め、私は考えた。「いやあれでいい。あのPassionateが本当のおれの気持ちだ。あれでいいんだ。当たって砕けろだ。だめでもともとだ!」私の指が再び力強く鍵盤を打ち始め、やがて迫力のみなぎったくっきりしたモティーフがクライマックスを極めた。そして私はこれに思いを込めさまざまに変奏し続けた。

 いよいよ練習の日がやってきた。私は当番の掃除が終わるとすぐ音楽室に行ってピアノを弾き始めた。バッハのインベンション二声八番。自分でもよくわかったが、曲が少々不安定であった。その時の私の心境を考えるなら仕方のないことだ。真理はなかなか現われなかった。いつもならだいたい彼女のほうが先に来てこの同じ曲をこのピアノで弾いているのだ。私は何度も繰り返してこの曲を弾いた。不安が募ってきた。どこかで真理がこの情けない演奏を聞いているに違いない。すぐやめて帰ってしまおうという衝動に駆られたが、それをなんとか抑えて努めて無心に弾き続けた。

 ドアが開いた。そして真理が現われた。私は気がつかないふりをして鍵盤を見つめたまま弾き続ける。心臓が高鳴っている。そしてついに音を間違えた。私はフーと大きなため息をついて演奏をやめた。

 真理は率直な言葉で先日の手紙のことを感謝した。そして「最後の一行は気になるけど」と言っていたずらっぽい笑顔を作った。私はやや上擦った声で一気に言う。「岡田さん、あれはおれの本当の気持ちだ。岡田さん好きだ。おれの恋人になってくれないか?」すると真理はあわてて言った。「いや、私困ります。そんなつもりじゃないわ。困ります。これ返します」そしてくるりと体をひるがえして教室を出て行った。

 返された手紙を手にした私は愕然とし、無気力感に襲われた。私はこのような女性特有の異性に対する行動パターンを知らないわけではなかった。もうひと押しもふた押しもすれば事態は変えられたかもしれない。しかし私はその時真理の「そんなつもりじゃないわ」というせりふが、まるで研ぎすまされた名刀でもあったかのように心の深層にまで達するのを甘んじて許した。

 窓から下を見ると、真理は振り向きながら校舎を出てゆくところだった。私は、ピアノに戻って即興演奏を始めた。真理がピアノの上に忘れていった楽譜がきょうここで起こったことが現実であるということを私に証し続けた。

 それから二週間、つまり学園祭が終わるまでふたりはこの教室で会うことはなかった。私がそこでピアノを弾いていると真理は来なかったし、真理が先にそこで弾いていると私は遠慮して行かなかった。

 学園祭で私はジャズバンドに加わって演奏することになり、バンドは一週間ばかり放課後体育館のステージを借りて練習することになった。ある暑い午後練習していると真理が数人の女子のクラスメイトと差し入れのアイスクリームを持ってやってきた。バンドの私以外の三年生のメンバーが皆、真理と同じクラスだった。その時彼女は「江島さん、がんばってね」と言ってピアノを練習していた私の肩を二度もんだ。私の体から力が抜け落ちてしまいそうな快い刺激が両肩から広がった。皆が休憩してアイスクリームを食べ始めると、真理はクラリネッターのそばに行き、親しそうにおしゃべりをした。私はこのふたりが恋人同士なのだなと思った。しかしその時私がほんのもう少しだけでも真理の性格に通じていたならこれも彼女のポーズでしかないということが見抜けていたであろう。三日後の学園祭での演奏の際、真理が花束を渡したのは私にであった。その花束には「私のマエストロ殿、今私があなたに捧げることのできるのはこの花束だけ、どうぞピアノの上にお忘れなさらぬように」と書かれたカードが入っていた。しかし私は二度と真理に対して恋文はおろかいかなるアプローチも試みなかった。学園祭が終わるとふたりはまた前のように良きライバル同志として一緒に練習した。そして土曜日にはよく一緒に学校付近の食堂へ行って昼食をしたのでだれもがふたりが恋人同士だと思ったようだ。



 「江島君、卒業演奏のための作曲は進んでるの?」

 「まだまだだめだね。行き詰まってしまってどうしようもなくなったままだ。でも作曲なんて演奏と違って妥協してしまえばできてしまうもんだ」と言って、しかし演奏も妥協がありかとも思う。

 「あら、どうして?まだ二ヵ月以上あるんだから妥協なんかしないで傑作を作ってよ。気に入ったら私のレパートリに入れて上げるから」

 ウェイトレスが食事を運んで来てテーブルの上に並べる。真理はウェイトレスが立ち去ると、おいしそうな匂いを放つ野菜スープに話題を移した。柚子の香りがオニオンの匂いとうまく調和していて私も味は気に入った。しかしその話にはあまり興味を示さなかった。

 「ねえ、江島君、私ね、もしかしたら沢田さんにプロポーズされるんじゃないかって気がするの」突然真理は真っすぐ私の目を見つめて言う。真理が沢田に関して自分に何か相談がありそうだということは予期していたが、この切り出し方に私は驚いた。また胸が締めつけられそうだ。「それで最近ずっときれいになったのか」ととっさに言いかけたが、幸い押しとどめることができた。

 「どうして?」

 「だって彼ね、自分はピアノが下手だからピアノの上手な人を奥さんにしようと思ってるって言ったり、両親がいろいろお見合いを勧めるけどお見合い結婚なんかしたくはないって言うの。だから・・・」

 「ふうん」急に自分の気持ちが沈んでいくのが私にははっきり感じられた。「それでどうするの、もし本当にプロポーズされたら?」

 「どうするって・・・」真理は眉間にしわを寄せ、視線を落とした。

 沈黙。

 私は水の入ったグラスを左手で握りしめグラス越しに拡大された指紋を見つめる。

 「もしおれが今プロポーズしたらどうする?」自分でも思いがけない言葉がまるで即興演奏で自然発生する美しいメロディーのように口から滑り出た。

 真理ははっとして私の少々ゆがんだほほ笑み顔を見る。その瞬間私は笑い声を上げて言う。「きょうは朝から困らせることばかり言って悪い」このおろかな即興は押しとどめることができなかった。性急な不協和音のような不快感が私を襲う。

 「でも・・・はいってお受けするかも知れなくってよ」真理はいたずらっぼく言う。

 私は彼女の視線を避けて窓の外を見る。そしてもっと長い沈黙。ふたりはただ食事をする。私はしかし食欲がほとんどなくなってしまっていた。何が私を負の方向に駆り立てているのか・・・それを知るために・・・今の私も助けになれない。

 「万が一沢田さんから申し込まれても私は断わる」

 私はそれに対しても何も言えない。



 沢田にはある悲しい過去があり、それは音楽科の中で一種の伝説のようなものとなり、特に女学生のあいだではさまざまの尾ひれが付加されたため少女漫画のストーリーのような少女趣味的にロマンティックで美しい物語となっていた。そしてロシア人を祖母に持つ沢田はそのような語り伝えに耐え得るだけの美青年であり、さらに彼女等の想像力を刺激するに十分な暗い影もその表情にたたえていた。その女学生たちの付けた尾ひれを取り除いたロマンティックでも美しくもない彼に関する物語とはこうである。

 沢田はM大に入って声楽を本格的に始めたが、オペラ歌手をめざしていたため舞台に慣れる目的でM大の劇団フィーニクスに一年生の時入団した。そして一年先輩の農学部の女性と恋に落ちた。彼が初めて出演した劇の中でふたりは脇役ではあったが愛し合う男女を演じ、それが現実になったわけだ。ふたりはやがて同棲するようになる。三年生の時彼は東京であるコンクールに出場し声楽部門で賞を得て、ある財団から奨学金をもらってドイツに一年間留学することになった。彼は恋人を日本に残してドイツに行った。ふたりは手紙をやりとりしたが、すぐに沢田は自分がノイローゼ気味になっており苦しんでいると告白した。原因は慣れない環境、特に言葉の問題であるらしかった。とうとう彼は入院し、一ヵ月で退院したものの完全に回復したわけではなかった。それで予定を早めて彼は帰国することになったが、彼女の方は新しい恋人ができており、彼が帰国をする時までには学生結婚をしてしまい、その後一年間休学し、その間に一児の母となった。沢田はこの女性から帰国後一度会いたいという手紙をもらったが彼女と二度と会おうとしなかった。(女学生のあいだでの語り伝えでは、女性は沢田の子を生んだということとなっている。)

 私と真理がM大に入学した時、沢田はちょうどドイツから帰国したばかりで、いつも暗い表情をしていたが、彼が歌うのを聞く時だれもが(その頃はやっていた言い方で言うなら)しびれた。音楽科の女学生のみならず多くの彼を知る女性が彼に憧れの気持ちを抱き、真理もその例外ではなかった。


