03 もしかしたら
何とも言えない時間が流れる。年長者としてその態度はどうかと思うといった視線を忠に送るが、それを受けてもいい年をしたおっさんが動こうとする気配は微塵にも感じられなかった。
下手なことを言えば誤解を生み、その誤解が数倍にも膨れ上がって町に拡散されてしまう。上手い具合に状況を説明するために考えをまとめ上げようとするが、中々まとまらない。
というか何故いつもであれば我先にしゃべり始めるであろう亜里沙が黙ったままなのか。その疑問と戸惑いが面倒くさく積み重なっていき、ただでさえ回らない頭の機能が鈍くなってしまっている。
もうぱぱっと適当な挨拶をして切り抜けるか。嫌な空気から早く抜け出したい雨京はその結論へと行きつき、意を決して口を開こうとした。しかし、
「えっと、今日引っ越してきたマリー・アークライトです」
鈴を転がすような声で先にマリーが目の前にいる2人に対して言い放つ。横からのそれを聞き、驚きとともに雨京は打開してくれたマリーに申し訳ないといった感じで目くばせをすると、こちらに対して僅かに微笑んでくれた。
神社の時の風格を持っているだけでなく、咄嗟の状況での頭の回転も早いようだ。礼儀作法といったこと以外にも長けたその姿は可愛らしくも頼もしく感じられた。男であり、年上であるはずの自分がこんな様子であることに少し情けなくも思えたが、今は素直に感謝するしかない。
声を介さない2人のやり取りを見た亜里沙はその表情を若干ひきつらせた。娘の変化に気づいた忠は様子見てようやく動きだす。
「おお。見た目で日本人だとは思えなかったけど、やっぱり外人さんか。こりゃまた随分可愛い子が来たもんだ」
「はい。分からぬことばかりでご迷惑おかけすることになると思いますが、これからよろしくお願いします」
「よろしく、マリーちゃん。家の亜里沙もこれぐらいおしとやかだったら、もっとモテただろうに……」
「父さん、娘が横にいるのに言うのはどうかと思うんだけど?」
「おおっとすまん。つい本音がってあだぁ!?」
店の手伝いによって鍛えられた亜里沙の足の一撃を右脛にくらった忠が情けない声を上げた。涙目になりながらその場を片足でぴょんぴょんと飛び回る。見た目に合わない滑稽な光景にマリーは笑いそうになったのを必死でこらえ、雨京はいつも通りのそれを苦笑いしながら見守っていた。
ようやく止まった忠が屈んで右脛を摩るのを見て亜里沙は大きくため息をつく。その後呆れたといった表情を笑顔へと変え、状況を進めてくれたマリーの方へと向いた。亜里沙の黒い瞳は真っ直ぐにマリーの碧色の瞳を見据えている。
「いきなりこんなの見せられたら困っちゃうよね、ごめんなさい。私は倉橋亜里沙。ここにいる忠っていうおっさんの娘で、雨京の幼馴染。女子同士フランクに行きましょ。よろしくね、マリー」
「はい。よろしく、です」
「……やっぱ可愛いわね。あんたってこういう子が好みだったの?」
改めてマリーを見た亜里沙は悪戯っぽい顔で雨京に問いかけた。図星にも近いその問いに少し動揺しつつも答える。
「んなっ、お、お前には関係ないだろうが」
「否定……、しないんだ。そっか。そっか……――」
雨京のしどろもどろな返答を聞くと、亜里沙はどこか寂しそうな表情を浮かべた。いつも活発なところしか見せない亜里沙のその顔はとても懐かしいものであり、最近では全く見ることのなかった表情だった。
かなり鈍い奴であれば見過ごしていたかもしれないが、大体察してしまった。そんなまさか。長い付き合いだがこちらに対してそんな素振りを見せていたとは思えない。いや、気づくことができなかったということか。
好意があったことを亜里沙から感じ取り、戸惑う雨京。自らの心が揺れ動いたが、拳を握りしめることでそれを押さえつけた。亜里沙の思いを知ったとしても、今自分自身が惹かれているのはマリーだとはっきりと心の中で割り切った。
その思いを目と拳を見て理解した亜里沙は、沈み込んでいた顔を先ほどまで浮かべていた明るい笑顔へと変える。しかし、その奥には後悔に近い念が渦巻いているのを雨京は気づくことができなかった。
「さてと、長話してるわけにもいかないわ。明後日の準備の手伝いで忙しいからね」
「亜里沙は、お祭りの手伝いをしてるの?」
「そうよ。お店の方は母さんがやってくれてるから、父さんと一緒にね。マリーもお祭りには参加するの?」
「はい! 雨京と一緒に!」
「へ~。へぇ~。もう約束してるんだ~」
「……何だよその目は」
「べっつにー。結構積極的だなーって思っただけよ」
そういって笑うと亜里沙は手早く軽トラックの荷台へとよじ登った。ブルーシートで覆われている荷物がしっかりと固定されているのを確認すると、まだ悶え続けていた忠に対して告げた。
「父さん、早く運び込んで終わらせちゃいましょ。熱中症になっちゃいそうだわ」
「お、おう。呼び止めちゃって悪かったなお2人さん。それじゃ」
「はい。準備頑張ってくださいね」
立ち上がった忠は脛の痛みに顔を歪めながらも小学校の校舎の方へと大きく手を振った。すると、閉じられていた門がゆっくりと開き始めた。
こんな田舎町なのにも関わらず門は電動式なのだ。こんなところでお金を使うのであれば、他にも使うところがあるだろうという声が今でも役所の方へと寄せられていたりしている。