 「沢田さんまたドイツに行くんだって?」私は腕時計をちらっと見る。一時十分。もし沢田と真理が一緒にいるところを見ていなかったら自分は今頃はM高で面接を受けていたかも知れないなと思う。自分の衝動的行動を後悔するわけではないが、初めて沢田に対し申し訳ないことをしてしまったという自責の念が強く湧いてきた。

 「そう。まだ一年先のことだけど。こんどは二年くらい勉強してくるつもりだって」

 「ふうん、それじゃあ今度こそ帰ってきたら本格的なオペラ歌手か。まあ彼は才能があるから・・・M高の先生で終わってしまうのは確かにもったいないよね」

 「あそこは初めから三四年でやめるつもりだったんだって」

 「ふうん」

 「沢田さん、今朝あなたに会ったあとで言ってたよ。ぼくも三年前江島君くらいの勇気があったら、M高を勧められた時断わって回り道はしないですんだろうにって」

 「あれは勇気なんかじゃないよ」私は笑っていすの背にもたれかかった。「実はこのバッグの中には面接のために中本から借りた学制服が入ってるんだよ、ほら」床の上に置いてある白いバッグのチャックを私は少し開けてみせた。

 「あら、それじゃあ面接は受けるつもりだったの?」真理はびっくりして私の目をのぞき見る。

 「そうなんだ。アパートを出る時には、もうオレは教師になったるでーと覚悟して出たんだ」

 「それがまたどうして気が変わったの?」

 「発作だよ、発作」私は自分のこの言葉が思わず気にいった。そしてその発作の原因はきょうの君のまつげかな、と言いたくなったが今度は口から滑り出ないうちに抑えた。

 「発作って、だって・・・それじゃあ沢田さんに悪いわよ。そんなことで振り回されてるんだから。それも日曜日に」

 「うん、ほんとに。君にも悪いことをしてしまった。このとおりだ」私は頭を下げた。

 「あら、私には別に謝ることはないわ・・・」

 子供連れの若い夫婦が入ってきて真理の後ろのテーブルに座り、メニューを見ながら楽しそうに会話を始めた。五歳くらいの男の子が買ってもらったばかりのぜんまい仕掛けの小さな人形をテーブルの上で歩かせてはしゃいでいる。

 私はあとで沢田氏のアパートに訪ねてゆき、きょうの無礼をもう一度謝ろうと心に決め、再び気が重くなる。自分はなんて子供じみたことをしてしまったのだろうと恥ずかしい気持ちが遅ればせながら湧いてきた。沢田は人を叱るということはまずしない人だったが、むしろきょうは彼に思いっきり叱られたほうが気がすむだろうと思った。

 レストランを出ると、しばらく繁華街を歩いてバス通りで別れた。真理は別れぎわにハンドバッグから一枚の紙切れを出して私に渡した。それは五線紙を切り取ったもので、五線と五線の間のスペースに次のような走り書きがされてあった。


 『江島さんへ

  きょう沢田先輩から結婚を申し込まれました。突然のことだったのでとても驚き、どうしていいのか迷っています。すぐだれかに相談しようと思ったけれど、本当に相談できるのは江島さんだけです。こんなこと相談されてご迷惑でしょうが、どうか高校時代からの友として、あなたの率直なアドバイスを聞かせて下さい。

                          岡田真理』


 私は読み終えると苦笑した。しかしその苦笑はみるみるうちに泣き顔になり、私の足は真理の去った方へと駈け始めた。声を出して泣きだしたくなるような衝動にかられ、涙が視界をゆがませる。同じ色の服、同じヘアースタイルの女性が皆真理に見えた。しかし彼女を見つけることはもうできない。




第2楽章 ロマンツェ


 クリスマスの夕

 ひっそりと静まり返った夜道をコート姿の若者がひとり歩いて来る

 寒そうに肩をいからせ両手はポケットの中

 吐く息が月光に白く照らされ、風に揺らぐマフラーにからまる

 微かなハミング

 メランコリックなメロディー

 彼はピアニスト

 さきほどまで親しい友人と街で呑んでいました

 その友人とはバイオリニスト

 駅で別れてきました


 街に出る前、ふたりは郊外のピアニストの部屋で語り合っていました

 そしてバイオリニストはピアニストにバイオリンを預けました

 長いスランプに陥って悩んだ末決心したことです

 自分の身体からだの一部のように肌身離さず大切にしていたバイオリンを残して今夜旅に出たのです


 バイオリニストは言ってました

 「こいつを一度も手にしないで幾日か過ごしてみよう

 それで解放感を味わうか、それともさびしさにたまらなくなってすぐ帰ってくることになるか」

 するとピアニストは笑って言いました

 「すぐ帰ってくるね

 その証拠に君はもうバイオリンケースを取り戻してにぎってる」

 「いや、置き場所を考えているんだ。君の部屋はずいぶん散らかっていてどこにおけば安全かさっぱり見当がつかないね」

 「いやいや、世界中どこを探したって君は自分の腕の中以外にその愛器の安全な置き場所を見つけることはできないよ

 さあ持って行けよ」

 「それはだめだ、旅に出る意味がわからなくなる

 よし、このベッドの下に入れておこう

 だれにも触らせないように頼むよ」


 それはイタリアのある名人の作による極上のバイオリンでした


 こうしてピアニストは手ぶらになったバイオリニストとバスに乗ってクリスマスメロディーに浮かれる街に出、駅前の酒場で半時間あまりの待ち時間を過ごしたのち、駅の改札口で別れました


 そして今はその帰り道

 酒の勢いで歩いて帰って来ました

 今頃はもう友を乗せた夜行列車は長いトンネルを抜けて海辺を走っているでしょう

 ピアニストは酒に酔うことはありませんでしたが、今夜は友としばしの別れということでいつになくセンチメンタルになっているようです


 彼は思い出します


 自分もスランプの時はひとりで旅に出た

 突然思い立って手ぶらで汽車に乗り、行ったことのない町で降りる

 高そうでない旅館に入り音楽のことはいっさい忘れてぼんやり時を過ごす

 湯から上がって宿の丹前と羽織に身を包み、窓から夜景を眺めていると作家にでもなったような気持ちになってくる

 そしてあの無頼の作家をきどってほおづえをついて慣れない煙草をふかしてみる


 バイオリニストはいったいどの町から便りをよこすだろう


 クリスマスの夕にひとりっきりになってしまったせいだろうか、今自分の部屋にひとりで帰っていくのがこわいほど寂しい

 自分の寂しさの底に自分の部屋があるような


 もの悲しいハミングがひとりでに胸を鳴らす


 遠くで列車が連結されその衝撃が端から端に伝わる大きな連鎖音がして彼はふっと我に返り夜空を見上げた

 そしてはるか上空に大きな気球を見た


 それは太陽光線を冷たく反射させている上弦の月と、そのずっと下にぶらさがるように位置している、他の星よりもひときわ明るく輝く明星であった


 月は、右側が強く照らされ、陰になっている部分も、青みを帯びて澄み切った夜空の中ではっきり見え、球の正体をあらわにしている

 それは素晴らしく雄大なバルーンだ

 そしてそのやや斜め下方の明星は宇宙の風を受けて振られたゴンドラだ


 ピアニストはその気球の発見に胸を躍らせた

 気球は彼が歩く方向にずっとついて来た

 立ち止まると大学の校舎の上で止まった


 果てしない宇宙を流されて地球の近くまでやってきた巨大な気球

 あのゴンドラに乗っているのはどんな生き物だろう

 地球に何の用があってやって来たのだろう

 あの大バルーンを膨らませているガスは何だろう

 宇宙に浮くために必要なガスとは何だろう

 ああ何と美しい気球だろう

 あの気球のような雄大な音楽ができたらなあ

 それもピアノだけで


 雄大なものはいつもシンプルだ


 彼が細い路地に入るとゴンドラの部分が彼のアパートの屋根に隠れてしまった


 「本当にあのひとを失ってしまったな」

 突然ピアニストは何の脈絡もなくそう呟いた

 「寒い」


 あの女もそう言ったことがいつかあったな

 いつだったろう

 そうか、あのコンサートの帰りに右横を歩きながら・・・


 ピアニストは右横を見た

 夜風がマフラーの端をはらりと吹き上げた

 寒い


 まだ8時前だというのに音楽生たちの巣くうアパートもそのまわりも異様な静けさに包まれている

 ふつうならいろんな楽器の音色ねいろが8時まではにぎやかに聞こえてくるのに

 みんな街に出かけてクリスマスパーティなのだろう

 しかしあまりに静まりかえっているとかえって何者かの存在を感じさせる

 彼は急な階段を昇りながら自分の部屋に誰かが来ていそうだという予感を禁じ得ない

 さきほどまでの寂しさがいつのまにか彼の憂欝なハミングとともに消散している


 彼は廊下を歩きながら寂しいと思っていない

 廊下の奥の自分の部屋に誰かがいるような気配に胸騒ぎさえする

 いつも鍵はかけていないから友達が勝手に入って寝ていたりすることもある

 しかし今自分の部屋の方から何の物音もするわけではない

 また部屋の明かりも出た時のまま小さな常夜灯しかついていない

 しかし確かに自分の部屋で誰かが呼吸をしている

 微かに

 そして彼の廊下を歩く足音に耳を澄ませているような・・・


 遠くで蒸気機関車の汽笛の音が響いた

 彼はまるで必ず誰かがいるのだと自分に言い聞かせるように自分の部屋のドアをノックした


 「お帰りなさい」

 女性の声だ

 彼は思わず部屋を間違えたかとあたりを見回す

 が、やはり自分の部屋の戸口に立っていた


 「外は寒かったでしょう」

 彼はその声に親しみを感じ、なんだか聞いたことがありそうだ、誰だっけと思う

 ドアを開けると常夜灯の薄明かりの中のその女性に見覚えはない

 美しい人だ

 窓の月光を背にしているにもかかわらずその色白の容姿は月影の中に埋もれず、彼女自身が淡く輝いているかのように彼の目をとらえる

 まるでこの部屋に差し込む月光が化身したかと思われるくらいに妖しい美しさだ


 透明ガラスの窓から先ほどの気球がのぞいている


 「誰ですか、あなた?」ピアニストは戸口でためらった

 「あら、私をご存じないでしょうか?」いたずらっぽく言う

 なだらかな肩、ほっそりした胴、それに形のいい腰が誘惑のシルエットを造る

 彼は部屋に入り蛍光灯を点し、彼女を見つめる


 彼女は眩しそうに目をしかめるが、そんな表情までも美しい


 栗色のビロードのワンピースにすらりと伸びたからだを包んで立っている

 深いVネックラインであらわにされた胸部が白いユリの花のように優雅だ

 きりっと締めたくちびるに気高さが読める

 しかし彼の目をまっすぐに見返すその黒い愛らしい瞳にやはり覚えはない


 「どこかでお会いしたことがありましたっけ?」

 彼はアップライトピアノの上のスタンドの電球も点す

 これで部屋の全ての明かりが点された

 色白の彼女は部屋が明るくなるにつれますますその美しさを極めていく


 「私のほうはあなたをよく存じてますわ。ずっと前から」

 してやったりというふうに得意顔でほほえむ

 するとえくぼができて、次に白い歯がのぞく

 しかしその可憐な微笑にも見覚えはない

 美しさに加えて人なつっこそうな表情が彼の警戒心を解きほぐす

 「じゃあ、きっと思い出してみせましょう」

 しかし今までにこんな美しい女性に会ったという記憶はない

 「早く思い出してね、まちがっちゃいやよ」わざと口をとがらせて言う、しかしすぐにまたえくぼのある輝く笑顔を作ってくすっと笑う


 次々に繰り出される彼女の表情とそれに伴う声音こわねの変化はどれも彼をますます魅了する

 まるで万華鏡をのぞいているかのようであり、また巧みに転調する音楽を聞いているかのようでもある


 光沢のある黒髪が細い首にそって肩に垂れている

 美しい姿勢を保った均整のとれたからだつきに気品が漂う

 ますます彼には未知の女性であることがはっきりしてくる


 「困ったな、あなたのように美しい人なら一度でも会っていれば忘れるはずはないんだが

 あっ、どうぞそこにすわって」

 ピアニストは彼女にピアノ用の回転椅子をすすめる


 「部屋が散らかったままだから恥ずかしいな」

 「私しばらくここにお邪魔させていただけるのね。いつもあなたのピアノが聞けるなんて素敵だわ」

 「待ってください、それは困るな」

 「あら、決してお稽古の邪魔はしませんわ。お行儀よく静かにしてますから、お願いね」


 彼女の笑顔から発せられるそんな言葉は一音一音が軽やかに飛び跳ねるスケルツォのように快い

 そしてそれは確かに聞き覚えがある

 彼の警戒心は完全に解きほぐされた

 むしろこういった場面では女性のほうが警戒すべきはずなのだがこの女性はまるで自分の家にいるようにくったくなく振る舞う


 「お住まいはどちらですか?」

 まだコート姿のままの彼は彼女を家まで送って行こうと思った

 徘徊癖という危惧が頭をよぎったからだ

 その時彼は初めて彼女が小さな弓を持っているのに気づいた

 「おうち?さあどこでしょうね、秘密ね

 とにかく今夜は私はここにおいていただかないと行くところはないんですのよ」

 「それはまたどうしてです。なぜここでないといけないんでしょう?

 あなたのお名前は?」


 彼女は弓をアップライトピアノの上に置くと、回転椅子にすわり直し、ピアノの蓋を開いて右手だけで短いフレーズを弾いた

 そしてくるりと椅子ごと回って会釈していたずらっぽく上目づかいに彼を見た

 今のが私の名前よ、というふうに

 そしてそれは彼女の名前として立派に通用しそうな高貴なメロディーだった

 回転の勢いで黒髪の一束がえくぼをつくった唇にかかって静止している


 「このお花一本くださいね」

 と言うやピアノの上の花瓶に差していた白い椿を一つひねり取り胸のポケットに差した

 そして花瓶の横に立てられた楕円の回転鏡に自分を映す

 首を傾げて両手で髪をうしろに集めようとする

 すると豊かな胸がいっそう隆起し、あわよくば服からはじけ出ようとする


(アリア) ああ、美しきひとよ

   あなたの花園の花を一つ私の方へお投げ下さい

   さもなくば私は花盗人になるやも


 鏡に映る彼女は彼と目が合うと彼にほほえむ

 しかし目にためらいがふとよぎる

 美しい 


 「あらトランペット」

 彼女は背伸びして本棚の上から銀色のトランペットを取って、吹く真似をする

 まるで遠慮ということを知らない女性だ

 しかし彼はもう彼女のそういった態度を愉快に感じ始めていた、そして

 

 まさか!

 

 「あなたはあの気球に乗って来たんでしょう」

 ピアニストは窓越しに見える例の気球を指差して言う

 そしてピアノの鍵盤を両手で一撃し劇的な和音を鳴らした

 彼の精一杯の反撃だ


 「気球?」と言って彼女はトランペットを置いた

 なおも和音の余韻が響く

 「ははっ、しらばくれてもだめですよ。ぼくは知っているんですよ、あの気球を」

 彼はこんどはリストの第一コンツェルトの不穏なモティーフを打ってピアノの蓋を閉じる


 「わかった、三日月のバルーンのこと?

 あははははっ、おもしろい方。私があのバルーンに乗って来ただなんて」

 彼女は窓ガラス越しに三日月を見る

 彼はその横顔を見つめる


 美しい


 「でも素敵でしょうねあれに乗れたら

 本当にきれいね、月って」

 そう言うやいなや彼女はひらりとピアノの蓋の上にすわって足を組んだ

 そして彼の名を呼んだ

 まるで古くからの友達を呼ぶように

 かわいい脚がまぶしい


 すると彼女は両手をひざ小僧の上で組んだ

 まるでピアノの上にすわることにとても慣れているかのように美しく、上品にすわっている


 「私もさっきまでひとりであの気球をながめていたのよ、こうやって」

 彼にとっては大切にしているピアノだが怒る気もしない

 あたかもこのアップライトピアノが彼女のために特別に造られた長椅子ででもあるかのように自然に座っている


(アリア) 我が愛するマエストロよ

   私があなたに捧げることができるのはこの花束だけ

   どうぞピアノの上にお忘れなさらぬよう


 「あなたのその歌う声は聞いたことがある

 ね、ヒントでもいいから教えてください

 あなたの正体に関するヒントを」


 「正体だなんて、まるで私は人間じゃないみたい」

 「人間じゃないんでは?」

 「あはははは」

 彼女の笑い声はなんと素敵なのだろう!

 玲々としていて、くすぐられているような感じになる

 いくらでも笑わせてやりたくなるのだ


 「そうだ、あなたはあの気球でやって来た宇宙人エイリアンだ」

 「あはははは」

 彼女はひらりとピアノから飛び降りる

 「きっと地球を征服しようとしてやって来たんだ」

 「あはははは」


 確かだぞ、この華麗な笑い声!