はっきりと見えるようになった校庭にマリーの目が釘付けになっている。期待と興奮がはっきりとわかるその様子を見て忠は笑顔を浮かべた。自らが準備しているものを待ち望まれていることが嬉しいようだ。
完全に門が開ききったのを確認した忠は、右脚を引きずりながら軽トラックに乗り込む。そしてこちらに手を振ると、準備が行われている校庭へと向けて発進させていった。
荷台に乗っていた亜里沙は左手で荷物を抑えながら、右手で手を振ってきた。それに返すマリーと雨京。これが一時の別れに過ぎないものの、雨京は決定的な何かが決まったかのように感じていた。悪いものでなければ、良いものでもない何かが。
軽トラックが入っていった後、門は遠隔操作によってゆっくりと閉まっていく。内部が見えなくなってしまったことを残念に思いながら、マリーは雨京の方へと向いた。その碧色の瞳は、次はどうするのかと問いかけてくる。
これでいい。こうすることが自分にとって最善の道だ。自らに改めて言い聞かせた雨京は、亜里沙たちと出会ったことによって中断された町巡りを再開することにした。
「よし、俺たちも行こうか」
「うん」
「ちなみに俺の通ってる中学はこの小学校の後ろの方にあるんだ。ちょっと移動すれば見えると思うぞ」
「あ。あれかな?」
「そうそう。あれだよ」
小学校の門の前を通り過ぎればすぐに見えたもう一つの校舎。この町の中高一貫校であり、雨京が通っているのはその内の『県立高天望中学校』だ。もっと近くで見るためにゆっくりとその入り口となる門の方へと歩いていく。
校庭と体育館を小学校と共有しているという大きいデメリットはあるが、そのままエスカレーター式に難なく高校へと上がることができる。学力や偏差値的には中の中といったところで、この田舎町や近辺に就職するのであればここを出ておいて損はない。
大学にも行きたいと現在考えている雨京はこの町の『県立高天望高校』を卒業した後、希望にあったところへ行きたいと進路を決めている。だが、それと同時に就職はこの町やこの近辺でしたいとも考えていた。
要は経験を積んでから帰ってきて、この町に貢献したいと思っているのだ。友人たちにこのことを話すと珍しく思われることが多いが、先生陣は絶賛してくれていた。人が年を経るごとに減っていく田舎では、雨京のような若い戦力が何よりの宝となるのは間違いない。
そうした中で、ふと教室での出来事を思い出した。雨京の将来を聞いてその思いに賛同し、とても亜里沙が喜んでいる。いささか度が過ぎるほどに喜んでいたその姿から、ここにきてようやく亜里沙が好意を寄せていたことを理解できた。
もしその時点で気づいていれば今の自分はここにおらず、小学校の校庭で一緒に祭りの手伝いをしていたかもしれない。小さいころから遊んでいた存在が、一線を越えた存在となった可能性。その可能性を辿った場合、一体どんな未来があったのだろうか。
「――ょう。雨京!」
「……あ、ごめん。考え事しぇぁ!?」
上の空状態だった雨京はマリーの呼びかけに答えていた途中で街路樹に鼻先から激突してしまった。歩き慣れた道での失態に驚きつつ、痛みに悶える。
考え事をしていると危ないとは聞いたことがあるが、まさかここまで典型的なパターンを披露してしまうとは。流石にちょっとカッコ悪すぎる。何とか強がって涙目になりながら笑顔をマリーへと向けたが、その心配しているような八の字に曲がった眉が安心する様子はない。
困ってる顔も可愛いと思っていると、マリーがどこからともなくポケットティッシュを取り出し、何枚かを背伸びしながら雨京の鼻の下に押し付けてきた。
「鼻血! 鼻血で出てる!」
「おおっと、マジか」
「鼻の上も擦りむいてる。……ねえ雨京、屈める?」
「ん? ああ」
小さな手を押し付けられたまま、雨京は言われた通りにその場に屈んだ。高低差が一変し、逆に見上げるような形となる。
痛いの痛いの飛んでけ的なことをしてくれるのかな。勝手にそれを想像して「可愛すぎる!」と雨京がガッツポーズをとっていると、予想外であり、信じられない光景が目の前で繰り広げられ始めた。
空いている右の手のひらをマリーは雨京の鼻の先へと向ける。汗の臭いに混じって香る優しい花のようなマリーの香りが鼻孔を刺激した次の瞬間、突如手のひら発生した光が鼻を包み込んだ。
いきなりのことで驚愕しつつも、不思議とその光からは優しいものが感じられた。視線の先のマリーも天使のような微笑みをこちらに向けてくれている。とりあえずは何もせずにしようと考えた矢先、優しい光は徐々に消滅していった。
「はい。これで大丈夫なはず」
「え……。んん? んんん!?」
鼻先だけでなく鼻の下からも手が離され、鼻血が出ないかと心配した雨京だったが、そんなことはなかった。鼻血は止まっているし、鼻先に感じていた痛みも綺麗さっぱりになくなっていた。
本格的に何が何だか分からずに混乱する雨京。そんな屈んだままの雨京に対し、中腰になったマリーはその幼げな顔の高さを合わせる。そして、自らの意思をしっかりと伝えるために真っ直ぐに雨京の目を見つめた。
「周りに人もいないし、ここでなら見られそうになかったから治癒術使ってみたの。これも町の人には内緒にしてくれる?」
「……ああ。分かった」
「ありがとう。雨京ならそうしてくれるって、信じてるよ」
その後、眼前で微笑むマリー。可愛く、美しさも感じられるその姿に、雨京は今一度心を奪われてしまうのだった。