 「そしてぼくから手始めにやっつけようとしているんだ」

 彼は再びピアノの蓋を開くとベートーヴェンの運命のモティーフの4打を両手で強烈に打ち鳴らした

 「あははは おもしろい方」

 「その弓が何よりの証拠だ」

 運命モティーフの後半4打が鳴り響く

 「でも矢は持ってないわよ、ははははは」

 彼女は弓の弦をはじいて笑う


 「じゃあその弓は何のために持ってるの?

 まさかここで弓取り式でもするわけじゃないでしょう、ははは」

 彼も笑いだした


 ピアニストは自分が最近こんなに愉快でおどけた気持ちになったことはないと思う

 自分が自分でないような

 それでいてこれが本来の自分なのではなかろうかという思いもする


 「エイリアン、きっとあなたの手は冷たいはずだ」

 彼は思わず弓を持つ彼女の左手を取った

 すると彼女は右手で彼の手を包み

 「あら温かいわね

 さあこの手でピアノを弾いて下さらない?」

 と言って彼の両手を鍵盤の上に置いた

 不協和音


 冷たい手だ


 「あなたの声、あなたの歌うような笑い声は確かに知っている!」

 「ピアノ弾いてくださいな

 私歌いたいの

 あなたのピアノに合わせて歌ってみたいの

 そうすれば私が誰かあなたに思い出していただけるかも知れませんわ」


 「どんな曲?

 ぼくはあまり歌の伴奏は上手じゃないなあ」

 「ノクターンがいいわ

 ショパンの1番よ」


 彼ははっとした

 駅からの帰り道ハミングしていた曲だ


 「ね、弾いて下さるわね

 私一度でいいからあなたのノクターンに合わせて歌ってみたかったの」

 「あれは歌う曲じゃない」

 「いいのよ

 ね弾いて下さるのね

 それから私の歌っているところは振り向いたりして見ないでね

 いいわね?」

 「どうして?」

 「どうしてもよ!」

 このきつい声もあれだ・・・


 彼女はピアノの上の回転鏡を裏返し、天井の蛍光灯を消した

 すると残されたピアノの上のスタンドの電球が彼女をなまめかしく浮き上がらせる


 ピアニストはコートを脱いでノクターンを弾き始めた

 やがて彼女はスキャットで歌い始めた

 柔らかく表情豊かなソプラノだ

 そしてなんと清らかで気品のある歌い方だろう


 彼はピアノを弾きながら、いつまでもこのまま、彼女の伴奏をしていたいと思う

 ピアノの黒い光沢面に彼女の胸から下がおぼろげに映っている

 弓を動かしている

 そして彼はピアノにぼんやり映る女性の姿がいつのまにか全裸になっているのを見た

 

 そして彼女の声が変容する


 人の声からまぎれもないバイオリンの音に変化していった

 ついにたまりかねて彼が振り向いた時、音は消え、女性はもうそこにはいなかった


 友が預けていったバイオリンが裸のまま月光を浴びてベッドの上に転がっている

 その f 字孔に白い椿が刺さっている

 花びらが一つ落ちベッドからもすべり落ちた

 ベッドのそばに開かれたままのバイオリンケースが転がっている


 ピアニストは中断したノクターンの続きを弾き始める

 窓の外の気球のゴンドラが冬の風に振られている




第3楽章 (第4楽章へは切れ目なく)


 拝啓

 学校では学生達のクリスマス英語劇の練習が始まり、また冬が来たかと季節の巡る速さに足をすくわれる思いをしています。私の勤める女子高はミッション系ですから降誕祭は大事な行事で、前夜祭は特に伝統に従って夜遅くまで行なわれるのです。私は今年は英語劇の監督役の当番でとても忙しい毎日です。とはいえ生徒たちの熱心な姿に触れていると私もとても新鮮な充実した気持ちにさせられ、練習の時間の過ぎるのがとても速く感じられます。

 暖冬とはいえ東京も日増しに寒さが厳しくなってきて、けさは初めてマフラーをして出勤しました。でも先輩のいらっしゃる根室に比べたらこちらはまだまだ春の陽気といったところなのでしょうね。そちらでは海も凍るほど寒くなるということですね。雪の害など、くれぐれもお気をつけくださいませ。

 実は今午前2時半を少し回ったところです。こたつの中に寝転がってラジオを聞いているうちに眠りに落ちてしまい、1時過ぎに目が覚めました。それからお風呂に入って、残っていた気の抜けたぬるいビールをオンザロックで飲んで、今FM放送で音楽を聞きながら書いています。こんな時間に書くことだから寝言のようなもの、ムニャムニャ、昼間読み返したらだらしなく思うに違いありません。それに少々アルコール過多のようで、酔っ払いのたわ言と思ってください、ヒック。でもご心配無用、あすは学校創立記念日、というわけでお休み、めでたしめでたし、いくら朝寝坊しても平気です。また眠くなって筆を落とすまではあなたのラヴレターへの返事をしたためてみましょう。でもお手紙を頂いてからもうふた月もたってしまったんですね。申し訳ありません。2回分の返事を書くつもりでがんばります。

 あっ、もう3時になってしまいました。実はジョルジュ・ムスタキの歌が続いたので筆を休めて聞いていたのです。久しぶりに聞くので懐かしい学生時代が思い返され、しんみりしてしまいました。覚えてますか、彼のレコードをあなたに貸してあげたことがあるの。あのレコードはもうすりきれるほど繰り返して聞いたので、雑音がひどいのですがまだまだ大切にしています。フランス語は熱心に勉強しなかった私も、彼の歌だけはそのほとんどを辞書で意味を確かめ、空で歌えるまで練習したんです。でも決して人前では歌いませんでした。天は人に二物を与えないということで。

 ところで3時を過ぎるとやたらとお腹が空いてきますね。夜も3時はおやつの時間のようです。ではちょっと失礼して・・・


 今左手に皮をむかないままの青リンゴを持って、それをかじりながら書いています。ラジオからはあなたの好きなポール・マッカートニーの歌声が流れています。

 Someone's knocking at the door...

 Do me a favor, open the door...

 あなたが学生時代の私しか記憶によみがえらなくなったというので、最近の写真を同封します。馬上のわたくしの姿、いかがでしょうか?実は私、前々からしてみたかった乗馬を思い切って始めたのです。思ったより馬上からの景観は高さがあり、常歩なら余裕がありますが、少しでも速歩になると体が上下に揺れて「落馬」という文字が脳裏をよぎるのです。いつになったら「乗馬」から「馬術」になるかかけませんか?馬はとても利口なので意地悪な馬に当たると初心者は生きた心地がしません。私が馬に威張ることができるようになったら、そちら北海道の原野をあなたを私の後ろに乗せて颯爽と走ってみたいと思っています。

 さて、あなたのお手紙に同封されていた「青春コレクション」は数日前までに全部読ませていただきました。いろんな人の青春を取材したり、寄稿してもらって文集にするなんてしゃれたコレクションですね。さすが元文芸部の編集長さんです。懐かしい人のもあったり、また知ってる人も何人か登場してくるので引き込まれて読みました。とてもロマンティックな方ばかりお友達に持ってられてうらやましいかぎりです。また2冊目ができましたらぜひ読ませてくださいね。

 切手コレクションとか人形コレクションとか、いろんなコレクションがありますが、青春コレクションなんて初めて聞きました。そういえば、私の友人で珍しいコレクションをしている人がいますよ。女性の下着ばかり集めていて部屋じゅうがパンティーやブラジャーでいっぱいなのだそうです・・・と言うと私には変質者の友人がいるかのように思われそうですが、実はこの人りっぱなOLで、下着のおしゃれによって女性は内側からも美しくなるのだと信じていて、毎日の下着選びの時がとても楽しいのだそうです。そういう私もそういえばちょっと変わったものをコレクションしていますよ。ご馳走やお菓子を並べた食卓の写真を撮って、それをアルバムにするんです。ですから高級レストランや料亭に行くときにはいつもカメラを持参します。店の人に断って清潔なテーブルクロスの上に華やかに並べられたご馳走をいろんな角度から写します。私が満足するまで同席の人は食事はおあずけです。また海外旅行した時には飛行機の機内食もちゃんと写真に撮りました。こうして集めた写真がアルバム2冊分になりました。そのうち先輩のお宅の晩餐の写真も撮らせていただきに参上したいと存じています。

 告白しますが、実は私今片想いのとてもかわいそうな女の子なのです。美術のK先生はとてもおかしい方で、いつか私を描いてみたいと言ってたのにどうやら冗談だったようです。あの方なら少々は大胆になれると思ってたのに。私を大胆になりたいと思わせる人なんて希少なんです。大胆といえばあなたもずいぶん大胆なことを私に読ませてくださいましたわね。お陰さまで私は数日読書もできないくらい気もそぞろになりました。実は読みながら涙が出てきました。片想い中の女は涙もろいものなのですよ。

 「青春コレクション」七編はどれも読み始めると最後まで夢中になって読ませられるものばかりでした。奥様もとても素敵な方なのですね。奥様のユーモアあふれる文章を読んでいるときっとあなたのご家庭は朝から晩まで笑いが絶えない楽しいホームにちがいないと思いました。

 でもあなた自身の宮崎での青春を書かれたものに一番感銘を受けました。だって私が登場してくるんですものびっくりしましたわ。やはりあなたは素敵な詩人でとてもロマンティックな方なのですね。読んでいて自分がとても優しい気持ちになっていくのがわかりました。あなたと私の出会いをあのようにロマンティックに描かれるとあの頃の幸せだった自分がとてもかわいく愛らしく思われ、それだけに今はますますかわいそうにも思われました。いまさら「かわいそう」と言ったって、あなたには自業自得だと言われてしまいそうですね。後悔していないとは言いません。それにもう一度あの頃からやり直すことができたとしてもやはり私は同じような愚かな私でありつづけることしかできないでしょう。でもありがとう。幸せな頃の私を、そして私の愛した方をあのように素敵に書いていただいたのですから。お互い純粋だったからあのように書いても少しも誇張と感じないのですね。でもそれ以後の私たちのことはさすがのあなたの力量をもってしても書き下すのは至難の業でしょう。しかしそのようなむつかしいものをやさしくさらりと書いて初めて秀作といえるのでしょうね。

 ところであなたは私の青春もコレクトしたいとか。私なんてあなたにお聞かせできるような秘密の青春なんてありませんでしたわ。もしあなたがあなたの書いたものの続編をヒロインの私に書いてもらいたいなどというおつもりでしたらそれは無理なことです。無茶なことです。第一どんなにしても「青春」というカテゴリーには入らないから、せっかくのコレクションをだいなしにしてしまいますわ。あなたのあの青春作品はあそこで終わったからこそさわやかな恋愛小説でありえたのです。そこから先を私なんかが書けばうまくできても滑稽小説にしかなりませんわ。

 ごめんなさいね、こんなことつい書いてしまって。あなたの奥様のようにもっとユーモアのセンスがあればきっと気のきいた感想文が書けたのでしょうが。

 ところで私、この5月に妹の結婚式に出るために宮崎に久しぶりに行ってきました。七年ぶりでした。大学はご存知のように三学部とも揃って市外に移転していて、先輩の農学部の跡地は立派な公園になっていてすばらしい市立図書館も建っています。工学部もすっかり建物がなくなってしまいその跡地では中古車フェアーなんかが催されていました。我が学び舎、教育学部だけはなぜか全校舎がそのまま残っていました。どの門も鉄条網が張られていましたが、懐かしさに誘われて裏門の隙間からキャンパスに入ってみました。すると途端に胸がしめつけられるような寂しさに襲われました。ちょうど、自分がなじんできたキャンパスを足掛かりに強情にも時の流れに逆らって青春に舞い戻ろうとし、果たして戻ってみるともうそこは人っ子ひとりいないゴーストタウンのようになっており、自分だけがキャンパスに卒業できないまま皆からとり残されてしまったようで、かえって青春の根底に絶えずあった寂しさだけを再発見してしまった、という具合です。

 やがて私はこのゴーストタウンの中でゴーストたちに会い、すれ違い、彼らの声を聞くことはできました。しかしゴーストたちは若く、ここで唯一現実の人間である私だけがもう若くはなくなっている。廃墟のように朽ちて生気のなくなった校舎が若々しいゴーストたちに不似合いになってしまったように、私ももう若い学生たちの振りができなくなってしまっている。ここにくれば青春の懐かしさの快い想いに浸れるだろうと思ったのは大間違いでした。懐かしさはそれを共有してくれる人がそばにいなければ、そのままつらい寂しさとなるばかりです。キャンパスの至る所にある記憶の糸口が次から次へ引きほどかれ、飛んで火に入る夏の虫とばかり、諸々の思い出が私を立ち止まらせては寂しがらせました。

  それからあなたと初めて一緒に歩いたあの道筋をたどってみました。若きあなたのゴーストと。忘れられないあなたの言葉のいくつかはそれらが発せられた所に来るとちゃんと聞かせてもらえました。裏門のそばの私の住んでいたアパートはもうありませんでした。

  こんなことまで打ち明けるなんてみっともないですね。きっとあなたたちの「青春コレクション」を読んだあとだからこんなにオープンになっちゃったんでしょう。オープンになったついでに私が宮崎にいた頃書いた散文詩をひとつ披露させていただきましょう。


 『彼の描いた風景画

  私はこっそり持って帰って額縁に入れて

  この部屋に飾っている

  こんな小さな私の部屋だけれど

  彼の絵のおかげでとても広い秋のお部屋

  いつかもし彼がこの部屋に来てくれるなら・・・

  来てくれたら・・・

  私がこの絵ないしょでもらったことおこるでしょうか

  それともこんなにきちんと額縁に入れて飾ってあるのを見て

  優しく喜んでくださるでしょうか』


 この詩はフィクションです。私には絵の描ける彼などいたためしがありません。この詩は即興で書いたもので、でたらめです。でもこの詩の「彼」は実在する人物です。彼は美術家ではありませんでしたが芸術家でした。とてもピアノの上手な音楽科の学生で、私の住んでいたアパートにいました。私の青春の思い出の中であなたの「青春コレクション」に加えていただけそうなものはありませんが、この「彼」の話ならあなたに聞いていただきたい気もします。うまく書けるかどうか自信はありませんが、これでも文芸部に籍だけでも置いていた元自称文学少女、ひとつ埋もれた日記を掘り返してそれを頼りに久しぶりに一章書いてみましょう。題は「ムッシュ・ショパン」。これは私が4年生の時のことで、ですからあなたが卒業されてからのことです。でも脇役であなたにも登場していただきましょう。もちろん奥様にはわからないように扮装させてあげますからご心配なく。枯れ木も山のにぎわいと申します。この他愛もない一章、少しはあなたの「青春コレクション、パート2」をにぎわすことができるでしょうか?



第4楽章 


 私がまだ学生の頃のお話です。とてもピアノの上手な青年が私の住んでいたアパートにいました。それも私の隣の部屋でした。彼は私が4年生になった時引っ越してきました。私は二階の一番奥の部屋にいて彼はその隣に入ってきたわけです。そのアパートの入居者の半分以上は音楽科の学生で、彼もそうでした。そこでは夜8時までいつもどこかの部屋から楽器の音色や歌声が聞こえていました。個々に聞くととても上手な人ばかりなんですが、いっしょくたになると騒音以外の何でもありません。とはいえ私もしばしばタイプライターを打ったので、おあいこだったわけです。でも8時になるとぴたりとその騒音は消え、かわって音量をしぼったステレオの音や雑談の笑い声が聞こえてきました。今は妙にあの騒音が懐かしいから不思議です。

 その頃私のボーイフレンドだった人は卒業して社会人1年生となり故郷の松山の銀行に勤めるようになり、宮崎にはなかなか来てくれなかったので、私はいつも研究室か友達の部屋か自分のアパートにいるだけのつまらない日々を送っていました。そんな時だから、隣に越してきた青年のことが少々気になっても仕方がないことです。

 私はその人に勝手に「ムッシュ ショパーン」とか「ショパンさん」というあだ名を付けました。よくショパンの曲を弾いていられたし、実際その容貌がショパンに似ていたのです。彼は背の高い少しやせ形の青年で、すずしい目がチャームポイントですが、いつも疲れたような顔付をしていました。「かわいそう」と母性本能をくすぐられてしまいそうなひよわさが漂っていました。あのショパンさんと階段や学校に通じる塀沿いの細道ですれ違うときには挨拶をしましたが、彼はいつも何か考え事をしているようで、時には私の声にはっとして我に帰るということもありました。ですから立止まって挨拶以上のお話をするということはずっとありませんでした。


 彼の部屋には音楽科の学生らしい男女が時たま訪ねて来ましたが、女性がひとりで彼の部屋に来るということはなく、彼にはガールフレンドはいないみたいでした。彼はひとりでいる時にはピアノを弾いていることが多く、そんな時私は何もしないでそれに耳を傾けるのでした。


 私も小さな頃からピアノを習わされてましたが、だんだんいやになってゆき、父や母から急き立てられないと練習しませんでした。よくおこづかいくれないと弾かないと駄々をこねて、それがもらえてやっと練習を始めたものでした。こんなことでしたから上達するはずがありません。そして中学3年になると受験勉強を口実にやめてしまいました。最後に練習した曲が「乙女の祈り」で、あの曲はよく序奏を省略して弾いたものです。以来ピアノのお稽古はやめてしまったけど、不思議なことに高校生になってから、特に大学入試が迫って追いつめられた気持ちになってくるとあれほどいやだったピアノが無性に恋しくなり、学校から帰ると夕食の時間まで無心になってよく弾きました。そして大学生になれたらピアノの練習をまた始めようと決心しました。宮大の英語科に合格するとピアノを弾いてもいいアパートを教育学部のそばに見つけて、そこに住みました。それが例のアパートです。その頃家のピアノは妹が使ってたけど、妹もちょうど高校受験の年となったので勉強のためにレッスンはやめてしまうだろうと思い、そしたら自分のアパートにそのピアノを送ってもらうつもりでした。ところが妹はずっとピアノのレッスンは続けたので私は当てが外れてしまいました。アルバイトでもして中古のピアノでも買おうかと思ったけど、そこまでするほどのピアノに対する情熱もなかったので---というのはその頃待望のボーイフレンドが私にもでき、私の情熱はそちらの方に注がれるようなったのです---結局ピアノはあきらめることにしました。自分が弾けないとなると他人がまわりで弾いているのを、それもピアノやバイオリン、フルートの音がごったになったのを聞くのはひどくいやで、初めの頃は8時頃まで友達の下宿や、文芸部の部室(そこに私のボーイフレンドは寝袋を持ち込んで約1年間住みついていたのです)によく遊びに行ってました。ところが1年生の後期からタイプライターを打つことが必要となり、この練習のためにはむしろまわりに騒音が始めからあったほうが好都合で、結局あの懐かしい騒音アパートに4年間住みついたわけです。


 さて4年目の春に隣の部屋にあのショパン君が入ってきたわけですが、ピアノはとても上手でしかもなかなかのハンサムだったので大歓迎だったけど、ひとつとても気に入らないことがありました。彼は外から帰ってくると、始めにショパンやベートーヴェンの曲を一つ二つ弾いていたかと思うと、出し抜けにわけのわからない音楽を弾き始めるのでした。それも何度も弾き直し、しばらく同じところを繰り返し、その度にああでもないこうでもないというふうに弾き方や音を変えていくのです。明らかに作曲をしていたのです。そして始めに弾いたショパンやベートーヴェンの曲とはずいぶんかけ離れた不協和音のやたら多い異様な音楽を作るのです。ですから彼が作曲を始めると私はイライラしてくるのでした。「早くやめろ、ショパン!」と思いながらも、彼の邪魔になったら悪いと思うからタイプを打つのはひかえましたし、そうかといって本を読んでいてもあの耳障りな十二音の音楽が私の精神の集中を妨げ、長続きしません。まるで私まであの迷路のような作曲に付き合わされているような感じで、8時になって静かになったり友達でも訪ねてきて彼の作曲が中断されたりすると、私はほっとするのでした。

 そしてあれは雨が十数日も降り続いた後やっと晴れた初夏の日ことでした。私は学校から早く帰ってベッドの上に寝そべって本を読んでいました。原書のランボ-の詩集で、わからないフランス語の単語は素通りして読んだのであまり理解はできなかったけど、折角買ったのでひととおり目を通しておこうと思って読んでいました。

 私の部屋は端っこだったので窓がたくさんあって、ベッドの上に横になっていても遠くの山や市の北にある平和台の緑の丘やそこに立つ塔などを眺めることができました。静かな日には農学部の方から馬のなく声も聞こえてきました。その午後はとても静かでのどかだったので馬の声だけでなく鳥のさえずる声も聞こえてとても快いけだるさを感じさせました。いつのまにか私は眠っていました。熟睡したのでしょう夢は見ませんでした。

 音楽というものは意識下の耳でのみ聞く時、つまりたとえばまったく眠っていて意識のない状態で聞く時、初めてその真髄の響きを聞き分けることができるのではないでしょうか。もしその音楽に真髄と呼べるだけのものが存在し、演奏者がそれを引き出していればのことだけど。

 その時私はたまらなくやさしいものに包まれているような幸せな気持ちになっていました。からだじゅうがそのやさしさに愛撫され酔い痴れている感じでした。「私眠いの、もっと寝かせてよ」とそのやさしさに心で語りかけました。するとそのやさしさはまた私に何かを囁き、その言葉はその時の私にはよく理解できるのでした。そしてふと目を開いてしまいました。いつのまにか夕闇が窓の向こうにやってきていて、窓ガラスにはベッドに横たわった私の姿がほのかな夕陽を浴びて黄金色になって映っていました。隣の部屋からピアノの音色が聞こえてきます。覚めたというよりはまだ眠っている状態の私にはそれは音楽というよりは私にさっきからやさしく語りかけている美しい言葉のように聞こえました。でももう何て語りかけてくれているのか意味は理解できなくなってしまっていました。程なくそれはまぎれもないピアノの音として聞こえ始めました。私はとうとう目を覚ましてしまったのです。それはショパンのノクターンの一つで、隣の彼がこの曲を弾くのをそれまで何度か聞いたことがあったけど、その時ほど美しく快く聞こえたことはありませんでした。あまりにロマンティックだったので私はまるであの本物のショパンが今隣の部屋で私のために演奏しているのだという空想にしばらくひたっていることができました。そしてあの快い陶酔にもう一度身を委ねようと目を閉じ無心になってみたけど、もうどうしてもあのけだるく官能的な快さは戻ってきませんでした。「ムッシュ ショパーヌ、メルシ ボク」私は思わずつぶやきました。その時から私は彼に憧れの想いを寄せるようになってしまったようです。

 七月から夏休みにかけて私は郷里の佐世保に戻り母校で教育実習を行ない、夏休みに入ると文芸部の合宿で鹿児島に行き、ある寺で一週間禅の生活をしながら宮大文芸誌「暖流」に掲載すべき作品の選考に参加しました。実際には三年生が中心となって応募作品の中から6作をすでに選んでおり、この中から2作を四年生と数人のOBとが中心になって最終的に選出することになっていました。そして私のフィアンセ氏もそのOBのひとりとして松山から飛行機で参加し、合宿が終わったら私と本土に返還されて間もない沖縄に行くことになっていました。ですから私は合宿が終わるのが待ち遠おしいし、そうかといって合宿もまた楽しいということで、寺ではふさわしくないはしゃいだ一週間を過ごしてしまいました。

 ところで驚いたことに6作の中にあのショパンさんの作品が含まれていたのです。「あるバイオリニストの死」という短篇小説ですが、ファンタジックなものだったので純文学を好む傾向の強い我が文芸部の嗜好にあわず結局選には漏れてしまいました。後輩の話ではショパン氏はもう一作「ロマンツェ」という同じような作品をも添えて応募したということでした。「あるバイオリニストの死」を私は特に注意深く読みました。そしてその中のヒロインに私はとても共鳴してしまいました。もしショパンさんの部屋に女性がひとりで訪れて泊まっていくようなことがあったら私でも嫉妬したでしょうから。

 あらすじはだいたい次のような短い作品でした。


 『主人公のバイオリニストは自分のバイオリンをいつも肌身離さず持ち歩き、他人にそれを絶対に触れさせないくらい大切にし、手入れも入念でいつも艶やかにしていました。時には椅子に立て架け、ライトを当て酒を飲みながらその美しさに見惚れていることもありました。まるで自分の恋人のように愛しているのです。やがてそのバイオリンは美しい女性に化してケースから抜け出してくるようになります。それはバイオリニストが眠りについた深夜だけで、まるでドラキュラが夜々棺桶から出てくるようにこっそりとバイオリンケースの蓋を開けて出てきます。そしてバイオリニストがその日作曲していた曲にいたずらをし、日の出前にはまたケースに戻っていくのです。朝バイオリニストは楽譜がたくさん書き替えられているのに気づいて不思議に思う。しかしその通りにバイオリンを弾いてみると曲はずっと良くなっているのです。このようなことが続きたちまちこのバイオリニストは作曲家としても認められるようになり、自作自演するのでパガニーニの再来とまで言われるようになります。ところがある夕、バイオリニストは祝賀パーティに出席しそこで知合った女性を連れて家に帰ってきます。そして彼は彼女を抱いて寝ます。翌朝バイオリニストが起きてみると譜面台に載せておいた白紙だったはずの五線紙にびっしりと音符が書き込まれていました。そして一目でそれはすばらしい曲だとわかりました。彼はバイオリンを取り出して弾き始めそのすばらしさに歓喜し、夢中になってその曲をマスターしようと練習します。弾けば弾くほどその美しさ、烈しさに魅せられて引き込まれてゆきます。ところが彼がどんなに苦心して練習しても最後のカデンツァがうまく弾けません。それは曲が最も輝やいてクライマックスとなるところでした。バイオリニストは必死になって練習したがどうしてもうまく弾けません。彼は早朝からバイオリンにとりつかれたように休むことなく弾き続けました。まるで彼がバイオリンを弾いているというよりはバイオリンが彼を動かしているというような異様な有様に一夜の恋人は驚き、彼に何度もやめるようにと言いましたが、もう彼にはバイオリンの音以外は聞こえないし、聞こえたとしても演奏をやめることはできないほどの興奮状態になっていたのです。そしてその女性は彼が気が狂ったと思って去っていきました。昼が過ぎやがて夜がやってきても彼は弾き続け、もう弓毛は何本も切れてしまっています。そして明け方近くになって彼はついに見事に弾き切った。彼は歓喜の声を上げるが、そのままばたりとバイオリンを握ったまま床に倒れた。バイオリンは彼の下敷きになって壊れてしまう。女性に知らされて心配になって訪ねてきたある友人のピアニストはちょうどバイオリニストが見事にカデンツァを弾き切る寸前に到着し、そのすばらしい演奏に感嘆しブラボーと叫ぶが、バイオリニストが倒れる音を聞き、駆けつけると友がすでにこと切れているのを発見する。しかし死んでいたのは彼だけでなく、髪を乱した美しい女性も彼に抱かれて死んでいた。そして不思議なことに彼のバイオリンはどこにも見つかりませんでした。』


 私はこの作品を読んだ夜だけはフィアンセのことよりもショパンさんのことを寝床で思い巡らせ、なかなか寝つかれませんでした。このバイオリンの女性のような情熱を私は自分の中にも感じていました。男性を好きになると絶対に自分だけのものとしなければ気が済まず彼を独占してしまい、そして自分は自分で全てを彼に捧げ、少しでも裏切られたと思うと炎のように燃え上がり彼をも焦がしてしまうような危ない女性。ショパンさんはこのような女性を知っていたのでしょうか。

 選に漏れた作品は全て作者に返送することになっていましたが、私はショパン氏は自分の隣人だということで直接手渡すと言って「あるバイオリニストの死」は自分のスーツケースにしまって持ち帰りました。ひとりになってもう一度読み返したとき、なぜか恐くなってしまいました。

 夏休みが終わったある雨の日、私はショパン氏のドアを初めてノックしました。彼はその時あるピアノコンツェルトをステレオ放送で聞いていましたが、すぐボリュームを下げてからドアを開けました。ショパン文士は赤く陽焼けされており一段と顔の彫りが深く見え、また伸びた髪を後で束ねていたので美しい女性のようでもありました。

 私は「あるバイオリニストの死」と「ロマンツェ」を手短に事情を話して手渡すと、彼は恥ずかしそうにそれを受け取り、手ずから返してもらったことに感謝しました。コーラでもいかがですかと勧めるので、しばらくお邪魔してお話しました。彼と挨拶以上の会話ができたのはその時が初めてでした。

 ずいぶん陽焼けされているけど夏休みはどうされたのですかと聞くと、彼の所属しているブラスバンドの演奏旅行で日南線沿いにある中学校を1日2校づつ一週間駆け巡ったということでした。海岸近くの中学校に来た時は演奏が終わるとすぐみんなで海に出て陽が沈むまで泳いだので、みな陽焼けしてしまったそうでした。

 彼の部屋はきれいに整頓されていたし、板の壁には押しピンで留められた水彩画が飾られてあり、ピアノの上には赤いチューリップの生けられた花瓶まであったので、男子学生の部屋としては最高点のできでした。もっとも私が今までに見てきた男子学生の部屋はだいたいが文芸部の仲間のもので、どいつもこいつも言い合わせたように部屋の中にロープを張って洗濯物を干していたり、コーラやビールの空ビンを土間に並べているような輩だったから、私が男子学生の部屋はこうだと先入観として抱いていたイメージがあまりにも低級過ぎていて、私の目で見れば普通の男子学生の部屋はみなきれいに見えたことでしょう。文学青年と音楽青年の生態の差をまざまざと見せつけられたような気がしました。私がチューリップのことをほめると、ショパンさんはいろんなコンサートのたびにたくさん花束をもらい、特に自分は指揮もするのでよくもらうのだけれど、みんなで分けて持って帰るので花瓶が必要なんですということでした。絵のほうは、美術の授業の提出用として描いたもので、先生からほめられたので捨てがたいのだそうでした。

 15分くらいお話したでしょうか、彼は思っていたより話すのが好きな人のようでした。私はずいぶん満ち足りた気持ちで隣の自分の部屋に戻り、弾む気持ちのままペンをとって一気に次の即興詩を書きました。


 『彼の描いたたった一つの風景画

  私はこっそり持って帰って額縁に入れて  

この部屋に飾っている

  こんな小さな私の部屋だけれど

  彼の絵のおかげでとても広い秋のお部屋  

いつかもし彼がこの部屋に来てくれるなら・・・

来てくれたら・・・

  私がこの絵ないしょで持ってきたことおこるでしょうか

  それともこんなにきちんと額縁に入れて飾ってあるのを見て優しく喜んでくださるでしょうか』


 さて秋も深まり私も卒論の準備で忙しくなり、部屋に帰ってくるのも遅くなることが多くなりました。ショパン氏はますます考え事をしている様子でいることが多くなり、私がすれ違うとき挨拶しても気づいてくれないことが二度もありました。でもある夜、私の部屋のドアをノックしてくださり、コンサートで花をたくさんもらったので少しもらってくださいと、一束の花を両手で差し出しました。私はその花束を差し出すショパンさんの姿に見とれすぐには声が出ませんでした。少々お酒を飲んでられたようで目の辺りが赤らみ、それでいて瞳は濡れたように黒く輝き、奥深くまで透き通って見えるようで、今にも接吻されてしまいそうな予感さえ覚えたくらいするどくその目で見つめられたのです。どんな女でもあのような目で見つめられたら声が出なくなってしまうのではないでしょうか。私は涙があふれそうになるのをやっとの思いでこらえ、震える手で花束をいただきました。すると彼はあっけなくお辞儀して自分の部屋に戻られました。花束の中にジャスミンも含まれているらしくその香りが私をそそのかすかのようでした。もし彼の部屋から彼の友達の声が聞こえてきていなかったら、私はその夜彼の部屋のドアをノックするのを禁じ得なかったでしょう。そしてもしその隣の訪問者の声が女性のものであったら、私もあの「あるバイオリニストの死」のヒロインと同じように彼を焦がすようなことをしでかしたかも知れません。「ムッシュ ショパーン、あなたはもう少しで私を燃え上がらせてしまうところでした。」


 12月になるとすぐ私は風邪を引いて熱を出し2日間寝込んでしまいました。そしてその時ほど彼の作曲を恨んだことはありません。まるで私の重い頭は彼のピアノの音に共鳴しているかのようにズキンズキンと痛みました。何度かピアノを弾かないでとお願いしようと思ったけど、とうとう私は泣き寝入りしてしまいました。8時が過ぎてピアノの音がやんでも私の頭の中ではまだピアノの不協和音が響いていました。ところが不思議です、風邪が治って頭がすっきりしてくると、今まで違和感を感じていた彼の音楽が妙に魅力的に聞こえ始めたのです。そしてあるメランコリックな旋律は頭にこびりついてしまって、洗濯などしている時無意識のうちにそれをハミングしている自分に気がついて驚くのでした。

 あまりに作曲に没頭し、しかも8時が過ぎるとまた学校に行って真夜中に帰ってくる彼は日に日にやつれてくるのがわかりました。食事の時間になっても構わずピアノを打ち続ける彼は、まるであの「あるバイオリニストの死」の主人公が難曲を弾き切ろうとして無我夢中になった時のように、何かにとりつかれてでもいるかのようでした。

 クリスマスの夕に、四国からはるばる宮崎にやってきたフィアンセ氏が私の部屋をプレゼントを持って訪れました。きっとそれとは何の関係もなかったのでしょうが、ショパン氏はひどいスランプに陥ってしまったらしく、部屋にいるのに一日中一度もピアノに触れない日があったり、ハノンだけを一日中弾いている日があったり、あるいはまるでうっぷんを晴らすかのようにトランペットを吹くこともありました。こうして彼はますますおやつれになられ目の辺りもこけて、おまけに髪をボヘミアン流に肩近くまで伸ばしたのでとうとうあの本物のショパンそっくりに見えるようになられました。肖像画でよく見るあのメランコリックなショパンそのものでした。

 さて、そうこうしているうちに卒論の締切も迫ってきて、私は人のことを気にしている余裕も無くなり、卒論のテーマだったエドガー・アランポーの詩の研究に専念せねばなりませんでした。そしてほとんど毎日夕方の6時頃にアパートを出て卒論の指導をされる先生の研究室やお宅にお伺いして論文の勉強を進めました。そして私がアパートを出るちょうど同じ頃ショパン氏は学校から帰ってくるらしく、よく階段ですれ違ったり学校の近くの薄暗くなりかけた路上で会ったりしました。そんな時、やはりおやつれになったショパンさんはとてもやさしいまなざしを私に向けてくれましたが、同時にそれは私に「おかわいそうに」という気持ちを起こさせるのでした。「何か私にできることはないのかしら」と、そこから先生のお宅に着くまで考えながら歩いたものです。「きっと作曲はうまくいっていないに違いない。きっとノイローゼ寸前の状態に違いない。私だって長時間ピアノの椅子にすわらされてキーをたたいていたら泣きだしたことが何度もあったわ」そう考え、つい「私があの人の恋人だったらなー」と浮ついたことを思ったり、でもすぐ本物の彼氏のことを思い浮べては「早く卒論が終わって羽を伸ばして彼の元へ行きたいなー」といつもの自分に戻るのでした。

 そんなある朝、図書館で新聞を見ていてドキッとしたことがありました。新聞紙をめくっていると『音楽院生自殺』という見出しが目に飛び込んできたのです。一瞬ショパンさんか!と思ってしまいました。でもすぐそれはO音楽大学の大学院生だとわかりました。卒論の作曲がうまくできずノイローゼになっていて、大阪から長崎までやって来て飛び下り自殺をしたのでした。この記事をショパンさんはどういう気持ちで読むのでしょう。ショパンさんはその夜帰って来なかったのでちょっと心配しました。

 さてもう卒業式まで後2週間という頃のこと。私はなんとか卒業論文を完成にまでこぎつけて先生からもこれなら大丈夫と言われて、とてもうれしく解放感に満たされていました。先生から同じ研究室の二人の友達と一緒に夕食に招待されて心もうきうき、新しく買ったワンピースを着て行こうか、それともフィアンセからクリスマスプレゼントに買ってもらったロングスカートをはいて行こうかと鏡の前と中で迷っていると、鏡に映った窓の外にショパンさんが長い髪を風に乱しながらいつもの路を寒そうに歩いて来るのが見えました。時計を見ると6時7分前、「あら、もうこんな時間!バスに乗り遅れるわ」私はあわてて、さっとミニスカートを取り出しました。その時ひらめいた私の考えの何といたずらなこと。「冒険、冒険」私は思わず自分の計画に気も高ぶり、心臓の鼓動がけたたましく速くなるのを感じました。「冒険、冒険」鏡の中の自分をそそのかすようにそう言ってにやっと笑う自分はやはりぎこちない表情を隠せない。「冒険、冒険」私はその頃ではすでにすたれていたミニスカートをはくとハンドバッグとコートを手に持って部屋を出た。

 2月の下旬の6時頃はもう薄暗くなっていてアパートの階段にはいつも蛍光灯が灯されていました。彼の足音がやがてアパートの入口のセメントを打ちました。私は廊下を足早に、でも足音をできるだけたてないよう歩いて階段の上に立ちました。「冒険、冒険。ああ私はなんておてんばなんだろう。でももう引き返すひまはない・・・暴挙、暴挙」私が手摺りに手をのせて一歩降りると、彼は階段の下に現われ、ふいと上を見ました。そしておどけたように「おっ」と言って、同時にわざとびっくりしてみせるように目をむき、まるで何か飛んできたものを避けるように首を後ろにしゃくりました。私は急にかあっと恥ずかしくなり、次に腹が立ってき、コートを前にして階段を駆け降りました。彼の視線はその私を追いました。「私は裏切られてしまった。なんていやらしい!ああ、馬鹿なことをしてしまった。ああ、恥ずかしい。幻滅だ。あれでショパンだなんてばかばかしい。」

 それからは彼とはできるだけ顔を会わさないように勉めましたが、翌々日の午後、学校とアパートの間の路で会ってしまいました。私は下を向いたまま彼の顔を見ないで通り過ぎようとしたのですが、彼は少々うわずった声で、「あの」と呼び止め「これ僕らの卒演の招待券です。よろしかったらどうぞいらっして下さい」となぜか3枚の緑色の券を茶封筒から出して私の方に差し出しました。その時私は真っ赤っか。それでも何とか「ありがとう」と言ってそれをもらいながら彼を見ると彼も赤ら顔で、風にそよぐ少々カールした髪がとてもデリケートに震えていました。

「いつもピアノがうるさくてご迷惑だったでしょう。」

「あら、だけど・・・」とてもお上手だからむしろ楽しませてもらいました、と言おうとしたが少々感激気味で声が出ませんでした。

「これプログラムです。ぼくも演奏します、どうぞぜひおいで下さい。」

「はい、どうも・・・」私はプログラムを開いて彼の演奏のことを話題にしようと、彼の名を探したが、

「どうも失礼しました。じゃーまた」と言って彼はぺこりと頭を下げてアパートの方に歩き出した。

「どうもすいません」私はプログラムを広げたまま彼の後ろ姿を見ていました。すると彼はふいと振り向いて私と目が合ってしまい、しまったとばかり頭を降ってまたすたすたと歩いて行かれました。

「おもしろい方」私はそう思うと「やっぱりあの人はショパンさんだわ。きっといい曲を作られるわ。ムッシュ ショパーン、頑張ってね。私は彼を後ろ姿が曲角で隠れるまでいたずらっぽい気持ちで見ていました。でも彼はとうとう更に振り替えることはしませんでした。


 さてその演奏会の日、私は二人の女友達を誘おうか、家庭教師として教えてた姉妹を誘おうかと迷った末、ひとりで行くことにしました。服装も迷った末、またあの冒険の日と同じ服装で行くことにしました。黄色いミニと白いブラウスに赤、青、黄の原色のネッカチーフ、そしてカーキ色のコートです。

 会場の市民会館には思っていたよりたくさんの人が入っていました。少々勇気がいったけど前から2列目の席に座りました。オープニングはなんとベートヴェンの運命シンフォニーでショパン氏はトランペットを吹いていました。

 彼のピアノ演奏はプログラムの後半の最初で、自作の「変奏曲」というものでした。すでに私には聞き慣れていた音楽を彼はあるところは神妙に弾き、私のハミングのレパートリになってしまったあのメランクリックなメロディーはメランクリックな表情をつくって弾き、そしてあるところはあまりにダイナミックに弾き首を縦に激しく振ったのでまるでおでこでも打鍵しているかのようでした。

熱演でしたが、おそらくこの曲は初めて聞く人には理解しにくい音楽だったでしょう。そして最後の変奏が始まった時「あっ」と驚かされたのは私だけではなかったでしょう。彼はいきなりまぎれもないジャズを弾き始めたのです。楽譜から目を離し即興で弾いているようでした。そしてそれはそれまでの変奏とはまったく対照的に明るくユーモラスで、その弾んだリズムと旋律はまるで今までの深刻で悲劇的な曲想は全部冗談だったんだよ、とでも言っているかのようでした。彼がこんなジャズ風の作曲をしていたところを聞いたことのなかった私は少々意表を突かれた感じでしたが、ふとこの即興変奏はあの私の冒険と関係がないのかしらと思い、不意に舌が出て首がすくみました。

 おそらくこの最後の部分がアピールしたのでしょう、彼が演奏を終えると聴衆は大喝采で、私も自分のことのようにうれしくなってだれにも負けないくらい強く拍手しました。

「ショパン先生おめでとう」と心で叫びました。先生も自分の曲が喝采されたのに気をよくして満面の笑みで聴衆に丁寧にお辞儀をしました。すると3・4人の女性がステージの下に来て花束を差し出し、ショパン先生はうれしそうにそれらを受け取られ一人一人と握手しました。私は次第に手が痛くなってきたけど、それでもパチパチ、パチパチ、とうとうみんなが終わっても手をたたき続けたので、ショパン先生初めてこちらを見てやっと私に気づいて下さり、わざとおどけてびっくりしたように首を後ろにしゃくりました。それがあの階段の下に見た彼のしぐさと表情とそっくり同じだったので、私ははっと恥ずかしくなって拍手をやめて横を向いてしまいました。


         終り




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